まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

松岡正剛『情報生命』(角川ソフィア文庫、2018年)

 松岡正剛『情報生命』(角川ソフィア文庫、2018年)を買って読みました。 松岡正剛の千夜千冊という有名なサイトがありますが、そこから加筆修正して文庫にしたものが本書だそうです。

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 内容がネットで読めるとはいえ、なんだかんだ言って紙に印刷された書籍として読むのは最高ですね。ディスプレイを眺めて読むのとはやはり違います。もちろん情報を得るだけならタブレットのディスプレイで十分なのですが、私が読書体験を通じて身体が喜びを感じるのはやはり紙媒体のようです。それがなぜなのかは分からないけど、もしかすると青年期の紙媒体を通じた読書が身体に染み付いてしまっているのかもしれません。

 本書にはミーム*1オートポイエーシス*2カオスの縁シンクロニシティ*3などの概念が登場します。個人的には「生命体における情報をダーウィン進化論的に捉える」という視点がすごく刺激的でした。

 そして本書にインスピレーションを得て、「情報における生命」あるいは「情報的生命」というものがあり得るかどうかについて考えをめぐらしました。現在に引きつけて考えると、SNSTwitterFacebook)は(文字も写真も動画もエンコードされたデータを送っているという意味で)実は情報のやりとりだと言えますが、しかし情報のやりとり以上のものがそこにはあるはずで、ゆえにSNSに生命を感じるとはどういうことなのかと考えながら読み進めていきました。

 とても面白かったので、何故か夜中にこの本の小テストを作ってしまいました。予習・復習用に、ぜひ解いてみて欲しいです。

docs.google.com

文献

*1:ミーム(meme)とは、リチャード・ドーキンスによって提唱された概念で、「遺伝子(gene)のスペルにあわせて模倣や記憶を“遺伝”しているかとおもわせる」(松岡 [2018]:130頁)ものである。「文化意伝子」と解釈されている。

*2:オートポイエーシス・システムとは「トポロジカルな理論生物学によって推理できる自律的・自己言及的・自己構成的なシステム」(松岡 [2018]:186頁)であり、それゆえ閉鎖系である。ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・ヴァレラ『オートポイエーシス』(河本英夫訳、国文社、1991年)では、オートポイエーシス・システムの特徴として「①自律性、②個体性、③境界の自己決定、④入力も出力もないこと」(松岡 [2018]:187頁)があげられている。

*3:シンクロニシティとは、そこにははっきりした因果関係などないはずなのに、まるで隠れたリズムが同期的にはたいていたかのように結び合わされている現象が場面をこえて同時的におこっていることをいう」(松岡 [2018]:305頁)。

Google+の閉鎖とユーザーの情報流出について

 先日、Google+の閉鎖がアナウンスされた。サービスは2019年8月をもって終了予定だそうだ。

jp.techcrunch.com

 ちょうど「Google+つまんないな」と思っていたタイミングだったので、Google+閉鎖のニュースを見たとき、「無くなるのか、最近使いづらいし良いタイミングだな」と思った。

 個人的な感想だが、Google+は最初に触った瞬間から今ひとつ面白みに欠けるなと感じていた。最近までその理由は分からなかった。だが、敢えて理由を言語化するならば、おそらくGoogle+は自分の感情が揺さぶられないから面白くないのだろう。

 まず、あの+(プラス)ボタンを押したところで、Twitterのようにつながりを感じたり、広がっていく感じが全然しない。投稿記事が四角く表示されるのも、なんだか整理されすぎてて面白みがない。

 ちなみにGoogle+閉鎖についてのコメントで僕が面白いと思ったのは、Hideyuki Tanakaさんの次のコメントだ。

Hideyuki Tanakaさんは、「Googleのソーシャル的なものへの考え方」と「世間」との衝突を示唆している。もちろん「世間」とは「ソーシャル的なもの」に他ならない。

 彼の示唆にインスピレーションを得て端的に言うならば、Googleの考え方とSNSのあり方とが実は相反するものである可能性がある、ということになるだろう。

 では、Googleの考え方とは何か。それは以下の言葉に端的に示されている。

Googleの使命は、世界中の情報を整理し、世界中の人がアクセスできて使えるようにすることです。」(「Google について」より)

