まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

読書前ノート(40)ジョン・ダワー『容赦なき戦争』/『敗北を抱きしめて』

目次

ジョン・W. ダワー(猿谷要監修、斎藤元一訳)『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別』平凡社ライブラリー、2001年。

ジョン・ダワー(三浦陽一・高杉忠明訳)『増補版 敗北を抱きしめて』岩波書店、2004年。

世俗的・通俗的な「テキスト」へのこだわり

 『容赦なき戦争』という著作の特徴について、ダワーは次のように述べている。

…政策立案と戦闘状況の記述に焦点を合わせるかわりに私は、敵と味方の両陣営に殺戮を心理的に容易にした、むき出しの感情と紋切り型の言葉とイメージを探究することを選んだ。このことは学者たちが一般に頼りとする公式文書とはまったく違う「テキスト」、たとえばスローガン、歌、映画、漫画、それにありふれた慣用語句とキャッチフレーズを、私に吟味させることになった。こうした表現形式を真剣に受け止めるにさいし私は、「大衆文化史」の手法のいくつかを、あの戦争に応用していた(歴史家である私にとって新しいアプローチであった)。

(ダワー『容赦なき戦争』6頁、強調引用者)

評者は歴史研究については素人であるので、「スローガン、歌、映画、漫画、それにありふれた慣用語句とキャッチフレーズ」などのいわば世俗的・通俗的な「テキスト」——これは官僚の手によって作成された「公文書」とは対照的である——を研究対象として吟味することが、歴史研究においてどれほど一般的な手法なのか否かについては、残念ながら判断を下すことができない。だが、「大衆文化史」の手法を応用した、こうした手法がダワーの著作の魅力となっているのは明らかであるように思われる。

 世俗的・通俗的な「テキスト」に着目したダワーの研究手法は、『容赦なき戦争』の続編にあたる『敗北を抱きしめて』でも遺憾無く発揮されている。そしてダワーのこうした研究手法は、勝者の歴史であるいわゆる「ホイッグ史観」に対抗しているようにも思われる。

吉田茂のような有名人だけでなく、日本社会のあらゆる階層の人々が敗北の苦難と再出発の好機のなかで経験したこと、そして彼らがあげた「声」を、私はできる限り聴き取るように努力した。この作業をはじめた当初は、歴史のこの瞬間に耳を傾けることによって、いったい何が得られるのか、私には予想できなかった。しかしこの時代に起きた多くのことを慎重に書き進め、それが終わったとき、私はある事実に深く心を打たれていた。悲しみと苦しみのただ中にありながら、なんと多くの日本人が「平和」と「民主主義」の理想を真剣に考えていたことか!もちろん、「平和」と「民主主義」こそ、私自身の国がたたかい取ろうと努力している当のものにほかならない。日本人も私たちと同じ夢と希望をもち、同じ理想とたたかいを共有しているのだ。それを知ることは、アメリカ人の多くの読者にとって驚きであると同時に、明らかに心が暖まり、勇気のわく発見だったのである。

(ダワー『増補版 敗北を抱きしめて(上)』ⅹⅶ頁、強調引用者)

ここでダワーは「それ〔日本人が「平和」と「民主主義」の理想を掲げ努力していること〕を知ることは、アメリカ人の多くの読者にとって驚きである」と述べているが、アメリカ人がそれに驚くのは一体なぜであろうか。この点に関しては、『容赦なき戦争』におけるダワーの分析が頼りになる。というのも、『容赦なき戦争』によれば、日本人は対外的には「劣等の人種」と見做されていたからである。

 アジアにおける戦争に伴う人種的表現やイメージは、しばしばあまりにも生々しく軽蔑的なものが多かった。たとえば連合国側は、日本人の「ヒトより下等」な側面を主張した。そのために普通、猿や害虫のイメージがよく使われた。もう少しましなものでは、日本人は遺伝的に劣等の人種であり、原始性、幼児性、集団的な情緒障害という観点から理解されるべきだという言い方がなされた。漫画家、作曲家、映画制作者、戦争特派員、マスメディアは一般にこうしたイメージでとらえた。戦時中日本人の「国民性」を分析しようとした社会科学者やアジア専門家もまた同様であった。

