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ヘーゲル『法の哲学』における「正義」の用例集

 今回は、ヘーゲル『法の哲学』における「正義(Gerechtigkeit)」の用例を以下に示します。これは「抜粋ノート」に過ぎず、本来であればコメントしてしかるべきなのは承知しております。が、このように用例集を作るだけでも、ヘーゲルが「正義」という語をどのように用いているのかが分かるようになると自負しています。

 

§49注解「占有と資産との不均等な配分にたいする自然の不正義を論じるわけにはいかない。というのも、自然は自由ではなく、そのため正でも不正でもないからである。」(ヘーゲル [2001a]、171頁)

(Hegel [1833], S.87.)

§49補遺「だが特殊性の規定、私がどれだけ占有するかという問題は、右の平等外に属する。正義(Gerechtigkeit)は各人の所有が平等であるべきことを要求する、という主張は、ここでは間違いだ。というのも、正義はただ、各人が自分のものとしての所有をもつべきことを要求するだけだからである。反対に特殊性とは、むしろ、まさに不平等こそがそこに根をおろしているところのものであって、ここでは平等のほうが無権利(Unrecht)であろう。」(ヘーゲル [2001a]、172頁) 

(Hegel [1833], S.88.)

§99注解「だが問題は単に害悪でもなければ、あれこれの良いことでもなくて、はっきりと不法正義である。ところが右の皮相的な観点によって、犯罪における第一のかつ実体的な観点であるところの、正義の客観的考察が脇へ置かれる。」(ヘーゲル [2001a]、273頁)

(Hegel [1833], S.137.)

§99補遺「だが権利と正義とは、自由と意志とのうちにその座を有するのであって、おどかしが向けられるところの、不自由のうちにであってはならない。こういう仕方での刑罰の根拠づけは、犬にむかって杖を振り上げるようなものであって、人間はその名誉と自由にしたがって取り扱われるのではなく、犬みたいに取り扱われる。おどかしはひっきょう、人間を憤激させて、人間がそれにたいしておのれの自由を証示することになりかねない。だがそういうおどかしは正義をまったくわきにおくのだ。」(ヘーゲル [2001a]、274-275頁)

(Hegel [1833], S.138-139.)

§100注解「さらに、正義の存在の仕方にかんしていえば、もともと、それが国家のなかでもつ形式、つまり刑罰としての形式が唯一のなのではないし、国家は正義自体の制約条件ではない。」(ヘーゲル [2001a]、277頁)

(Hegel [1833], S.140.)

§101注解「だが、平等規定は、報復の表象のなかへ一つの根本的な困難さをもちこんだ。刑罰諸規定の質的・量的な性状からいっての正義は、しかし、もともと、事柄そのものの実体的なものよりも、もっと後のことである。」(ヘーゲル [2001a]、280頁) 

(Hegel [1833], S.141.)

§102「権利の直接性というこの圏においては、犯罪を揚棄することはさしあたりまず復讐であり、それは、それが報復であるかぎりにおいて内容からいって正である。だが、形式からいえば復讐は一つの主観的意志の行為である。この主観的意志は、行われたどの侵害のなかへもおのれの無限性を置き入れることができ、この主観的意志の正義はそのため総じて偶然的である。またこの主観的意志はじっさい、相手の意志にとっては特殊的意志としてしか存在しないのである。」(ヘーゲル [2001a]、284頁)

(Hegel [1833], S.144.)

§103「ここで不法の止揚の仕方について現に存在しているこうした矛盾が(他の不法のばあいの矛盾と同様に、§86、89)解消されることを要請することは、主観的な利益と形態から解放されているとともに力の偶然性からも解放されているような、したがって復讐的ではなく刑罰的な正義を要請することである。」(ヘーゲル [2001a]、286頁) 

(Hegel [1833], S.145.)

§140注解 (e)の最後「つまり、即自的には私のものでもあるところの正義のなかで、私はただ他人の主観的な信念を知らされるだけであって、その正義が実行されると自分はただ或る外的な暴力によって取り扱われているとしか思えないことになる。」(ヘーゲル [2001a]、384〜385頁)

(Hegel [1833], S.200.)