Googleによって開発されたあらゆるサービスの根本理念が、上の一文に示されていると言える。確かに、Googleは情報を整理することと、アクセスしやすくすることには長けている。例えば、写真を圧縮しクラウド上に無制限に保存することができるGoogleフォトでは、デバイスを問わず写真にアクセスでき、またアップロードされた写真は顔を機械学習で自動識別し、整理され、音声検索などで簡単に調べられる。またオフィスソフトの類は、ドキュメントやスプレッドシートを用いればGoogleドライブで代替することができる。

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 だが、SNSの醍醐味は、人々が情報発信とそれへのコメントを通じて感動を分かち合うところある。この感動の度合いが、Google+には少し物足りないように個人的には感じた。TwitterFacebookで「いいね」を押された時の報酬系ドーパミンが、Google+でははたらかないのだ。(もちろんGoogle+で主に活動して楽しんでいる人たちがいるのも知っているのだが。)

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 おそらくSNSは俯瞰しにくくて、なおかつもっと混沌としてて良いのだと思う。Googleお得意のタグ付けやサークルという切り分けによって情報を整理しすぎると、SNSの混沌*1が秩序付けられて、創発的な面白みがなくなってしまうのではないか、そんな気がしてならない。

 ちなみに、閉鎖する理由として、ユーザーの情報流出という問題が指摘されていて、これはこれでかなり痛いニュースだ。

gigazine.net

 ちょうど僕は、先週あたりに、「スマートフォンGoogleアカウントとかよく分からないという人に「Googleアカウントに登録して情報の流出とか大丈夫なんですか?」と聞かれたばかりだった。

 そこで、僕はこう答えた。「大丈夫かどうかと聞かれたら、絶対に大丈夫とは言い切れないです。常にネットに繋がっているので、いつ(Googleアカウントの)情報が流出しないとも限らないです。もちろん(Googleの)データセンターがどこにあるか一般には分からないように分散されていて、(Googleは)セキュリティ対策もしてるはずですが、(流出する)リスクはゼロにはならないないです。でも、Androidのシェアは大半を占めていて、Androidを使っている人は全員Googleアカウントを持っています。そうでないとアプリを入れられないので。」

 正直、僕のこの答えが必ずしも正解だとは思わない。特に最後の部分、<Androidを使っている人がGoogleアカウントを持っている>から、<Googleアカウントを使っても良い>という帰結には決して至らない。だから余計な言葉だとは自分でも思ったが、こういう質問をしてくる初心者には多少安心させるために「みんな使っているから」などと言わざるを得ない部分もある。しかし、「みんな使っているから」などと人から言われたら、僕は内心ムカッとする。クソみたいな理由だからだ。結局のところ、<Googleアカウントを作らなければAndroidが機能しないから、嫌でもGoogleアカウントを作成せざるを得ない>というだけの話だ。

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 「Googleアカウントに登録して情報の流出とか大丈夫なんですか?」という質問は、正直なところ情報管理リスクの観点からみて極めて素人臭く感じた質問だが、ある意味で本質を突いた良い質問でもあった。少なくとも、セキュリティ対策を講じれば万事解決ということには決してならないのだから、我々ができることといえば、Googleだからといって情報管理を完全に信頼してしまうのではなく、情報は常に漏洩する可能性を秘めているということを認識しておくことと、可能な限り、漏洩しても良い情報しか書いたり保存しないようにしておくことぐらいだろう。

*1:SNSの混沌の代表例は、Twitterリツイート機能だ。突如としてタイムラインにフォロー外のアカウントのつぶやきが紛れ込んでくる。アカウント間のやりとりが公開されているし、批判も飛び交う。さらにブロック、鍵アカ、アカウント停止等々…。Twitterはあまりにも混沌としている。

検索と参照──L'Encyclopédie・Cyclopædia・Wikipedia

目次

 

逸見龍生/小関武史 編『百科全書の時空:典拠・生成・転移』(法政大学出版局、2018年)

 一ヶ月前に『百科全書の時空』という本を購入しました。

 レジに持って行くまで値段見てなかったんで、会計の際に初めてこの本が7,000円することに気づきましたw

 大変高かったのですが、発売以来ずっと気になってましたし、購入して大変満足してます。

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 百科全書が他の書籍からの引き写しで出来ている、というのは以前から指摘されていることなのですが、ディドロダランベールをはじめとする百科全書に関わった人々の情報に対する感覚と、現代に属する我々がコピペに対してもつ感覚とは、かなりかけ離れているんだろうなぁ〜と思いました*1

