まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ジャック・デリダ『弔鐘』覚書(1)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

I read Glas as an autobiography, "about" Hegel, Marx, Nietzsche, Freud, Genet et al.

——Gayatri Chakravorty Spivak

私は『弔鐘』を、ヘーゲルマルクスニーチェフロイト、ジュネ及びその他の者「に関する」、一つの自伝として読んだ。

——ガヤトリ・C. スピヴァク

はじめに

 このシリーズではジャック・デリダJacques Derrida, 1930-2004)の『弔鐘』(Glas, 1974)の読解を試みる。

 当初はこのシリーズを始める気はなかった。が、以前「ジャック・デリダ『弔鐘 (Glas)』について」という記事を書いたところ、その記事がこのブログの数少ないアクセス数の上位を常にキープするようになってしまった。

 Googleの検索画面に「デリダ 弔鐘」と入力すると、困ったことに一番上に私の記事が登場し、二番目に鵜飼哲先生の論考、小原拓磨さんの論考と続く。この順序については、Googleアルゴリズムがどうかしている。鵜飼先生も小原さんもその専門家であり、私はその専門家ではないからだ。鵜飼先生は、デリダに師事したことで知られており、デリダ『弔鐘』の翻訳を手がけている(かつて『批評空間』に途中まで連載)。デリダと鵜飼先生との関わりは、鵜飼哲『ジャッキー・デリダの墓』(みすず書房、2014年)の中で語られている。一方、小原拓磨さんは、東北大学で「喪の哲学、喪としての哲学――デリダ思想における死の問題とヘーゲル読解」という博士論文で博士号を取得されている。

 私は一橋大学大学院を受験する前の、神奈川大学経済学部四年生であった2011年の夏に、一橋大学言語社会研究科の鵜飼哲先生にアポイントを取り、一度研究室を訪ねたことがある。私は『ヘーゲル左派の研究がしたいのですが』などと不躾にも鵜飼先生にご相談させていただいた。鵜飼先生はそのとき確か「fraternitéについて考えている」と語っておられた。鵜飼先生は私に、当時一橋大学社会学研究科に所属していた大河内泰樹先生を紹介された。

 話は逸れたが、私の書いたものが検索の上位に出続けるからには、私はそれに対していつまでも無責任を決め込むわけにはいかない。

 10年ほど前に神奈川大学図書館で『批評空間』に連載されたデリダ『弔鐘』(鵜飼哲訳)を全てコピーを取って自宅に保管していたが、大学院で修士論文を書き、その後就職して引っ越しする際に、大量のプリントを廃棄すると同時に捨ててしまったらしく、邦訳は手元に残っていない。なのでテクストを引用する際には自分で日本語に翻訳しなおすことにする。

 今日、Glasのフランス語原書をAmazonで注文したが、到着するまでは英語版を手がかりに読解を進めよう。

ジャック・デリダ『弔鐘』

(左)ヘーゲル

ヘーゲルから残ったもの

quoi du reste aujourd'hui, pour nous, ici, maintenant, d'un Hegel?

     Pour nous, ici, maintenant : voilà ce qu'on n'aura pu désormais penser sans lui.

     Pour nous, ici, maintenant : ces mot sont des citations, déjà, toujours, nous l'aurons appris de lui.

今日、われわれにとって、ここで、今、ヘーゲルから何が残っているか?

 われわれにとって、ここで、今。これこそ今では、彼なくしては、考えられなくなった事柄だ。

 われわれにとって、ここで、今。これらの言葉は引用である。すでに、つねに。われわれは、そのことを、彼から学んだ。

(Derrida1974: 7,鵜飼哲訳(1)249頁)

先ず最初に目に飛び込んでくる「今日、われわれにとって、ここで、今、ヘーゲルから何が残っているか?」(quoi du reste aujourd'hui, pour nous, ici, maintenant, d'un Hegel?)という一文は、ちょうど右側のページに示された「小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ棄てられた一幅のレンブラントから残ったもの」(Ce qui est resté d’un Rembrandt déchiré en petits carrés bien réguliers, et foutu aux chiottes, 1967)というジャン・ジュネの著作のタイトルを捩って述べられている。糞便扱いされたレンブラントから残ったものをジュネが取り上げたように、デリダも同様にヘーゲルから残ったものについて考えている。

 デリダはここで、ヘーゲルから「残ったもの」を、「われわれにとって pour nous」「ここで ici」「今 maintenant*1という概念に求めている。というのも、「われわれにとって für uns」とは、ヘーゲルの『精神現象学』(Phänomenologie des Geistes, 1807)で貫かれる一視点であり、また「ここで Hier」「今 Jetzt=Itzt」についても同様に『精神現象学』の「感覚的確信」においてヘーゲルが論じていることがらであるからだ。ヘーゲルが論じたこうした概念は、確かにヘーゲルの遺産であるが、その今日的な意義をデリダは改めて問うているように思われる。

(右)ジュネ欄

ジュネから残ったもの

本書の右側の最初の一文は次のようになっている。

« ce qui est resté d'un Rembrandt déchiré en petits carrés bien réguliers, et foutu aux chiottes » se divise en deux.

