特に書くことがありませんので、今回は僕の好きな曲を紹介します。
相川七瀬「UNLIMITED」
TVアニメ『SAMURAI 7』の主題歌です。上のサムネは関係なし。
茅原実里「境界の彼方」
TVアニメ『境界の彼方』(2013年)の主題歌だそうです。見たこと無いのでストーリーは知りませんが、曲が良かったので何度も聞いています。
MANISH「煌めく瞬間に捕らわれて」
説明不要。この曲を聴くとサビの部分でスラムダンクのEDが走馬灯のように蘇ります。
松岡正剛『情報生命』(角川ソフィア文庫、2018年)を買って読みました。 松岡正剛の千夜千冊という有名なサイトがありますが、そこから加筆修正して文庫にしたものが本書だそうです。
内容がネットで読めるとはいえ、なんだかんだ言って紙に印刷された書籍として読むのは最高ですね。ディスプレイを眺めて読むのとはやはり違います。もちろん情報を得るだけならタブレットのディスプレイで十分なのですが、私が読書体験を通じて身体が喜びを感じるのはやはり紙媒体のようです。それがなぜなのかは分からないけど、もしかすると青年期の紙媒体を通じた読書が身体に染み付いてしまっているのかもしれません。
本書にはミーム*1、オートポイエーシス*2、カオスの縁、シンクロニシティ*3などの概念が登場します。個人的には「生命体における情報をダーウィン進化論的に捉える」という視点がすごく刺激的でした。
そして本書にインスピレーションを得て、「情報における生命」あるいは「情報的生命」というものがあり得るかどうかについて考えをめぐらしました。現在に引きつけて考えると、SNS(TwitterやFacebook)は(文字も写真も動画もエンコードされたデータを送っているという意味で)実は情報のやりとりだと言えますが、しかし情報のやりとり以上のものがそこにはあるはずで、ゆえにSNSに生命を感じるとはどういうことなのかと考えながら読み進めていきました。
とても面白かったので、何故か夜中にこの本の小テストを作ってしまいました。予習・復習用に、ぜひ解いてみて欲しいです。
*1:ミーム(meme)とは、リチャード・ドーキンスによって提唱された概念で、「遺伝子(gene)のスペルにあわせて模倣や記憶を“遺伝”しているかとおもわせる」(松岡 [2018]:130頁)ものである。「文化意伝子」と解釈されている。
*2:オートポイエーシス・システムとは「トポロジカルな理論生物学によって推理できる自律的・自己言及的・自己構成的なシステム」(松岡 [2018]:186頁)であり、それゆえ閉鎖系である。ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・ヴァレラ『オートポイエーシス』(河本英夫訳、国文社、1991年)では、オートポイエーシス・システムの特徴として「①自律性、②個体性、③境界の自己決定、④入力も出力もないこと」(松岡 [2018]:187頁)があげられている。
*3:「シンクロニシティとは、そこにははっきりした因果関係などないはずなのに、まるで隠れたリズムが同期的にはたいていたかのように結び合わされている現象が場面をこえて同時的におこっていることをいう」(松岡 [2018]:305頁)。
先日、Google+の閉鎖がアナウンスされた。サービスは2019年8月をもって終了予定だそうだ。
ちょうど「Google+つまんないな」と思っていたタイミングだったので、Google+閉鎖のニュースを見たとき、「無くなるのか、最近使いづらいし良いタイミングだな」と思った。
個人的な感想だが、Google+は最初に触った瞬間から今ひとつ面白みに欠けるなと感じていた。最近までその理由は分からなかった。だが、敢えて理由を言語化するならば、おそらくGoogle+は自分の感情が揺さぶられないから面白くないのだろう。
まず、あの+(プラス)ボタンを押したところで、Twitterのようにつながりを感じたり、広がっていく感じが全然しない。投稿記事が四角く表示されるのも、なんだか整理されすぎてて面白みがない。
ちなみにGoogle+閉鎖についてのコメントで僕が面白いと思ったのは、Hideyuki Tanakaさんの次のコメントだ。
Googleのソーシャル的なサービスが何度やっても失敗するのは、Googleのソーシャル的なものへの考え方が世間に受け入れられていないってことなのでは(適当)
— Hideyuki Tanaka (@tanakh) 2018年10月9日
Hideyuki Tanakaさんは、「Googleのソーシャル的なものへの考え方」と「世間」との衝突を示唆している。もちろん「世間」とは「ソーシャル的なもの」に他ならない。
彼の示唆にインスピレーションを得て端的に言うならば、Googleの考え方とSNSのあり方とが実は相反するものである可能性がある、ということになるだろう。
では、Googleの考え方とは何か。それは以下の言葉に端的に示されている。