 今だとコピペチェッカーやパクツイ発見ツールなどが充実しているため、現代はある意味でオリジナルに関する感覚が研ぎ澄まされきている時代であると言えます。しかし、『百科全書』を当時の人々が知へアクセスするためのツールとして考えると、当時は限られた紙面上で情報という素材をどう料理するかが重要だったと思います。

チェンバーズ『サイクロピーディア』とWikipedia:レファレンスとハイパーリンク

 さて『百科全書』出版のきっかけともなったチェンバーズ『サイクロピーディア(Cyclopædia)』は、レファレンス(参照)を自らの特徴としてあげています。

「私たちの狙いは、さまざまな題材を絶対的で独立に、あるがままのものとしてのみならず、相関的に、それぞれ相互の関係において考えることだった。それらの題材は多くの全体として、またより大きな全体に属する多くの一部として扱われる。部分と全体との連関は参照Reference)によって示される。その結果、一連の参照によって、一般的概略から個別の細目へ、前提から結論へ、原因から結果へ、あるいはその逆もまた然り、すなわち、もっとも複雑なものからもっとも単純なものへ、あるいはその逆に行くことができるようになる。著作のさまざまな部分の間でコミュニケーションが開かれ、諸種の項目は、ある意味で、技術的配列すなわちアルファベット順によって隔てられていた学問の自然な秩序に、位置づけ直されるのである」(チェンバーズ『サイクロピーディア』序文より)*2

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(Chambers [1728]:p. ⅰ)

チェンバーズはとても慧眼であり、アルファベット順というものが「学問の自然な秩序」を妨げていると考えていたことが上の箇所から読み取れます。確かにABCDE…という配列によって、本当は相互に連関の強い諸項目が分け隔てられてしまっているということは十分に考えられることで、この弊害を打破するものがレファレンスという手法でした。

 とはいえ、今でも紙媒体での分厚い辞書・事典の類書は基本的にアルファベット順、あいうえお順のような言語的配列に従って項目が並んでいます。電子書籍の登場によってこのような配列を経由せずに、該当項目へダイレクトに到達する検索方式が可能となりました。しかし、電子書籍のなかに盛り込まれている辞書・事典はあくまで編纂されたものであり、うまくヒットしない場合は言語的配列に従って前後の項目が提示されます。

 このような言語的配列をある程度無視して、該当項目へダイレクトに到達できるようにしたのがGoogleのようなサーチエンジンだと言えるでしょうし、併せてこれをさらに推し進めたのがウェブ上に登場したWikipediaの存在だと言えるでしょう。とりわけWikipediaはレファレンス(=ハイパーリンク)の機能が充実しており、この点で従来の紙媒体での辞書・事典の類書あるいは電子辞書を圧倒してしまっており、Wikipediaにおける諸項目のハイパーリンクこそが、レファレンスの機能として最も有効に活用されている一例であるとさえ言えます。

Googleレンズ

 さらに、最近になって検索の方向性が変わってきています。例えば、百科事典であれGoogleのような検索エンジンであれ、これまで検索するためには検索したい対象の名前を知っておく必要がありました。しかしながら、今日ではGoogleレンズ*3の画像認識によって、名前がわからなくても事物について検索することができるようになりました。

「グーグルレンズにより、カメラで写した花や動物などの名前を調べることが可能だ。植物だけでなく、家具などもカメラで写すことで、どのメーカーのどんな製品名かも調べることができた。そもそも、アプリでも提供されていたが、カメラアプリのサブメニューで呼び出せたり、グーグルアシスタントから呼び出せるのが、意外と便利で、ついつい使いたくなってくるようになってくる。」(Google製スマホ「Pixel 3」を使った率直な感想(石川温) - Engadget 日本版