(ダワー『容赦なき戦争』42〜43頁)

日本人は理性的でなく非論理的である、というのが西洋人の見解であった(『容赦なき戦争』183頁)。そうした日本人が「平和」と「民主主義」という理想を掲げ努力している姿は、西洋人からすれば確かに驚きであろう。

マルクス『資本論』覚書(23)

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マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

「ある物」の分析

(1)ドイツ語初版

 ある物は,〈交換価値〉でなくとも,〈使用価値〉でありうる.それは,人間にとってのその物の存在(Dasein)が,労働をつうじて媒介されていない場合である.たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである.ある物は,〈商品〉ではなくても,有用であり人間労働の生産物であることがありうる.自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は,〈使用価値〉はつくるが,〈商品〉はつくらない.商品を生産するためには,彼は使用価値を生産するだけではなく,〈他人のための使用価値社会的使用価値〉を生産しなければならない.最後に,どんな物も,使用対象であることなしには,〈価値〉ではありえない.物が無用であれば,それに含まれている労働もまた無用であり,労働のなかにはいらず,したがって価値をも形成しないのである.

(Marx1867: 6-7,『資本論①』81〜82頁)

(2)ドイツ語第二版

 ある物は,価値ではなくても,使用価値であることがありうる.それは,人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合である.たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである.ある物は,商品ではなくても,有用であり人間労働の生産物であることがありうる.自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は,使用価値はつくるが,商品はつくらない.商品を生産するためには,彼は使用価値を生産するだけではなく,他人のための使用価値,社会的使用価値を生産しなければならない.最後に,どんな物も,使用対象であることなしには,価値ではありえない.物が無用であれば,それに含まれている労働も無用であり,労働のなかにはいらず,したがって価値をも形成しないのである.

(Marx1872a: 15-16,『資本論①』81〜82頁)

(3)フランス語版

 ある物は,価値ではなくても,使用価値であることがありうる.それには,その物が人間の労働によって生まれることなしに人間にとって有用であることだけで十分である.たとえば空気や自然の草原や処女地などがそうである.ある物は,商品ではなくても,有用であり人間労働の生産物であることがありうる.自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は,個人的な使用価値を造るだけである.商品を生産するためには,彼は使用価値を生産するだけではなく,他人のための使用価値,社会的使用価値を生産しなければならない.最後に,どんな物も,それが有用なものでない限り,価値ではありえない.物が無用であれば,それに含まれている労働も無駄に費やされ,したがって価値を造らない.

(Marx1872b: 15-16)

(4)ドイツ語第三版

 ある物は,価値ではなくても,使用価値であることがありうる.それは,人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合である.たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである.ある物は,商品ではなくても,有用であり人間労働の生産物であることがありうる.自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は,使用価値はつくるが,商品はつくらない.商品を生産するためには,彼は使用価値を生産するだけではなく,他人のための使用価値,社会的使用価値を生産しなければならない.最後に,どんな物も,使用対象であることなしには,価値ではありえない.物が無用であれば,それに含まれている労働も無用であり,労働のなかにはいらず,したがって価値をも形成しないのである.

(Marx1883: 7-8,『資本論①』81〜82頁)

ここでマルクスは,「ある物」の「あり方 Dasein」を主に三つの側面から考察している.