「小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ棄てられた一幅のレンブラントから残ったもの」が二つに分かれる。

(Derrida1974: 7,鵜飼哲訳(1)248頁)

「小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ棄てられた一幅のレンブラントから残ったもの」(Ce qui est resté d’un Rembrandt déchiré en petits carrés bien réguliers, et foutu aux chiottes)とは、雑誌『テル・ケル』(Tel Quel)で1967年に発表されたジャン・ジュネ(Jean Genet, 1910-1986)の著作である。この作品は、ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』(鵜飼哲訳、現代企画室、1999年)に収録されている。

 本書の最後のページはピリオドで終わらない。そこには次のように書かれている。

Ce que j’avais redouté, naturellement, déjà, se réédite. Aujourd’hui, ici, maintenant, le débris de

私が恐れていたことが、おのずと、すでに、起こっている。今日、ここで、今、その残骸が

(Derrida1974: 291)

この最後の一文が、本書の最初の一文に接続されているという解釈がある。この接続によって『弔鐘』という書物それ自体がひとつの円環をなしている、というのである。

 私はこの解釈はおかしいと思う。むしろ文が途中で終わっていることは、その先にある〈残余〉を意図的に創り出し、暗示している。そこに読み取られるべきは、ヘーゲルの体系のごときひとつの閉じた円環ではなく、むしろ外にひろがっている〈残余〉の思考である。

sakiya1989.hatenablog.com

文献

*1:藤本一勇は「タンパン」の訳注で「今 maintenant」について次のように述べている。「manitenuとmaintenantは動詞maintenir「維持すること・保持すること」の過去分詞と現在分詞。特にmaintenantは現在分詞から派生して「今」を意味する名詞となり、デリダの時間論(あるいは時間論批判)において決定的な脱構築ポイントとなる。maintenirはもともとmanū tenēre「手でつかまえていること」に由来する。形而上学における「今」中心の時間概念と「手」の概念とのひそかな連携、さらにはその存在論的構制を剔出する際に、デリダヘーゲルのBegriff(「概念」=把握すること)やハイデガーの「手」の概念(Vorhandenheit「手まえ存在性=客体存在性」、Zuhandenheit「手もと存在性=用具存在性」等々)を踏まえつつ、そこに所有性=固有性(propriété)の呪縛を読み込む。フッサールの「生ける現在」における過去把持・未来把持の問題も同様である。この問題系はデリダが認めるように『哲学の余白』(とりわけ「ウーシアーとグランメー」を参照のこと)ばかりでなく、『声と現象』、『弔鐘』、『他者の発明』初秋の「ハイデガーの手」等々、多数のデリダの仕事を貫いている。」(藤本一勇「訳注/タンパン」(*56)、デリダ『哲学の余白 上〈新装版〉』所収、323〜324頁)。本書の読解においても、「今 maintenant」が「手」の概念とどのような連関を持っているのかという点に注意する必要があるだろう。

「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」へのリプライ(2)

目次

はじめに

 私は「読書前ノート(11)」(2022年8月31日)で小松原織香『当事者は嘘をつく』(筑摩書房、2022年)を取り上げて書評した。その書評に先日mana (id:manaasami)さんが「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」(2022年10月8日)をお書きくださった。この感想に対して、私は「「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」へのリプライ」(2022年10月8日)を書いた。このリプライに対してもmanaasamiさんは「感想にお返事をいただいた」(2022年10月9日)とコメントをしていただいた。

manaasami.hatenablog.com

manaasamiさんが「書評への感想」の中で述べておられるように、私が「〈赦す〉」という言葉を用いたことが気になっているようである。

実はそこまで考えず・・・性暴力でも性犯罪でも赦せるのは(神を除けば)被害者だけなのに、なぜここで出たのかな? と気になって。

Sakiya1989さんが赦しについて何かお考えがあるなら読みたかった。正直にいうと「そこが聞きたいのに」という単純な私の希望です。

お忙しいとき悩んでいただくことでなく、もし考察される機会があればそのときに書いていただけたらうれしいです。

(manaasami「感想にお返事をいただいた」2022/10/09)

〈赦す〉という言葉を私が用いたことに対して、manaasamiさんがどうしてそこまで気にかかるのか、私には正直なところよく分からない。とはいえ、読者がこのように妙な引っかかりというか気になっているケースは、私の数少ない経験に照らし合わせてみれば、書き手が気づいていない視点を読み手が持っている可能性があり、検討に値するはずである。

〈赦す〉という言葉で私は何を述べようとしたのか

 私は書評の中で次のように述べた。

 そもそも〈性暴力〉が「被害者のリアリティ」に起因するのだから、その原因である被害者以外の一体誰が、その〈性暴力〉を〈赦す〉ことができよう。

(sakiya1989「読書前ノート(11)」2022/08/31)