このように、名前から対象の事柄へと検索していた従来の方式から、今度は逆に対象(の画像)からその名前と事柄を検索できるように変わりつつあるのです*4。 

ディドロダランベール『百科全書』とWikipedia:執筆者の多様性

 さて、以上のような現代的状況を踏まえた上で、『百科全書』を眺めてみるとどうなるでしょうか。

 ここで1つ、執筆者の問題を取り上げてみましょう。

 『百科全書』研究でもしばしば取り上げられる執筆者問題ですが、『百科全書』は項目ごとに執筆者が分かれていて、いわゆる「文人共同体」というかたちで多くの執筆者が参加しました。『百科全書』プロジェクトには、ディドロダランベール、ジョクール、ドルバック、ルソーのような有名人の他にも、符号さえない執筆協力者も多数参加しています。

 これに対してWikipediaもまた、数多の実名、匿名、ハンドルネームあるいはIPアドレス表記のみでの執筆者が参加しています。しかし、Wikipediaの場合には、さらに同じ項目でも時間とともに書き換えられ、議論され、複数の執筆者が手を加え、その差分まで表示できるというすぐれものです。現代の「文人共同体」はWikipediaにおいて存在すると言えるでしょう。

 

 『百科全書』に興味持たれた方は、『百科全書』・啓蒙研究会のホームページから学会誌が読めますので、ぜひご覧ください。→こちら

www2.human.niigata-u.ac.jp

文献

*1:「『百科全書』はオリジナル作品ではありえない。編集者にとって、人類のあらゆる知識を新機軸かつ革新的にまとめることができると主張するなど、それこそ人智を超えている。先行する典拠の使用はしごく当然といえ、本文にせよ図像にせよ、当時、他の文献の転用は日常的に横行していた。」(ピノー [2017]:55-56頁)

*2:訳は鷲見[2005]:37〜38頁を元に改めた。

*3:Googleレンズが日本語に対応していないため、まだ日本で販売されている通常のスマートフォンiPhoneではGoogleレンズを使うことはできないが、2018年11月発売予定のGoogleスマートフォン Pixel 3では、Googleレンズの機能を使用することができる。

*4:例外は、図鑑である。図鑑には絵がたくさん盛り込まれており、絵と実物を照らし合わせることで植物や動物の名前を従来は検索していた。しかし、絵と実物が多少異なることもあり、素人には判別が難しい場合もあるので、その場合の専門教育は徒弟制度のように人から人へ教える形式になりがちである。

熊野純彦『本居宣長』(作品社、2018年)

 熊野先生の『本居宣長』を買いました。

 すでに本屋で見かけたことがあると思いますが、とにかくデカイです。約900頁あります。箱の中身はこんな感じです。

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(…お分りいただけただろうか?薄っすらと「本居宣長」の文字が入っていることに…。)

 そして値段は、8,200円(税別)です。まあ高いですよね。高い。  

 でも手を出すだけの価値はあると思うんですよ、多分。いやそう信じたい。

 中身は外篇と内編に分かれています。Master Neetonさんは次のようにコメントしています。

それにしても熊野先生が本居宣長について本を書くというのは、ちょっと意外な感じがしますよね。和辻哲郎はまだわかるんですよ。倫理学だし。

でも、レヴィナスやって、ヘーゲルについて書いて、西洋哲学史について纏めて、最近はカントやハイデガーの翻訳を出して、マルクスについても書いて…。あれあれ、熊野先生めっちゃくちゃ挑戦してませんか?

 

熊野先生の著書・翻訳

  

dokushojin.com

文献

健康診断結果を分析する

目次

 

健康診断結果

 本日、健康診断結果が届きました。 

 毎回同じクリニックで基本健診を受けていることもあって、過去三年分の数値データが送られてきます。そうすると、良くも悪くも変化している部分、あまり変化していない部分が分かります。

 そこで今回は、今後の自分自身の健康管理をしていこうという前向きな気持ちを込めて、健康診断結果を分析していこうと思います。

 

