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清少納言『枕草子』覚書(3)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

清少納言枕草子

第二段

月からみた一年

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0094/bunko30_e0094_0001/bunko30_e0094_0001_p0007.jpg

北村1674(早稲田大学図書館古典籍総合データベース:文庫30_e0094_0001_p0007

 

 頃は、正月。三月。四・五月。七月。八・九月。十二月。全て、折に付けつつ、一年ながら、をかし。

(島内2019:19)

第一段では、春夏秋冬という四季の観点から一年が考察されていた。これに対して、第二段では、月の観点から一年が考察されている。四季は一年を四つに分類するが、月は一年を十二に分類する。したがって、月に着目することによって、一年の変化を四季よりもさらに細かく分節化することができるのである。ただし、ここでは、月ごとの具体的な特徴については一切言及されていない。

 いずれの月もなんらかの節目を示していると思われるが、その特徴を現代の我々の感覚から単純に推し量る際には注意が必要である。というのも、清少納言が生きていた時代には、まだなかったであろう文化を我々は持っているからである。分かりやすい例をひとつ挙げるならば、「十二月」といえば現代人はクリスマスを想起するが、少なくとも清少納言が生きていた時代にイエス・キリストの生誕を祝うクリスマスという文化はいまだ導入されていなかった。クリスマスは外国由来として分かりやすいからまだ判断しやすい方であるが、しかし、これと同様に、清少納言が生きていた時代には無かった文化が、一部は江戸時代以降から始まったものだとか徐々に細かく見ていくと案外見極めが難しいものもあるかもしれない。

 

 「正月」とは要するに一月のことを指している。「正月」と呼ばれるゆえんは、「正」式に一年がはじまる最初の月だからである。ちなみに、「正月」といえば正月三が日であるが、ここではもしかするとさらに広い期間を想定しているかもしれない。

 ここで清少納言は、二月・六月・十一月に言及していない。確かにこれらの月は気候の変化が前後の月と比べると著しいものがなく、印象に欠けるかもしれない。

(つづく)

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