私の考えは、この一文にすべて書かれているのであるから、本来これ以上に補足すべきことはない。

 私が述べているのは、〈赦し〉の対象は〈性暴力〉という現象であって、加害者として実在する彼(その人の行為や振る舞い)ではない、ということである。常識的な観念では、被害者Aが加害者B(の行為や振る舞い)を〈赦す〉という形式を取ると理解されよう。その場合、〈赦し〉の主体は被害者Aであり、〈赦し〉の対象は加害者B(の行為や振る舞い)であることになる。しかしながら、〈性暴力〉は「被害者のリアリティ」に基づいており、「被害者のリアリティ」は被害者Aしか持ち合わせておらず、それは加害者Bの身体にも精神にも何ら刻み込まれていない。加害者Bにとって〈性暴力〉という現象が立ち現れるためには、被害者Aがそのことを加害者Bに伝え、理解してもらわなければならない。だが、加害者Bが〈性暴力〉という現象を理解し、自覚するに至るかどうかは確実ではない。実際、本書の中で小松原さんはここでいう加害者B(の行為や振る舞い)を赦すことに失敗している。とすれば、そもそも加害者B(の行為や振る舞い)は、実は〈赦し〉の確実な対象にはなり得ず、〈赦し〉の確実な対象は、被害者Aが自分の身体と自分の内奥の精神に刻み込まれた〈性暴力〉という観念に他ならない(このことが〈性暴力〉という現象の、残酷なまでの構図であり、小松原さんが引用しているデリダの文章*1も、そのようなものとして〈赦し〉について語っているように思われる)。換言すれば、その場合、〈赦し〉の主体は被害者Aであるが、〈赦し〉の対象は加害者B(の行為や振る舞い)ではなく、被害者A自身の持つ〈性暴力〉という現象、あるいはそれが基づく「被害者のリアリティ」である。かくして、その〈性暴力〉という対象を〈赦す〉ことができるのは被害者自身に他ならない、ということになる。このことが、小松原さんの著書から私が読解したことであった。

 ちなみに、この「被害者のリアリティ」とは、小松原さん自身が本書の中で用いている概念である。

 そのため、私は研究では「性犯罪」ではなく「性暴力」という語を使っている。「性暴力」は法の規定に依らず、暴力を受けた被害者の苦しみや悲しみに焦点を当てる語である。今後も刑法改正の取組によって「性犯罪」が被害者のリアリティに沿うものに拡大されることを私は望んでいる。それでも、私は「性暴力」という用語を用いることで、司法の枠組みでの当事者の証言の真意とは切り離して、研究を進めている。

(小松原織香『当事者は嘘をつく』筑摩書房、2022年、18頁、強調引用者)

manaasamiさんの疑問に対して

 この一文に対して、manaasamiさんは「書評への感想」の中で次のようにコメントされていた。

私はここで<赦す>という言葉が出る意味がわからないし気になる。小松原さんが研究している修復的司法も<赦し>を目的にはしていないはずだ。

(manaasami「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」2022/10/08、強調引用者)

まず「修復的司法」について述べておきたい。

 私は書評の中で「小松原さんが研究している修復的司法も<赦し>を目的に」しているとは述べていない。そもそも書評の中で「修復的司法」という言葉さえ用いていない。

 またmanaasamiさんは次のようなコメントもされておられる。

実はそこまで考えず・・・性暴力でも性犯罪でも赦せるのは(神を除けば)被害者だけなのに、なぜここで出たのかな? と気になって。

Sakiya1989さんが赦しについて何かお考えがあるなら読みたかった。正直にいうと「そこが聞きたいのに」という単純な私の希望です。

(manaasami「感想にお返事をいただいた」2022/10/09、強調引用者)

次に「性犯罪」と「神」について述べておきたい。

 「性暴力」と「性犯罪」とは、本書の中で異なる扱われ方をしていることはmanaasamiさんも承知のことと思う。「性暴力」は「被害者のリアリティ」に基づくのに対して、「性犯罪」は刑法に属する概念カテゴリーであり、法体系には「恩赦 pardon」という概念が存在する。デリダの〈赦し pardon〉と、刑法の「恩赦 pardon」という言葉は、同じスペルであるが、デリダの〈赦し〉は刑法の「恩赦」を意味しない*2

恩赦は,憲法及び恩赦法の定めに基づき,内閣の決定によって,刑罰権を消滅させ,又は裁判の内容・効力を変更若しくは消滅させる制度であり,大赦,特赦,減刑刑の執行の免除及び復権の5種類がある。このうち,刑の執行の免除は,無期刑の仮釈放者に対して保護観察を終了させるなどの措置として執られている。復権は,既に更生したと認められる者が,前科のあることにより資格が制限されるなど社会的活動の障害となっている場合に,法令の定めるところにより喪失し又は停止されている資格を回復させるものである。恩赦を行う方法については,恩赦法において,政令で一定の要件を定めて一律に行われる政令恩赦と,特定の者について個別に恩赦を相当とするか否かを審査する個別恩赦の2種類が定められている。また,個別恩赦には,常時行われる常時恩赦と,内閣の定める基準により一定の期間を限って行われる特別基準恩赦とがある。個別恩赦の申出に関する審査は,中央更生保護審査会が行っている。

(「令和元年版 犯罪白書 第3編/第1章/第5節/5」強調引用者)

性暴力でも性犯罪でも赦せるのは(神を除けば)被害者だけなのに」とmanaasamiさんは述べておられるが、これに対する反論は次の二点である。

 第一に、「性犯罪」においては誰が誰をpardonするのか。「恩赦 pardon」は「内閣の定める基準」や個別の審査に基づいて行われ、その対象は刑に服する者である。その場合には、例えば、政府などがpardonの主体である。よって、こと「性犯罪」の文脈では「被害者だけ」がpardonを行うわけではない。

