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グローティウス『戦争と平和の法』覚書(3)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

グローティウス『戦争と平和の法』(承前)

プロレゴーメナ(承前)

グローティウスの「社会的結合への欲求」とストア派の「オイケイオーシス」

グローティウスは,「戦争と平和の法」に関する古典古代の哲学者たちの見解を引き合いに出している.その中で批判されているのは,カルネアデース(Καρνεάδης, 214/3–129/8 BC)の次のような見解である.

すなわち,人間は自分たちの利益のために自分たちに対して法を制定したが,その法は習俗によって異なり,同じ人々の間でも時に応じてたびたび変化する.また,自然法というものは存在しない.なぜなら,人間もその他の動物も,すべて,自然に導かれて自己の利益へと駆り立てられるからである.それゆえ,正義〔justitiam〕などというものは存在しないか,あるいは,もしなにかそのようなものが存在するとしたら,それは,愚昧のきわみである.なぜならば,他人の利便をはかることは,自分自身の利益を害することなのだから.

Grotius1646: [2],渕2010:265)

カルネアデースの見解によれば,絶対的な法は存在せず,人間を含む動物は本性的に自己利益を追求するが故に,自然法も正義も存在しない.これに対してグローティウスは次のように反論する.

しかし,ここでこの哲学者〔カルネアデース〕がいっていること,またこれにしたがって,ある詩人が,

 自然は,正と不正とを判別することができない

と述べていることは,決して容認されてはならない.なぜなら,人間はたしかに動物であるが,しかし格別な動物であって,他のすべての動物とは大いに異なっており,その違いは,他の動物たちの種が相互に異なっているのよりも,はるかに大きいからである.この点に関する証拠は,人類に特有の多くの行動がこれを示している.さらに,人間に特有のものであるこれらの行動の間には,社会[的結合]への欲求〔appetitus societatis〕,すなわち共同生活への欲求がある.ただし,それは,どのようなものでもよいというわけではなく,平穏な,そして人間知性のありように応じて秩序づけられた,同類である人々との共同生活である.ストア派の学者たちは,これをオイケイオーシスοἰκείωσιs〕と呼んだ.したがって,すべての動物は,自然によって,もっぱら自分の利益[を追求するよう]に駆り立てられるといわれていることは,人間を含めた一般的な意味で受けとめられる限り,承認されてはならないのである.

Grotius1646: [2],渕2010:265-266)

グローティウスによれば,「人間 homo 」という動物は,他の動物と区別されるべき「格別な動物 eximium animans 」である.その証拠として挙げられるのが,ストア派の「オイケイオーシス οἰκείωσιs 」という概念である*1

 先に槍玉に挙げられたカルネアデースは自然法を否定したとされていた.これに対してストア派の思想史上の意義は,彼らが自然法論を初めて本格的に展開したことにあるとされている(青野1985:163).

 ここで人間を他の動物と分かつ特徴である「社会[的結合]への欲求〔appetitus societatis〕,すなわち共同生活への欲求」は,一見するとアリストテレス的な社会性のようにも思われるのだが,ストア派の人間観が,そのようなポリス中心の人間観とは大きく異なっている点を見逃してはならない(青野1985:160).

(つづく)

文献

*1:οἰκείωσιs(オイケイオーシス)という言葉は,語源的には〈家〉を意味するギリシアοἶκος に由来しており,トゥキュディデス(4, 198)にみられるように,本来〈専有 appropriation〉という意味で使われていた.しかし,S・G・ペムブロゥクによれば,ストア派にあってはこの語は「専有するという能動的な意味で用いられることは決してなく」,この語が意味するのは,〈結び付き relationship〉であり,しかもそれは主観的要素すなわちそうした関係の意識ということにもっとも力点がおかれたいた.」(青野1985:155-156).