まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

アドルノ『音楽社会学序説』覚書(1)

目次

はじめに

 このシリーズではアドルノ『音楽社会学序説』(平凡社ライブラリー)を読みます。音楽思想史の一環として。

音楽社会学序説』

 そもそも『音楽社会学序説』(Einleitung in die Musiksoziologie)というタイトルはどういう意味なのでしょうか。「音楽」だけでもよく分からないのに、それに「社会学」が付いている。「社会学」とは「社会」についての「学」ですね。それが「音楽」とどう関わるのでしょうか。

 タイトルの中にある「序説」の原語は Einleitung です。このドイツ語は「導入、入門」という意味があります。若きマルクスの書いたものに『ヘーゲル法哲学批判序説』(Zur Kritik der Hegel'schen Rechts-philosophie. Einleitung.)というタイトルのものがあります。これは『独仏年報』(マルクス&ルーゲ編、第一・二合併号、パリ、1844年)に収められているのですが、この場合は「序説」で問題ないです。なぜかというと、マルクスは続きとして「本論」を構想していたわけで、その草稿(クロイツナハ・ノート)も残っているわけなんですが、『独仏年報』は初刊だけで終わってしまったので「ヘーゲル法哲学批判」の「本論」は公刊されなかったわけなんです。

 しかし、アドルノの場合はこの「序説」の後に「本論」があるというわけではないと思うんですよね。むしろ『音楽社会学への入門(手引き)』みたいな感じじゃないかと思うんですが、どうして「序説」になったのでしょうか。僕が知らないだけで、別に「本論」があるのかもしれません。しかし Einleitung の後ろの in が四格の die をとっているので、これは「〜の方向を目指して」というニュアンスを持っているはずなので、やはり Einleitung は「序説」よりも「入門」の方が適当でしょうね。

 そもそもこの本はアドルノの講演を元にしていて、いつもの堅苦しい文体(失礼)ではなく少しライトな仕上がりになっているという意味で「入門」としたのかもしれません。実際アドルノは本書「まえがき」の中で、この点について次のように述べています。

本書の講演的性格は絶対に手を触れずにおこうと著者は考えた。本書では、実際の発言内容に修正を加え、または補充した箇所はほんのわずかである。自由な講演で許される程度の逸脱、さらには思考の飛躍はそのまま残された。自律的な文章と、聴衆を相手にした談話とが両立しないものであることがわかっている人は、両者の差異を糊塗したり、談話の言葉をむやみと適正な表現に直したりしようとはすまい。差異があからさまに現れる方が、誤った期待を減少させるものである。この点で本書はわたしの所属している「社会研究所」の『社会学余論』叢書に類似している。標題の「入門 = 序説アインライトゥング」の語は、単にこの専門領域へのそれだけでなく、『余論』も従っているような社会学的思考へのそれをも意味すると解してよかろう。

(Adorno 2003, S.174. 訳10〜11頁、強調引用者)

このようにタイトルの「入門」は、きわめてフランクフルト学派的な意味での「社会学的思考への入門」でもあるわけです。だとすれば、われわれはこの著作のうちに「音楽社会学」という専門分野を学ぶよりもむしろアドルノ的な思考様式を学ぶ方が理にかなっているといえるかもしれません。

(つづく)

文献