まだ先行研究で消耗してるの?

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ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」(2)

目次

以下の文章は、この記事の続きです。

sakiya1989.hatenablog.com

はじめに

 前々回に引き続き、ベンヤミン「歴史の概念について」のとりわけテーゼIについて書きたいと思います。

 余談ですが、「歴史の概念について」や「複製技術時代の芸術作品」の読解と並行して、ベンヤミンの他の著作もパラパラとめくっているのですが、ベンヤミンの「エードゥアルト・フックス──収集家と歴史家」という(あまり聞き慣れない)著作には「歴史の概念について」の一部のテーゼがそのまま掲載されており、両者を総合的に理解していく必要性があると思いました。

テーゼIの解釈──二者択一の解釈枠組みと解釈のゆらぎ

「I 周知の通り、チェスの対戦者がどんな手を打っても、自分が試合に勝利することを確実にする手でやりかえすよう組み立てられた、一つの自動人形(オートマトン)があったという。トルコ衣装を身に纏い、口に水煙管(キセル)をくわえた人形(パペット)が、広々としたテーブルの上に置かれたチェス盤の前に鎮座していた。複数の鏡からなる仕組みによって、どの側からもテーブルの向こうが透けて見えるような錯覚(イリュージョン)が引き起こされていた。実際には、そのテーブルの中にチェスの名人であるせむしの侏儒が入っていて、人形の手をひもで操作していたのである。この装置に匹敵するものを哲学において思い浮かべることができる。<史的唯物論>と呼ばれる人形が、当然のごとく常に勝利するというのである。今日、周知の通り、小さく醜くて人目に触れさせてはいけない神学をうまく働かせるならば、〔<史的唯物論>と呼ばれる〕その人形はどんな敵手をもやすやすと迎え撃つことができるのである。」

f:id:sakiya1989:20181212135204j:plain(Benjamin [1991], S.693)

このテーゼの解釈をめぐって、まず先行研究を見ていきましょう。

 徳永によると、「このテーゼの解釈に関しては、六〇年代末から七〇年代にかけて、大きな論争を巻き起こした」(徳永 [1991]、5頁)そうです。それはどのような論争だったのか、徳永は次のように続けています。

「それはベンヤミンにおけるマルクス主義的要素を重視するか、ユダヤ神学的要素を重視するか、別の言い方をすれば、ブレヒトに引きつけて解釈するか、ショーレムに引きつけて解釈するか、をめぐって展開された。すでに邦語への翻訳が問題を含んでいるので、最終行「雇う」が『著作集』版では、「使いこなす」と訳されているが、いったい人形(もしくはその背後にいる人間)が小人を使うのか、小人が人間を操る(lenken)のかで、解釈は大きく別れてくる。さらにベンヤミンがそれぞれ異なった草稿を、(アレントを含めた)数人に送ったことも手伝って、論争はアドルノによるテキストの改ざん問題にまで紛糾した。」(徳永 [1991]、5頁)

ここにテーゼIでよく取り上げられる解釈問題が端的に要約されています。仲正 [2011]ではこれらの論争を踏まえた上で読解作業が行なわれています。

 かつて議論されたように、チェスの名手という自動人形に擬せられた<史的唯物論>と、「せむしの侏儒」に擬せられた人目を憚る神学は、果たしてどちらが主体なのでしょうか。ちなみに、ベンヤミンは冒頭で「一つの自動人形があったという(soll es einem Automaten gegeben haben)」話をしていますが、「自動人形(Automat)」の語源であるギリシア語のautomatosは「自らの意志で動くもの」という意味を持っていました。

 心身二元論的な発想で考えると、自動人形(史的唯物論)は物体・身体corpus)的存在であり、これを操作して試合に勝利する小人(神学)は知性・精神mens)的存在になぞらえることができるかもしれません。余談ですが、自動人形の中に小さな人間が入って操作をしているというイメージは、興味深いことに、ロボット(自動人形)の中に小さな子供が入ってコクピットで操作することで有名な『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』のようなジャパン・アニメーションを観てきた我々にとってはわりと馴染みのあるものと言えます。

 さて、テーゼIの中に"Gewinnen soll immer die Puppe, die man >historischen Materialismus< nennt."という一文があります。平子はこの文のsollenをどのように翻訳すべきか、という問題提起を行なっています(平子 [2005]、5頁以下)。平子によれば、sollenは多義語ですが、ここで問題となるsollenの意味は主に二つに絞られ、それは第一に「主語の行為・状態について話し手の立場から見れば多少とも疑わしい第三者の主張や言い分を表現する」という意味と、第二に「主語の行為・状態について話し手自身の意志、願望、要求を表現する」という意味です。野村修訳と浅井健二郎訳では第一の意味を採用し、これらの従来の邦訳では「いつでも勝つことになっている」と訳されています。が、平子によれば、このような訳は「致命的な誤訳」であり、ここでは「「史的唯物論が常に勝利する」ことをベンヤミン自身が切実に要求・要望しているという意味になり、そのための前提条件として、史的唯物論が神学という武器を装備することの必然性が導かれるという構成」をとって、「〔なぜなら〕<史的唯物論>と呼ばれる人形は常に勝たなければならないからだ」と訳しています。平子がsollenを二つの意味に絞り込み、どちらか一方の意味だけを正しいものとする解釈の仕方に対して、鹿島は「まさに問題とされるべきは以上の二者択一であろう」(鹿島 [2013]、19頁)と応えています。

