まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』はシュールな思考の本だ

今日、オリックス推しプロ野球評論家比較政治学朝鮮半島地域研究で有名な木村幹(@kankimura)先生がTwitterで次のようにつぶやいているのを見かけました。

 確かに歴史学者が頭の中で「ドラえもん」の主題歌を流して落ち着かせている光景を想像するだけで、極めて「シュール」だと言わざるを得ません。

日常的には「奇妙なこと」を意味するものとして使われているこの「シュール」という言葉は、元々はアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスムsurréalisme)」宣言(1924年)に端を発するフランスの芸術運動の略であり、例えば、無意識下でしか起こり得ない奇妙な世界を描いた絵画はシュルレアリスム絵画と呼ばれています。その意味で、木村先生が述べたような光景は「シュール」だと言えます。

僕が今読んでいるヴィトゲンシュタインの『哲学探究』という本もまた極めてシュールな思考に富んでいます。一例を挙げると、ヴィトゲンシュタインが、道で出会った人々がみな痛みを抱えていると想像する一節がそれです。

391 もしかしたらこんなことが想像できるかもしれない(といっても、簡単なことではないが)。つまり、道で出会うどの人も、ものすごい痛みをかかえているのだが、痛みをうまく隠している、と。ここで重要なのは、うまく隠していることを私が想像しているにちがいないという点だ。つまり軽々しく私が、「あ、あの人は心の痛みをかかえてる。けれどそのことはあの人のからだとどんな関係があるんだろう!」とか、「そのことは結局、からだにはあらわされてないぞ!」などと言わないという点である。ーそしてもしも私がそのことを想像するならー私はなにをしているのだろう? 私は自分になにを言っているのだろう? 道で出会う人たちをどんなふうに見ているのだろう? たとえばひとりの人をじっと見て、「そんなにひどい痛みをかかえているのに、笑うなんて、むずかしいにちがいない」などなどのことを想像をしているのだ。いわば私は役を演じているのである。ほかの人が痛みをかかえているかのように、ふるまっているのである。私がそのようにふるまっている場合、私は……と想像している、と言われたりするわけである。」(ヴィトゲンシュタイン哲学探究』兵沢静也訳、岩波書店、2013年、230頁、強調は原文ママ

ヴィトゲンシュタインの「想像」はあくまで仮定の話ですが、ヴィトゲンシュタインの想像する内容が極めて「シュール」だと思いました。この本には他にもシュールな思考がたくさん繰り広げられています。ヴィトゲンシュタインヤバイ…。

ヴィトゲンシュタインはかつて「人は語り得ないことについては沈黙しなければならない」*1と述べておりましたが、晩年ライフワークとして推敲し続けた『哲学探究』にはおよそ「語り得ない」であろうことがたくさん書かれています。その意味で、『論理哲学論考』と『哲学探究』は相互補完的な役割を持っていると言えるかもしれません。

 

*1:ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』命題7。>>Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.<< Wittgenstein, Logisch-Philosophische Abhandlung, 1921.