まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

〔翻訳〕デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(8)

目次

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デステュット・ド・トラシー『観念学要論』第二版(承前)

第一部 固有の意味での観念学(承前)

イントロダクション(承前)

 第一に、我々の知的な力が我々の身体的な力と同様に我々の器官の発達に伴って増大し増加する*1ことに疑いの余地はない。そのため数年後に君たちは、より重い荷物を運び支えることができるようになるのと同様に、確実に今日よりも強くより長く注目されるようになるであろう。

(Tracy1804: 5-6)

特に取り上げるような内容はない。知性と身体能力はどちらも成長するということ。

(つづく)

文献

*1:初版「成長する grandissent 」(Tracy1801: 20)。

〔翻訳〕デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(7)

目次

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デステュット・ド・トラシー『観念学要論』第二版(承前)

第一部 固有の意味での観念学(承前)

イントロダクション(承前)

 多くの人たちが君たちの年齢では私が君たちに従事してもらいたい研究はできないと信じている。これは間違いであり、そのことを証明するためには、私が君たちに自分の個人的な経験を引き合いに出して、君たちの誰よりも幼くて知性に目を見張るものがない子どもたちに私が話そうとしている諸観念のすべてをしばしば示したことを、そして子どもたちが容易に喜びをもってそれらの観念を捉えたことを話せば事足りる。だが、私はもう少し君たちに説明をしなければならない。その説明は後で無益にはならないだろう。

(Tracy1804: 5)

ある一定の年齢、つまり大人になってしまうと〈観念学〉のような科学は研究できなくなってしまうというように人々は思い込んでいる。トラシーの個人的経験からすれば、大人ではなく子どもはそれを易々とやってのけてしまうという。

 ここから先は余談だが、子どもというのは実に不思議な存在である。まだ様々な観念にさらされていない子どものような若い精神でないと入っていけない領域がある。心霊現象やオカルトを取り扱った番組を見ることは今の私には無理だが、小学生の頃はその世界を信じて真剣に見てしまうだろう。子どもがまだ小さいからといって何でも能力が貧しいと考えるのはおそらく間違いであり、むしろ大人になればなるほど劣ってしまう能力もあるように思われる。もちろんトラシーがこのように考えているわけではなさそうなのだが。

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文献

〔翻訳〕デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(6)

目次

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デステュット・ド・トラシー『観念学要論』第二版(承前)

第一部 固有の意味での観念学(承前)

イントロダクション(承前)

(原注1)この科学は、その主題にしか注意が払われなければ《観念学イデオロジー》と呼ばれ、その方法しか考慮されなければ《一般文法学グラメール・ジェネロー》と呼ばれ、その目的しか考察されなければ《論理学ロジック》と呼ばれうる。この科学に与えられた名前がいかなるものであれ、その科学は必然的にこれら三つの部門を含んでいる。というのは、他の二つを取り扱わずに一つを適切に論じることはできないからである。《観念学》は私にとっては類的なジェネリック術語のように思われる。なぜなら諸観念の科学は諸観念の表現の科学と、諸観念の演繹の科学*1とを含んでいるからである。これは同時に第一部の種差的なスペスィフィック名称である。*2

(Tracy1804: 5)

ようやくトラシーが「観念学 Idéologie 」について述べている箇所にたどり着いた。

 まずトラシーは『観念学要論』を構成する三つの部門について、その意図するところを説明している。「観念学」と「一般文法学」と「論理学」は相互依存関係にあり、それぞれ独立して取り扱うことができないとされる。

 トラシーは「観念学」を「類的な術語」として捉えている。ここで「類的 générique 」とは、「種差的 spécifique 」ものを包摂する関係にある(アリストテレス「カテゴリー論」)。「観念学」という「類的な術語」が包摂しているものは、「諸観念の表現 expression の科学」と「諸観念の演繹 déduction の科学」の二つである。

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文献

*1:初版「諸観念の組み合わせ combinaison の科学」(Tracy1801: 20)。

*2:初版には最後の一文(「これは同時に第一部の種差的な名称である。」)がない(Tracy1801: 20)。最後の一文は第二版において「類的な」の意味を説明するために加筆されたと考えられる。

〔翻訳〕デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(5)

目次

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デステュット・ド・トラシー『観念学要論』第二版(承前)

第一部 固有の意味での観念学(承前)

イントロダクション(承前)