 ここで今一度、sollenにどのような意味があるのか確認してみましょう。手元にある『独和大辞典』では、sollenは次のように分類されています。

「1(人間または事物を主語とする文で; 主語以外の他人の意志や他の力からの強制)…すべき立場にある, …しなければならない状態にある:

  a)(道義的要求・条理的必要)

  ①(英 : shall)…するのが当然である, …しなければならない

  ②(接続法Ⅱの形で; 実現していないことを示して)本当は…すべきところなのに, …すればよいのに

  b)(特定の個人の意志・要求)

  ①(第三者の意志:要求・命令・依頼)…するように言われている, するように指示されている, …させられる

  ②(話し手の意志:要求・願望・意図・計画)(…は)…しなさい, …してもらいたい, …であってほしい, …としたい;…してやろう, するがよい;…としよう

  c)(事物を主語とする文などで; 当事者の意図・計画を示して)(…は)…の意図に基づいている, …というつもりのものである, …という手はずである

  d)(成りゆき・運命的必然)…する定めにある, するにきまってしまっていてどうにもならない

2(話し手が事実かどうかについての判断を留保していることを示して; ふつう定形でのみ用い, 分詞や不定形の形では用いない)

  a)主語の行為・状態についての第三者の(話し手から見ると多少とも疑わしい)主張・言い分・うわさを示す; しばしば本動詞は完了形で)…と言われている, …ということである, (ある人の言い分では)…ということになる; といううわさである

  b)(接続法Ⅱの形で条件文に用いられて)(ひょっとして)…というのならば, (万一)…という場合には」(『独和大辞典』"sollen"、下線引用者)

上の引用では、平子 [2005]がテーゼIのsollen解釈の論点として絞り込んだ二つの意味に該当する部分として「1, b),②」と「2, a)」に下線を引きました。

 平子 [2005]によれば、野村訳(A)と浅井訳(B)は、「2, a)」(=平子 [2005]の(1))の意味を採用し、平子訳は「1, b),②」(=平子 [2005]の(2))の意味を採用したと述べられています(平子 [2005]、4頁)。

 しかしながら、「いつでも勝つことになっている」という訳文のA・Bが採用しているのは、上の「2, a)」ではなく、「1, d)」すなわち「(成りゆき・運命的必然)…する定めにある, するにきまってしまっていてどうにもならない」という意味ではないでしょうか。

 そしてA・Bに対して、平子自身は「1, b),②」の意味を採用したと述べています。が、「〔なぜなら〕<史的唯物論>と呼ばれる人形は常に勝たなければならないからだ」という訳文には「1, b),②」ではなく、「1, a), ①」が表現されているように思われます。少なくとも「〔なぜなら〕<史的唯物論>と呼ばれる人形は常に勝たなければならないからだ」という訳文から、常勝を「ベンヤミン自身が切実に要求・要望している」(平子 [2005]、4頁)ということまで読み取ることは私には困難です。また平子はこの文を前文「哲学においてもこの装置に相当するものを想像することができる」ことの理由として、原文にはない「〔なぜなら〕〜からだ」という表現を追加しています。が、私はここは文字通り読んで、前文の理由ではないと思います。ただし、この文に続く最後の一文は、この文で「常に勝って当然である」ことの説明にはなっていると思います。

 私は、この文のsollenは、ベンヤミン自身の主観的な要求・要望ではなく、客観的な要請の意味と、成りゆき・運命的必然の意味と、噂・伝聞の意味とが二重、三重に重層的に用いられているように思います。というのも、実際にチェスの名手である小人をそのテーブル内に含んだ「トルコ人」という人形(後述)は実際に常に勝利してきたのであって、まさにこれに匹敵する事態を、この文のsollen解釈に反映させるならば、「<史的唯物論>と呼ばれる人形が、当然のごとく常に勝つというのである」となります。

 ちなみに「<史的唯物論>と呼ばれる人形は常に勝たなければならない」という訳を取るならば、私はここに、その人形が(やや主体性を欠いて)いつも勝利するように誰かに強要されている、という印象を持ちます。しかし、神学と共に闘うことで「史的唯物論という人形は、どんな敵手をもやすやすと迎え撃つことができる」という優れた能力を持つのですから、その能力が勝利という結果をもたらせばよいだけのことであって、そこには「常に勝たなければならない」という書き手の要望は不要であるように思います。

 鹿島が二者択一という解釈枠組みの問題を指摘しているように、そもそも多義的なsollenを日本語で一義的に表現することに無理があるのかもしれません。また文法上の解釈だけでなく内容上の解釈でも、二者択一という解釈枠組みは危険性をはらんでいます。例えば、史的唯物論と神学とは、一般的には相反するような、水と油のような概念でありながら、ベンヤミンのこのテーゼの中ではそれらが同居しています。徳永は、二者択一を迫る解釈枠組みを退けつつ、──また「分業」や「両立」という解釈枠組みも退けつつ──ベンヤミンの叙述における「重層的な構造」に注目しています。

