まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

読書前ノート(18)藤原辰史『植物考』

藤原辰史『植物考』(生きのびるブックス、2022年)

「植物性」とは何か

 先日仕事でトラックを待っていたら、予定の時刻になってもトラックが到着せず、ドライバーから遅延の連絡もなかったので、ただひたすらボーッと景色を眺めていた。その際に、一つの植物が目に入ってきた。そういえば植物はわれわれ動物のように移動することができない。これは大変なことだ、とふと考えた。われわれ動物は自力で移動が可能だが、植物は誰かに根っこごと移植してもらうか、種子として飛ばされて別の地面に根をはやすことで世代間の移動を行うことはできる。しかしその移動範囲はある一定の時間の中では極めて制限されているし、ほとんど場所を移動できないに等しい。

 移動できないことにはメリットとデメリットがあるはずだ。動物は自力で移動できるが、食料を自ら調達しなければならない。一方で、植物は栄養を土から吸収することができる。だが肥沃な土壌もあればそうでない場所もある。植物にとってその土壌が良いかどうかはある程度運命に委ねられているといえる。

 植物の生き方は、仕事をしているわれわれにとって手本にすべきかもしれない。というのも、仕事で配属された部署はそうやすやすと異動できるはずもなく、ある一定の時間内ではそこで頑張って働くしかない。成長している産業なら出世も早いかもしれないが、落ち目の部署であれば成果を出すことも難しいかもしれない。所与の環境でそこから逃れることも移動することもできず、孤独に沈黙して最大限に生きている植物に感動すら覚えた。ところで、植物もまた「孤独」を感じることができるのだろうか?

 昨今では動物の権利が叫ばれているが、植物にも動物同様に知性があり権利を持っていると主張する向きもある。それについて詳しく展開することはここでの趣旨ではない。少なくともレトリックとして擬人化しているわけではなく、極めて真面目にそのままの意味で、ある植物が思考し、感情を持ち、他の植物とコミュニケーションを取っているのか、と問うことは可能である。われわれが植物の思考や感情やコミュニケーションの仕方に関わることが難しいのは、人間と植物との間には類としての大きな隔たりがあるからである。「相互に共通点を持たないものはまた相互に他から認識されることができない。あるいは一方の概念は他方の概念を含まない。」(スピノザ『エチカ』公理5)。しかしながら、われわれが認識できないからといって、人間の認識の限界の先にあるものもまた少なからず存在する、と考える方が合理的である。植物について考えめぐらすことは、人間の認識の限界へ挑戦することでもある。