まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」(2)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

はじめに

 前々回に引き続き、ベンヤミン「歴史の概念について」の第一テーゼについて書きたいと思います。

第一テーゼ

f:id:sakiya1989:20181212135204j:plain

周知のように、チェスを指す自動人形が存在したという。この自動人形は、相手がどのような手を指しても人形側にその一局の勝利を保証する応手でもって答えられるように組み立てられていたという。この人形はトルコ風の衣装を纏い、水パイプを口にして、大きなテーブルの上に置かれた盤の前に坐っていた。数枚の鏡を組み合わせたシステムによって、このテーブルはどの方向からも透けて見えるような錯覚を与えていた。ところが本当は、チェスの名人であるせむしの小人がその中に坐っていて、人形の手を紐で操っていたのである。哲学においてもこの装置に相当するものを想像することができる。〔なぜなら〕<史的唯物論>と呼ばれる人形は常に勝たなければならないからだ。この<史的唯物論>と呼ばれる人形が進学を〔味方につけて〕自分のために働かせることができるならば、この人形はどんな相手とも十分互角に張り合うことができるのだ。〔神学が自動人形を操るせむしの小人に擬せられる理由は〕神学が今日では小さく醜い存在となっており、そのうえ自分の姿を人目に曝すことが許されていないことは、周知のことだからである。

(Benjamin 1991: 693、平子2005: 2)

第一テーゼは「韜晦的表現による問題提起」(鹿島2013: 10)と言われ、つまり理解するのが難しいと言われることが多いのですが、その難しさは、西欧の文脈において理解されうるイメージを、時間と空間において遠く離れた我々が、ほとんど活字だけで理解しようとするところに起因するのかもしれません。少なくともこの第一テーゼに関しては、補助的に画像を用いたほうが圧倒的に理解しやすいと思われます。とりわけ日本でこの第一テーゼの読解を難しくしているのは、おそらくベンヤミンが「トルコ人」と「せむしの小人」という二つの喩えを用いて、史的唯物論と神学の関係を巧みに表現している点であると思います。

トルコ人

 まず「トルコ人」について簡単にみていきましょう。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8b/Tuerkischer_schachspieler_windisch4.jpg

(ケンペレンの「トルコ人」のスケッチ、Category:The Turk - Wikimedia Commonsより)

上の画像は「トルコ人」という自動人形のイラストです。「トルコ人*1は1770年にケンペレンが発明した自動人形(だと人々は思い込んでいた)です。その中に人間としてのチェスの名人が入っていることを知られることなく、「トルコ人」は84年間にわたってチェスの試合で勝ち続けてきました。

 テーゼⅠでは「口に水煙管をくわえた(eine Wasserpfeife im Munde)」と記述されています。しかし、上のスケッチでは「トルコ人」は水煙管を口にくわえていません。水煙草をくわえた「トルコ人」が確認できるのは、Racknitz [1789]の巻末付録のイラストです。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5d/Tuerkischer_schachspieler_racknitz1.jpgRacknitz [1789]の巻末付録のイラストCategory:The Turk - Wikimedia Commonsより)

 「トルコ人」についてはWindisch 1784の記述をもとに三枝2014: 11以下で詳しく描かれています。興味深いことに、当時の人々はこの「トルコ人」を見て不気味に感じたそうです(三枝2014: 13〜14)。AIについての議論が盛んになったちょうど昨年頃に、我々がAIに対して脅威を抱いたのと同じように、ゼンマイ仕掛けの自動人形が知能を持っているように見えるその姿は、当時の人々にとって恐ろしいものだったのかもしれません。

 今となっては、ディープニューラルネットワークによってチェスを習得したAIは、人間に必ず勝って当然の存在となってしまいました。もはや「トルコ人」の喩えはもはや単なる喩えとして通用しないような状況になってしまったと言えるかもしれません。

