まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

サイード『オリエンタリズム』覚書(5)

目次

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イードオリエンタリズム』(承前)

序説(二)(承前)

イードの〈オリエント〉とグラムシの「ヘゲモニー

 サイードが示す〈オリエント〉理解のための第二の留保条件は次のようなものである.

A second qualification is that ideas, cultures, and histories cannot seriously be understood or studied without their force, or more precisely their configurations of power, also being studied. To believe that the Orient was created—or, as I call it, “Orientalized”—and to believe that such things happen simply as a necessity of the imagination, is to be disingenuous. The relationship between Occident and Orient is a relationship of power, of domination, of varying degrees of a complex hegemony, and is quite accurately indicated in the title of K. M. Panikkar’s classic Asia and Western Dominance.

第二の限定条件として,観念や文化や歴史をまともに理解したり研究したりしようとするならば,必ずそれらの強制力——より正確に言えばそれらの編成形態コンフィギュレーション——をもあわせて研究しなければならない.オリエントはつくられた——あるいは私の言葉で言うと「オリエント化された」——ものだと考える場合,それは,もっぱら想像力がそれを必要とするからこそ起こることだと考えたりするのは,事実を偽るものである.西洋オクシデント東洋オリエントとのあいだの関係は,権力関係,支配関係,そしてさまざまな度合いの複雑なヘゲモニー関係にほかならない.この関係は,K・M・パニッカルの名著『アジア,そして西洋の支配』の書名のなかに,まことに的確に示されている.

(Said2003: 5,訳(上)26〜27頁,強調引用者)

「強制力 force 」,「権力 power 」,「支配 domination 」,「覇権 hegemony 」,「力 strength 」,いずれもこのパラグラフ全体において「力」というタームが繰り返されていることがわかる.とりわけ「ヘゲモニー」はグラムシの思想において注目された概念である.グラムシ研究者の片桐薫は「ヘゲモニー」について次のように説明している.

 「ヘゲモニー」の語源はギリシャ語の「へーゲスタイ」で,ある国家や都市による他の国家・都市にたいする支配を意味していた.それを階級闘争の概念としてはじめて用いたのは,二〇世紀初頭のロシアの社会民主主義者たちで,農民その他の被搾取階級にたいするプロレタリア指揮権という意味に用いていた.レーニンもはじめはヘゲモニーという表現を使っていたが,一〇月革命前後からは「プロレタリアートの独裁」という表現を用いるようになっていった.それにたいし,グラムシヘゲモニーという表現を使って理論展開するようになるのは,一九二〇年代後半以降の「リヨン・テーゼ」「南部問題に関する若干の主題」「ソ連共産党中央委員会への手紙」においてである.だか原文ママこの段階では,「プロレタリアートの独裁」とほぼ同義語的に使っていた.

 ところが獄中期になると,はっきり変化を見せるようになる.それまでの「ヘゲモニー」概念をレーニンとクローチェから学んだことを認めながらも,その狭義の概念から脱皮していった.つまり,①レーニンの概念が政治指導をもっぱらとするのにたいし,支配と指導,強制と同意,政治社会と市民社会のかかわりでとらえた.②クローチェの「倫理的・政治的」指導という発想を介し,文化的・道徳的・イデオロギー的指導を意味するものとして,その概念の質的な修正をおこなった.こうして「ヘゲモニー」概念は,「獄中ノート」全体をつらぬく「赤い糸」として形成され,それは,コミンテルン系のマルクス主義とは大きく異なるものだった.

(片桐2001:278)

要するに,「ヘゲモニー」とはかつて都市間の覇権をめぐる諸関係を示す概念であったが,後にレーニンが「プロレタリアート独裁」として用いた「ヘゲモニー」概念を,グラムシは「獄中ノート」の中で(クローチェの「倫理的なもの」を契機として)政治的なものから文化的なものへと変容させたというのである.

 サイードグラムシについて少しあとで言及しているが,その箇所はちょうどこのパラグラフを理解するために重要な点を含んでいる.