 我々がこれから話そうとしている科学には、様々な名称が与えられている。だが我々はもう少し進んで、君たちが主題についての明確な観念を得るならば、君たちはそれにどんな名称が与えられて然るべきなのかがたいへんはっきりとわかるだろう。それまでは、私が君たちに示唆するそれらの名称はすべて君たちに何も教えないか、あるいはここでは問題点とはならない事柄を君たちに指摘することによってひょっとすると君たちを迷わせるであろう。それゆえ研究し、そしてその上で私たちは自らの学んだことを何と呼ぶのかを見いだそう。

(Tracy1804: 5)

ある事柄に付けられる「名称 nom 」は何でも良いというわけではない。その概念に見合った、それにふさわしい「名称」があるはずである。トラシーは対象に検討を加えた上で、それに相応しい「名称」を付けようとする。これは適切な科学的態度であると思う。

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文献

フーコー『言葉と物』覚書(1)

目次

はじめに

 本稿ではミシェル・フーコー『言葉と物』(渡辺一民・佐々木明訳、新潮社)を読む。

 フーコーの『言葉と物:人文科学の考古学』(Les Mots et les Choses, Une archéologie des sciences humaines)は1966年に出版された。この本が出版された当時、この著作は一体どのように受け止められたのだろうか。なぜフーコーはこのようなタイトルを付けたのだろうか。「言葉 les Mots」と「物 les Choses」が複数形になっているのには、一体どういう意味があるのだろうか。なぜフーコーは「考古学」という手法を人文科学に応用する必要があったのだろうか。

フーコー『言葉と物』

フーコーの「笑い」

     Ce livre a son lieu de naissance dans un texte de Borges. Dans le rire qui secoue à sa lecture toutes les familiarités de la pensée

 この書物の出生地はボルヘスのあるテクストのなかにある。それを読みすすみながら催した笑い、思考におなじみなあらゆる事柄を揺さぶらずにはおかぬ、あの笑いのなかにだ。

(Foucault1966: 7,渡辺・佐々木訳11頁)

フーコーは本著の冒頭でボルヘス(Jorge Luis Borges, 1899–1986)のテクストを取り上げる。一体なぜボルヘスなのか?その理由は、ボルヘスのテクストには「思考におなじみなあらゆる事柄を揺さぶらずにはおかぬ、あの笑い」があり、それが本書を誕生させたからである、とフーコーはいう。どういう点が「笑い」を引き起こしているのだろうか。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1951年)
「我々」の思考を揺るがす「他なる思考」

……——de la nôtre : de celle qui a notre dge et notre géographie ébranlant toutes les surfaces ordonnées et tous les plans qui assagissent pour nous le foisonnement des êtres, faisant vaciller et inquiétant pour longtemps notre pratique millénaire du Même et de l'Autre. 

……いま思考と言ったが、それはわれわれの時代とわれわれの地理の刻印をおされたわれわれの思考のことであって、その笑いは、秩序づけられたすべての表層と、諸存在の繁茂をわれわれのために手加減してくれるすべての見取図とをぐらつかせ、〈同一者〉と〈他者〉についてのわれわれの千年来の慣行をつきくずし、しばし困惑をもたらすものである.

(Foucault1966: 7,渡辺・佐々木訳11頁,訳は改めた)

ここでフーコーは「思考 pensée」を「われわれの時代とわれわれの地理の刻印をおされたわれわれの思考」とより詳細に言い直している。ここで理解の鍵となる概念は「われわれ la nôtre」である。

Ce texte cite « une certaine encyclopédie chinoise » où il est écrit que « les animaux se divisent en : a) appartenant à l'Empereur, b) embaumés, c) apprivoisés, d) cochons de lait, e) sirènes, f) fabuleux, g) chiens en liberté, h) inclus dans la présente classification, i) qui s'agitent comme des fous, j) innombrables, k) dessinés avec un pinceau très fin en poils de chameau, 1) et caetera, m) qui viennent de casser la cruche, n) qui de loin semblent des mouches ».

ところで、そのテクストは、「シナのある百科事典」を引用しており、そこにはこう書かれている。「動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳吞み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k)駱駝の毛のごく細の毛筆で描かれたもの、(n)とおくから蠅のように見えるもの。」

(Foucault1966: 7,渡辺・佐々木訳11頁)

ボルヘスが「ウィルキンズの分析言語」(所収『ボルヘス・エッセイ集』平凡社ライブラリー、2013年)の中で『中国の百科事典』から引用した箇所をフーコーはここで孫引きしている。ここで引用されている区分の中身を考察してみよう。

