まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ヘーゲルの「倫理」について

今回はヘーゲルの「倫理」について書きたいと思います。

目次

はじめに

前回の記事で毎日更新する意志を提示しましたが、実際に毎日書こうとすると、体力は持たないし書く内容も頭に浮かばないということで、結構キツイものがありました。

というわけで、今回は僕にとって書きやすいテーマを選びました。

ただし、書きやすいと言っても、ヘーゲルの「倫理」という、いまいちつかみどころのないものを扱います。

ヘーゲルの「倫理」

まず、ヘーゲルのいう「倫理」(Sittlichkeit)について見てみましょう。

§142

倫理とは、生ける善としての、自由の理念である。その生ける善は、自己意識のうちに自らの知識と意欲を持ち、その自己意識の行動を通じて自らの現実を持ち、この自己意識もまた、倫理的な存在において自らの即且対自的に存在する基礎と動きのある目的を持つ。ーーつまり倫理とは、現前する世界と成った自由の概念であり、自己意識の自然と成った自由の概念である。(ヘーゲル [2001]、3頁)

(Hegel [1833], S.210.)

翻訳は僕なりに改めましたが、一読してほとんど理解できるような内容ではないですね。 ちょっと敷衍してみましょう。

この節はヘーゲル『権利の哲学』の最後の部分まで続く膨大な「第三部 倫理」の最初の節に位置しています。この後に有名な「家族・市民社会・国家」という三章が展開されますが、その全体を端的にまとめると、この§.142.で述べられているような内容になるはずです。ヘーゲルはすでに導入部で自由を根本とする権利(Recht)について述べておりますが、そうであるがゆえに『権利の哲学』第三部では「自由の理念」であるところの「倫理」が主要テーマとして展開されるのです。

ここで同じパラグラフのうちに「自由の理念(Idee)」と「自由の概念(Begriff)」という二つの自由が出てきますが、両者の微妙な言い方の違いに着目していただければわかるように、「理念」と「概念」とは位置付けが異なっています。「理念」と比べると「概念」の方は出発点といいますか原初的な点に位置付けられます。 なので、「自由の理念」である「倫理」とは、「自由の概念」(という原初的なもの)が「現前する世界と成り、自己意識の自然と成った」ところのものである、と言えるでしょう。

 ちなみにさしあたり「倫理」と訳したこのSittlichkeitですが、Sittlichkeitについて永井先生は次のように説明しています。

ヘーゲルが意味を区別して用語として使っている "Sittlichkeit" と "Moralität" は、いずれも、ギリシャ語の ἦθος, ἤθεα*1, ラテン語mos, mores と同じく、語源的には、風俗・習慣、即ち、一定の規範性を持つ慣わし・仕来り・習俗などを意味している。習俗の持つ規範性は、その世界に生きる人々にとって自明であり、改めて意識されない。そのかぎりで、通常、人々はその規範性に対して格別の違和感や緊張感をいだかない。健康な肉体が取り立てて意識されることがないように。したがって ἦθος, mos, Sittlichkeit は、「道徳」や「倫理」などといった日本語の訳語の持つ積極的な「当為」のニュアンスを、元来は持たない。それらの語から派生した ἠθικός〔ethikos〕, moralia, Moralität, Sittlichkeit が、のちに「当為」を意味するようになるのである。(永井 [1992]、200〜201頁)

引用した後に気づいたのですが、ここで永井先生は後半でSittlickeitを二回使っているのですが、どちらか誤植なのでしょうか。「当為」のニュアンスを含むのは「道徳〔Moralität〕」かなと考えまして、最後のSittlichkeitに横線を引いておきました。

ヘーゲルのいう「倫理」(Sittlichkeit)が「当為」のニュアンスを含むのか否かというのは、一つ論点になると思います。結論から言うと、「当為」のニュアンスはヘーゲルの場合は「倫理」ではなく「道徳」の方に含まれています。それが読み取れるのは次の部分です。

§155

したがって普遍的意志と特殊的意志とのこの同一性においては、義務権利とは一つに帰するのであって、人間は倫理的なもの(das Sittliche)を通して、義務をもつかぎりにおいて権利をもち、権利をもつかぎりにおいて義務をもつ。抽象的権利においては、私が権利をもち、他者はこれに対する義務をもつ。ーー道徳的なもの(Moralischen)においては、私自身の知識と意欲の権利と私の福祉の権利は、もろもろの義務とただ合致すべきであるにすぎず、客観的であるべきであるにすぎない。(ヘーゲル [2001]、29〜30頁) 

(Hegel [1833], S.220.)

最後の部分を見ていただくと分かる通り、「道徳的なもの」においては、権利と義務との合一がまだ「当為」にとどまっているに過ぎないのであって、「倫理的なもの」のように現実的にそうであるところまでには到達していないと言えます。この点でも、「第三部 倫理」の前に「第二部 道徳」が位置付けられていることには一定の意味があると考えられます。 

文献

*1:エートス(ἦθος〔ethos〕, ἤθεα〔ethea〕)は、もともと「いつもの場所」(ἤθεα ἵππων)を意味した古代ギリシア語であり、習慣の意味に転じた。