 第二に、私は書評の中で「神を除けば」という例外を置いていない。それゆえ、この点でmanaasamiさんとは意見を異にする。もとより小松原さんは、一神教の「神」であれ多神教の「神」であれ、そもそも「神」という超越者の視点を本書の中で取り扱ってはいない。したがって、本書の中で「神」の立場を措定すると、書評の観点からの逸脱と見なされる、と私は考える。

 とはいえ、もちろん小松原さん自身は、ジャック・デリダの〈赦し pardon〉からヒントを得て、その〈赦し〉を自ら実行に移そうと試みたのであり、そしてデリダの〈赦し〉がユダヤ教キリスト教ヘブライ教の伝統における「神」を前提としている*3から、「神」という例外を措定しても問題ないのではないか、との再反論を戴く可能性がある。しかしながら、それはユダヤに出自を持つデリダ自身の〈赦し〉にはそのような可能性があっても、小松原さんが本書の文脈では「神」を前提とした〈赦し〉を描いておらず、むしろデリダにヒントを得つつも、「神」という宗教上の文脈からは脱文脈化した上で、自らの〈赦し〉を実践に移した経験が語られているのである。よって、小松原さんの語りに対して安易に「神」という前提を持ち出すことが、読解を通じての無自覚の暴力につながるのではないか、と私は危惧する。

おわりに

 このあとに、本当は「ジャック・デリダの〈赦し〉」や「小松原さんの〈赦し〉」について項目を立てて書こうか(書くべきか)と考えたが、すでにだいぶブログにしては長くなりすぎてしまったので、ひとまずこれにて筆を置かせていただきたい。

文献

*1:「赦しがあるためには、取り返しのつかないことが思い出され、それが現前し、その傷が開いたままでいることを要します。もし傷が和らぎ、癒合したら、赦しの余地はもはやなくなります。もし記憶が喪や変形を意味するならば、そのときは記憶はそれ自体、すでに忘却になります。このような状況の恐ろしい逆説とは、そのような赦しを与えるためには、たんに加害や犯罪を被害者が思い起こす必要があるだけでなく、そのような喚起が、傷が加えられたときと同じくらいになまなましく傷と痛みを呼び起こすのでなければならないということです。」(ジャック・デリダ『言葉にのって』筑摩書房、2001年、202〜203頁)。

*2:「第一に、赦しというこの観念を再活性化させかつ転移させるとりわけそうした政治的諸論議において、世界中で、ひとが曖昧さを維持させているからである。ひとはしばしば、ときには計算された仕方で、赦しを隣接的な諸主題と混同する:陳謝、遺憾、恩赦、時効等々。これらは多くの意義を含んでおり、そのうちの幾らかは法に、刑法に属する意義をもっているわけだが、しかし赦しは原理的には刑法に対して異質的で換言不可能であるにとどまらなければならない。」(Derrida, Le siècle et le pardon, 103-104,川口茂雄訳)。

*3:「赦しの概念がいかに謎めいたものにとどまるとしても、実際上、ひとがそれに当てはめようと試みる場面、形象、言語活動は、或るひとつの宗教的伝統(アブラハム的伝統と言っておこう、それにはユダヤ教、諸キリスト教そして諸イスラム教が取り集められるから)に属している。」(Derrida, Le siècle et le pardon, 104,川口茂雄訳)。

「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」へのリプライ

目次

はじめに

先日私は「読書前ノート(11)」で小松原織香『当事者は嘘をつく』(筑摩書房、2022年)の書評を書いた。この書評への感想が届いた。

manaasami.hatenablog.com

はてなブログ内で書いた記事が言及されると通知が届く仕組みになっている。この通知から私はid:manaasamiさんが私の書評に言及したことを知った。manaasamiさんも小松原さんの著書に感想を寄せている。

manaasami.hatenablog.com

 とりあえず今日の時点では『あなたの感想は私に届きました』ということだけが書ければよいと思う。

 書き手は「性行為に同意しているのになぜレイプというのか」で悩む。そして仮説を立て分析していかれる。私はそれを読むほどに「違うんじゃないかな」「なんかズレまくってる」と感じてしまう。

どうしても刑法で犯罪を立証するために質問している人が思い浮かぶ。もし性犯罪にあって告訴するとこういう質問を浴びせられるのか、と想像して重い気持ちになる。

manaasami「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」2022/10/08

manaasamiさんが述べているように、理解の水準としてはズレているのだと思う。それは私の限界だと認めるし、私自身もズレているように感じている。ただし、「ズレている」ということがどう「ズレている」のかを説明することが、どうやっても難しいのだ。

語ることの難しさ

 ひとつには、〈性暴力〉の何たるかを語ることが難しいということである。率直に言うと、私には小松原さんの文章からどうしてそれが〈性暴力〉なのかがほとんど読み取れない。書評は小松原さんの著書への書評であるから、性暴力一般の話ではなく、小松原さんの書かれた著書のテクストをベースにして〈性暴力〉について理解しようと努めたのだが、そのことを文字として書き起こせば起こすほど、〈性暴力〉の内実からはかけ離れていく。このズレを埋め合わそうと頭を使い、文章に書き起こして理解しようとすればするほどそのズレは広がっていく。その結果、どうしようもないグロテスクな書評が生まれる。