  1. 〈交換価値〉或いは「労働による媒介」の欠如:《ある物は,(交換)価値ではなくとも,使用価値であることがありうる》.なぜなら,その物が持つ「人間にとっての効用 Nutzen für den Menschen」がその物を「使用価値」たらしめる*1のであるが,ある物が「交換価値」を持つのはその物が「労働によって媒介されて durch Arbeit vermittelt」いる場合に限定されるからである.したがって,ある物にまだ労働が投下されておらず,なおかつ,その物が自然のあり方のままで使用価値を持っている場合には,《ある物は(交換)価値であることなしに使用価値であることが可能である》.この例としてマルクスは「空気や処女地や自然の草原や野生の樹木など」を挙げている.
  2. 〈商品〉の欠如:《ある物は,商品ではなくとも,有用であり人間労働の生産物であることがありうる》.人間的労働には,大きく分けて二種類ある.一つは〈自分自身の欲望を満足させる〉という意味で「有用な」人間的労働であり,もう一つは〈他者の欲望を満足させる〉という意味で「有用な」人間的労働である.その物が〈商品〉として存在するためには,その物が「他人のための使用価値,すなわち社会的使用価値」を備えている必要がある,とマルクスはいう.つまり,この「他人のための使用価値,すなわち社会的使用価値」を形成するのは,確かに「労働」ではあるが,もっというとそれは「社会的分業」としての人間的労働に他ならない.
  3. 〈使用価値〉の欠如:《どんな物も,使用対象であることなしには,価値ではありえない》.労働によって生まれた産物が「無用 nutzlose」である場合がそうである.われわれが「価値のないガラクタ」と呼ぶものが凡そこれに当てはまるであろう.

以上三点でもってマルクスは「交換価値」と「商品」と「使用価値」とがそれぞれ厳密には異なる概念であることを示している。それを「商品」として考察するならば,一つには「使用価値」から見た「商品」と,もう一つには「交換価値」から見た「商品」という二面性を持っている.だが,それを「ある物」として考察してみれば,それは「交換価値」と「商品」と「使用価値」という三つの側面から分析できることがわかる.『資本論』第一章第一節を通じて示されたのは,まさにこの点である.

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文献

*1:「ある物がもっている人間的生活のための有用性は,その物を使用価値にする.」(Marx1867: 2,『資本論①』73頁).拙稿「マルクス『資本論』覚書(6)」参照.

ライプニッツ『モナドロジー』覚書(6)

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ライプニッツモナドジー』(承前)

モナドにおいてその生成と消滅のプロセスはあり得るか

 ライプニッツはいう。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 また、モナドには解体の危惧はない。かつ、単純な実体が自然的に消滅することがあるとはどうしても考えられない。

(『モナドジー』§4)

「解体 dissolution」とは、要するに、複合物においてのみ可能な現象である。なぜならば、複合物とは、個々の要素の寄せ集めだからである。「解体」してバラバラになった個々の要素は「単純な実体」というモナドに還元される。しかし、「単純な実体」と「複合物」がその本性上、明確に区別されている。「単純な実体」は、「部分がない sans parties」(§1)というその自然本性からして、それが「消滅する périr」ことはあり得ない、とライプニッツはいう。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 同じ理由で、単純な実体が自然的に生じることがあるとは、どうしても考えられない。単純な実体は、複合によってつくることはできないからだ。

(『モナドジー』§5)

ここでもまたライプニッツは「自然的に naturellement」を「その自然本性からして」というような意味合いで用いている。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 かくしてモナドは、生じるのも滅びるのも、一挙になされるほかない、と言ってよい。つまり、創造によってしか生じないし、絶滅によってしか滅びない。けれども複合されたものは、部分部分で生じる、もしくは滅びる。

(『モナドジー』§6)

ここでライプニッツが「モナドは、生じるのも滅びるのも、一挙になされるほかない」と述べる理由は、「単純な実体」たる「モナド」が、「複合物」とは全く異なる性質を持つからである。すなわち、「複合物」の性質は「部分部分で生じる、もしくは滅びる」点にあるが、この点で「複合物」は、「部分がない」(§1)という「単純な実体」たる「モナド」とその本性からして、本質的に全く異なっている。「単純な実体」たる「モナド」は、「複合物」の延長線上で捉えられてはならない。そもそも「モナド」のように「部分がないところには、拡がり〔延長〕も、形も、可分性もない」(§3)からである。