「Googleの使命は、世界中の情報を整理し、世界中の人がアクセスできて使えるようにすることです。」(「Google について」より)
Googleによって開発されたあらゆるサービスの根本理念が、上の一文に示されていると言える。確かに、Googleは情報を整理することと、アクセスしやすくすることには長けている。例えば、写真を圧縮しクラウド上に無制限に保存することができるGoogleフォトでは、デバイスを問わず写真にアクセスでき、またアップロードされた写真は顔を機械学習で自動識別し、整理され、音声検索などで簡単に調べられる。またオフィスソフトの類は、ドキュメントやスプレッドシートを用いればGoogleドライブで代替することができる。
だが、SNSの醍醐味は、人々が情報発信とそれへのコメントを通じて感動を分かち合うところある。この感動の度合いが、Google+には少し物足りないように個人的には感じた。TwitterやFacebookで「いいね」を押された時の報酬系ドーパミンが、Google+でははたらかないのだ。(もちろんGoogle+で主に活動して楽しんでいる人たちがいるのも知っているのだが。)
おそらくSNSは俯瞰しにくくて、なおかつもっと混沌としてて良いのだと思う。Googleお得意のタグ付けやサークルという切り分けによって情報を整理しすぎると、SNSの混沌*1が秩序付けられて、創発的な面白みがなくなってしまうのではないか、そんな気がしてならない。
ちなみに、閉鎖する理由として、ユーザーの情報流出という問題が指摘されていて、これはこれでかなり痛いニュースだ。
ちょうど僕は、先週あたりに、「スマートフォンやGoogleアカウントとかよく分からないという人に「Googleアカウントに登録して情報の流出とか大丈夫なんですか?」と聞かれたばかりだった。
そこで、僕はこう答えた。「大丈夫かどうかと聞かれたら、絶対に大丈夫とは言い切れないです。常にネットに繋がっているので、いつ(Googleアカウントの)情報が流出しないとも限らないです。もちろん(Googleの)データセンターがどこにあるか一般には分からないように分散されていて、(Googleは)セキュリティ対策もしてるはずですが、(流出する)リスクはゼロにはならないないです。でも、Androidのシェアは大半を占めていて、Androidを使っている人は全員Googleアカウントを持っています。そうでないとアプリを入れられないので。」
正直、僕のこの答えが必ずしも正解だとは思わない。特に最後の部分、<Androidを使っている人がGoogleアカウントを持っている>から、<Googleアカウントを使っても良い>という帰結には決して至らない。だから余計な言葉だとは自分でも思ったが、こういう質問をしてくる初心者には多少安心させるために「みんな使っているから」などと言わざるを得ない部分もある。しかし、「みんな使っているから」などと人から言われたら、僕は内心ムカッとする。クソみたいな理由だからだ。結局のところ、<Googleアカウントを作らなければAndroidが機能しないから、嫌でもGoogleアカウントを作成せざるを得ない>というだけの話だ。
「Googleアカウントに登録して情報の流出とか大丈夫なんですか?」という質問は、正直なところ情報管理リスクの観点からみて極めて素人臭く感じた質問だが、ある意味で本質を突いた良い質問でもあった。少なくとも、セキュリティ対策を講じれば万事解決ということには決してならないのだから、我々ができることといえば、Googleだからといって情報管理を完全に信頼してしまうのではなく、情報は常に漏洩する可能性を秘めているということを認識しておくことと、可能な限り、漏洩しても良い情報しか書いたり保存しないようにしておくことぐらいだろう。
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一ヶ月前に『百科全書の時空』という本を購入しました。
レジに持って行くまで値段見てなかったんで、会計の際に初めてこの本が7,000円することに気づきましたw
大変高かったのですが、発売以来ずっと気になってましたし、購入して大変満足してます。
百科全書が他の書籍からの引き写しで出来ている、というのは以前から指摘されていることなのですが、ディドロやダランベールをはじめとする百科全書に関わった人々の情報に対する感覚と、現代に属する我々がコピペに対してもつ感覚とは、かなりかけ離れているんだろうなぁ〜と思いました*1。
今だとコピペチェッカーやパクツイ発見ツールなどが充実しているため、現代はある意味でオリジナルに関する感覚が研ぎ澄まされきている時代であると言えます。しかし、『百科全書』を当時の人々が知へアクセスするためのツールとして考えると、当時は限られた紙面上で情報という素材をどう料理するかが重要だったと思います。