Gramsci has made the useful analytic distinction between civil and political society in which the former is made up of voluntary (or at least rational and noncoercive) affiliations like schools, families, and unions, the latter of state institutions (the army, the police, the central bureaucracy) whose role in the polity is direct domination. Culture, of course, is to be found operating within civil society, where the influence of ideas, of institutions, and of other persons works not through domination but by what Gramsci calls consent. In any society not totalitarian, then, certain cultural forms predominate over others, just as certain ideas are more influential than others; the form of this cultural leadership is what Gramsci has identified as hegemony, an indispensable concept for any understanding of cultural life in the industrial West. It is hegemony, or rather the result of cultural hegemony at work, that gives Orientalism the durability and the strength I have been speaking about so far.

グラムシは,市民社会と政治社会とのあいだに効果的な分析上の区分を設けた.市民社会のほうは,学校,家族,組合といった,自由意志による(つまり少なくとも理性的で非強制的な)加入・帰属関係から構成されており,政治社会のほうは直接の支配をその政治的役割とする国家制度(軍隊、警察、中央官僚制)から構成されているが,もちろん,文化の機能を認めることができるのは,市民社会においてである.市民社会では,思想・制度・他人格の影響力は,支配を通してではなく,グラムシの言う合意を通して作用する.さらに,全体主義的でない社会ではどこでも,ある思想が他の思想よりも大きな影響力をもつのと同じ意味で,ある文化形態が他の文化形態に断然優越している.この文化的主導権の形態は,グラムシによって,工業化された西洋社会の文化生活を理解するために絶対不可欠の概念,すなわちヘゲモニーとして認められたものにほかならない.オリエンタリズムに,これまで述べてきた持続性と力とを賦与するのは,このヘゲモニーであり,正確に言えば,文化的ヘゲモニーの作用の結果なのである.

(Said2003,訳(上)29〜30頁,強調引用者)

ここではグラムシの「市民社会」と「政治社会」(両者をあわせて「国家」とグラムシは考える)の区別について一般的な理解が述べられている*1.「政治社会」の機能とは「市民社会」に対する「支配 domination 」であり,これに対して「市民社会」の機能は「文化 cultur 」であり,そこには「合意」*2の契機がある.そこにおいて「ヘゲモニー」という概念は,国家権力のような勢力を意味するのではなく,われわれの内なるメンタリティと生活に根付いており,いわば社会に内在しているものである.〈オリエント〉にみられる西洋と東洋の力関係もまさに「ヘゲモニー」の観点から説明できるとサイードは考えているのである.

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文献

*1:そもそもこのような(「市民社会」と「政治的国家」の)区別について理性的な説明を与えたのは,ヘーゲル『法の哲学』である.ヘーゲル以前は,「市民社会」は「政治社会」と同一のものとみなされていた.

*2:ヘーゲルならばこれを「承認 Anerkennung 」と言うかもしれない.

ヴィーコ『新しい学』覚書(10)

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ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

ゼノンの運命論(宿命論)とエピクロスの原子論

神の摂理の光線は,形而上学が胸の飾りにしている凸面の宝石を照らしている.これは,傲慢な才気によっても卑賤な肉体的快楽によっても汚濁されていない清澄で純粋な心をここ〔本書〕では形而上学はもつべきであることを指し示している.前者の傲慢な才気によってゼノン運命〔宿命〕を生み出し,後者の卑賤な肉体的快楽によってエピクロス偶然を生み出した.そして,両者は,このために神の摂理の存在を否定してしまったのであった.

(Vico1744: 4-5,上村訳(上)23頁)

ここで2人の哲学者が登場する.ギリシアの哲学者ゼノンとエピクロスである.

 まずゼノン(キティオンのゼノン、紀元前335-263年)はストア派創始者である.彼の言葉に「運命πεπρωμένο)に従っていっさいは生ずる」というものがある.『すべては超越的な力によって左右されている』というこうした考え方は「運命論」や「宿命論」等と呼ばれる.

 ここでヴィーコが言及しているエピクロスの生み出した「偶然 Caso 」とは,エピクロスの原子論と関係がある*1エピクロスデモクリトスの原子論を継承したが,デモクリトスの原子論が決定論的であったのに対して,エピクロスにはいわゆる「クリナメン」,つまり原子の〈逸れ〉という考え方があったとされる*2.もっともエピクロス自身の著作は散逸してしまっており,彼の思想が伝わったのはディオゲネス・ラエルティオスやルクレティウスらの著作を通してである.

