まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

テクスト解釈の多様性

今回はテクスト解釈について書きたいと思います。

 

まずはこちらの画像をご覧下さい。

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このイラスト何に見えますか?

目があるから、多分動物ですね。

カモかしら。アヒル?ウサギにも見えますね。

どうでしょう。どちらにも見えるし、書き方が結構曖昧じゃないですか。

この絵は「ウサギ-アヒル錯視(rabbit-duck illusion)」と呼ばれるものです。

この絵がウサギとアヒルのどちらにも見える(そして僕にはカモに見える)ということは、言い換えると、これは多様な解釈が成立しうる絵だということです。

ちなみに、この絵が多様な解釈を成立させている要因は、目や鼻が詳細に書き込まれておらず、細部が捨象されているからではないかと僕は思います。

さらにこの画像を2つ並べて「アヒルがウサギを食べている」という文脈を与えることで、同じ画像であるにも関わらず同時にアヒルとウサギという別々の種類の動物として認識する見方が成り立つようです。これは非常に面白いですね。(詳しくは下のリンク先をご覧下さい。)

karapaia.com

さて、ここまでイラストがどう見えるかのお話をしてきましたが、このような解釈の複数性はイラストだけでなく、テクストの中でも起こりうると思うのです。

例えば、著者はアヒルのつもりで書いたものが、同時にウサギが描写されていると読者が理解することもあるかも知れません。著者本人は決してウサギを書いたつもりはなかったとしても、テクストとしては著者の手を離れて読者に届けられている以上、そこにウサギが表現されているかも知れないのです。

この場合、テクスト解釈としては、著者の意図通りにアヒルが描かれている事を確認しつつも、そこにウサギが描写されている事を指摘することが新たな発見となります。特に哲学書のようにテクストの内容が難しい場合、その基本線や輪郭を正確に捉えるだけでも難しい場合があります。つまり、そこにアヒルが描かれているという事をまとめるだけでも大変なのですが、そこに描かれている事をまとめるだけでは面白くないわけです。普通の人がそこに何が描かれているのか理解できず、頑張ってようやくアヒルが描かれている事を理解できるような次元でありながら、なおかつ実はウサギもそこに描かれているという事を指摘できた時がテクスト解釈の面白いところというか醍醐味だと思うのです。

そしてテクスト解釈で注意しなければならないのは、「これがウサギに決まっている」とか「アヒルに他ならない」というように、解釈を1つに決め込もうとする態度です。「こうであるべき」というような規範を持ち込むと、本来あり得たはずのテクスト解釈の多様性が見失われてしまうかもしれないからです。 どちらにも見えるのだから、どちらも認めてしまっていいのです。

しかしながら、人間はしばしば二元論で考えてしまうので、「Aか、さもなくばB」という狭い考えに陥りがちです。割と自信家ほどそういう態度ですので、僕はそういう人が嫌いだったりします。もちろん実在のウサギはウサギであり、実在のアヒルはアヒルであり、ウサギであると同時にアヒルでもあるという事態は現実的には考えにくいのではありますが、見方としてはウサギであると同時にアヒルであるようにも見えるということは可能なのであって、実在の事物と認識の仕方をそれぞれ区別しつつも、認識の仕方を柔軟に変えていく発想こそが、テクスト解釈上は重要なのだと思う次第であります。

 

ところで今回この「ウサギとアヒル」の絵を取り上げたのは、ヴィトゲンシュタインがこの絵を『哲学探究』で取り上げたことを僕が知っていたからです。その絵がこちら(↓)。

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んん〜、元ネタのリアルな描写のイラストから、随分ゆるふわ系のイラストに変わってないか〜?

こういうのLINEスタンプにありそうですね〜。

この絵についてヴィトゲンシュタインは「当初、私にはウサギにしか見えなかった」とコメントしています*1

 

*1:「以前、この絵を見せられたことがあったはずだが、そのとき私にはウサギにしか見えなかったと思う。【*118】」ヴィトゲンシュタイン哲学探究』兵沢静也訳、岩波書店、2013年、379頁。