 そのような書評が書き起こされてしまったからには、わざわざ公開しない方が良かったのかもしれない。だが、私の書評のような文章が生まれてしまったのも事実である。私は自分の書いたものは、出来が良かろうと悪かろうと、公開することにしている。それがブログのいいところだからだ。

忘却なのかわざと書かなかったかは不明だが・・・着用があれば性暴力ではないとおっしゃるつもりか。妊娠の不安を与えることは性暴力の必須要件なのか? であれば、男性や子どもへの性暴力は存在しないことになるが(冷静に書くつもりが怒りが出ちゃってすみません)

書き手が真摯に分析を試みていらっしゃることは疑わないが、これはズレすぎだ。加えて言えば、当の行為が初体験であるかないかも、それが性暴力であるかないかには無関係。

manaasami「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」2022/10/08

私は「着用があれば性暴力ではない」とは述べていない。が、「その出来事を〈性暴力〉と規定する際にはコンドームの着用有無の記述は必要ではないのだろうか」という一文が、「着用があれば性暴力ではないとおっしゃるつもりか」というような誤解を与えることは、理解できる。だが、読み手の私にとって理解の妨げとなっているのは、小松原さんの叙述から彼女の体験したことが〈性暴力〉だと規定する要因がほとんど読み取れないことである。性暴力を体験したあなたにはその経験から容易に想像できても、私にはわからない。性暴力はコンドーム着用有無によっては説明され得ないし、性暴力は初体験と関係なしに起こり得る、というのはその通りだろう。

 でも〈性暴力〉って一体何?

 どうしたら〈性暴力〉を説明できる?

 書評を書いた後も、自分の読みは「何か違う」というのは感じていた。それで性暴力に関する文献を集めて休日に少しずつ学んでいる。それでも性暴力の何たるかを言語化できずに日々を過ごしていた。

小松原さんの自認の通り性暴力だろう。性を理解できない子どもなら、その時点ではわからなくて多分おとなになってから自認する。でもおとなの女性が暴力と性暴力を取り違えることなど絶対ない。どちらが重いとか辛いという意味でなく、完全に異質だからだ。(暴力を伴う性暴力は多く存在すると思うが)

そして私もその異質さの説明ができない。論理でなく体感しているからだ。その体感したものを言語化することを、脳が拒むような気がする。記憶は多分あるが詳細を思い出したくない。その記憶が正確かどうか確認する必要も感じない。

manaasami「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」2022/10/08

manaasamiさんによれば、「暴力」と「性暴力」とは「完全に異質」であり、「暴力」を伴う「性暴力」はあり得る、という。そうか、と私は思う。と同時に、それ以上語ることばを私が持たないことを知る。じゃあ『「暴力」を伴わない「性暴力」って一体何だろう?』とも考える。パッと考えてもすぐには分からない。わからないけれども、そういう「性暴力」もあるかもしれない。こうやって論理で考えると、またどんどんズレていく可能性がある。「性暴力」に対する理解力の途方もないズレを自覚するやいなや、「性暴力」について私は読めないし書けないのだと知る。

書評後に考えたこと

 書評を書いてからしばらくの間、ぼんやりと考えていたことを最後に書いておく。本当はまだ言語化しようと思っていなかったことだけど。

 

 ジャン=ジャック・ルソーは『言語起源論』の中で、人間のコミュニケーションの仕方を、人と人の距離によって区別している。ひとつが腕の長さまでの距離、もうひとつが視線の届くところまでの距離、もうひとつが声が届くところまでの距離である。それぞれのコミュニケーションの仕方は、触覚、視覚、聴覚を刺激する。

sakiya1989.hatenablog.com

 翻って〈セックス〉もひとつのコミュニケーションの様式と考えたらどうか。ここで〈セックス〉は、個人がセクシュアリティに関してそうだと思うすべてを意味すると仮定する(こうでも仮定しないと、個人のセクシュアリティは多種多様であり、具体的にそのすべて挙げきることはできないからである)。〈セックス〉は触覚、視覚、聴覚だけでなく、匂いを感じる嗅覚も、味を感じる味覚も、つまり五感のすべてを刺激する。刺激されているのは身体そのものであり、オーガズムは脳で感じる。しかしながらこれはあくまで物質=身体そのものの話である。話を単純化するために、心身二元論で話を進めよう。

 暴力が侵害し破壊するのは物質だが、性暴力が侵害し破壊するのは精神である。精神を侵害し破壊する〈セックス〉が性暴力だとすれば、それは五感のすべてを介して為されるが故に、通常の言語を介したコミュニケーション以上にどぎついものとなる。性暴力による精神の侵害と破壊は、よって身体に記憶される。こう考えると、たしかに暴力と性暴力は違う。