さて『百科全書』出版のきっかけともなったチェンバーズ『サイクロピーディア(Cyclopædia)』は、レファレンス(参照)を自らの特徴としてあげています。
「私たちの狙いは、さまざまな題材を絶対的で独立に、あるがままのものとしてのみならず、相関的に、それぞれ相互の関係において考えることだった。それらの題材は多くの全体として、またより大きな全体に属する多くの一部として扱われる。部分と全体との連関は参照(Reference)によって示される。その結果、一連の参照によって、一般的概略から個別の細目へ、前提から結論へ、原因から結果へ、あるいはその逆もまた然り、すなわち、もっとも複雑なものからもっとも単純なものへ、あるいはその逆に行くことができるようになる。著作のさまざまな部分の間でコミュニケーションが開かれ、諸種の項目は、ある意味で、技術的配列すなわちアルファベット順によって隔てられていた学問の自然な秩序に、位置づけ直されるのである」(チェンバーズ『サイクロピーディア』序文より)*2。
(Chambers [1728]:p. ⅰ)
チェンバーズはとても慧眼であり、アルファベット順というものが「学問の自然な秩序」を妨げていると考えていたことが上の箇所から読み取れます。確かにABCDE…という配列によって、本当は相互に連関の強い諸項目が分け隔てられてしまっているということは十分に考えられることで、この弊害を打破するものがレファレンスという手法でした。
とはいえ、今でも紙媒体での分厚い辞書・事典の類書は基本的にアルファベット順、あいうえお順のような言語的配列に従って項目が並んでいます。電子書籍の登場によってこのような配列を経由せずに、該当項目へダイレクトに到達する検索方式が可能となりました。しかし、電子書籍のなかに盛り込まれている辞書・事典はあくまで編纂されたものであり、うまくヒットしない場合は言語的配列に従って前後の項目が提示されます。
このような言語的配列をある程度無視して、該当項目へダイレクトに到達できるようにしたのがGoogleのようなサーチエンジンだと言えるでしょうし、併せてこれをさらに推し進めたのがウェブ上に登場したWikipediaの存在だと言えるでしょう。とりわけWikipediaはレファレンス(=ハイパーリンク)の機能が充実しており、この点で従来の紙媒体での辞書・事典の類書あるいは電子辞書を圧倒してしまっており、Wikipediaにおける諸項目のハイパーリンクこそが、レファレンスの機能として最も有効に活用されている一例であるとさえ言えます。
さらに、最近になって検索の方向性が変わってきています。例えば、百科事典であれGoogleのような検索エンジンであれ、これまで検索するためには検索したい対象の名前を知っておく必要がありました。しかしながら、今日ではGoogleレンズ*3の画像認識によって、名前がわからなくても事物について検索することができるようになりました。
「グーグルレンズにより、カメラで写した花や動物などの名前を調べることが可能だ。植物だけでなく、家具などもカメラで写すことで、どのメーカーのどんな製品名かも調べることができた。そもそも、アプリでも提供されていたが、カメラアプリのサブメニューで呼び出せたり、グーグルアシスタントから呼び出せるのが、意外と便利で、ついつい使いたくなってくるようになってくる。」(Google製スマホ「Pixel 3」を使った率直な感想(石川温) - Engadget 日本版)
このように、名前から対象の事柄へと検索していた従来の方式から、今度は逆に対象(の画像)からその名前と事柄を検索できるように変わりつつあるのです*4。
さて、以上のような現代的状況を踏まえた上で、『百科全書』を眺めてみるとどうなるでしょうか。
ここで1つ、執筆者の問題を取り上げてみましょう。
『百科全書』研究でもしばしば取り上げられる執筆者問題ですが、『百科全書』は項目ごとに執筆者が分かれていて、いわゆる「文人共同体」というかたちで多くの執筆者が参加しました。『百科全書』プロジェクトには、ディドロ、ダランベール、ジョクール、ドルバック、ルソーのような有名人の他にも、符号さえない執筆協力者も多数参加しています。
これに対してWikipediaもまた、数多の実名、匿名、ハンドルネームあるいはIPアドレス表記のみでの執筆者が参加しています。しかし、Wikipediaの場合には、さらに同じ項目でも時間とともに書き換えられ、議論され、複数の執筆者が手を加え、その差分まで表示できるというすぐれものです。現代の「文人共同体」はWikipediaにおいて存在すると言えるでしょう。
『百科全書』に興味持たれた方は、『百科全書』・啓蒙研究会のホームページから学会誌が読めますので、ぜひご覧ください。→こちら
石川温 2018「Google製スマホ「Pixel 3」を使った率直な感想」2018年10月16日, Engadget 日本版.