 ヴィーコは「後者〔の卑賤な肉体的快楽〕によって col secondo エピクロスは偶然を生み出した」と述べているが,「快楽 piacere 」と「偶然 caso 」を結びつけているのはなぜか.エピクロスの原子の〈逸れ〉という考え方は,従来の決定論的な考え方を退け,人間の「自由意志 libera voluntas 」の肯定につながった.この「意志 voluntas 」という語は,「快楽 voluptas 」という語と「アルファベット一文字の違いでしかない」(中金2017:5)という点で似ており,この点でエピクロスの原子論がかれ固有の快楽主義(とっても彼は肉体的快楽の追求を称揚したのではないが)と密接な関係を持っている可能性がある.

 ヴィーコは『新しい学』の中でストア派のゼノンやエピクロスについて次のように述べている.

 だから,この学は,それの主要な面のひとつとしては,神の摂理についての悟性的に推理された国家神学でなければならない.このような学がこれまで欠如していたように見えるのは,哲学者たちストア派エピクロスのように神の摂理の存在をまったく知らずにきたからである.エピクロス派は,原子の盲目的な競合が人間たちの諸事万般を掻き立てているのだと言い,ストア派は原因と結果の隠れた連鎖がそれらを引きずっているのだと言う.あるいはまた,神の摂理を自然的事物の秩序にかんしてのみ考察してきたからである.このため,かれらは形而上学を〈自然神学〉と呼んで,これのなかでこの神の属性を観照し,天球や四大〔天・地・火・水の四大元素〕などのような物体の運動において観察される形而下の秩序によって,また,他のもっと小さな自然的事物にもとづいて観察される究極原因のうちに,神の摂理を確認してきたのであった.しかし,かれらは神の摂理国家制度にかんすることがらの領域においても推理すべきであったのである.

(Vico1744: 120-121,上村訳(上)262〜263頁)

ヴィーコは,彼らが自然学の方面にばかり目を向けて,国家社会の事柄にかんしては「神の摂理」を考察してこなかったと指摘している.こうした観点は「著作の観念」冒頭の「哲学者たちはこれまでずっと神の摂理を自然界の秩序のみをつうじて観照してきたので,ただたんにそれ〔神の摂理〕の一部分をしか論証してこなかったのであった」(Vico1744: 2,上村訳(上)18頁)という箇所にも通じている.

〈私的なもの〉の表現としての「平面」と〈公的なもの〉の表現としての「凸面」

さらにはまた,それは,これまで哲学者たちがおこなってきたように,神の認識が形而上学のところで終止してしまって,形而上学が自分だけ私的に知的なことがらによって照らし出され,ひいては,ただたんにおのれひとりの道徳的なことがらだけを統御するようなことになってはならないことをも指し示している.もしそれだけでよいのなら,平らな宝石で表示されていただろう.ところが,宝石は凸面で,光線はそこで反射して外部に拡散している.これは,摂理を立てている神を形而上学は公共的な道徳的なことがら,すなわち,諸国民がこの世に登場し自己を保存してきたさいに手立てになっている国家制度的な習俗のうちに認識するのでなければならない,ということなのである.

(Vico1744: 5,上村訳(上)23頁)

ここで注目すべきは宝石の形状である.形而上学が身につけているのは「平らな piano 宝石」ではなく「凸面の conversso 宝石」だという.「平ら」と「凸面」の形状の違いはどこにあるのだろうか.

 宝石の平らな形状は,自己の私的な領域のうちに閉じこもってしまうこと,いわば物事を矮小化してしまうことの表現である.それは「自分だけ私的に知的なことがらによって照らし出され,ひいては,ただたんにおのれひとりの道徳的なことがらだけを統御するようなこと」だという.