判定の良い項目

以下の項目はA判定であり、基本的には問題がないと考えられます。

  • 聴力検査:A判定
  • 血液一般:A判定赤血球数は毎年微増傾向にある(465→494→522)。また赤血球の増加に伴い、血色素(ヘモグロビン)も毎年上昇している(14.0→15.0→15.7g/dl)。貧血の心配はほとんどないとはいえ、これらの継続的な上昇は多血症による合併症のリスクを高める。血小板数にも変化がみられ、まだ基準値以内に収まっているとはいえ、毎年上昇傾向にある(22.3→23.4→27.6)。血小板は血液凝固の働きを持っているが、血小板が増加しすぎると血栓の原因になりかねない(本態性血小板血症など)ので注意が必要である。
  • 肝機能:A判定
  • 代謝A判定
  • 便潜血反応:A判定
  • 尿・腎機能:A判定。ただし、今回、クレアチニンの数値が上昇し(0.80→0.77→0.89mg/dl)、eGFRの数値が減少している(96.2→99.2→83.8)。クレアチニンの上昇は、腎臓の働きが悪くなり、尿を通じて不要な物質を排出できなくなってきている証拠なので、注意が必要である。事実、eGFRが90を割ってしまったことによって、慢性腎臓病(Chronic Kidney Disease : CKD)の進行度がG2であることが分かる(詳しくは日本腎臓学会編集「エビデンスに基づくCKDガイドライン2018」東京医学社、3頁を参照)。尿蛋白は正常なので、まだ正常の範囲内であるが、高血圧などの疾患には注意が必要である。
  • 内科診療:A判定
  • 胸部X線A判定

 

判定の不良な項目

  • 身体計測:体重が微減傾向にある(50.5→50.4→49.7kg)。体重減に伴い、BMIも微減傾向にあり(17.9→17.8→17.6kg/m2)C判定。「やせすぎです。食事内容を見直して下さい。」とのこと。
  • 血圧判定:概ね基準値以内だが、毎回片方の腕が収縮期に134mmHgと高血圧でB判定になる。
  •  視力検査:C〜D判定。「視力が低下しています。眼科医にご相談下さい。」と書いてある。しかし、視力は中学生の頃から視力は悪い(パソコンのし過ぎで)。
  • 脂質:概ねA判定。しかし、「中性脂肪」が三年連続増加傾向にある(41→78→97mg/dl)。そして「LDLコレステロール」も増加傾向にあり(92→100→125mg/dl)B判定である。この点は本当に食生活を改善し、気をつけなければならないと思う。
  • 心電図:C判定である。「PR短縮」と書いてある。何それ?「経過観察のため、1年後に再検査をお受け下さい」とのこと。

「PR時間とは心房の興奮から心室の興奮の始まりまでの時間をいいます。普通、心臓の興奮は心房から始まって、心房と心室の間にある房室結節を通り、心室に至ります。房室結節は興奮伝導に時間がかかる部位ですので、PR時間のほとんどは房室伝導時間で決まってしまいます。 つまり、PR短縮とは房室伝導時間が短いことを意味するものでもあります。

房室伝導時間が短いという状態は、

1) 房室結節がうまれつき小さいか

2) 交感神経活動性が高いか

3) 房室間に房室結節以外の伝導路があるか の3つのどれかが考えられます。この3番目の場合には、副伝導路症候群といわれ、頻拍発作を伴うことがあります。

経過観察というのは、今後、頻拍発作がでるようなことはないか、観察したいということなのではないでしょうか。

ただし、多くの場合は、上記の1、2によるものであり、何も起こらず、また、何も心配の要らないものです。」(「日本心臓財団からの回答」2013年1月18日

www.jhf.or.jp

 

小括

 上で見たように、今回A判定の項目で基準値以内あっても、中身を紐解くと数値の増減による疾患のリスクが高まっていることが分かりました。また主に「脂質」の項目に異常が見られました。これはおそらく生活習慣を改善しなければならないサインとして受け取ることができます。

 現在、世の中はスコアリングエコノミーに移行しつつあります。そうすると今後、自分自身の健康を管理できているかどうかがスコアリングを行うための評価指標になることが予測されます。簡単に言えば、健康な人は高い評価を受け、不健康な人は低い評価を受ける可能性があります。

 もちろん健康管理だけが評価指標となるわけではないでしょう。しかし、前年度と比較して明らかに数値が悪くなっている、あるいは悪化傾向にあり、生活習慣を改善する意図がみられないような場合は、自分自身の健康を管理する能力がないと見なされてもおかしくないわけです。

 不健康によって自分だけが損をするのであれば自己責任として放置することができるかもしれませんが、実際には治療費や通院によって家族や同僚といった周囲に迷惑をかけてしまう恐れもあります。健康管理に遅いも早いもないと思いますので、今後は自分自身の食生活や生活習慣に気をつけていきたいと思います。

ヴィーコの文献を読むなど

今日はヴィーコの文献を読みました。さらっとだけど。 

この論文、ドイツ語版のヴィーコ『新しい学』を読んで要約した論文でした。

 次の論文もヴィーコ『新しい学』のイタリア語原著を読んでいないようです。

まあ1928年という90年も前の時代なので、原著で読めなかったのは仕方がないのかな。(え?)

