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ルソー『社会契約論』覚書(7)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ルソー『社会契約論』(承前)

第一編第二章 最初の社会について(承前)

家族とのアナロジーにおける政治社会

 だから,家族はいわば,政治社会の最初のモデルである.支配者は父に似ており,人民は子どもに似ている.そして,両者ともに平等で自由に生まれたのだから,自分に役立つのでなければ,その自由を譲りわたさない.ただ異なるのは,家族においては,父親の子どもにたいする世話をつぐなうものは子どもたちにたいする愛だが,国家においては,支配者は人民にたいして,この愛を持たないのだから,支配する喜びがこれに代る,という点である.

(Rousseau1762: 6,訳16頁)

«le chef est l'image du pere, le peuple est 'image.»という部分を直訳すると「〔政治社会つまり国家の〕長は父のイメージであり,人民は子どものイメージである」となる.ここで政治社会は,家族における父と子の関係性を模したもの(モデル)として把握されており,その限りでルソーは,政治社会をいわば家族とのアナロジーにおいて語るのである.だがここでルソーのいう「家族」に〈母のイメージ〉が欠落している点は,この「家族」像が,家父長制としてのそれに過ぎないことを示唆している.

 ここで«chef»は「支配者」と訳されているが,はたして«chef»は「支配者」という訳語で良いだろうか.父と子の関係性は,「両者ともに平等で自由に生まれたのだから,自分に役立つのでなければ,その自由を譲りわたさない」かぎりにおいて成立しているのだから,自由を譲渡していない子どもたちは単純に支配されているわけではないし,父親も子どもたちを恣に支配しているわけではない.組織や社会には様々なあり方が考えられるのであって,軍隊式に上からのトップダウンで成立している場合もあれば,スタンドアローンコンプレックスに下からのボトムアップで成立している組織もある.つまり«chef»が支配せずにその組織集団が自ら進んでその人に自分の意志で服従するというあり方も考えられるのではないだろうか.そう考えると«chef»を「支配者」と訳すのはいささか組織の長に対してステレオタイプな表象が反映されているとも考えられるのではないか.

 同時にルソーは政治社会と家族との相違について語ることも忘れない.「ただ異なるのは,家族においては,父親の子どもにたいする世話をつぐなうものは子どもたちにたいする愛だが,国家においては,支配者は人民にたいして,この愛を持たないのだから,支配する喜びがこれに代る,という点である」.ここで「支配する喜び」と訳されているのは«plaisir de commander»であり,文字通りには「命令・指揮・統率する喜び」のことである.訳者は«chef»と«commander»を結びつけたことによって,これらを「支配者」・「支配する」と訳すのだが,そのように訳すと,子どもにたいする愛をもつ家長も「支配者 chef」だということになってしまう.だが,「支配」という概念は,このパラグラフには登場していない.『いや,「命令・指揮・統率する commander」側が支配者に決まっている』と思うのであれば,SMプレイを想起されたい.Sが支配しているのか,むしろSのSとしての振る舞いを誘発するようなMとしての振る舞いの方が実質的に支配していることはないのか.だとすれば,Sが「命令・指揮・統率する」というのはただちにSが支配者たることを意味しない.「長 chef」がコマンドを出すのは「長」としての役割に応じた振る舞いをしているに過ぎず,その振る舞いだけでは,実質的な「支配」がどこにあるのかは定かではないのである.むしろそうすることの「喜び・悦び plaisir」によってその者自身が支配されているとも考えられるのである.

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