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ヘーゲル『世界史の哲学』講義録における文献学的・解釈学的問題

 今回は、ヘーゲル『世界史の哲学』講義録における文献学的・解釈学的問題というテーマで書きたいと思います。

目次

はじめに

 先日、ヘーゲル『世界史の哲学』講義録の翻訳が出版されるとのアナウンスがありました。この翻訳が出版されることは極めて喜ばしいことです。

comingbook.honzuki.jp

私も最初にこの出版を知った時、素直に喜びました↑。

 リンク先のページから「内容紹介」を以下に引用します。

内容紹介

「G・W・F・ヘーゲル(1770-1831年)は、『精神現象学』、『大論理学』などを公刊し、その名声を確かなものとしたあと、1818年にベルリン大学正教授に就任した。その講義は人気を博したが、中でも注目されることが多いのが1822年から31年まで10年近くにわたって行われた「世界史の哲学講義」である。

この講義はヘーゲル自身の手では出版されず、初めて公刊されたのは1837年のことだった。弟子エドゥアルト・ガンスが複数の聴講者による筆記録を編集したものであり、表題は『歴史哲学講義』とされた。3年後には息子カール・ヘーゲルが改訂を施した第二版が出版され、これが今日まで広く読まれてきている。日本でも、長谷川宏氏による第二版の訳が文庫版『歴史哲学講義』として多くの読者に手にされてきた。

しかし、第一版は最終回講義(1830/31年)を基礎にしながらも複数年度の筆記録を区別をつけずに構成したものであり、その方針は初回講義(1822/23年)の「思想の迫力と印象の鮮やかさ」を取り戻すことを目指した第二版も変わらない。つまり、これでは初回講義の全容が分からないのはもちろん、10年のあいだに生じた変化も読み取ることはできない。

本書は初回講義を完全に再現した『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻の全訳を日本の読者諸氏に提供する初の試みである。ここには、教室の熱気とヘーゲルの息遣いを感じることができる。今後、本書を手にせずしてヘーゲルの「歴史哲学」を語ることはできない。」

上の「内容紹介」で述べられている通り、これまで日本で普及している『歴史哲学講義』(長谷川宏訳)の翻訳は、カール・ヘーゲル版を採用してきました*1。ガンス版やカール・ヘーゲル版は、ヘーゲルの10年に及ぶ『世界史の哲学』の講義録を編纂して一つの講義として纏めたものです*2

 これに対して、もうじき出版予定の伊坂訳は、ヘーゲルの「世界史の哲学」初回講義(ベルリン1822/23年)だけに絞って編纂された講義録を底本にしています。

 ヘーゲル研究者の川瀬さんはTwitterにて次のようにコメントしています。 

底本は最新の資料ではない?──文献学的問題

 我々が今日読むことができるヘーゲルの講義録の素材は、基本的にヘーゲルが口述したものをホトーやグリースハイムといった当時の学生が書き残したものであり、記述者によって表記の違いが存在しています。もちろん再構成された講義録はヘーゲルの自筆原稿も含めて編纂されてはいますが、ヘーゲルの講義録というものはどこまでいっても「真のようなもの」から脱けだすことはできない性格のものであって、あくまで蓋然性の高いものとして取り扱わざるを得ないという事情があります。そしてここに、講義録の編纂問題というものが浮上してきます。上で引用した「内容紹介」によれば、「本書は初回講義を完全に再現した『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻の全訳を日本の読者諸氏に提供する初の試みである」と説明されていますが、講義録の性質上、残念ながらヘーゲル「世界史の哲学」講義の「初回講義を完全に再現」することはできないはずなのです。

 特に草稿や講義録には編纂問題が常に付きものです。新MEGAの編纂に自ら関わり、草稿類の編纂問題に詳しい斎藤さんは次のようにコメントしています。 

 伊坂訳が底本とした(であろう)『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻という青色の本は、イルティング(Karl-Heinz Ilting)とゼールマン(Hoo Nam Seelmann)とブレーマー(Karl Brehmer)の三人によって編纂され、1996年に出版されたものです(Hegel [1996])。これは日本の文献ではしばしば「イルティング版」と呼ばれており、以下イルティング版と表記します。