確かにミシュレがそう解釈したように、ヴィーコの『新しい学』を「歴史の哲学」 として捉えることができるだろう。しかし、『新しい学』を「歴史の哲学」として捉えてしまうと、それが持っているより豊穣な内容を捨象してしまいかねないという危惧を抱きました。

次の論文は、ローマ法学者から見たヴィーコ評価です。

 

文献

ヘーゲル『世界史の哲学』講義録における文献学的・解釈学的問題

 今回は、ヘーゲル『世界史の哲学』講義録における文献学的・解釈学的問題というテーマで書きたいと思います。

目次

はじめに

 先日、ヘーゲル『世界史の哲学』講義録の翻訳が出版されるとのアナウンスがありました。この翻訳が出版されることは極めて喜ばしいことです。

comingbook.honzuki.jp

私も最初にこの出版を知った時、素直に喜びました↑。

 リンク先のページから「内容紹介」を以下に引用します。

内容紹介

「G・W・F・ヘーゲル(1770-1831年)は、『精神現象学』、『大論理学』などを公刊し、その名声を確かなものとしたあと、1818年にベルリン大学正教授に就任した。その講義は人気を博したが、中でも注目されることが多いのが1822年から31年まで10年近くにわたって行われた「世界史の哲学講義」である。

この講義はヘーゲル自身の手では出版されず、初めて公刊されたのは1837年のことだった。弟子エドゥアルト・ガンスが複数の聴講者による筆記録を編集したものであり、表題は『歴史哲学講義』とされた。3年後には息子カール・ヘーゲルが改訂を施した第二版が出版され、これが今日まで広く読まれてきている。日本でも、長谷川宏氏による第二版の訳が文庫版『歴史哲学講義』として多くの読者に手にされてきた。

しかし、第一版は最終回講義(1830/31年)を基礎にしながらも複数年度の筆記録を区別をつけずに構成したものであり、その方針は初回講義(1822/23年)の「思想の迫力と印象の鮮やかさ」を取り戻すことを目指した第二版も変わらない。つまり、これでは初回講義の全容が分からないのはもちろん、10年のあいだに生じた変化も読み取ることはできない。

本書は初回講義を完全に再現した『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻の全訳を日本の読者諸氏に提供する初の試みである。ここには、教室の熱気とヘーゲルの息遣いを感じることができる。今後、本書を手にせずしてヘーゲルの「歴史哲学」を語ることはできない。」

上の「内容紹介」で述べられている通り、これまで日本で普及している『歴史哲学講義』(長谷川宏訳)の翻訳は、カール・ヘーゲル版を採用してきました*1。ガンス版やカール・ヘーゲル版は、ヘーゲルの10年に及ぶ『世界史の哲学』の講義録を編纂して一つの講義として纏めたものです*2

 これに対して、もうじき出版予定の伊坂訳は、ヘーゲルの「世界史の哲学」初回講義(ベルリン1822/23年)だけに絞って編纂された講義録を底本にしています。

 ヘーゲル研究者の川瀬さんはTwitterにて次のようにコメントしています。 

底本は最新の資料ではない?──文献学的問題

 我々が今日読むことができるヘーゲルの講義録の素材は、基本的にヘーゲルが口述したものをホトーやグリースハイムといった当時の学生が書き残したものであり、記述者によって表記の違いが存在しています。もちろん再構成された講義録はヘーゲルの自筆原稿も含めて編纂されてはいますが、ヘーゲルの講義録というものはどこまでいっても「真のようなもの」から脱けだすことはできない性格のものであって、あくまで蓋然性の高いものとして取り扱わざるを得ないという事情があります。そしてここに、講義録の編纂問題というものが浮上してきます。上で引用した「内容紹介」によれば、「本書は初回講義を完全に再現した『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻の全訳を日本の読者諸氏に提供する初の試みである」と説明されていますが、講義録の性質上、残念ながらヘーゲル「世界史の哲学」講義の「初回講義を完全に再現」することはできないはずなのです。

