まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

清少納言『枕草子』覚書(2)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

清少納言枕草子

第一段

春夏秋冬と陽の光

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0094/bunko30_e0094_0001/bunko30_e0094_0001_p0006.jpg

北村1674(早稲田大学図書館古典籍総合データベース:文庫30_e0094_0001_p0006

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0094/bunko30_e0094_0001/bunko30_e0094_0001_p0007.jpg

北村1674(早稲田大学図書館古典籍総合データベース:文庫30_e0094_0001_p0007

 

 春は、曙。漸う白く成り行く。山際、少し明かりて、紫立ちたる雲の、細く棚引きたる。

 夏は、夜。月の頃は、更なり。闇も猶、蛍、飛び違ひたる。雨などの降るさへ、をかし。

 秋は、夕暮。夕陽、華やかに差して、山際、いと近く成りたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ、四つ、二つなど、飛び行くさへ、哀れなり。増いて、雁などの列ねたるが、いと小さく見ゆる、いと、をかし。陽、入り果てて、風の音・虫の音など、いと哀れなり。

 冬は、雪の降りたるは、言うべきに有らず。霜などの、いと白く、又、然らでも、いと寒き。火など、急ぎ熾して、炭、持て渡るも、いと、付付し。昼に成りて、温く、緩び持て行けば、炭櫃、火桶の火も、白き灰勝ちに成りぬるは、悪ろし。

(島内2019:19)

第一段では、清少納言から見た春夏秋冬の、すなわち四季の特徴が表現されている。清少納言が四季の特徴をそれぞれ挙げることができたのは、日本の気候により四季の移り行きがそれだけはっきりしているからである。これがもし北極圏や南極圏、もしくは赤道直下の熱帯地域だったりすると、一年中寒かったり暑かったりして気温の変化が少ないので、四季を特徴的に表現することが難しいであろう。

 清少納言が四季を表現する際に注目した対象は、〈人間〉の振る舞いではなく、〈自然〉の移り行きであった。だが、その〈自然〉もまた、〈人間〉清少納言が観察し得る限りでの〈自然〉に他ならない。

 「春夏秋冬」という四字熟語がまさに表現しているように、四季はおよそ〈春→夏→秋→冬〉の順番で示される。四季の移り行きの端緒は、夏でも秋でも冬でもなく、春である。春夏秋冬は一年間の連続のサイクルを示しているが、本来はどの季節が最初というわけではない。だが、もし我々が「春」を四季の端緒とすることに違和感を覚えずに、それを恰も〈自然〉に読むとするならば、そこにはいかなる理由が考えられるであろうか。

 「春はあけぼの」を四季の端緒とするのは、それが人間に固有な時間に最も適合しているからではなかろうか。これがもし、蝉の時間やゾウの時間、ヒグマの時間やひまわりの時間など、それぞれの動植物に固有の時間があると仮定するならば、動植物によっては「冬」を四季の端緒とするものも一部にはあり得るかもしれない。

 人間に固有な時間の特徴として、人間とはおよそ夜行性ではないという点が挙げられる。陽の光は人間の活動にとって本来的に必要な存在であり、だからこそ陽の光は単に一年の端緒であるのみならず、人間の活動にとっては一日の端緒でもあるのだ。

 「東洋」のことを西欧の語源では“oriens”(ラテン語)というが、これはまさに陽が昇ることを指し示している。「春はあけぼの」の件は、勝義の〈オリエント〉、つまり陽の光とともにまさに一日が始まろうとしている、まさにその刻の美しさを表現している。

 ドイツの哲学者ヘーゲルは、〈東洋=オリエント〉を世界史の端緒に位置付けた。もしも人間が夜行性の動物であったとするならば、その場合にヘーゲルは「曙」すなわち〈東洋=オリエント〉ではなく、「夕暮れ」すなわち〈西洋=オクシデント〉を世界史の端緒としていたかもしれない。

 「ミネルヴァの梟は夕暮れの訪れとともにようやく飛びはじめる」(『法の哲学』序言)というヘーゲルの有名な言葉に関説していうと、「梟」とは、夜行性の(つまり〈西洋=オクシデント〉の)メタファーである。ヘーゲルにとって、哲学者とはいわば夜行性の動物である。その限りで、朝型の〈東洋=オリエント〉においては、哲学者はそもそも存在しない。ヘーゲルの次の一文も、哲学者の夜行性を示唆するものである。「哲学がもたらすものは、毎日はじめからやり直されるペーネロペーの織物にも似て、一晩の徹夜ですべてをなし遂げる仕事のように考えられているからである。」(『法の哲学』序言)。

sakiya1989.hatenablog.com

文献