§145補遺「倫理はそのため諸々の民族にとって永遠の正義として、即かつ対自的に存在する神々として表象されたのであって、これらの神々に向かって諸個人の思い上がった活動が打ち寄せていっても、所詮ははかない波浪の戯れにすぎない。」ヘーゲル [2001b]、10頁)

(Hegel [1833], S.211.)

§215注解ユスティニアヌスのように、たとえ形式不備の集録にすぎないにしても、国民にラント法を与えた支配者、ましてそれを秩序立った明確な法典として与えた支配者は、たんに国民の最大の恩人となり、国民からそれに対する感謝の念をもって賞賛されただけでなく、同時に偉大な正義行為を成し遂げたのである。」ヘーゲル [2001b]、152頁)

(Hegel [1833], S.278-279.)

§220「刑罰は客観的に見れば、犯罪の止揚を通じておのれ自身を回復しこれによりおのれ自身を有効なものとして実現する法律の宥和であり、犯罪者の主観に即して見れば、彼によって知られ、彼のため及び彼の保護のために有効な彼の法律の宥和であって、それゆえ彼自身、この法律が彼に対して執行されることにおいて正義が満たされるのを認め、この執行が彼自身のなすべきことを果たすことにすぎないことを認める。」ヘーゲル [2001]、166頁)

(Hegel [1833], S.286)

§227補遺「ところがここで犯罪者は事実を否認することがあり、そのために正義の利益(das Interesse der Gerechtigkeit)が危うくされるという困ったことが生じる。」ヘーゲル [2001b]、177頁)

(Hegel [1833], S.291-292.)

§229補遺「正義は市民社会における一つの偉大なものである。」ヘーゲル [2001b]、181頁)

(Hegel [1833], S.294.)

§233「なるほどこうしたことは損害の一つの可能性すぎないが、しかしそのことがなんらの損害も与えないということも、一つの偶然であるから、同じくまた一つの可能性以上のものではない。これがそのような行為のなかに含まれている不法面であり、したがってポリツァイ的な刑罰の正義の究極の理由である。」ヘーゲル [2001b]、186頁)

(Hegel [1833], S.295.)

§299注解「じじつお金はしかし自余の資産と並ぶ一つの特殊な資産ではなくて、その他の資産全般に通じる普遍的なものである。とはいえ、その他の資産といっても、現存在の外面性として現われ、その外面性において一つの物件として捉えられることができるかぎりでの資産のことである。この最も外面的な尖端によってのみ、量的な規定性が可能なのであり、これに伴って弁済の正義と平等が可能なのである。」ヘーゲル [2001b]、355頁)

(Hegel [1833], S.390.)

§299補遺「だがお金によって平等の正義ははるかにうまく貫徹されることができる。」ヘーゲル [2001b]、357頁)

(Hegel [1833], S.391.)

§317「世論はそのため正義の永遠なる実体的な諸原理を、そしてまた全体制と立法と総じて一般的な状態との真の内容と成果とを、常識の形式で、すなわち全ての人に先入見の形態をとって浸透している倫理的な基礎の形式で含んでおり、同じくまた現実社会の真の欲求と正しい方向とを含んでいる。」ヘーゲル [2001b]、388頁)

 

(Hegel [1833], S.408-409.)

§345「正義と徳、不法と暴力と悪徳、才能とその所行、ちっぽけな情熱と大いなる情熱、個人生活や民族生活の罪過と無垢と栄光、そしてもろもろの国家や個人の独立と幸運と不運、ーすべてこれらのものは、意識的な現実世界の圏においては、それぞれ一定の意義と価値をもっており、この圏のなかで、それぞれ判決を下され、不完全ながらも正義にかなった取り扱いをうける。しかし世界史はこれらの見地の埒外にある。世界史においては、世界精神の理念の必然的契機であって、現在、世界精神の段階であるところの契機が、絶対的権利を得るのであ理、この契機において生きている民族とその行為が、おのれの目的を完遂して幸運と名声を得るのである。」(ヘーゲル [2001b]、431〜432頁)

(Hegel [1833], S.432.)

 

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