 特に草稿や講義録には編纂問題が常に付きものです。新MEGAの編纂に自ら関わり、草稿類の編纂問題に詳しい斎藤さんは次のようにコメントしています。 

 伊坂訳が底本とした(であろう)『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻という青色の本は、イルティング(Karl-Heinz Ilting)とゼールマン(Hoo Nam Seelmann)とブレーマー(Karl Brehmer)の三人によって編纂され、1996年に出版されたものです(Hegel [1996])。これは日本の文献ではしばしば「イルティング版」と呼ばれており、以下イルティング版と表記します。

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 しかし、今日では「『世界史の哲学』講義録 ベルリン1822/23年冬学期」は、赤色のヘーゲル全集(アカデミー版、あるいは歴史的批判版、以下GWと略す)の中に、より最新の校訂を経た資料として、コレンベルク=プロト二コフ(Bernadette Collenberg-Plotnikov)によって編纂されたものとして出版されています(Hegel [2015])。したがって、学術的にはこの赤色のヘーゲル全集が翻訳の底本や資料として取り上げられるのが望ましいはずです。

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 とはいえ、今回翻訳の底本であるイルティング版とGWに収められた講義録が同じ内容であるならば、イルティング版を底本にしても良いではないか、というような声が聞こえてきそうです。

 しかしながら、今回の『世界史の哲学』ベルリン1822/23年講義録において、イルティング版とGWでは、編集段階で一つ大きな違いがあるのです。というのは、イルティング版の編纂を終えた後に、別の講義録が新たに発見されたからなのですが、イルティング版の編纂に携わったゼールマンは次のように述べています。

「編集作業が終了したのちに、バーゼルで第一回講義の別の新たな手稿が発見されたことが判明した。編集において、この手稿を顧慮することはもはやかなわなかった。」(ぺゲラー編 [2015]、258頁)

イルティング版は、ホトー(Heinrich Gustav Hotho)による講義録とグスタフ・フォン・グリースハイム(Karl Gustav Julius von Griesheim)による講義録、そしてH・フォン・ケーラー(Friedrich Carl Hermann Victor von Kehler)による講義録の三つの講義録から編纂されたものです。しかし、ルドルフ・ハーゲンバッハ(Karl Rudolf Hagenbach)による講義録が、イルティング版の編纂作業を終えたのちに発見され、これがイルティング版では顧慮されていないのです。

 これに対して、2015年に公刊されたGWでは、ハーゲンバッハによる講義録も含まれており、この点が今日GWを底本にすべき理由として挙げられると言えるでしょう。

『世界史の哲学』講義録における解釈学的問題

 整理すると、これまでに提示された『世界史の哲学』講義録の編纂方針は、以下のように分類できます。

  1. およそ10年に渡るヘーゲル『世界史の哲学』講義録を、ヘーゲルの草稿も含めて再編集し、一冊にまとめあげる(ガンス、カール・ヘーゲル)。
  2. 同一年度学期の複数の講義録を再構成し、一冊にまとめあげる(イェシュケ*3)。
  3. 同一年度学期の複数の講義録が存在するとしても、それぞれの講義録を一つにまとめあげることなく、それぞれの講義録のまま取り扱う(ヘスペ*4、グロースマン*5、神山)。

 1番目の編纂方針を取ったものが、これまで普及しているヘーゲルのいわゆる『歴史哲学』であることはいうまでもありません。

 2番目の編纂方針を取ったものが、今度出版予定の伊坂訳が底本としたであろう『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻であります。

 3番目の編纂方針すなわち再構成しないという編纂方針こそが、最も注意深くテクストを取り扱おうとするものです。

 以上のように編纂方針が3つに分かれる理由としては、ヘーゲルの『世界史の哲学』あるいは『歴史哲学』において、ヘーゲル自身の思想的発展を顧慮し、かつそれをより厳密に取り扱うという学術的な態度が挙げられます。つまり、時代とともにテクストを再構成するのではなく、より厳密さを重視するためにそのまま取り扱う方が望ましいという方向になっているのです。

