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フーコー『言葉と物』覚書(1)

目次

はじめに

 本稿ではミシェル・フーコー『言葉と物』(渡辺一民・佐々木明訳、新潮社)を読む。

 フーコーの『言葉と物:人文科学の考古学』(Les Mots et les Choses, Une archéologie des sciences humaines)は1966年に出版された。この本が出版された当時、この著作は一体どのように受け止められたのだろうか。なぜフーコーはこのようなタイトルを付けたのだろうか。「言葉 les Mots」と「物 les Choses」が複数形になっているのには、一体どういう意味があるのだろうか。なぜフーコーは「考古学」という手法を人文科学に応用する必要があったのだろうか。

フーコー『言葉と物』

フーコーの「笑い」

     Ce livre a son lieu de naissance dans un texte de Borges. Dans le rire qui secoue à sa lecture toutes les familiarités de la pensée

 この書物の出生地はボルヘスのあるテクストのなかにある。それを読みすすみながら催した笑い、思考におなじみなあらゆる事柄を揺さぶらずにはおかぬ、あの笑いのなかにだ。

(Foucault1966: 7,渡辺・佐々木訳11頁)

フーコーは本著の冒頭でボルヘス(Jorge Luis Borges, 1899–1986)のテクストを取り上げる。一体なぜボルヘスなのか?その理由は、ボルヘスのテクストには「思考におなじみなあらゆる事柄を揺さぶらずにはおかぬ、あの笑い」があり、それが本書を誕生させたからである、とフーコーはいう。どういう点が「笑い」を引き起こしているのだろうか。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1951年)
「我々」の思考を揺るがす「他なる思考」

……——de la nôtre : de celle qui a notre dge et notre géographie ébranlant toutes les surfaces ordonnées et tous les plans qui assagissent pour nous le foisonnement des êtres, faisant vaciller et inquiétant pour longtemps notre pratique millénaire du Même et de l'Autre. 

……いま思考と言ったが、それはわれわれの時代とわれわれの地理の刻印をおされたわれわれの思考のことであって、その笑いは、秩序づけられたすべての表層と、諸存在の繁茂をわれわれのために手加減してくれるすべての見取図とをぐらつかせ、〈同一者〉と〈他者〉についてのわれわれの千年来の慣行をつきくずし、しばし困惑をもたらすものである.

(Foucault1966: 7,渡辺・佐々木訳11頁,訳は改めた)

ここでフーコーは「思考 pensée」を「われわれの時代とわれわれの地理の刻印をおされたわれわれの思考」とより詳細に言い直している。ここで理解の鍵となる概念は「われわれ la nôtre」である。

Ce texte cite « une certaine encyclopédie chinoise » où il est écrit que « les animaux se divisent en : a) appartenant à l'Empereur, b) embaumés, c) apprivoisés, d) cochons de lait, e) sirènes, f) fabuleux, g) chiens en liberté, h) inclus dans la présente classification, i) qui s'agitent comme des fous, j) innombrables, k) dessinés avec un pinceau très fin en poils de chameau, 1) et caetera, m) qui viennent de casser la cruche, n) qui de loin semblent des mouches ».

ところで、そのテクストは、「シナのある百科事典」を引用しており、そこにはこう書かれている。「動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳吞み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k)駱駝の毛のごく細の毛筆で描かれたもの、(n)とおくから蠅のように見えるもの。」

(Foucault1966: 7,渡辺・佐々木訳11頁)

ボルヘスが「ウィルキンズの分析言語」(所収『ボルヘス・エッセイ集』平凡社ライブラリー、2013年)の中で『中国の百科事典』から引用した箇所をフーコーはここで孫引きしている。ここで引用されている区分の中身を考察してみよう。

  • (a)「皇帝に属するもの」は「所属」による区分ではあるものの、同時に、「皇帝」が主権的地位に位置する点にも注意しなければならない。つまりこれは動物といえども国内最上位クラスに属するということであり、杜撰な管理は絶対的に許容され得ないようなものである。
  • (b)「香の匂いを放つもの」とは「嗅覚」による区別、人間の感官による判断基準である。
  • (c)「飼いならされたもの」とは、主人に対して従属の関係にある。
  • (d)「乳吞み豚」とは、動物の赤ん坊、世話が必要な存在である。
  • (e)「人魚」とは、実在のものではない、ギリシア神話のセイレーン(Σειρήν)であり、架空の概念、フィクションである。
  • (f)「お話に出てくるもの」は、これも(e)と同じく実在のものではなく、御伽話の架空の概念、フィクションである。
  • (g)「放し飼いの犬」は、飼われているが放置されているという点では、世話を焼く必要がある(c)と対照をなしている。
  • (h)「この分類自体に含まれているもの」とはメタな区別の概念である。
  • (i)「気違いのように騒ぐもの」とは、動物の雄叫びや鳴き声による区別である。
  • (j)「算えきれぬもの」とは、数多く存在するという点では計数を基準とした概念である。
  • (k)「駱駝の毛のごく細の毛筆で描かれたもの」とはイメージされ描画されたものである。
  • (n)「とおくから蠅のように見えるもの」とは、いわば視覚による区別であり、また遠近感覚という人間の感官を判断基準としている。

Dans l'émerveillement de cette taxinomie, ce qu'on rejoint d'un bond, ce qui, à la faveur de l'apologue, nous est indiqué comme le charme exotique d'une autre pensée, c'est la limite de la nôtre l'impossibilité nue de penser cela.

この分類法に驚嘆しながら、ただちに思いおこされるのは,つまり,この寓話により、まったく異った思考のエクゾチックな魅力としてわれわれに指ししめされるのは、われわれの思考の限界、《こうしたこと》を思考するにあたっての、まぎれもない不可能性にほかならない。

(Foucault1966: 7,渡辺・佐々木訳11頁)

ここで言及されている「われわれ la nôtre」とは、東洋に於ける中国とは対極に位置する、西洋に於ける「われわれ」である。『中国の百科事典』がどうして「思考」をぐらつかせるのかというと、『中国の百科事典』にみられる分類法が西洋の分類法とはかなり異なっていて、西洋に於いては合理的には到底理解し難いからである。西洋に於いてはいうなれば『如何に合理的に分類するか』が啓蒙の課題であった。そもそも『百科事典』のアルファベット式系列は、それによって手早く検索することが可能であるという(それ自体西洋的である)合理主義的発想に基づいている。しかしながら、上で引用された『中国の百科事典』には、その合理主義的発想が一つも見当たらない。だがそのさいの合理主義とは一体何に基づいているのだろうか。結局のところ、その合理的分類もまた「われわれの時代とわれわれの地理の刻印をおされたわれわれの思考」に規定されたものに過ぎないのではないか。だからこそフーコーはここで「笑い rire」を催さずにはいられないというのである*1

(つづく)

文献

*1:百科事典の思想については拙稿2018「検索と参照──L'Encyclopédie・Cyclopædia・Wikipedia」を参照されたい。