 これに対して宝石の凸面の形状は,外に広がっていくこと,公的な事柄の表現である.「宝石は凸面で,光線はそこで反射して外部に拡散している.これは,摂理を立てている神を形而上学公共的な道徳的なことがら,すなわち,諸国民がこの世に登場し自己を保存してきたさいに手立てになっている国家制度的な習俗のうちに認識するのでなければならない,ということなのである」.この箇所をよく読むと,道徳には二種類あることがわかる.一つは前者の〈私的な道徳〉であり,もう一つは後者の〈公共的な道徳〉である.口絵の形而上学が身につけている宝石は凸面状であるから〈公共的な道徳〉を志向する表現となっている.

 ヴィーコはスコラ哲学のように社会から引きこもって自己内反省することで神を観照するような仕方を退けているわけで,そういったやり方ではなくむしろ社会の「習俗」のうちに神を観照するという方法を採用する.「哲学者たちがおこなってきたように」という箇所で批判されているのはスコラ哲学者の形而上学だとも言えるのであり,ヴィーコはここでいわば〈社会-形而上学者〉のような立場をとっている.

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文献

*1:エピクロスの原子論における〈逸れ〉について詳しくは中金2017をみよ.

*2:彼らの自然哲学の差異に着目したものとして,若きマルクスの学位論文がある.マルクスの学位論文について詳しくは加戸2017をみよ.

ヴィーコ『新しい学』覚書(9)

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ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

祭壇と天

祭壇が地球儀の下にあってこれを支えていることについても,これを不適切であるとおもってはならない.なぜなら,世界の最初の祭壇は異教徒たちによっていずれも詩人たちのいわゆる第一に建立されていたことが見いだされるからである.

(Vico1744: 4,上村訳(上)22頁)

祭壇とは神聖なものなので,祭壇の上に余計なものを乗せることは不適切だと思われる可能性がある.だからヴィーコは,なぜ祭壇の上に地球儀が乗っかっているのかを説明しなければならなかったのかもしれない.

 ここで「第一天」という表現はよくわからない.おそらく地上と非常に近い天界をそのように呼んでいるのではないだろうか.

詩人たちは,かれらの物語〔神話伝説〕のなかで,生育期にあった人類の幼児とでも言うべき最初の人間たちが——今日でも,幼児たちは,天は家の屋根とほとんど同じ高さのところにあると思いこんでいるように——山々の台地よりも高くはないと思いこんでいた時代に,天神は地上にあって人間たちに君臨し人類にいくつかの大いなる恩恵を残したと,これまた忠実にわたしたちに伝えているのである.それがその後,ギリシアの人々の知性がしだいに展開していくにつれて,ホメロスがかれの時代に神々がそこに住んでいたと語っているオリュンポス山のように,高山の頂上にまで高めあげられていった.そして最後には,今日天文学がわたしたちに論証してみせているように,天界にまで高めあげられ,オリュンポス山恒星天にまで高めあげられるにいたったのであった.これと同時に,祭壇も天に運ばれていって,ひとつの天宮を形成する.

(Vico1744: 4,上村訳(上)22頁)

西洋占星術では,12のサイン(宮)を合わせて黄道十二宮などと呼ぶ.

 古代の人々はオリュンポス山のような地上に神々が住んでいたと考えており,これは「人類の幼児」の持つ「想像力」によるものである.ヴィーコは歴史の初期の段階を「幼児」になぞらえて表現しており,「幼児」の特徴について本書第2部で次のように述べています.

幼児にあっては記憶力がきわめて旺盛である.ひいては想像力が過度なまでに活発である.想像力というのは拡大または合成された記憶力にほかならないのである.

 この公理は,最初の幼児期の世界が形成していたにちがいないもろもろの詩的形象がいずれもじつに明白であることの原理である.

(Vico1744,上村訳(上)197頁)

「幼児」の特徴は凄まじい「記憶力」と「想像力」にある.だからこそ古代人は神話を持ち得たのだといえるかもしれない.

ヘラクレスの「火」

また,それの上に置かれている火は,ご覧のように,獅子隣の宮座に移される(獅子は,いましがたも注意しておいたように,ヘラクレスがそこにを発生させて耕地に変えたネメアの森であったのである).そして,その獅子の皮も,ヘラクレスの勝利を記念して,星辰にまで高めあげられたのだった.