 ただし、厳密さといっても、資料内容の正確さという点については、フィーヴェックが山﨑に語った次の言葉が印象的です。

「イェーナ大学のフィーヴェック(中略)は、「最終学期の筆記録はハイネマンのものを含めて四つあるが、どれがヘーゲルの講義を最も正確に伝えているのか」との私の質問に対して、「"正確"」というのはない。筆記録にはいつもすでに解釈が入り込んでいる。だって解釈学的にはそうだろう」と答えた。」(山﨑 [1997]、6頁)

「筆記録には常にすでに解釈が入り込んでいる」というフィーヴェックの言葉は極めて刺激的ですが、まさに首肯せざるを得ないものと言えるでしょう。

 実際、神山は、イルティング版ではヘーゲルのインド天文学の口述内容について、同一年度学期の三つの講義録を一つに再構成したことによって、余計に意味が取りにくくなるどころか、講義録同士の矛盾が生じている点を論証しています。

「イルティング版は、それを収めた『講義選集』の趣旨からして試行版といえるわけだが、このように、同趣旨の表現の重複や、こうした文脈の乱れがみられるところからしても、再検討を要するものであろう。そして、その再検討の方向性は、複数のノートから一つの〈理念的に想定される内容〉を「文献学的な作業」と称して集積することではなく、一つ一つのノートの丁寧な翻刻を達成することではないか。」(神山 [2010]、30頁)

「もちろん、こうしたテキスト理解の矛盾を自覚させる点で、イルティング版は大きな貢献をしたといってもよいだろう。少なくとも、ガンス版を嚆矢とする従来のヘーゲル『歴史哲学』では、この点に気づくことすらなかった。(中略)講義という伝言ゲームのなかで、聴講者それぞれの理解レベルで情報が落ちたり歪曲されたりし、さらにその伝言の編纂のなかで、文献学的な感性を有する編纂者の理解レベルで同様のことが起こっている。」(同前、31頁)

 講義録の取り扱いが難しいのは、すでに筆記される過程の中に解釈が入り込んでいるからなのです。しかもその解釈は、筆記者の理解レベルによって、そしてまた編纂者の理解レベルによって、二重、三重に歪められさえするのです。この点についても我々は、ヘーゲルの講義録を読解する際に顧慮する必要があるのです。

結語

 繰り返しになりますが、ヘーゲルの講義録を読む場合は、ヘーゲルの自筆原稿も含まれているとはいえ、講義録自体はヘーゲル本人が筆記したものではないということも含めて考える必要があります。つまり、そこに「完全」ということはあり得ないのです。

 学術的に言えば、伊坂訳の出版はヘーゲル『世界史の哲学』講義録研究においてまだまだ開始点に過ぎません。このことは、この翻訳がベルリン1822/23年の初回講義の再現である点だけでなく、講義録資料の取り扱いの仕方や解釈学的問題においてもそうなのです。

 なおヘーゲルのその他の講義録についてさらに知りたい方は、オットー・ぺゲラー編『ヘーゲル講義録研究』(法政大学出版局)と寄川条路編『ヘーゲル講義録入門』(法政大学出版局)をご覧下さい。

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参考文献

*1:『歴史哲学講義』(長谷川宏訳、岩波文庫)の凡例によると「底本にはグロックナー版ヘーゲル全集の第十一巻をもちい、ホフマイスター=ラッソン版をたえず参照した。参照本は底本との異同がはなはだしいが、意味のとりかたや段落の切りかたを考える上で参考になった」(ヘーゲル [1994]、3頁)と書いてある。

*2:山﨑によれば、普及版『歴史哲学講義』には「改竄の疑い」があるという問題と、ヘーゲルの「思想的な発展をとらえることはできない」という問題がある(山﨑 [1997]、2〜3頁)。同様の指摘はすでにヘスペ「世界史の哲学講義」(Hegel-Studien, 26, 1991)にある(ぺゲラー編 [2015]、171〜172頁)。

*3:「5回の講義をすべて集積するという方法では、イェシュケの言い方にしたがって、「世界史の哲学」をめぐり10年にも及ぶ講義活動を展開してきたヘーゲルの思考の「あらゆる発展史的な差異を消し去って平板化し、ヘーゲルのコンセプトを分からないものにまで破壊することが珍しくない」ことになるから、単一の講義を再現することは、この弊害を除去することになる」(神山 [2010]、14頁)。

*4:ぺゲラー編 [2015]、174頁。

*5:山﨑 [1997]、5〜6頁。