 そして今日、我々がよく考える必要があるのは、まさにこの点にあります。我々人間がAIとチェスで対局する場合、AIは自動人形のような身体性を持ち合わせる必要がなく、せいぜいディスプレイ上で戦うぐらいです。チェスの名手としてのAIは身体性を持たない知性であり、そこに見つかるのはせいぜいアルゴリズムです。いわゆるAIは、「自動人形」(物質性・身体性)と「せむしの小人」(人間、中の人)の両方から解放された存在のようにも見えます。

japan.cnet.com

 せむしの小人

 次に「せむしの小人」についても簡単にみておきましょう。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/Offterdinger_Schneewitchen_%282%29.jpg(Carl Offterdingerのイラスト"Schneewittchen und die sieben Zwerge"

ゲーマーであれば、「ドワーフdwarf)」というキャラクターを知っていると思いますが、dwarfという英語は元々はドイツ語のZwerg(小人)に由来します。周知のように、19世紀の代表的な文学者であるグリム兄弟が編集した「グリム童話」には「白雪姫」が収められています。「白雪姫」はディズニーのアニメーションを通じて我々にとっても非常に身近な童話ですが、「白雪姫」に登場する「7人の小人(sieben Zwerge)」こそが我々にとって最もイメージしやすい侏儒かもしれません。

 要するに「小人(Zwerg)」とはちっちゃいおじさんのことであり、しかも「せむし(buckliger)」つまり背が曲がって醜い姿をしているようなちっちゃいおじさんが、先にみた「トルコ人」のテーブルの中に隠れてチェスを行なっていた、ということです。

 以上、ほとんど前置きみたいな話ばかりでしたが、一見すると不要にも思われることをわざわざ取り上げたのは、ベンヤミンの第一テーゼを取り上げて語る論文がほとんど画像を用いずに論じているからです。しかしながら、画像(Bild)は、「歴史の概念について」の他のテーゼでは極めて重要な概念をなしており、したがって我々はこのテーゼを論じる際に画像を用いても良いはずなのです。ベンヤミンの第一テーゼの思想を文学的に読解するためには、少なくとも以上のような「トルコ人」や「せむしの侏儒」のイメージを膨らませて読むことが重要だと私は思います*2

おわりに

 ベンヤミンはこの第一テーゼの中で「人は、この装置に匹敵するものを、哲学において思い浮かべることができる」と述べています。これを真似して言うならば、「人は、この装置に匹敵するものを」、ITの分野においても「思い浮かべることができる」と言えるのかもしれません。昨今ではAIやビッグデータというものがバズワードとして用いられています。AIに任せれば上手くいく、という観念は、まるで「トルコ人」の自動人形のうちに人々が観ていたものを彷彿とさせます。AIやビッグデータといっても、実際には、アルゴリズムを組み直したり、常に問題がないようにインフラを整備している多くの人々の努力があってこそ成り立っています。ビッグデータ解析はとりわけ、データの集積だけで何かの役に立つというたぐいのものではなく、データサイエンティストによる解釈が必要です。女子高生AI「りんな」やBotチャットは自動的に返事をするバーチャルな「自動人形」です。が、深層学習が時としてウェブ上の情報に基づいて偏見を形成してしまう恐れがあるために、「自動人形」がチューリングテストに合格するためには、常に背後に人間が、もしかしたら表舞台には出てこない「せむしの侏儒」が常に見張っている必要があるのかもしれません。「歴史の概念について」の第一テーゼを読むと、AIやビッグデータなどのテクノロジーが、根源的には常にすでに人力に頼っているのだということを、私は想い起こさずにはいられないのです。

文献

*1:トルコ人」はder Schachtürke, der Türke, der Shachautomat, der Schachspielerなどと呼ばれたという(三枝2014: 18)。

*2:アレント2005や白井2012では、ベンヤミンに関連して「せむしの小人(侏儒)」が詳しく取り上げられている。こちらもぜひ読まれたい。