(Vico1744: 4,上村訳(上)22〜23頁)

祭壇の上に置かれている「火」は,ヘラクレスを表象しており,地球儀の中に描かれている獅子と隣り合わせになっている.ヘラクレスの十二の功業により,獅子は獅子座という星座になり,ヘラクレスヘルクレス座という星座になった*1ヘラクレスとネメアの獅子については『新しい学』第4部「詩的家政学」でも次のように触れられている.

最後に,大地は凶暴で平定には多大の努力を要するという面をとらえたところから,最強の動物がつくりあげられた.ネメアの獅子である(そのためにそれ以来,動物たちのうちで最強のものには〈獅子〉という名があたえられるようになったのである).この獅子を文献学者たちは途方もなく大きな蛇ではなかったかとも考えようとしている.また,これらはすべて口から火を吐き出すが,これはヘラクレスが森に放った火であったのだ.

(Vico1744,上村訳(上)475頁)

しかし気になるのは「火」である.ヘラクレスの神話にはどうやら「火」は出てこないようなのである.何か手がかりはないものか.

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文献

*1:なおここで言及されているヘラクレスとネメアの森については拙稿「ヴィーコ『新しい学』覚書(6)」ですでに述べた通りである.

ヴィーコ『新しい学』覚書(8)

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ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

農耕神サトゥルヌス

つぎに,麦穂の冠をかぶって天文学者たちのところに行く,というように詩人たちによって描かれている処女は,詩人たちがかれらの世界の最初の時代であったとはっきり語っている黄金の時代からギリシアが始まったことを意味している.この黄金の時代には,何世紀にもわたって,歳年は小麦の収穫によって数えられていたのであって,小麦こそは世界で最初の黄金であったことが見いだされるのである.そしてこのギリシア人の黄金の時代ローマ人にとってのサトゥルヌスの時代が同一段階のものとして対応しているのであって,サトゥルヌスは,〈サトゥス〉satus,すなわち,種が播かれた土地ということから,こう呼ばれたのであった.

(Vico1744: 3,上村訳(上)20〜21頁)

ここで「黄金の時代」という言葉が登場するが,これはギリシア神話のいわゆる「黄金時代」(χρύσεον γένος)を指している.

 ヘシオドス『仕事の日々』には五時代説話が叙述されており,彼は黄金時代、白銀時代、青銅時代、英雄の時代、鉄の時代という五つの時代区分を示している.

これらすべてのことからつぎの重大な系が出てくる.すなわち,金,銀,銅,鉄というあの世界の四時代区分は頽廃した時代の詩人たちが作りあげたものだということである.なぜなら,最初のギリシア人のもとで黄金の時代にその名をあたえているのは,麦というこの詩的な黄金であったからである.

(Vico1744,上村訳(上)483頁)

この歴史観においては,人類は神々とともに平和に暮らしていたが,徐々に争うようになり,人類は堕落へと進んでいったとみなされる.

 ここで登場するサトゥルヌス(Saturnus)とはローマ神話に登場する農耕神のことである.サトゥルヌスは初めて人間に農耕を教え,太古のイタリアに黄金時代を築いたとされる.

「観念の一様性」と「共通感覚」

また,この黄金の時代には神々は地上で英雄たちと交わっていた,とも詩人たちは忠実にわたしたちに伝えている.そう,忠実にである.というのも,やがて論証されるように,単純素朴で粗野な異教世界の最初の人間たちは,もろもろの恐るべき迷信でいっぱいになったこのうえなくたくましい想像力の強力な惑わしにあって,自分たちが真実地上で神々を見ているものと信じこんでいたからである.また,それがやがて,オリエント人のもとでも,エジプト人のもとでも,ギリシアのもとでも,ローマ人のもとでも,互いに相手のことをなにひとつ知らないでいたにもかかわらず,〔かれらが人間として抱いていた〕観念の一様性によって,等しく,地上から,神々惑星に、英雄たち恒星にまで高めあげられていったことも,ここ〔本書〕でのちに見いだされるとおりである.このようにして,サトゥルヌスギリシアにとってのクロノスΚρόνος)であるが,クロノスΧρόνος)は同じくギリシア人にとっては時間tempo)をも意味していて,このサトゥルヌスないしはクロノスから,年代学,すなわち時間の学説に,いまひとつ別の新たな原理があたえられることになるのである.

