今日はダヴィッド・ラプジャードの『ドゥルーズ 常軌を逸脱する運動』について書きます。この本は、ドゥルーズのあらゆる著作を一冊の中に凝縮したような本です。たった一冊なのに、非常によくまとまっています。しかもただまとめるだけでなく、ドゥルーズの権利論のような、通常ではピックアップされないようなテーマについてもまとめており、読解の導きとなるような本です。
で、今回この本を読んで気になったのは次のところでした。
『千のプラトー』は、その題名が示すように、様々な多様体の書物である。多様体こそが、書物の対象なのであり、あるいはむしろ書物の「主体」、唯一の「主体」なのである。(ラプジャード『ドゥルーズ 常軌を逸脱する運動』219頁)
んんん?
ラプジャードの原著は見てないんですが、確かにラプジャードの言うように『千のプラトー』を読むと、その対象は「多様体」であり、これが『千のプラトー』の「主体」(「主題」?)であるかのように見えます。(ちなみに「主体」の多義性についてはこちらが参考になります。誰の文章か知りませんが。)
しかし、ちょっと待ってください。『千のプラトー』にはそうじゃないことが書いてあったように思います。
一冊の本には対象(objet)もなければ主題(sujet)もない。本は様々な具合に形作られる素材や、それぞれ全く異なる日付や速度でできている。本を何かある主題に帰属させるということはたちどころに、様々な素材の働きを、そしてそれら素材間の関係の外部性をないがしろにすることになる。(ドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症(上)』15~16頁)
『千のプラトー』には何か或る特定の対象や主題があるわけではないとドゥルーズ&ガタリは述べています。そして、ここで「ない」と言われているところの「対象」や「主題」には、多様体すらも含まれないのかどうかということが問題です。もしそこに多様体が含まれないのであれば、多様体がこの本の対象であり、主体であるというラプジャードの主張は、私には肯首し難い主張ということになりそうですし、そしてラプジャード自身はわざと挑発するような主張をしているのかもしれません。
ラプジャードのこの本は訳者の堀千晶さんと江川隆男さんの対談(『ドゥルーズ』河出書房新社編集部編所収)でも言及されているので、よろしければこちらもチェックしてみてください。