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アリストテレス『政治学』覚書(2)

目次

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アリストテレス政治学』(承前)

共同体の人数規模に応じて共同体の性質は異なる

したがって、共同体(共同関係)ならばみな同じはずだと考え、[市民による]国家の支配でも、王国の支配でも、家の中の支配でも、主人の奴隷に対する支配でも、支配者というものは変わらないと思って主張を展開する人々は適切さを欠いている。なぜなら、そうした人々は、それぞれの共同体の違いが被支配者の多寡にあると考え、質的に種類の異なる共同体だとはとらえないからである。すなわち、被支配者が少なければ主人の奴隷に対する専制的支配となり、やや多くなれば家の中の支配、もっと多くなれば国家か王国の支配になるというように考え、大きな家と小さな国家に違いはないととらえているのである。さらに、国家と王国の違いをとらえるときにも、支配者が自分ひとりで権力の座に就けば王国になり、権力者に必要な知識の諸箇条に基づきながら支配者と被支配者が交代で権力の座に就けば国家になるというように、支配者の数の違いに帰しているのであるが、いずれも真実ではない。

(Aristoteles1540: 1-2; 三浦訳(上)22〜23頁)

ここでアリストテレスは重要な指摘をしている。共同体はその規模に応じて、単純にその構成員の数に還元され得ない、質的に異なった支配形態を伴うというのである。

 アリストテレスのこの指摘は、組織論上の問題提起を含んでいる。というのも、実際、会社の発展段階に伴って、いわゆるダンバー数を超えたところで企業統治の仕方が大きく異なってくることがわかっている。例えば、会社を起業したばかりのアーリーステージでは、従業員数が少ないので力技で組織をまとめることができるが、ある程度の従業員数を超えて上場を経たりすると、そこで働く従業員の数も質も力技でどうにかなるものではなく、会社のルールに沿って適切にマネジメントしていく必要がある。

 したがって、「国家とは大きな家族である」というナイーブな主張*1は、アリストテレスからすれば、共同体の違いについての根本的な無理解に基づいているものと考えられる。

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文献

*1:このようなナイーブな主張は、ルソー『社会契約論』(Rousseau, Du contract social, 1762)に見られる。ルソーは「家族はいわば政治社会の最初のモデルである」と述べ、国家における支配形態を家族のイメージを用いて説明した。この点について詳しくは拙稿「ルソー『社会契約論』覚書(7)」を参照されたい。