 もう一つ、「性的同意」について。性的同意の問題が二重に起こっていて、性的同意の尊重が日本においては十分に認識されていなかったということ(これについては最近では啓蒙され始めている)と、性的同意の有無が司法では不必要に考慮されているということである。性暴力を起こさないために「性的同意」は必要条件だが、「性的同意」は性暴力回避の十分条件ではない。性行為の最中に状況が変わり、相手が豹変することはあり得るからだ。だが十分条件ではないにもかかわらず、刑法の文脈では抵抗しないことが性的同意とみなされ、類推適用されてしまう。そもそも性的同意の有無は、それが性暴力であったかどうかを判定する材料にならないはずなのに、刑法の文脈で性的同意の有無が重要視されていること自体がおかしい。ただし、これは一般的な問題提起であって、小松原さんの著書や感想とは無関係の話である。

〈赦し〉の文脈

manaasamiさんは〈赦し〉の方に関心があると述べていた。これについては今日は書けそうもない。

私はここで<赦す>という言葉が出る意味がわからないし気になる。小松原さんが研究している修復的司法も<赦し>を目的にはしていないはずだ。

manaasami「「当事者は嘘をつく」の書評への感想」2022/10/08

私が書評で用いた〈赦し〉(「そもそも〈性暴力〉が「被害者のリアリティ」に起因するのだから、その原因である被害者以外の一体誰が、その〈性暴力〉を〈赦す〉ことができよう」という一文について)は、小松原さんが著書で用いた〈赦し〉の文脈とは噛み合わない、というご指摘かと思う。だが、私の書評でも「小松原さんが研究している修復的司法も<赦し>を目的に」しているとは書いていないのだが。この点についてはもう一度本書に立ち返って吟味させてほしい。

『梨泰院クラス』所感

目次

はじめに

 Netflixで『梨泰院クラス』(이태원 클라쓰、JTBC、2020年)を観た。陳腐な言い方になるが、面白かった。最近では日本でリメイクされた『六本木クラス』(テレビ朝日、2022年)が放映されているらしい。先ほど1話だけ見始めたが、所々日本風にアレンジされていて、本家『梨泰院クラス』の記憶が上書きされそうだったので、忘れないうちに感想を書き残しておきたいと思う。

『梨泰院クラス』はプラトニック・ラブを描いているのか

 何よりも言及したいのはセロイとスアの関係性である。ものすごく乱暴に整理すると『梨泰院クラス』の主人公はパク・セロイ(パク・ソジュン)であり、ヒロイン役がオ・スア(クォン・ナラ)であるように見える(が、実はそうではない)。二人は結ばれることなく、セロイはチョ・イソ(キム・ダミ)と付き合うところで物語の幕は閉じる。スア派の俺からすれば、この落とし所は納得がいかない。

 物語が終盤に差し掛かった時、セロイは年齢差を理由にイソが好きだという気持ちに蓋をしていたことが明らかにされる。周囲の人間はセロイがイソを愛していることを気づいていたが、セロイだけが気づいていなかったことになっている。だが、その辺りから状況が飲み込めなくなった。より正確に言うならば、話の流れは理解しているつもりなのだが、その筋にどうも納得がいかないのである。『梨泰院クラス』はセロイとスアのプラトニック・ラブのストーリーなのかと思っていたが、「愛している」を連呼するイソにセロイは惹かれていくように話は展開していく。私の理解力が乏しいのか、セロイがスアを愛しているような演技をしているようには、どうにも見えなかった。

 そこで以下では、『梨泰院クラス』の展開に納得がいかないので、そのストーリーをロジカルに考察してみたいと思う。

悲劇としての『梨泰院クラス』

 『梨泰院クラス』は、いうなれば悲劇というジャンルに属している。悲劇とは、オイディプスの物語のように、首尾一貫していることが生むどうしようもない結果である。セロイというキャラクターは、「あんたは変わらない」とスアが言うように、首尾一貫していることを特徴としている。一方スアに対してセロイは「変わらない」と表するが、スア自身は「もっと良い女になったのでは」と言い、自身の変化を示唆している。

なぜセロイはスアと結ばれないのか

 セロイとスアが結ばれなかったのは、二人の性格——すなわち、セロイの首尾一貫した性格と、スアの誰の助けも借りずに一人で生きていこうとする性格——に原因があるのではないだろうか。二人が結ばれないという悲劇は、ロジカルに考察するならば、それが運命であり、宿命だとも言える。

 セロイがスアを好きになったのは、スアが大学受験の当日に受験票を忘れた際に、自力で会場まで走っていった姿に憧れたことがきっかけだった。スアの特徴を一言で言い表すならば、スアは〈自助努力〉の象徴である。

 実はここに一つの困難がある。セロイが付き合うことを選んだイソは、タンバムを大きく発展させるのに欠かせない存在であり、セロイにとって実質的な依存先になった。スアがセロイに「まだ私のこと好き?」「好きって言ってよ」と問い質しても、セロイがスアに対して「好きだ」と言えなくなったとき、セロイとイソとの関係性が変化したと同時に、セロイとスアの関係性が変化したことが示唆されていた。つまり、タンバム(株式会社IC)という事業が大きくなるにつれて、イソに対するセロイの依存度は大きくなった。同時に、スアは、自立の象徴である家を買うが、そのときにはもはや〈自助努力〉だけでは自分の人生に満足できないようになり、セロイの存在を明確に欲するようになる。だが、セロイが「好き」だったのは、自立して〈自助努力〉するスアであって、自分を欲して依存するスアではなかった。だから、スアがセロイの存在を欲するようになればなるほど、スアに対するセロイの感情は悲劇的なまでに冷めてゆくことになるのである。要するに、スアに対するセロイの「好き」という感情は、〈自助努力〉への憧憬に過ぎず、もとより恋愛感情ではなかったのである。