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 しかし、今日では「『世界史の哲学』講義録 ベルリン1822/23年冬学期」は、赤色のヘーゲル全集(アカデミー版、あるいは歴史的批判版、以下GWと略す)の中に、より最新の校訂を経た資料として、コレンベルク=プロト二コフ(Bernadette Collenberg-Plotnikov)によって編纂されたものとして出版されています(Hegel [2015])。したがって、学術的にはこの赤色のヘーゲル全集が翻訳の底本や資料として取り上げられるのが望ましいはずです。

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 とはいえ、今回翻訳の底本であるイルティング版とGWに収められた講義録が同じ内容であるならば、イルティング版を底本にしても良いではないか、というような声が聞こえてきそうです。

 しかしながら、今回の『世界史の哲学』ベルリン1822/23年講義録において、イルティング版とGWでは、編集段階で一つ大きな違いがあるのです。というのは、イルティング版の編纂を終えた後に、別の講義録が新たに発見されたからなのですが、イルティング版の編纂に携わったゼールマンは次のように述べています。

「編集作業が終了したのちに、バーゼルで第一回講義の別の新たな手稿が発見されたことが判明した。編集において、この手稿を顧慮することはもはやかなわなかった。」(ぺゲラー編 [2015]、258頁)

イルティング版は、ホトー(Heinrich Gustav Hotho)による講義録とグスタフ・フォン・グリースハイム(Karl Gustav Julius von Griesheim)による講義録、そしてH・フォン・ケーラー(Friedrich Carl Hermann Victor von Kehler)による講義録の三つの講義録から編纂されたものです。しかし、ルドルフ・ハーゲンバッハ(Karl Rudolf Hagenbach)による講義録が、イルティング版の編纂作業を終えたのちに発見され、これがイルティング版では顧慮されていないのです。

 これに対して、2015年に公刊されたGWでは、ハーゲンバッハによる講義録も含まれており、この点が今日GWを底本にすべき理由として挙げられると言えるでしょう。

『世界史の哲学』講義録における解釈学的問題

 整理すると、これまでに提示された『世界史の哲学』講義録の編纂方針は、以下のように分類できます。

  1. およそ10年に渡るヘーゲル『世界史の哲学』講義録を、ヘーゲルの草稿も含めて再編集し、一冊にまとめあげる(ガンス、カール・ヘーゲル)。
  2. 同一年度学期の複数の講義録を再構成し、一冊にまとめあげる(イェシュケ*3)。
  3. 同一年度学期の複数の講義録が存在するとしても、それぞれの講義録を一つにまとめあげることなく、それぞれの講義録のまま取り扱う(ヘスペ*4、グロースマン*5、神山)。

 1番目の編纂方針を取ったものが、これまで普及しているヘーゲルのいわゆる『歴史哲学』であることはいうまでもありません。

 2番目の編纂方針を取ったものが、今度出版予定の伊坂訳が底本としたであろう『ヘーゲル講義筆記録選集』第12巻であります。

 3番目の編纂方針すなわち再構成しないという編纂方針こそが、最も注意深くテクストを取り扱おうとするものです。

 以上のように編纂方針が3つに分かれる理由としては、ヘーゲルの『世界史の哲学』あるいは『歴史哲学』において、ヘーゲル自身の思想的発展を顧慮し、かつそれをより厳密に取り扱うという学術的な態度が挙げられます。つまり、時代とともにテクストを再構成するのではなく、より厳密さを重視するためにそのまま取り扱う方が望ましいという方向になっているのです。

 ただし、厳密さといっても、資料内容の正確さという点については、フィーヴェックが山﨑に語った次の言葉が印象的です。

「イェーナ大学のフィーヴェック(中略)は、「最終学期の筆記録はハイネマンのものを含めて四つあるが、どれがヘーゲルの講義を最も正確に伝えているのか」との私の質問に対して、「"正確"」というのはない。筆記録にはいつもすでに解釈が入り込んでいる。だって解釈学的にはそうだろう」と答えた。」(山﨑 [1997]、6頁)