  • (a)「皇帝に属するもの」は「所属」による区分ではあるものの、同時に、「皇帝」が主権的地位に位置する点にも注意しなければならない。つまりこれは動物といえども国内最上位クラスに属するということであり、杜撰な管理は絶対的に許容され得ないようなものである。
  • (b)「香の匂いを放つもの」とは「嗅覚」による区別、人間の感官による判断基準である。
  • (c)「飼いならされたもの」とは、主人に対して従属の関係にある。
  • (d)「乳吞み豚」とは、動物の赤ん坊、世話が必要な存在である。
  • (e)「人魚」とは、実在のものではない、ギリシア神話のセイレーン(Σειρήν)であり、架空の概念、フィクションである。
  • (f)「お話に出てくるもの」は、これも(e)と同じく実在のものではなく、御伽話の架空の概念、フィクションである。
  • (g)「放し飼いの犬」は、飼われているが放置されているという点では、世話を焼く必要がある(c)と対照をなしている。
  • (h)「この分類自体に含まれているもの」とはメタな区別の概念である。
  • (i)「気違いのように騒ぐもの」とは、動物の雄叫びや鳴き声による区別である。
  • (j)「算えきれぬもの」とは、数多く存在するという点では計数を基準とした概念である。
  • (k)「駱駝の毛のごく細の毛筆で描かれたもの」とはイメージされ描画されたものである。
  • (n)「とおくから蠅のように見えるもの」とは、いわば視覚による区別であり、また遠近感覚という人間の感官を判断基準としている。

Dans l'émerveillement de cette taxinomie, ce qu'on rejoint d'un bond, ce qui, à la faveur de l'apologue, nous est indiqué comme le charme exotique d'une autre pensée, c'est la limite de la nôtre l'impossibilité nue de penser cela.

この分類法に驚嘆しながら、ただちに思いおこされるのは,つまり,この寓話により、まったく異った思考のエクゾチックな魅力としてわれわれに指ししめされるのは、われわれの思考の限界、《こうしたこと》を思考するにあたっての、まぎれもない不可能性にほかならない。

(Foucault1966: 7,渡辺・佐々木訳11頁)

ここで言及されている「われわれ la nôtre」とは、東洋に於ける中国とは対極に位置する、西洋に於ける「われわれ」である。『中国の百科事典』がどうして「思考」をぐらつかせるのかというと、『中国の百科事典』にみられる分類法が西洋の分類法とはかなり異なっていて、西洋に於いては合理的には到底理解し難いからである。西洋に於いてはいうなれば『如何に合理的に分類するか』が啓蒙の課題であった。そもそも『百科事典』のアルファベット式系列は、それによって手早く検索することが可能であるという(それ自体西洋的である)合理主義的発想に基づいている。しかしながら、上で引用された『中国の百科事典』には、その合理主義的発想が一つも見当たらない。だがそのさいの合理主義とは一体何に基づいているのだろうか。結局のところ、その合理的分類もまた「われわれの時代とわれわれの地理の刻印をおされたわれわれの思考」に規定されたものに過ぎないのではないか。だからこそフーコーはここで「笑い rire」を催さずにはいられないというのである*1

(つづく)

文献

*1:百科事典の思想については拙稿2018「検索と参照──L'Encyclopédie・Cyclopædia・Wikipedia」を参照されたい。

いかにして過去のコンプライアンス違反と共存するか——『炎炎ノ消防隊』にみる組織論

目次

はじめに

 今回は「いかにしてコンプライアンス違反と共存するか——『炎炎ノ消防隊』にみる組織論」というタイトルで書きたいと思います。

 ご存知の方もいらっしゃると思うのですが、『炎炎ノ消防隊』(大久保篤週刊少年マガジン連載、2015年〜)という漫画があります。現在も連載が続いており、アニメの第二期(弐ノ章)が毎日放送・TBS系列で放映中です。

fireforce-anime.jp

 この作品には様々なモチーフ(元ネタ)が散りばめられており、それらを取り上げるだけでも一冊の本が書けてしまいそうな内容を含んでいます。

 しかし、それ以上にこの作品は幅広い年齢層に支持されるエンターテインメントであるだけでなく、子どもにも大人にも学びが深いと思われるメッセージを発信していると私は考えています。そのメッセージの一つが、「いかにしてコンプライアンス違反と共存するか」というテーマです。

コンプライアンス違反のモデルケースとしての『炎炎ノ消防隊

 このテーマが扱われているのは、アニメ『炎炎ノ消防隊』第一期(壱ノ章)の第七話『第一調査開始』、第八話『焰の蟲』、第九話『燃え広がる悪意』です。

 主人公である森羅日下部(シンラ・クサカベ)は、普段は第8特殊消防隊に所属する隊員ですが、ここで第1特殊消防隊への潜入調査を行います。

 第1特殊消防隊の中隊長である烈火星宮(レッカ・ホシミヤ)は、名前の通り松岡修造ばりの熱血キャラなのですが、子どもたちを集めて人体実験をしていました。その人体実験とは、蟲によっても「焰ビト」化しない「適合者」を見つけるというものでした。ほとんどの場合は「蟲」によって「焰ビト」化してしまうので、子どもたちはその人体実験の犠牲になっていました。この人体実験のために子どもたちを集めてくる役割を担っていたのが、第1消防隊の環古達(タマキ・コタツ)です。

