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ルソー『言語起源論』覚書(3)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

 

第七章 近代の韻律法について

 この章では主に「アクサン」に対する先入観が批判されている。

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われわれには、声〔母音〕によってと同様におんによって話す、響きがあって諧調に富んだ言語という観念がまったくない。アクサン記号によって抑揚アクサンの代補としようとするのは間違いだ。抑揚アクサンが失われて初めてアクサン記号が発明されるのだ。それだけではない。われわれはわれわれの言語に抑揚アクサンがあると思っているが、まったくないのだ。われわれの言うところのアクサンは母音か長さの記号にすぎない。それらはいかなるおんの違いも示さない。その証拠は、そのアクサンがすべて、異なる音長か、声〔母音〕の多様性を作り出す唇、舌、口蓋の変形によって表され、おんの多様性を作り出す声門の変形によって表されるのは一つもない、ということだ。たとえばアクサン・シルコンフレックスは単なる声〔母音〕ではない時、それは長母音であるか、何ものでもないかのいずれかだ。

(Rousseau1781: 378, 訳47頁)

「われわれはわれわれの言語に抑揚があると思っているが、まったくないのだ」とルソーは述べている。ここでルソーはある種の逆説を主張しているように見える。ルソーにとって「アクサン」とは一体何なのだろうか。それはアクサン記号エクリチュール)として表記されているようなものではない。むしろ「音の多様性 la diversaté des sons 」を表現するパロールにおけるものである。

 ちなみにフランス語のアクサンは発音区別符号ダイアクリティカルマークであり、accent aigu(アクサン・テギュ)、accent grave(アクサン・グラーヴ)、accent circonflexe(アクサン・シルコンフレクス)がある。

 アクサン・テギュとは、それを発音するか否かを記号的に区別するために、/e/ を é と表記することである。

 アクサン・シルコンフレックスとは、発音区別符号ダイアクリティカルマークの一種で、【â・Â・ê・Ê・î・Î・ô・Ô・û・Û】のように、5つの母音である a / e / i / o / u の上に付される「山」形の記号【ˆ】のことである。シルコンフレックス【ˆ】が a / i / o / u の上につく場合には発音はまったく変わらないが、それが e の上につく場合には é [ɛ] と発音が同じになる。

 もともとはシルコンフレックス母音の後ろに s があった場合や二重母音であったとされる。例えば、後ろに s が付いていた場合は、

  • mesme → même (du latin populaire : meïsme),
  • bastir → bâtir (mais bastide, par l'occitan) ;
  • Benoist → Benoît ;
  • beste → bête ;
  • conqueste → conquête ;
  • coste → côte ;
  • creistre → croître ;
  • forest → forêt ;
  • isle → île ;
  • ostel → hôtel ;
  • pasle → pâle,
  • Pasques → Pâques,
  • Pentecoste → Pentecôte, etc.

Accent circonflexe en français — Wikipédia

である。そして二重母音の場合だと、

  • aage → âge ;
  • baailler → bâiller ;
  • piquure → piqûre ;
  • saoul → soûl (les deux orthographes étant admises) ;

(同前)

そしてまた、

  • deu → dû (de devoir) ;
  • meu → mû (de mouvoir) ;
  • creu → crû (de croître) ;
  • seur → sûr ;
  • cruement → crûment ;
  • meur → mûr.

(同前)

などが挙げられる。

 かつての非文字社会の言語には「抑揚」があったが、文字表記と文法を備えた近代語にはそれが消え、「冷たく単調」になっている、とルソーはいう。

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以上のことから以下の原理が確認される。自然な進歩によって、文字表記される諸言語は性格が変化し、明晰さを獲得する一方で力を失うということ、文法と論理を完全にしようと執着すればするほどこの進歩を加速させるということ、早くある言語を冷たく単調なものにするには、それを話す国民のうちにアカデミーを創設しさえすればいい、ということである。

(Rousseau1781: 382, 訳50頁)

 

第八章 諸言語の起源における一般的および地域的差異

 第八章が前後を分ける一つの区切りとなっている。言語の起源をめぐる一般的な考察が前章まで述べられ、地域的な差異については次章以下で述べられる。

 この章で注目すべきは、ルソーにおけるオリエンタリズム認識である。

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ヨーロッパ人の重大な欠点は、いつも自分たちのまわりで起きることをもとにして物事の起源について哲学することだ。彼らは必ず、原初の人間が不毛で荒れた土地に住み、寒さと飢えで死にそうになり、常に住居や衣服を手に入れることに熱心であったというふうに示す。ヨーロッパ人はどこでも、ヨーロッパの雪や氷ばかり見いだしてしまい、人類やほかの種が暑い国々で生まれ、地球の三分の二では冬がほとんど知られていないことを考えもしない。人々を研究するには自分の近くを見なければならない。しかし人間を研究するには自分の視線を遠くにやらなければならない。特徴を発見するにはまず差異を観察しなければならない。

(Rousseau1781: 384, 訳56〜57頁、強調引用者)

ルソーにとって「人間」とは、ヨーロッパ人の観察だけで得られるものではなく、ヨーロッパ以外の地域の人々をも観察することによって得られるものであった。

 ルソーが認識していた、ヨーロッパ人が周辺地域の人々を観察する際に持っていた西欧中心主義的なまなざしは、後にサイード言語化に成功したいわゆる「オリエンタリズム」の先駆だと言えるかもしれない。

 

第九章 南方の諸言語の形成

 第九章では、ルソーにとって人類史が描かれる。

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それ故、歴史で言及される最初の諸国民が肥沃な国々か暮らしやすい岸辺に住んでいなかったのは、そのような恵まれた風土が荒野だったわけではなく、その数多い住民たちが互いに相手を必要とせず、自分の家族の中に孤立して意思の疎通もない状態でより長く暮らしていたのだ。しかし井戸によってのみ水が得られる乾燥した場所では、それを掘るために集まらなければならなかった、あるいは少なくともその使い方のために合意しなければならなかった。それが暑い国々での社会と諸言語の起源だったに違いない。

(Rousseau1781: 400, 訳75頁、強調引用者)

この章を言語の起源というテーマだけに焦点を絞って読むと、次のように要約できる。人間の最初の共同体は家族であったが、家族内では「身振りや分節されていないいくつかの音」(家族内言語)でコミュニケーションをとっていた*1が、「国民的言語」*2は必要なかった。家族から出て社会的な決め事*3を行うために言語が必要となったので、そこに(単なる身振りや分節されていない言語にとどまらない)「国民的言語」の起源があるとルソーは考えた。

 共同体間での合意によって生まれたのは、貨幣*4のみならず、言語もまたそうであったのである。

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文献

*1:「原初の時代において、地上に散らばっていた人間には、家族以外に社会はなく、自然の法以外に法はなく、身振りや分節されていないいくつかの音以外に言語はなかった。」(訳58頁)。

*2:「何だって! その時代以前、人々は大地から生まれていたのだろうか。両性が結ばれることなく、誰も理解し合わないのに世代が相次いでいたのだろうか。いや、家族はあったが、国民はなかったのだ。家族内の言語はあったが、国民的な言語はなかった。」(訳76頁)。

*3:「真の言語は決して家族を起源としていない。言語を確立することができるのはより一般的で持続的な協約しかない。」(訳78頁、強調引用者)。

*4:「だが、貨幣は需要の代わりに申し合わせに基づいて生まれたのである。それゆえ、それはノミスマ nomisma という呼称を有している。それは自然の本性に基づくのではなくて人為的であり、これを変更したり、無効なものにするのはわれわれの自由なのである」(アリストテレス1971)。