*1:「『百科全書』はオリジナル作品ではありえない。編集者にとって、人類のあらゆる知識を新機軸かつ革新的にまとめることができると主張するなど、それこそ人智を超えている。先行する典拠の使用はしごく当然といえ、本文にせよ図像にせよ、当時、他の文献の転用は日常的に横行していた。」(ピノー [2017]:55-56頁)
*2:訳は鷲見[2005]:37〜38頁を元に改めた。
*3:Googleレンズが日本語に対応していないため、まだ日本で販売されている通常のスマートフォンやiPhoneではGoogleレンズを使うことはできないが、2018年11月発売予定のGoogle製スマートフォン Pixel 3では、Googleレンズの機能を使用することができる。
*4:例外は、図鑑である。図鑑には絵がたくさん盛り込まれており、絵と実物を照らし合わせることで植物や動物の名前を従来は検索していた。しかし、絵と実物が多少異なることもあり、素人には判別が難しい場合もあるので、その場合の専門教育は徒弟制度のように人から人へ教える形式になりがちである。
熊野先生の『本居宣長』を買いました。
すでに本屋で見かけたことがあると思いますが、とにかくデカイです。約900頁あります。箱の中身はこんな感じです。
(…お分りいただけただろうか?薄っすらと「本居宣長」の文字が入っていることに…。)
そして値段は、8,200円(税別)です。まあ高いですよね。高い。
でも手を出すだけの価値はあると思うんですよ、多分。いやそう信じたい。
中身は外篇と内編に分かれています。Master Neetonさんは次のようにコメントしています。
熊野純彦『本居宣長』
— Master Neeton@哲学の高等遊民 (@MNeeton) 2018年9月28日
一読感想、すごい本
外篇と内篇の2部構成
外篇は本居宣長研究の歴史を明治から詳しすぎるほど書いてあります
明治37年の芳賀矢一という学者の講演から始まり和辻哲郎、丸山真男、羽仁五郎、吉川幸次郎、小林秀雄とメジャーどころから、誰だと思う学者まで徹底的に書かれてます https://t.co/rSccb4ZmCq
それにしても熊野先生が本居宣長について本を書くというのは、ちょっと意外な感じがしますよね。和辻哲郎はまだわかるんですよ。倫理学だし。
でも、レヴィナスやって、ヘーゲルについて書いて、西洋哲学史について纏めて、最近はカントやハイデガーの翻訳を出して、マルクスについても書いて…。あれあれ、熊野先生めっちゃくちゃ挑戦してませんか?