(Vico1744: 3-4,上村訳(上)21〜22頁)

神々というのは今となっては地上の存在ではなく天界の存在と考えられているが,古代の人々にとっては神々は地上にいたのも同然と思い込まれていたので,神々は英雄と交わっていたという逸話が生まれた.ただしこれは古代人の想像力の賜物であり迷妄に過ぎなかったとヴィーコは指摘している.その迷妄が解かれる過程のためか,人類の推理・認識能力が発達したためか,次第に神々と英雄の位置付けは天界の星々へと移動していくという.

 ここで「観念の一様性」という言葉が登場する.地域の異なる国民(ここでは例えばオリエント人,エジプト人ギリシア人,ローマ人など,地球上で見れば割と近い地域に属している国民と言えるかもしれない)が互いに知らない間柄であるにもかかわらず,共通の観念を抱いていたことをヴィーコは「観念の一様性」と呼んでいる.この点は,本書第2部の箇所で「共通感覚」とともに改めて論じられることとなる.

互いに相手のことを知らないでいる諸民族すべてのもとで生まれた一様な観念には,ある一つの共通の真理動機が含まれているにちがいない.

 この公理は,人類の共通感覚が万民の自然法についての確実なるものを定義するために神の摂理によって諸国民に教示された基準であることを確定する一大原理である.

(Vico1744,上村訳(上)167頁)

農耕の神クロノス(Κρόνος)と時間の神クロノス(Χρόνος

 ヘシオドスによれば,黄金時代の神々の支配者はクロノスΚρόνος)だったとされている.クロノスはギリシア神話における大地および農耕の神であった.そのため,ローマ神話における農耕神であるサトゥルヌス(Saturnus)と同一視されてきた.一つ注意が必要なのは,同じ読み方でクロノス(Κρόνος)とは別の神であり,時間の神であるクロノスΧρόνος)の存在である.クロノス(Χρόνος)は「年代学」の由来でもある*1

これはラティウムラツィオ〕の諸国民のもとで始まった神々の時代であって,特性の面でギリシア人の黄金の時代に対応している.やがてわたしたちの神話学によって見いだされるように,ギリシア人にとって最初の黄金は穀物であった.そして穀物の収穫によって最初の諸国民は何世紀にもわたって年をかぞえていたのだった.また,サトゥルヌスはローマ人によって〈サトゥス〉satus,種を播かれた,ということからこう呼ばれた.このサトゥルヌスのことをギリシア人は〈クロノス〉と呼んでいるのだが,そのギリシア人のもとでは〈クロノス〉 Χρόνος は時間のことであって,ここから〈クロノロジーア〉〔年代学〕という言い方は出てきたのである.

(Vico1744,上村訳(上)114〜115頁)

サトゥルヌスであれクロノスであれ,これらの神々が互いに混同されてきたとはいえ,麦穂の収穫の周期という点から農耕と時は密接な関係を持っていたわけで,そのかぎりで農耕の神が時を司る神とみなされてきたと思われる.

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文献

*1:詳しくは本書「詩的年代学」で論じられる.「神学詩人たちは,このような天文学に合わせて,年代学に始まりをあたえた.なぜなら,ラティウムの人々によって〈サトゥス〉satus,〈種播かれた土地〉ということからサトゥルヌスと呼ばれ,ギリシア人からクロノスと呼ばれていた神(ギリシア人のもとでは〈クロノス〉は時間を意味する)は,最初の諸国民(最初の諸国民はすべて農民で成り立っていた)はかれらのおこなっていた麦の収穫(それは,農民たちがまるまる一年を費やしていた,唯一の,あるいは少なくとも最大の仕事である)でもって年数を数えはじめたことをわたしたちに理解させてくれるからである.そして,かれらは最初のうち口が利けなかったので,麦の穂,もしくは麦藁の数によって,収穫をおこなった回数と,またそれと等しい数の年数を表わそうとしていたにちがいないのだった.」(Vico1744,上村訳(下)180-181頁).