「筆記録には常にすでに解釈が入り込んでいる」というフィーヴェックの言葉は極めて刺激的ですが、まさに首肯せざるを得ないものと言えるでしょう。

 実際、神山は、イルティング版ではヘーゲルのインド天文学の口述内容について、同一年度学期の三つの講義録を一つに再構成したことによって、余計に意味が取りにくくなるどころか、講義録同士の矛盾が生じている点を論証しています。

「イルティング版は、それを収めた『講義選集』の趣旨からして試行版といえるわけだが、このように、同趣旨の表現の重複や、こうした文脈の乱れがみられるところからしても、再検討を要するものであろう。そして、その再検討の方向性は、複数のノートから一つの〈理念的に想定される内容〉を「文献学的な作業」と称して集積することではなく、一つ一つのノートの丁寧な翻刻を達成することではないか。」(神山 [2010]、30頁)

「もちろん、こうしたテキスト理解の矛盾を自覚させる点で、イルティング版は大きな貢献をしたといってもよいだろう。少なくとも、ガンス版を嚆矢とする従来のヘーゲル『歴史哲学』では、この点に気づくことすらなかった。(中略)講義という伝言ゲームのなかで、聴講者それぞれの理解レベルで情報が落ちたり歪曲されたりし、さらにその伝言の編纂のなかで、文献学的な感性を有する編纂者の理解レベルで同様のことが起こっている。」(同前、31頁)

 講義録の取り扱いが難しいのは、すでに筆記される過程の中に解釈が入り込んでいるからなのです。しかもその解釈は、筆記者の理解レベルによって、そしてまた編纂者の理解レベルによって、二重、三重に歪められさえするのです。この点についても我々は、ヘーゲルの講義録を読解する際に顧慮する必要があるのです。

結語

 繰り返しになりますが、ヘーゲルの講義録を読む場合は、ヘーゲルの自筆原稿も含まれているとはいえ、講義録自体はヘーゲル本人が筆記したものではないということも含めて考える必要があります。つまり、そこに「完全」ということはあり得ないのです。

 学術的に言えば、伊坂訳の出版はヘーゲル『世界史の哲学』講義録研究においてまだまだ開始点に過ぎません。このことは、この翻訳がベルリン1822/23年の初回講義の再現である点だけでなく、講義録資料の取り扱いの仕方や解釈学的問題においてもそうなのです。

 なおヘーゲルのその他の講義録についてさらに知りたい方は、オットー・ぺゲラー編『ヘーゲル講義録研究』(法政大学出版局)と寄川条路編『ヘーゲル講義録入門』(法政大学出版局)をご覧下さい。

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参考文献

*1:『歴史哲学講義』(長谷川宏訳、岩波文庫)の凡例によると「底本にはグロックナー版ヘーゲル全集の第十一巻をもちい、ホフマイスター=ラッソン版をたえず参照した。参照本は底本との異同がはなはだしいが、意味のとりかたや段落の切りかたを考える上で参考になった」(ヘーゲル [1994]、3頁)と書いてある。

*2:山﨑によれば、普及版『歴史哲学講義』には「改竄の疑い」があるという問題と、ヘーゲルの「思想的な発展をとらえることはできない」という問題がある(山﨑 [1997]、2〜3頁)。同様の指摘はすでにヘスペ「世界史の哲学講義」(Hegel-Studien, 26, 1991)にある(ぺゲラー編 [2015]、171〜172頁)。

*3:「5回の講義をすべて集積するという方法では、イェシュケの言い方にしたがって、「世界史の哲学」をめぐり10年にも及ぶ講義活動を展開してきたヘーゲルの思考の「あらゆる発展史的な差異を消し去って平板化し、ヘーゲルのコンセプトを分からないものにまで破壊することが珍しくない」ことになるから、単一の講義を再現することは、この弊害を除去することになる」(神山 [2010]、14頁)。

*4:ぺゲラー編 [2015]、174頁。

*5:山﨑 [1997]、5〜6頁。