 「モナド」にあっては、「創造 creation」と「絶滅 annihilation」だけが可能であるというのは、「創造」や「絶滅」が「一挙になされる」ものであり、そのプロセスとしての「部分がない」(§1)からである。反対に「始まり commencer」と「終わり finir」といった生成消滅のプロセスは、その推移的な変化の部分を取り出すことができるがゆえに、「モナド」の本性には対応しない。

(つづく)

文献

ライプニッツ『モナドロジー』覚書(5)

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ライプニッツモナドジー』(承前)

ライプニッツスピノザ

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 しかも、各モナドは他の各モナドと異なっているはずだ。じっさい自然のなかでは、二つの存在が互いにまったく同じようであってそこに内的差異すなわち内在的規定に基づく差異を見いだせない、ということは決してない。

(『モナドジー』§9)

ここでライプニッツスピノザの「実体的差異」の思想に範を得ている*1

 またライプニッツのいう「モナド」は外的原因に影響されない。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 以上に述べたことから、モモナの自然的変化は内的原理から来ることがわかる。外的原因はモナドの内部に作用することができないからである。

(『モナドジー』§11)

ライプニッツのいう「モナド」は、スピノザのいう「実体」に似ている。というのは、スピノザのいう「実体」もまた、ライプニッツの「モナド」と同様に、外的原因に影響されないからである*2

 ライプニッツのいう各モナドの差異は、スピノザの実体的差異で理解可能である。ライプニッツの単純実体における「多」の概念もスピノザの実体的変状で理解可能である。ライプニッツにあって、スピノザにあってはまだ叙述しえなかった思想といえば、「微分」によって表象されるような微細な連続的変化の観念かもしれない。

微細な変化、一と多

 以下の一節に、微分にもつながるライプニッツ思想の特徴が凝縮されている。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 しかしまた、変化の原理のほかに、変化するものの細部があり、それが単純な実体の、いわば特殊化と多様性を与えているにちがいない。

(『モナドジー』§12)

ここでライプニッツが強調しているのは、「変化」というのが一瞬にして別のものになる断続的な変化ではなく、§10で先に述べられていたように、変化が連続的であるがゆえにその連続性のうちなる無限のうちに「変化するものの細部」が横たわっているという点である。このことをライプニッツは「多」と言い換えている。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 この細部は、一なるもの、すなわち単純なもののなかに、多を含んでいるはずだ。じっさいすべての自然的変化は徐々になされるから、どこかが変化してもどこかは変わらないままである。したがって、単純な実体のなかには、部分はないけれども、いろいろな変状や関係があるにちがいない。

(『モナドジー』§13)

ライプニッツのいう「多」の概念もまた、スピノザのいう実体の「変状」という概念の影響を受けているように思われる。

 さて、こうした連続的変化のうちに見られる「多」の表現形態のことをライプニッツは「表象」と呼んでいる。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 一なるもの、すなわち単純実体のなかで、多を含み、これを表現する推移的状態がいわゆる表象にほかならない。これは意識される表象ないし意識とはしっかり区別されねばならない。それはこのあとで明らかにする。

(『モナドジー』§14)

ここでライプニッツは「表象」と「意識」とを厳密に区別するが、ライプニッツによる両者の区別はデカルト派理論への批判を含意している。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

デカルト派の人たちは意識されない表象を無いものと見なし、この点で大きな過ちを犯した。その結果彼らは、精神だけがモナドであって、動物の魂も他のエンテレケイアも無い、と信じるようになった。そして通俗の意見にしたがって、長い失神状態と厳密な意味での死を混同した。そうして完全に遊離した魂というスコラの偏見にふたたび陥り、ひねくれた心の人たちに魂死滅の説を固めさせることさえになった。

(『モナドジー』§14)

デカルト派の理論では、長い失神状態と死とを区別できない。なぜなら、〈無意識の状態〉という点では失神状態と死とは同一と見なされるからである。失神状態が時間的に長く持続すれば、それは究極的には死と同等と見なされる、というのは欠陥のある見方だとライプニッツは考える。