ヴィーコ『新しい学』覚書(7)

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ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

オリンピアード」と「時間の起源」

また,それはさらには時間の起源を提示しようともしている.時間は,ギリシア——わたしたちは異教の古代についてわたしたちがもっている知識のすべてをギリシア人から得ているのである——のもとでは,オリュンピア競技にともなうオリュンピア紀から始まっているが,このオリュンピア競技の創始者ヘラクレスであったと言い伝えられている.だから,オリュンピア競技はネメアの人々によって始められたもので,殺した獅子を持ち帰ったヘラクレスの勝利を祝うために導入されたものであったにちがいないのである.こうして,ギリシア人の時間は,かれらのあいだで田野の耕作が始まった時点から始まったのであった.

(Vico1744: 3,上村訳(上)20頁)

「時間」を理解する鍵は,「オリュンピア競技にともなうオリュンピア紀」という部分にある.「オリュンピア紀」あるいはオリンピアードとは,次のオリンピックが開催されるまでの4年周期の単位を意味する.オリュンピア競技のように,ある一定期間を経て繰り返されることによって時間という単位が生まれた.ここにヴィーコは「時間の起源」を見出す.このパラグラフの内容は,本書「詩的年代学」で次のように触れられている.

こうしてまたヘラクレスは,ギリシア人(異教の古代にかんしてわたしたちがもっている知識のすべてをわたしたちはギリシア人から得ているのである)のもとにおける名高い時代区分の方法であったオリュンピア競技の創始者である,とわたしたちに語り伝えられてきたのだった.なぜなら,かれは森に火をあたえて,それを種播き用の土地に変えた.そして,この土地から得られる収穫の回数でもって,当初年数が数えられていたからである.またこの競技は,ヘラクレスが口から炎を吐き出すネメアの獅子に勝利したことを祝うために,ネメア人によって開始されたのにちがいない.

(Vico1744,上村訳(下)181〜182頁)

ヴィーコは「オリュンピア競技の創始者ヘラクレスであった」と述べているが,これは果たして本当であろうか.古代ギリシアのオリュンピア競技は,ギリシアの四大競技大祭の一つであったとされる.オリュンピアで4年に1度開催されたオリュンピア大祭の他に,ネメアで2年に1度開催されたネメア大祭,イストモスで2年に1度開催されたイストモス大祭デルポイで4年に1度開催されたピューティア大祭などがあった.Wikipediaの"Nemean Games"(英語)の項目には"With the Isthmian Games, the Nemean Games were held both the year before and the year after the Ancient Olympic Games and the Pythian Games in the third year of the Olympiad cycle. Like the Olympic Games, they were held in honour of Zeus. They were said to have been founded by Heracles after he defeated the Nemean Lion"という記述があり,確かにヴィーコが述べているように「オリュンピア競技はネメアの人々によって始められたもので,殺した獅子を持ち帰ったヘラクレスの勝利を祝うために導入されたものであった」という伝説が残っているようである.

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文献

アドルノ『音楽社会学序説』覚書(1)

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はじめに

 このシリーズではアドルノ『音楽社会学序説』(平凡社ライブラリー)を読みます。音楽思想史の一環として。

音楽社会学序説』

 そもそも『音楽社会学序説』(Einleitung in die Musiksoziologie)というタイトルはどういう意味なのでしょうか。「音楽」だけでもよく分からないのに、それに「社会学」が付いている。「社会学」とは「社会」についての「学」ですね。それが「音楽」とどう関わるのでしょうか。

 タイトルの中にある「序説」の原語は Einleitung です。このドイツ語は「導入、入門」という意味があります。若きマルクスの書いたものに『ヘーゲル法哲学批判序説』(Zur Kritik der Hegel'schen Rechts-philosophie. Einleitung.)というタイトルのものがあります。これは『独仏年報』(マルクス&ルーゲ編、第一・二合併号、パリ、1844年)に収められているのですが、この場合は「序説」で問題ないです。なぜかというと、マルクスは続きとして「本論」を構想していたわけで、その草稿(クロイツナハ・ノート)も残っているわけなんですが、『独仏年報』は初刊だけで終わってしまったので「ヘーゲル法哲学批判」の「本論」は公刊されなかったわけなんです。