おわりに

 セロイとスアの関係性について、ここまでロジカルに読み解いてみたが、それでもセロイがイソと付き合って終わるシナリオに納得が行くかと言えば、感情としてはやはり納得がいかない。セロイの人生も過酷だが、スアもあまりに不憫すぎるのである。スアは物語の最後で自分の店を持った際に、若い料理人に一目惚れし、今後の新しい恋愛への希望を示唆しているが、これまでのストーリーからすればそれがむしろ第二の悲劇の始まりではないとは決して言い切れないのである。

 セロイとスアが結ばれないことによって禁忌が回避されたともいえる。母親から見放され、児童養護施設で育ったスアは、セロイの父親に支援されて生きてきた。セロイの血縁の父親は、スアにとっては精神的な父親でもある。だとすれば、セロイとスアは血縁関係になくとも、観念的には同じ父親の下で育った擬似的な兄妹である。だが、兄妹が婚姻関係で結ばれるというのは、近親姦を許容することになり、人倫に反する行為である。

 それでも、もし『梨泰院クラス』の第二シーズンがまた悲劇として描かれるならば、セロイとスアの関係性を再び——それがドロドロの不倫関係でもいいから——描いて欲しいものである。

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』覚書(2)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』(承前)

『論考』の叙述様式

 『論考』は以下の命題から始まっている.

  • 1 世界とは,成立していることがらの全てである.
    • 1.1 世界とは,諸事実の総体であって,〔単なる〕諸物の総体ではない.
      • 1.11 世界は,諸事実によって規定され,そしてその事実が全ての事実であることによって規定されている.
      • 1.12 というのも,諸事実の総体が規定するものは,何が成立しているのか,そしてまた,何が成立していないのかであるからだ.
      • 1.13 論理的空間の中にある諸事実が世界である.
    • 1.2 世界は諸事実へと分解される.

      • 1.21 他のすべてのことの成立・不成立を変えることなく,あることが成立していることも,成立していないことも,ありうる.

(Wittgenstein1921: 199,野矢茂樹訳,訳は改めた)

まず最初に『論考』におけるヴィトゲンシュタインの叙述様式について簡単に触れておこう.叙述様式に関してヴィトゲンシュタイン自身は命題1に次のような注を付けている.

 *)諸々の個別の命題の番号としての10進数は,私の叙述のうちにある諸命題の論理的な重みを,つまり強調を示している.諸命題 n.1,n.2,n.3 等々は,その命題 No. n への註である.諸々の命題 n.m1,n.m2 等々は,命題 No. n.m への註である.そしてそれが延々と続く.

(Wittgenstein1921: 199)

ヴィトゲンシュタインは『論考』の叙述において,命題への番号の付け方によって,論理的な階層構造を表現したのである.例えば,下1桁目の番号(1.11)の命題は,下2桁目の番号(1.1)の命題への「註 Bemerkungen」である.上の引用では,『論考』における論理的な階層構造を表現するために,同じ論理階層の文頭を揃えたり,あるいは階層別に文頭を下げたりしている.

〈世界〉とは何か

 『論考』はどういうわけか〈世界〉の説明から出発している.ここでヴィトゲンシュタインは〈世界 Welt〉を「成立していることがらのすべて alles, was der Fall ist」であると説明している."was der Fall ist"を「成立していることがら」と訳すのは何だか仰々しい感じがする."Fall"は動詞"fallen"の名詞形であり,「落下,陥落,【英:case】場合,【法】事件,【言】格」等の意味を持つ.ドイツ語の"Fall"は,古代ギリシア語"πτῶσις"であり,ラテン語の"casus"に該当するが,これらの語はどうして「落下」と「事件」という別の意味を持つのだろうか.それはおそらく「落ちる」ということが,日常からすれば思いがけない不慮の出来事だからである.その出来事は,人類の意志や推論をも超越していると思われる.〈世界〉とは「思いもよらない出来事であるもの was der Fall ist」そのすべてである.

 ヴィトゲンシュタインがこの「成立していることがら was der Fall ist」をどのように説明しているのかを見てみよう.

  • 2 成立していることがら,すなわち事実とは,諸事態の存立である.

(Wittgenstein1921: 199,野矢茂樹訳,訳は改めた)

ここで「成立していることがら was der Fall ist」が「事実 Tatsache」と言い換えられている."Tatsache"というドイツ語は,「行為 Tat」と「事柄 Sache」の組み合わせであり,要するに「為された事柄 Tatsache」のことである.