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文献

*1:「諸事物の自然のうちには、同一の本性または同一の属性を有する二つの実体あるいはそれ以上多くの実体は存在し得ない」(スピノザ『エチカ』第一部定理5)。拙稿「スピノザ『エチカ』覚書(10)」参照。

*2:「実体は他の物から産出されることができない」(スピノザ『エチカ』第一部定理6系)。拙稿「スピノザ『エチカ』覚書(11)」参照。

羽田空港航空機衝突事故

 2024年1月2日、羽田空港日本航空JAL)旅客機と海上保安庁の航空機が衝突事故を起こした。旅客機に乗っていた乗員乗客は全員無事避難できたが、海保庁航空機に搭乗していた船長を除く隊員5名が亡くなった。この事故の詳細については、のちに調査報告書で明らかにされるであろうが、前日に起こった能登半島地震の余韻冷めやらぬうちにこの事故が発生したことで、『まだ二日しか経過していないのに恐ろしい出来事が続く2024年とは、一体どれほど恐ろしい一年になるのだろうか』と悲観した人々も少なくなかったと思われる。

 注目されたのはJALの対応である。乗員乗客の全員が無事避難できたことは、「90秒ルール」と呼ばれる訓練を平時から行っていた結果として賞賛された。同時に、乗客が大きなパニックを起こさずに「規律訓練」された人々だったことも功を奏したと考えられる。したがって、『これがもしLCC(いわゆる格安航空)だったら可能だったろうか』と考える人々もいた。

令和6年能登半島地震とX=旧Twitter

 2023年12月31日に放送された第74回NHK紅白歌合戦では、YOASOBI「アイドル」のパフォーマンスが話題になった*1。「アイドル」の歌自体が他の追随を許さない魅力を放っていたのだが、そのダンスパフォーマンスにK-POPアイドルグループが参加したことで、故・ジャニー氏が事務所所属メンバーへ生前に行なった性的虐待問題の影響でジャニーズ不在の中で行われたイレギュラーな紅白歌合戦という文脈と併せて受け止められた。世界のある地域では未だに戦争が続いているが、その一方で日本の人々は無事平和に新年を迎えられるかのように見えた。

 2024年1月1日16時10分頃、石川県能登地方(輪島の東北東30km付近)でマグニチュード7.6の地震が観測された*2。X=旧Twitterでは現地で救助を待つ人々がその住所を投函ポスト (=旧Tweet)した。だが、同時に災害に便乗して単にインプレッション稼ぎをする者たちも一緒に他人の住所を騙り、他にも偽情報が蔓延した。イーロン・マスクによってX=旧Twitterが買収された後、インプレッションをインセンティブとして重みづけしたアルゴリズムが導入された結果、X=旧Twitter上には不自然なリプライや偽情報を発信する悪徳ユーザーがイナゴのように湧き出てきた。2024年1月4日に「内閣府防災」アカウントは「流言は智者に止まる」という諺とともに「デマ」*3に対する注意喚起を行なった。

 旧Twitterは、3.11東日本大震災の頃にはすでに災害時の情報ライフラインとして普及していた。だが、地震発生直後、「特務機関NERV」のアカウントは、X=旧Twitterに新たに導入されたAPI制限により、その極めて迅速な情報発信機能を一時的に遮断された。同日、X社は「緊急的」な対応を行ない、「特務機関NERV」のアカウントを「公共アプリ Public Utilities App」に登録したことで、同アカウントの投函ポスト機能をすぐに復帰させた。だが同時に、緊急時におけるAPI制限の負の影響が可視化された恰好となった。

*1:REVISIO「第74回NHK紅白歌合戦 視聴者が最もくぎづけになった 歌手によるパフォーマンスシーンは?」(テレビ番組分析、2024.01.01.)。

*2:気象庁令和6年1月1日16時10分頃の石川県能登地方の地震について」(報道発表、地震火山部、2024年1月1日18時10分)。

*3:「デマ」という言葉は「デマゴギー Demagogie」に由来する。『日本国語大辞典』によると、「デマゴギー」とは「政治的な目的で相手を誹謗し、相手に不利な世論を作り出すように流す虚偽の情報」、「社会情勢が不安な時などに発生して、人心を惑わすような憶測や事実誤認による情報」である。