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(子どもたちに声をかけるタマキ。アニメ『炎炎ノ消防隊』壱ノ章第八話『焰の蟲』より)

 「焰ビト」と化した人々を鎮魂すること、これが特殊消防隊の任務であり、この組織の目的です。しかしながら、「蟲」によって人工的に「焰ビト」を作り出していたというレッカの行為は、特殊消防隊という組織の目的に相反するものであり、言い換えるならばコンプライアンス違反だと言えるでしょう。「コンプライアンス」とは、日本語では「法令遵守」と訳されますが、ここでは社内規則や社会通念に照らした倫理観のようなものを意味するものとして用います。そして『炎炎ノ消防隊』のストーリーは、言ってみれば『特殊消防隊という組織が、その隊員がコンプライアンス違反を犯した時に、どのように対処したか』のモデルケースを示しているといえるのです。

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(人工的に「焰ビト」化する「蟲」を使って、子どもたちの中から「適合者」を見つける人体実験を行なっていたレッカ。アニメ『炎炎ノ消防隊』壱ノ章第九話『燃え拡がる悪意』より)

いかにして過去のコンプライアンス違反と共存するか

 レッカはこの事件の主犯であり、コンプライアンス違反としては重い処罰が下されてしかるべき人物です。その象徴としてか、レッカはストーリーの中では死ぬ運命にあります。

 一方、この事件に間接的に関与していたタマキにもまた組織として処分が下されています。タマキはこの事件の当事者でありながら、同時に犠牲者でもあります。なぜなら、タマキは自分の集めた子どもたちが「焰ビト」にされるとは知らなかったからです。しかし、タマキもまた組織として処分が下されたということは、「事件に関与した以上は、知らなかったで済まされない」というメッセージを、『炎炎ノ消防隊』は視聴者に発信していると受け取れるわけです。

 タマキに下された処分とは、第1特殊消防隊における活動自粛であり、その代わりに第8特殊消防隊に無期限で研修配属されることになりました。特殊消防隊は別の部署で生かす道をタマキに与えたことになります。

 タマキが、本来は第1特殊消防隊に所属する隊員であるにもかかわらず、第8特殊消防隊にいるということは、その背後には常に過去のコンプライアンス違反が象徴されているわけです。

 その後、タマキが第8特殊消防隊のメンバーとして生き生きと活動している様子は、この続くストーリーを通じて、我々がいかにして過去のコンプライアンス違反と共存していくかの良いモデルケースとなっているのです。

おわりに

 今回はレッカとタマキの事件をコンプライアンス違反のモデルケースとして取り扱いました。実はこの事件には他にも言及すべきテーマが含まれています。それはレッカによる洗脳という側面です。この事件でレッカから被害を受けたのはタマキだけでなく、人体実験のために集められた子どもたちもまたそうなのです。ただし、この洗脳の側面については、現在放映中のアニメ第二期(弐ノ章)で決着がついておりませんので、別の機会に書きたいと思います。

〔翻訳〕デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(4)

目次

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デステュット・ド・トラシー『観念学要論』第二版(承前)

第一部 固有の意味での観念学(承前)

イントロダクション(承前)

だが、君たちはこの仕組みが思ったほど複雑ではないことがすぐにわかるだろう。そのことが明白にわかるためには、つぶさに検討するだけで十分である。すでに君たちは、みずから真の諸観念をつくり、それらを的確に表現し、適切に組み合わせることを確信するにはその仕組みを知る必要があると感じている。これら三つの条件は、それを抜きにしてはでたらめに推論するしかないものである。それゆえ一緒に我々の知能を勉強しよう。私は君たちの案内人にすぎない。私がすでに君たちよりも考えたから——なぜならそれが何ら私の役に立たなかったといえるから——ではなく、私はいかにしてひとが考えているのかをとてもよく観察したのであり、それを君たちに見えるようにすることが重要であるからである。

(Tracy1804: 4)

トラシーは人間の思考様式を観察した。その結果、人間の思考様式を、観念の生成・表現・組み合わせの三つにまで集約したのだ。だからそれは「複雑ではない」とトラシーはいうのである。

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