目次
I read Glas as an autobiography, "about" Hegel, Marx, Nietzsche, Freud, Genet et al.
——Gayatri Chakravorty Spivak
私は『弔鐘』を、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、フロイト、ジュネ及びその他の者「に関する」、一つの自伝として読んだ。
——ガヤトリ・C. スピヴァク
はじめに
このシリーズではジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930-2004)の『弔鐘』(Glas, 1974)の読解を試みる。
当初はこのシリーズを始める気はなかった。が、以前「ジャック・デリダ『弔鐘 (Glas)』について」という記事を書いたところ、その記事がこのブログの数少ないアクセス数の上位を常にキープするようになってしまった。
Googleの検索画面に「デリダ 弔鐘」と入力すると、困ったことに一番上に私の記事が登場し、二番目に鵜飼哲先生の論考、小原拓磨さんの論考と続く。この順序については、Googleのアルゴリズムがどうかしている。鵜飼先生も小原さんもその専門家であり、私はその専門家ではないからだ。鵜飼先生は、デリダに師事したことで知られており、デリダ『弔鐘』の翻訳を手がけている(かつて『批評空間』に途中まで連載)。デリダと鵜飼先生との関わりは、鵜飼哲『ジャッキー・デリダの墓』(みすず書房、2014年)の中で語られている。一方、小原拓磨さんは、東北大学で「喪の哲学、喪としての哲学――デリダ思想における死の問題とヘーゲル読解」という博士論文で博士号を取得されている。
私は一橋大学大学院を受験する前の、神奈川大学経済学部四年生であった2011年の夏に、一橋大学言語社会研究科の鵜飼哲先生にアポイントを取り、一度研究室を訪ねたことがある。私は『ヘーゲル左派の研究がしたいのですが』などと不躾にも鵜飼先生にご相談させていただいた。鵜飼先生はそのとき確か「fraternitéについて考えている」と語っておられた。鵜飼先生は私に、当時一橋大学社会学研究科に所属していた大河内泰樹先生を紹介された。
話は逸れたが、私の書いたものが検索の上位に出続けるからには、私はそれに対していつまでも無責任を決め込むわけにはいかない。
10年ほど前に神奈川大学図書館で『批評空間』に連載されたデリダ『弔鐘』(鵜飼哲訳)を全てコピーを取って自宅に保管していたが、大学院で修士論文を書き、その後就職して引っ越しする際に、大量のプリントを廃棄すると同時に捨ててしまったらしく、邦訳は手元に残っていない。なのでテクストを引用する際には自分で日本語に翻訳しなおすことにする。
今日、Glasのフランス語原書をAmazonで注文したが、到着するまでは英語版を手がかりに読解を進めよう。
ジャック・デリダ『弔鐘』
(左)ヘーゲル欄
ヘーゲルから残ったもの
quoi du reste aujourd'hui, pour nous, ici, maintenant, d'un Hegel?
Pour nous, ici, maintenant : voilà ce qu'on n'aura pu désormais penser sans lui.
Pour nous, ici, maintenant : ces mot sont des citations, déjà, toujours, nous l'aurons appris de lui.
今日、われわれにとって、ここで、今、ヘーゲルから何が残っているか?
われわれにとって、ここで、今。これこそ今では、彼なくしては、考えられなくなった事柄だ。
われわれにとって、ここで、今。これらの言葉は引用である。すでに、つねに。われわれは、そのことを、彼から学んだ。
(Derrida1974: 7,鵜飼哲訳(1)249頁)
先ず最初に目に飛び込んでくる「今日、われわれにとって、ここで、今、ヘーゲルから何が残っているか?」(quoi du reste aujourd'hui, pour nous, ici, maintenant, d'un Hegel?)という一文は、ちょうど右側のページに示された「小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ棄てられた一幅のレンブラントから残ったもの」(Ce qui est resté d’un Rembrandt déchiré en petits carrés bien réguliers, et foutu aux chiottes, 1967)というジャン・ジュネの著作のタイトルを捩って述べられている。糞便扱いされたレンブラントから残ったものをジュネが取り上げたように、デリダも同様にヘーゲルから残ったものについて考えている。
デリダはここで、ヘーゲルから「残ったもの」を、「われわれにとって pour nous」「ここで ici」「今 maintenant」*1という概念に求めている。というのも、「われわれにとって für uns」とは、ヘーゲルの『精神現象学』(Phänomenologie des Geistes, 1807)で貫かれる一視点であり、また「ここで Hier」「今 Jetzt=Itzt」についても同様に『精神現象学』の「感覚的確信」においてヘーゲルが論じていることがらであるからだ。ヘーゲルが論じたこうした概念は、確かにヘーゲルの遺産であるが、その今日的な意義をデリダは改めて問うているように思われる。
(右)ジュネ欄
ジュネから残ったもの
本書の右側の最初の一文は次のようになっている。
« ce qui est resté d'un Rembrandt déchiré en petits carrés bien réguliers, et foutu aux chiottes » se divise en deux.