 しかし、アドルノの場合はこの「序説」の後に「本論」があるというわけではないと思うんですよね。むしろ『音楽社会学への入門(手引き)』みたいな感じじゃないかと思うんですが、どうして「序説」になったのでしょうか。僕が知らないだけで、別に「本論」があるのかもしれません。しかし Einleitung の後ろの in が四格の die をとっているので、これは「〜の方向を目指して」というニュアンスを持っているはずなので、やはり Einleitung は「序説」よりも「入門」の方が適当でしょうね。

 そもそもこの本はアドルノの講演を元にしていて、いつもの堅苦しい文体(失礼)ではなく少しライトな仕上がりになっているという意味で「入門」としたのかもしれません。実際アドルノは本書「まえがき」の中で、この点について次のように述べています。

本書の講演的性格は絶対に手を触れずにおこうと著者は考えた。本書では、実際の発言内容に修正を加え、または補充した箇所はほんのわずかである。自由な講演で許される程度の逸脱、さらには思考の飛躍はそのまま残された。自律的な文章と、聴衆を相手にした談話とが両立しないものであることがわかっている人は、両者の差異を糊塗したり、談話の言葉をむやみと適正な表現に直したりしようとはすまい。差異があからさまに現れる方が、誤った期待を減少させるものである。この点で本書はわたしの所属している「社会研究所」の『社会学余論』叢書に類似している。標題の「入門 = 序説アインライトゥング」の語は、単にこの専門領域へのそれだけでなく、『余論』も従っているような社会学的思考へのそれをも意味すると解してよかろう。

(Adorno 2003, S.174. 訳10〜11頁、強調引用者)

このようにタイトルの「入門」は、きわめてフランクフルト学派的な意味での「社会学的思考への入門」でもあるわけです。だとすれば、われわれはこの著作のうちに「音楽社会学」という専門分野を学ぶよりもむしろアドルノ的な思考様式を学ぶ方が理にかなっているといえるかもしれません。

(つづく)

文献

ヴェイパーウェイブからシティポップへ——〈ノスタルジア〉としての音楽

 最近、杏里「SHYNESS BOY」という曲が特に気に入っていて、スマートスピーカーGoogle Home mini)からこの曲が流れると思わず体が反応することがわかる。この曲が収録されているアルバム『Timely!!』がリリースされた1983年といえば私が生まれるおよそ6年前であり(私が1989年生まれのため)、普段であればそんな古い曲を聴くことはない。聴くとしたら90s以降の曲である。

 音楽はYouTube MusicをGoogle Home miniと連携して流している。YouTube Musicのいいところは、そのアルゴリズムによって最初に自分が選曲して流した音楽と関連がありそうな曲を自動で連続再生してくれる点にある。杏里「SHYNESS BOY」も、その関連がありそうな曲の一つとして再生されるまでは知らなかった。

 どうしてYouTube Musicがこの曲を流したかというと、木澤 佐登志「ミレニアル世代を魅了する奇妙な音楽「ヴェイパーウェイブ」とは何か」『現代ビジネス』(2019.02.07)という記事を読んで、そこで紹介されていたNight Tempoがリミックスした竹内まりあ「Plastic Love」に興味を持ち、YouTube Musicでこの曲を流していたことに端を発する。木澤さんは「ヴェイパーウェイブ」とオルタナ右翼との親和性について言及しており、筆者としては今取り組んでいる音楽思想史をまとめるにあたって、この潮流は無視できないものと思われた。

ヴェイパーウェイブは、その蒸気(vapor)の魔力によって80年代〜90年代生まれのミレニアル世代を惹きつけ、ついには一部のオルタナ右翼をも魅了するに至る。もはや輝かしい将来を想像すらできず、未来を「喪失」としか捉えることができない人々に向けて、心地いいノスタルジアの癒しを提供している、とも考えられる。

…(中略)…

一言でいえば、80~90年代の商業BGMを実験音楽の手法で再構築したのがヴェイパーウェイヴといえよう。

木澤 佐登志「ミレニアル世代を魅了する奇妙な音楽「ヴェイパーウェイブ」とは何か」『現代ビジネス』(2019.02.07)

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 この「ヴェイパーウェイブ」が70sから80sの音楽の再生(ルネサンス)に一役買っている。それがシティポップと呼ばれる潮流である。

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