 ヴィトゲンシュタインは,命題1における「成立していることがらのすべて alles, was der Fall ist」を「事実 Tatsache」と言い換えて,命題1.1では〈世界〉のことを「事実の総体 Gesamtheit der Tatsachen」だと表現している.その際に,ヴィトゲンシュタインは「諸事実の総体 Gesamtheit der Tatsache」と「諸物の総体 [Gesamtheit] der Dinge」とを区別しているが,両者の違いはどこにあるのだろうか.「諸物の総体」が「物ども」の把握である自然学的世界観に基づくと考えるならば,「諸事実の総体」はその中に「物ども」をアクターとして組み込む歴史記述的世界観に基づいているのではないだろうか.その場合,ブリュノ・ラトゥール(Bruno Latour, 1947-)の理論を源流として近年注目が集まっているアクターネットワーク理論(Actor-network-theory, 通称ANT)が扱っているものは,ヴィトゲンシュタインのいう「諸事実の総体 Gesamtheit der Tatsach」と「諸物の総体 [Gesamtheit] der Dinge」のどちらにより近いと言える/言えないであろうか.

〈事態〉とは何か

 ヴィトゲンシュタインは「成立していることがら was der Fall ist」=「事実 Tatsache」を説明するために,さらにこれを「諸事態の存立 Bestehen von Sachverhalten」と表現しているが,この〈事態 Sachverhalt〉とは一体何であろうか.ヴィトゲンシュタインは次のように述べている.

  • 2.01 事態とは,諸対象(諸々の事柄・物ども)の一つの結合である.

(Wittgenstein1921: 199)

ここで「諸々の事柄 Sachen」と「物ども Dingen」がいずれも「諸対象 Gegenstände」として,〈事態 Sachverhalt〉の名の下にひとまとめにされている.〈事態 Sachverhalt〉とは,「事柄 Sache」と「関わり Verhalt」の組み合わせであり——「事柄 Sache」とは実在的な「物 Ding」以上にその本質をも穿つような言葉であるから——よりメタな関係性の表現であるともいえよう.

(つづく)

文献

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』覚書(1)

目次

はじめに

 本稿では,20世紀を代表する哲学者であるルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein, 1889-1951)の主著『論理哲学論考』(Logisch-Philosophische Abhandlung, 1921)を読む.

ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考

初版のタイトルとラッセルの序文

(『自然哲学年誌』第14巻に掲載された『論理哲学論考』(1921年))

 ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は,今日では"Tractatus Logico-Philosophicus"というラテン語タイトルで知られている.だが,最初にそれが掲載された時には,ドイツ語で"Logisch-Philosophische Abhandlung"というタイトルが付けられていた.

(『論理哲学論考』に寄稿したバートランド・ラッセルの序文)

 『論理哲学論考』初版には,ヴィトゲンシュタインケンブリッジ時代の師であるバートランド・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 1872-1970)による序文が付されている.ヴィトゲンシュタインは1911年にケンブリッジに行き,そこでラッセルと議論して過ごした.その後ラッセルはヴィトゲンシュタインを自身の論理学の後継者と見做すも,1914年には仲違いしたという(野村2007).

sakiya1989.hatenablog.com

文献

ヘーゲル『エンツュクロペディー』覚書:「動物有機体」篇(2)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ヘーゲル『哲学的諸学問のエンツュクロペディー要綱』(承前)

II「自然哲学」第3部「有機体物理学」C「動物有機体」

〈自己運動〉の偶然性

(1)初版

 第274節

 動物には偶然的な自己運動がある.なぜならば,その主体性は,光と火のように,重力〔重さ〕から引きはがされた観念性——自由な時間であるから.すなわち,同時に実在的な外面性から逃れ出たものとして,内的な偶然にしたがってそれ自身が場所へと規定される自由な時間であるから.

(Hegel1817: 185,伊藤訳228頁)

(2)第二版

 第351節

 動物には偶然的な自己運動がある.なぜならば,その主体性は,光と火のように,重力〔重さ〕から引きはがされた観念性——自由な時間であるから.すなわち,同時に実在的な外面性から逃れ出たものとして,内的な偶然にしたがっておのずからそれ自身が場所へと規定される自由な時間であるから.

(Hegel1827: 332)

(3)第三版

 第351節

 動物には偶然的な自己運動がある.なぜならば,その主体性は,光と火のように,重力〔重さ〕から引きはがされた観念性——自由な時間であるから.すなわち,同時に実在的な外面性から逃れ出たものとして,内的な偶然にしたがっておのずからそれ自身が場所へと規定される自由な時間であるから.

(Hegel1830: 360)

ここでヘーゲルは「動物」の特徴の一つとして「偶然的な自己運動」を挙げている.「動物」の「自己運動」が「偶然的」だといわれているのは,「動物」の「主体性」においては,理性を伴った本当の自由意志が行動を規定しているのではなく,行き当たりばったりの衝動や欲求といった自然性に突き動かされて行動するからである.「動物」のこうした行動原理のことを,ヘーゲルは「内的な偶然にしたがってそれ自身が場所へと規定される自由な時間」と表現している.「重力」の代わりに偶然性がその原理である.

 ここで「動物」の「主体性」が「光と火のように」と表現されているのは,それらが「重力」を持たない存在だからである*1.「光と火」はその光源から瞬間的に四方八方を照らすとき,たしかにそれは「実在的な外面性」という力学的な物理法則を無視しているように見える.

(つづく)

文献

*1:光子の質量はゼロである