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ヘーゲルの「正義」論

目次

 

今回は、ヘーゲル『法の哲学』におけるヘーゲルの正義論について書きたいと思います。

sakiya1989.hatenablog.com

 

「正義」と「平等」

ヘーゲルの『法の哲学』においては「正義」は総じて「平等」との関わりで登場しますが、テクスト上では「正義」よりも先に「不正義」が語られ、これは配分の不平等との関わりで登場します。

「持ちものと資産との不均等な配分にたいする自然の不正義Ungerechtigkeit der Natur)を論じるわけにはいかない。というのも、自然は自由ではなく、そのため公正(gerecht)でも不正(ungerecht)でもないからだ。」(ヘーゲル [2001]、§49Anm.)

人間は生まれた時は不平等です*1。なぜなら生まれる環境が様々異なるからです。資産に恵まれた環境に生まれる人もいれば、当然、恵まれない環境に生まれる人もいます。

では、「生まれ」という「自然」は不平等なのかというと、そうではないとヘーゲルは説きます。というのも、自然においては正/不正というものはそもそも存在しないからです。先の引用で「自然は自由ではない」と述べられていましたが、「正義」は「権利」と同様に、「自然」という「不自由」のうちにではなく、「自由と意志とのうちに」存在するのです。

「権利と正義(Gerechtigkeit)とは、自由と意志とのうちにその座を有するのであって、おどかしが向けられるところの、不自由のうちにであってはならない。……おどかしはひっきょう、人間を憤激させて、人間がそれにたいしておのれの自由を証示することになりかねない。だがそういうおどかしは正義をまったくわきにおくのだ。」(ヘーゲル [2001]、§99Zu.)

ここで「権利と正義とが自由と意志とのうちに」あるということは、権利と正義とはその根本を同じくしていると言えます。根を同じくしているとはいえ、それでもやはり「権利」と「正義」とは区別されるように思います。

 

iusの分離としての「権利(Recht)」と「正義(Gerechtigkeit)」

ところで、長谷川宏さんはヘーゲル『法哲学講義』(作品社、2000年)の翻訳を出すときにタイトルを「正義の哲学」あるいは「社会正義の哲学」にしたかったと述べています(長谷川宏正義のありか011」)。また長谷川宏「社会正義の哲学」(ヘーゲル [2001]所収)でも同様の趣旨が述べられています。

私が次の記事「【抜粋ノート】ヘーゲル『法の哲学』における「正義(Gerechtigkeit)」の用例集」で示したように、ヘーゲル『法の哲学』の中に「正義(Gerechtigkeit)」論はあります。しかし、そのさい、ヘーゲルの権利論が正義論を包摂しているのであって、その逆ではないことに注意が必要です。

長谷川宏さんの訳し方では、RechtもGerechtigkeitも「正義」の名の下に還元してしまうので、ヘーゲルの原テクストで表現されている両者の違いがかえって不明確になってしまいます。したがって、長谷川さんによる「Recht(権利=正義)」の訳し方と読み方は、ヘーゲル『法の哲学』のテクストの正確な読解を妨げるものであると言えるでしょう*2

「正義」の概念史を追ってみると、古くはアリストテレスの正義論に突き当たります。近年でも正義論に関する議論が活発ですが、正義論はもともと配分や矯正、交換に関する議論から始まったと言えるのです。正義や権利は歴史的にはラテン語のius(jus)で表現されてきましたが、ヘーゲルのテクストにおいて「正義(Gerechtigkeit)」と「権利(Recht)」が区別されるのであるならば、かつて二重の意味を持っていたiusがヘーゲルのテクストにおいてはRechtとGerechtigkeitに枝分かれしていると言えなくもないのです。そして古典的正義論は、ヘーゲルにあってはRechtよりもむしろGerechtigkeitの方に還元されています。 

ちなみに、ここで面白いのはGerechtigkeitという語が、ge-とrechtの組み合わせによって、過去の古典的iusを言い表しているように見えることです。つまり「正義」としてのiusは古典的なiusですから、ドイツ語のGerechtigkeitはそれを文字で表現しているように見えるのです。

 

文献

*1:余談。確かホッブズは『リヴァイアサン』で、人間は見た目や能力が多少異なっていてもその差異は無視できる範囲であるから、人間の自然を平等とみなしたはずだ。しかし、ホッブズはまだ、人間の生まれた家庭の資産環境には注目していなかったように記憶する。

*2:ちなみに、松井によれば、カントの場合には「権利(Recht)」と「正義(Gerechtigkeit)」とは厳密に区別できないという。「カントは正義を法的な枠組みの中で考えるので「正義」と「法」を厳密に区別することはできない。だが言葉のうえからいえば、「正義」はGerechtigkeitで、「法」や「権利」はRechtなので一応は区別されうる。ただし、形容詞のrechtになると両者の関係はかなり曖昧になる。その最たる例が「それ自身で、あるいはその格率からみて、各人の随意志の自由が普遍的法則に従って各人の自由と両立しうる各行為は正しい」という「法の原理」である(Vgl.VI.MS.231)。これは行為の"正しさ"を述べた原理であるから「正義の原理」としても構わない。むしろ正義のほうが法よりも外延が大きいと考えられる。アリストテレスの「全体的正義」はそうした含みを持つ概念である。それに正義は、神の審判のように、もともと宗教に密接に関連する概念である。したがって正義を法的領域に限定するのは、その本来の語義に反するようにも思える。だがカントはそうは考えない。彼はむしろ正義を宗教領域から解放して法的領域に限定することを戦略として目指している。」(松井 [2003]、17〜18頁)。