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本日、健康診断結果が届きました。
健康診断の結果が届いて戦慄している
— 荒川幸也 Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2018年9月3日
毎回同じクリニックで基本健診を受けていることもあって、過去三年分の数値データが送られてきます。そうすると、良くも悪くも変化している部分、あまり変化していない部分が分かります。
そこで今回は、今後の自分自身の健康管理をしていこうという前向きな気持ちを込めて、健康診断結果を分析していこうと思います。
以下の項目はA判定であり、基本的には問題がないと考えられます。
「PR時間とは心房の興奮から心室の興奮の始まりまでの時間をいいます。普通、心臓の興奮は心房から始まって、心房と心室の間にある房室結節を通り、心室に至ります。房室結節は興奮伝導に時間がかかる部位ですので、PR時間のほとんどは房室伝導時間で決まってしまいます。 つまり、PR短縮とは房室伝導時間が短いことを意味するものでもあります。
房室伝導時間が短いという状態は、
1) 房室結節がうまれつき小さいか
2) 交感神経活動性が高いか
3) 房室間に房室結節以外の伝導路があるか の3つのどれかが考えられます。この3番目の場合には、副伝導路症候群といわれ、頻拍発作を伴うことがあります。
経過観察というのは、今後、頻拍発作がでるようなことはないか、観察したいということなのではないでしょうか。
ただし、多くの場合は、上記の1、2によるものであり、何も起こらず、また、何も心配の要らないものです。」(「日本心臓財団からの回答」2013年1月18日)
上で見たように、今回A判定の項目で基準値以内あっても、中身を紐解くと数値の増減による疾患のリスクが高まっていることが分かりました。また主に「脂質」の項目に異常が見られました。これはおそらく生活習慣を改善しなければならないサインとして受け取ることができます。
現在、世の中はスコアリングエコノミーに移行しつつあります。そうすると今後、自分自身の健康を管理できているかどうかがスコアリングを行うための評価指標になることが予測されます。簡単に言えば、健康な人は高い評価を受け、不健康な人は低い評価を受ける可能性があります。
もちろん健康管理だけが評価指標となるわけではないでしょう。しかし、前年度と比較して明らかに数値が悪くなっている、あるいは悪化傾向にあり、生活習慣を改善する意図がみられないような場合は、自分自身の健康を管理する能力がないと見なされてもおかしくないわけです。
不健康によって自分だけが損をするのであれば自己責任として放置することができるかもしれませんが、実際には治療費や通院によって家族や同僚といった周囲に迷惑をかけてしまう恐れもあります。健康管理に遅いも早いもないと思いますので、今後は自分自身の食生活や生活習慣に気をつけていきたいと思います。
今日はヴィーコの文献を読みました。さらっとだけど。
↓これ読んでびっくりしたのは、ヴィーコ『新しい学』からの引用が、イタリア語原著じゃなくてドイツ語訳版を参照していたこと。
— 荒川幸也 Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2018年8月31日
山田貞三 [1986]「G.ヴィーコの『新しい学』」https://t.co/9Y3U3yoiqD
この論文、ドイツ語版のヴィーコ『新しい学』を読んで要約した論文でした。
このタイトルで紀要に載せるなら、さすがにイタリア語原著から引用しろよって思う。それとも昔はイタリア語原著を参照するのは難しかったのだろうか。今はGoogle Booksで簡単に見れるけど。
— 荒川幸也 Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2018年8月31日
次の論文もヴィーコ『新しい学』のイタリア語原著を読んでいないようです。
↓「以下、私の引照するヴィコの著作は、殆んど總てミシュレーの佛譯からである。」(122頁) みなまで言うな…
— 荒川幸也 Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2018年8月31日
青木 巖 [1928]「デカルトよりヴィコへ」https://t.co/fTn8oTrDDW
まあ1928年という90年も前の時代なので、原著で読めなかったのは仕方がないのかな。(え?)
ミシュレはヴィーコの『新しい学の原理』を『歴史の哲学の原理』として仏訳出版したんだね。
— 荒川幸也 Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2018年8月31日
でも、ヴィーコの「新しい学」を、ミシュレのように「歴史哲学」として捉えてしまって良いのかな?(まだわからない。)
坂口治子 [1998]「ヴィーコ受容に見るミシュレの方法の転換」https://t.co/QCkJ2zLwrd
確かにミシュレがそう解釈したように、ヴィーコの『新しい学』を「歴史の哲学」 として捉えることができるだろう。しかし、『新しい学』を「歴史の哲学」として捉えてしまうと、それが持っているより豊穣な内容を捨象してしまいかねないという危惧を抱きました。
あーなるほど。ミシュレ以来、「歴史哲学」として解釈されてきた『新しい学』を「美学」として捉えなおしたのがB. クローチェなのね。
— 荒川幸也 Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2018年8月31日
山下俊介 [1981]「G.B.ヴィーコの美学(Ⅰ)」https://t.co/bYe4cY5PDK
次の論文は、ローマ法学者から見たヴィーコ評価です。
ヴィーコはローマ法学者としても評価されているよ。確かにヴィーコの『新しい学』読むと、法・正義論のマニアックな知識がすごい笑
— 荒川幸也 Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2018年8月31日
ジュリアーノ・クリフォ [1988]「ヴィーコ、修辞学とローマ法」https://t.co/WoDr7kzfsU