「小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ棄てられた一幅のレンブラントから残ったもの」が二つに分かれる。
(Derrida1974: 7,鵜飼哲訳(1)248頁)
「小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ棄てられた一幅のレンブラントから残ったもの」(Ce qui est resté d’un Rembrandt déchiré en petits carrés bien réguliers, et foutu aux chiottes)とは、雑誌『テル・ケル』(Tel Quel)で1967年に発表されたジャン・ジュネ(Jean Genet, 1910-1986)の著作である。この作品は、ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』(鵜飼哲訳、現代企画室、1999年)に収録されている。
本書の最後のページはピリオドで終わらない。そこには次のように書かれている。
Ce que j’avais redouté, naturellement, déjà, se réédite. Aujourd’hui, ici, maintenant, le débris de
私が恐れていたことが、おのずと、すでに、起こっている。今日、ここで、今、その残骸が
(Derrida1974: 291)
この最後の一文が、本書の最初の一文に接続されているという解釈がある。この接続によって『弔鐘』という書物それ自体がひとつの円環をなしている、というのである。
私はこの解釈はおかしいと思う。むしろ文が途中で終わっていることは、その先にある〈残余〉を意図的に創り出し、暗示している。そこに読み取られるべきは、ヘーゲルの体系のごときひとつの閉じた円環ではなく、むしろ外にひろがっている〈残余〉の思考である。
文献
- Derrida, Jacques, 1974, Glas, Galilée, Paris.
- Derrida, Jacques, 1986, Glas, Englisch Translation by John P. Leavey, Jr., and Richard Rand, University of Nebraska Press, Lincoln and London.
- デリダ 1997「弔鐘 第1回」鵜飼哲訳,『批評空間』第2期第15号,太田出版.
- デリダ 1999「弔鐘 第8回」鵜飼哲訳,『批評空間』第2期第24号,太田出版.
- デリダ 2022『哲学の余白 上〈新装版〉』高橋允昭・藤本一勇訳,法政大学出版局.
*1:藤本一勇は「タンパン」の訳注で「今 maintenant」について次のように述べている。「manitenuとmaintenantは動詞maintenir「維持すること・保持すること」の過去分詞と現在分詞。特にmaintenantは現在分詞から派生して「今」を意味する名詞となり、デリダの時間論(あるいは時間論批判)において決定的な脱構築ポイントとなる。maintenirはもともとmanū tenēre「手でつかまえていること」に由来する。形而上学における「今」中心の時間概念と「手」の概念とのひそかな連携、さらにはその存在論的構制を剔出する際に、デリダはヘーゲルのBegriff(「概念」=把握すること)やハイデガーの「手」の概念(Vorhandenheit「手まえ存在性=客体存在性」、Zuhandenheit「手もと存在性=用具存在性」等々)を踏まえつつ、そこに所有性=固有性(propriété)の呪縛を読み込む。フッサールの「生ける現在」における過去把持・未来把持の問題も同様である。この問題系はデリダが認めるように『哲学の余白』(とりわけ「ウーシアーとグランメー」を参照のこと)ばかりでなく、『声と現象』、『弔鐘』、『他者の発明』初秋の「ハイデガーの手」等々、多数のデリダの仕事を貫いている。」(藤本一勇「訳注/タンパン」(*56)、デリダ『哲学の余白 上〈新装版〉』所収、323〜324頁)。本書の読解においても、「今 maintenant」が「手」の概念とどのような連関を持っているのかという点に注意する必要があるだろう。