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ヴィーコ『新しい学』覚書(5)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

 

(承前)著作の観念

アリストテレス政治学ヴィーコの国家神学

 続きを読んでみましょう。

しかし、この部分にたいしても神は摂理を立てて〔先を見通して〕、人間にかんすることどもをつぎのように順序づけ配置してきたのであった。すなわち、原罪によって完全無欠な正義から堕落した人間たちは、〔正義とは〕ほとんどいつも異なったことばかりを、またしばしば正反対のことさえをもおこなおうと意図する。そして、利益を得るのに役立ちさえするなら、野獣同前孤独な生活を送るのも厭わない。しかも、このかれらの〔正義とは〕異なり、また正反対の道そのものを通って、当の利益自体によって、人間らしく正義にのっとって生き、社会生活を維持する方向へと引き寄せられていく。こうして、社会生活を営もうとするかれらの自然本性を発揮するにいたるよう、人間にかんすることがらを順序づけ配置してきたのである。これが、人間は自然本性からして国家的な存在である、ということの真の意味であり、かくては自然のうちに法〔権利〕が存在するということ、このことがこの著作においては論証されるだろう。神の摂理のこのような機序こそは、この学が主として推理しようとすることがらのひとつである。したがって、この学は、この面からすれば、神の摂理についての悟性的に推理された国家神学*1であることになる。

(Vico 1744:2、訳18〜19頁、強調引用者)

ヴィーコcibile は上村忠男訳では「国家(制度)的」と訳されており、また Teologia Civile は「国家神学」と訳されています。しかし「国家」といっても注意しなければならないのは、ここで訳語にあてられている「国家」の意味は、マキアヴェッリ以後の近代的な「国家 Stato 」としてのそれではなく、むしろアリストテレスが『政治学 Πολιτικά 』で述べているような古典古代の「ポリス(国 Πόλις )」に由来する「政治的共同体」=〈市民社会〉としてのそれであり、これをラテン語では「キウィタス civitas 」といいます。このことはヴィーコが上の引用で述べている箇所(「当の利益自体によって、人間らしく、正義にのっとって生き、社会生活を維持する方向へと引き寄せられていく。こうして、社会生活を営もうとするかれらの自然本性を発揮するにいたるよう、人間にかんすることがらを順序づけ配置してきたのである。これが、人間は自然本性からして国家的な存在である、ということの真の意味であり…」)が、「人間はその本性においてポリス的動物である ὁ ἄνθρωπος φύσει πολιτικὸν ζῷον 」というアリストテレスの有名な思想を示していることからも明らかです*2

 ヴィーコはここで人間のあり方をいわば自然状態と社会状態の二つに区別しています。自然状態と社会状態という言葉を用いるのは、ヴィーコのこの著作が社会契約論の著作ではないので、誤解を招くかもしれませんが、ここでは敢えて用いてみます。

 いわゆる自然状態に生きる人間は、「利益 utilità を得るのに役立ちさえするなら、野獣同前の孤独な生活を送るのも厭わない」。つまりこの場合ひとは利己的に振舞うので、他人との関わり合いを避け孤独に生きることになります。(もっとも野獣が孤独に生きているかどうか、野獣といえども野獣としての社会を形成するのではないか、という疑問が私にはあるのですが。)

 ではいわゆる社会状態に生きる人間はどうかというと、逆に「当の利益自体によって、人間らしく、正義にのっとって生き、社会生活を維持する方向へと引き寄せられていく」。つまりこの場合の「利益」は個人の私的な自己利益の追求ではなく、「正義 giustizia 」という公的な利益の追求が「社会 società 」を形成することになります。

 とはいえ、ヴィーコ的にはこうした社会の背後には「神の摂理」が働いています。したがって、人間社会のあり方を通じて「神の摂理」を探究する学のことを、ヴィーコは「国家神学 Teologia Civile 」と呼んでいるようです。

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文献

*1:神の摂理についての悟性的に推理された国家神学 Teologia Civile Ragionata della Provvedenza Divina 」については、次の箇所も参照。「だから、この学は、それの主要な面のひとつとしては、神の摂理についての悟性的に推理された国家神学でなければならない。このような学がこれまで欠如していたように見えるのは、哲学者たちストア派エピクロスのように神の摂理の存在をまったく知らずにきたからである。エピクロス派は、原子の盲目的な競合が人間たちの諸事万般を掻き立てているのだと言い、ストア派は原因と結果の隠れた連鎖がそれらを引きずっているのだと言う。あるいはまた、神の摂理を自然的事物の秩序にかんしてのみ考察してきたからである。このため、かれらは形而上学を〈自然神学〉と呼んで、これのなかでこの神の属性を観照し、天球や四大〔天・地・火・水の四大元素〕などのような物体の運動において観察される形而下の秩序によって、また、他のもっと小さな自然的事物にもとづいて観察される究極原因のうちに、神の摂理を確認してきたのであった。しかし、かれらは神の摂理国家制度にかんすることがらの領域においても推理すべきであったのである。」(Vico 1744:120-121、訳262〜263頁)。

*2:「すべてのポリス(国)は、われわれの見るところ、ある種の共同体である。そしてすべての共同体は、なんらかの善をめざしてつくられている。(何故ならば、すべてのひとは自分たちが善いと思うもののためにこそ、あらゆることをなすのだからである。)それゆえ、あらゆる共同体はなんらかの善をめざすのではあるが、すべてのなかで最もすぐれ、他のあらゆるものを包含している共同体こそが、あらゆる善のうちでも最もすぐれた善を、最高の仕方でめざすものであるということ、このことは明らかである。そして、この最もすぐれた共同体こそが、いわゆるポリス(国)、あるいはポリス的共同体なのである。」(アリストテレス政治学』第1巻第1章1252A1-7)。