読書前ノート(39)日本ヘーゲル学会編『ヘーゲル哲学研究 第29号 2023』

目次

日本ヘーゲル学会編『ヘーゲル哲学研究 第29号 2023』(現代思潮新社、2023年)

 発売されたばかりの最新の『ヘーゲル哲学研究』を読む。今回から出版社が「こぶし書房」から「現代思潮新社」に変更になっているが、調べてみたところ両者は同じ住所の(実質的に同じ)会社であった。

加藤尚武「科学と哲学の断絶」

 まず加藤尚武「科学と哲学の断絶」が異色である。「カント哲学と非ユークリッド幾何学」と呼べるような内容だが、「言えそうで(分かっていても)表向きなかなか言えないこと」を書いていると思う。(ちなみにヘーゲルの名前は一切登場しない。)

 科学論としてはカント以降の哲学はすべて無効である。哲学は、過去の成果をすべてゼロとみなして、現代の自然科学と数学を学ぶことから出直さなくてはならない。

(本書25頁)

「科学論としては」と留保付きではあるが、非ユークリッド幾何学によるパラダイム・チェンジでもって、加藤はカント以前/以後の区別を実質的に導入している。だが、幾何学を受容し自身の哲学に導入した哲学者としては、カント以前にもホッブズスピノザなどが浮かぶ。非ユークリッド幾何学の発見以降に位置する我々は、ホッブズスピノザを再読する際に最新の知見を踏まえておく必要があるだろう。この点に関しては、筆者も拙稿「スピノザ『エチカ』覚書(1)」でも少しだけ触れたことがあるし、そういう試みとして、拙稿「〈哲学〉と〈数学〉の関係を考える」を書いたりもした。

真田美沙「ヤコービ哲学における学的証明とその労働に関する批判についての考察——ヘーゲルヤコービ批判の再検証のために——」

 次に真田美沙さん(大河内ゼミの先輩)のヤコービ論文を読む。ヘーゲルの目を迂回しないでヤコービそのものに着目することは重要である。ヤコービの直接知は再読される必要がある。なぜなら、学問的な手順を踏んで媒介を経た証明よりも、直接知の方が結果として振り返ってみれば正しかったということもあり得るからである。幾何学的な証明と推論が導くのは常に暫定的な帰結に過ぎない(我々はそれを「学問的 wissenschaftlich」と理解している)。

スピノザ哲学がかならずしも幾何学の精神として一括りにできるものではないとヤコービが理解するのは、スピノザ自身が神への直接的な知的愛を支持しているからだろう。

(本書122頁)

幾何学的秩序」を掲げたスピノザの『エチカ』でさえも、命題の内容はそれほど「幾何学」を思わせるところがない。「幾何学的」といっても、その内容が「幾何学的」なのではなくて、むしろスピノザ自身の直接知というか神的直観に基づいて記述していった命題の一つ一つを「幾何学的秩序」の装いのもとに並べていった「だけ」なのではないか。実際、スピノザの「幾何学的秩序」という方式は、ヘーゲルの体系的な叙述様式に影響を与えこそすれ、哲学にブレイクスルーをもたらすまでには至らなかった。そう考えると、内 容 的 に は 、「幾何学的秩序」よりも直接知の方に軍配があがることになる。しかもスピノザの「証明」はまるで証明の体をなしていない。スピノザが「公理から明白」だと抜かすことができるのは、実在的世界のいびつな事柄の99%を捨象することによってである。しかしそのいびつな事柄こそが、哲学がほんらい愛すべき考察の対象なのではなかろうか。

 

 最後に、岡崎佑香さんの論文「ヘーゲルの性差論」と、岡崎龍さんの博論(ドイツ語)が第16回ヘーゲル学会研究奨励賞を授賞されたことを本書で知った。お二人には一橋大学大学院社会学研究科時代に大河内ゼミでお世話になった。授賞おめでとうございます。