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ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」

目次

はじめに

 最近、私はベンヤミンの著作や関連書籍に取り組んでいます。きっかけはInstagramで写真を始めたことで、ベンヤミンの写真論が気になり始めたからです。ベンヤミンの「写真小史」は、写真が芸術として認知され始めたばかりの頃に執筆されたもので、写真について論じる上でベンヤミンの写真論は避けて通ることができません。

 そういうわけでベンヤミン『複製技術時代の芸術』(晶文社、1999年)を買って読み始めたのですが、ついついベンヤミン『歴史の概念について』(未来社、2015年)にも手を伸ばしてしまい、今はどちらかというと「歴史の概念について」の読解にハマっています。

ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」

 ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」(いわゆる「歴史哲学テーゼ」)は、ベンヤミン自死後、『社会研究誌』(Zeitschrift für Sozialforshung)の「ベンヤミン追悼特別号」(1942年)において公表された、およそ20のテーゼ群からなる草稿です。この草稿には、一部テーゼが追加・削除されたり修正された複数のバージョンが存在します*1。具体的にはハンナ・アーレントに手渡された手書き原稿や、バタイユに託されたタイプ原稿、ベンヤミンの自筆によるフランス語の手稿などがあります。またベンヤミンを知る人々の間では、この遺稿は「歴史哲学テーゼ」とも呼ばれていました。

 この草稿は第一テーゼからしていきなり難解で、私もかつて学生時代に読んだことがあるのですが、その時はうまく咀嚼できず、すぐに放り投げてしまいました。「歴史の概念について」の個々のテーゼを理解するためには、その他の諸テーゼを交互に行き来しながら、また諸テーゼ全体、あるいは当時のコンテクストを想起しつつ理解する必要があります。この草稿の難解さは、短いながらもまるで解釈学的循環の典型として挙げることができそうなほどですが、しばらく眺めていると「歴史主義」と「史的唯物論」、「勝利」と「敗北」、「メシア的な」ものと「解放」、「歴史の連続体」と「構成」などのキーワードが浮かび上がってきます。これらのキーワードについては、すでに多くの注釈者が述べているところであり、これ以上屋上屋を重ねる必要はないでしょう。

テーゼV──「過去の真の像」の儚さ

「V 過去の真の像はさっとかすめて過ぎ去ってしまう。それが認識可能である瞬間に閃めき、次の瞬間には永久に見えなくなってしまう像としてしか、過去は確固として留めておくことができない。「真理はわれわれから逃げ去ったりはしない」──ゴットフリート・ケラーに由来する、この言葉は、歴史主義の歴史像において、それが史的唯物論によって撃ち抜かれるところをまさに特徴的に示している。というのも、それは〔認識されなくなってしまってからは〕二度と取り返しのつかない過去の像であり、この像は、自分をその過去の像のなかで想念されたものとして認識しなかった各々の現在と共に、消え去ろうとしているのだから。」*2

f:id:sakiya1989:20181128223725j:plain(Benjamin [1991], S. 695)

ここでベンヤミンは「過去の像」の儚さをテーマに語っています。過去の像が儚いものであるがゆえに、留めておくことが難しいのです。しかもそれは決して捉えられないものではなく、認識できるがいつまでも認識することができないものだと表現されています。「過去(Vergangenheit)」とは、その概念からして「過ぎて消え去ったもの」の謂いなのですから、いつまでもこの場に留まっているようなものはそもそも「過去」ではないのです。ここにいつまでもいるようなものはむしろ「現在」です。

 「真理はわれわれから逃げ去ったりはしない」という言葉は、厳密にはゴットフリート・ケラーのものではなくドストエフスキーの『罪と罰』によるものらしいのですが*3、そのような態度で過去と向き合おうとする「歴史主義の歴史像」は、「過去の像」がどれほど儚いものであるかを全然理解していない、という風にも考えられるでしょう。別のテーゼでも歴史主義と史的唯物論の対立が表現されていますが、少なくともベンヤミンの考える「史的唯物論」とは、瞬く間に消え去ってしまう儚き「過去の像」をすくい取るような思想のことを言い表しているようです。

ベンヤミンにおける一回性、個別性、瞬間性へのこだわり

 ところでベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」のうちに見られる特徴が何かと言えば、それはベンヤミンにおける一回性、個別性、瞬間性(とでも言えるようなもの)へのこだわりかもしれません。

 すでにベンヤミンは一回性、個別性、瞬間性(とでも言えるようなもの)へのこだわりを別のところで、すなわち「複製技術時代の芸術」において、複製技術によって失われてしまった「アウラ」という言葉で示していました*4。もちろん「歴史の概念について」では「アウラ」への言及は皆無ですが、「過去のイメージ」がそもそも複製不可能なものであり、そうであるがゆえに「過去のイメージ」はその瞬間において、かつての古典的な意味での芸術の一回性と同型的なものを有しているのです。

 

文献

*1:この点、詳しくはベンヤミン [2015]、28頁以下の鹿島徹による整理を参照されたい。現時点でこの原稿は、自筆原稿が2点、タイプ原稿が4点確認されている。

*2:訳文は、平子友長訳(平子 [2005])、山口裕之訳(ベンヤミン [2011])、鹿島徹訳(鹿島 [2014]、ベンヤミン [2015])を参考にしたが、適宜改めた。

*3:「新全集版の編者注によれば、「真理はわれわれから逃げ去ることはない」という言葉は、詩人ゴットフリート・ケラーの『寓詩物語(Sinngedicht)』(と出典が『パサージュ論』N3a,1に明記されている)には見られない。同時期に読んでいたドストエフスキー罪と罰』ドイツ語訳の第三部第一章にそのまま出てくるため、ベンヤミンが混同したもののように思われる。」(鹿島 [2014]、17頁)。

*4:「芸術作品の一回性とは、芸術作品が伝統とのふかいかかわりのなかから抜けきれないということである。伝統そのものは、もちろんどこまでも生きたものであり、きわめて変転しやすい。たとえば古代のヴィーナス像は、それが礼拝の対象出会ったギリシャ人のばあいと、災いにみちた偶像出会った中世カトリック僧侶たちのばあいとでは、それぞれ異なった伝統にかかわっていたのである。しかし、両方のばあいに共通していえることは、ヴィーナス像のもつ一回性であり、換言すれば、そのアウラであった。」(ベンヤミン [1999]、18頁)。