「問題はマルクス主義ユダヤ神学とをentweder-oderという形で対立させて、どちらかを取捨選択することでもなく、また何人かの論者がやったように、「ベンヤミンは未来に対しては史的唯物論者であり、過去に対しては神学者だった」というふうに分業させたり、「マルクス主義の自由の王国ユートピアと宗教的メシアニズムの共通性」を指摘するという形で両立させたりすることでもないだろう。相反するイメージ、とりわけ過去と未来とをオーバー・ラップさせて、それを透析するという、ベンヤミンのいわゆる「弁証法的イメージ(Bild)」を、ベンヤミン自身の解釈に適用して、表裏顕隠する重層的な構造を読み解くことが求められている。」(徳永 [1991]、5頁)

私もまた、どちらか一方の解釈を迫る二者択一というのは、ことベンヤミンの「歴史の概念について」に関しては、採用するべきではない解釈枠組みだと思います。というのも、ベンヤミンのテクストは、一つの型にはめ込むような一元的な解釈枠組みをもってしては捉えることができないような仕方で成り立っているからであり、だからこそベンヤミンの「歴史の概念について」は読み応えがあるのです。以前、「テクスト解釈の多様性」という記事で「ウサギ-アヒル錯視」を取り上げましたが、その時、絵はウサギとアヒルのどちらにも見えるものでした。ベンヤミンのテクストもまたどちらにも読み取れるような叙述であり、そうであるがゆえにどちらか一方の解釈をわざわざ削り取って、テクストのゆらぎを狭める必要はないと思います。

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トルコ人」と「せむしの侏儒」

さて、この第一テーゼは「韜晦的表現による問題提起」(鹿島 [2013]、10頁)と言われ、つまり理解するのが難しいと言われることが多いのですが、その難しさは、西欧の文脈において理解されうるイメージを、時間と空間において遠く離れた我々が、ほとんど活字だけで理解しようとするところに起因するのかもしれません。少なくともこの第一テーゼに関しては、補助的に画像を用いたほうが圧倒的に理解しやすいと思われます。とりわけ日本でこの第一テーゼの読解を難しくしているのは、おそらくベンヤミンが「トルコ人」と「せむしの侏儒」という二つの喩えを用いて、史的唯物論と神学の関係を巧みに表現している点であると思います。

トルコ人

 まず「トルコ人」について簡単にみていきましょう。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8b/Tuerkischer_schachspieler_windisch4.jpg

(ケンペレンの「トルコ人」のスケッチ、Category:The Turk - Wikimedia Commonsより)

上の画像は「トルコ人」という自動人形のイラストです。「トルコ人*1は1770年にケンペレンが発明した自動人形(だと人々は思い込んでいた)です。その中に人間としてのチェスの名人が入っていることを知られることなく、「トルコ人」は84年間にわたってチェスの試合で勝ち続けてきました。

 テーゼⅠでは「口に水煙管をくわえた(eine Wasserpfeife im Munde)」と記述されています。しかし、上のスケッチでは「トルコ人」は水煙管を口にくわえていません。水煙草をくわえた「トルコ人」が確認できるのは、Racknitz [1789]の巻末付録のイラストです。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5d/Tuerkischer_schachspieler_racknitz1.jpgRacknitz [1789]の巻末付録のイラストCategory:The Turk - Wikimedia Commonsより)

 「トルコ人」についてはWindisch [1784]の記述をもとに三枝 [2014](11頁以下)で詳しく描かれています。興味深いことに、当時の人々はこの「トルコ人」を見て不気味に感じたそうです(三枝 [2014]、13〜14頁)。AIについての議論が盛んになったちょうど昨年頃に、我々がAIに対して脅威を抱いたのと同じように、ゼンマイ仕掛けの自動人形が知能を持っているように見えるその姿は、当時の人々にとって恐ろしいものだったのかもしれません。

 今となっては、ディープニューラルネットワークによってチェスを習得したAIは、人間に必ず勝って当然の存在となってしまいました。もはや「トルコ人」の喩えはもはや単なる喩えとして通用しないような状況になってしまったと言えるかもしれません。

 そして今日、我々がよく考える必要があるのは、まさにこの点にあります。我々人間がAIとチェスで対局する場合、AIは自動人形のような身体性を持ち合わせる必要がなく、せいぜいディスプレイ上で戦うぐらいです。チェスの名手としてのAIは身体性を持たない知性であり、そこに見つかるのはせいぜいアルゴリズムです。いわゆるAIは、「自動人形」(物質性・身体性)と「せむしの侏儒」(人間、中の人)の両方から解放された存在のようにも見えます。

japan.cnet.com

 せむしの侏儒

 次に「せむしの侏儒」についても簡単にみておきましょう。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/Offterdinger_Schneewitchen_%282%29.jpg(Carl Offterdingerのイラスト"Schneewittchen und die sieben Zwerge"

ゲーマーであれば、「ドワーフdwarf)」というキャラクターを知っていると思いますが、dwarfという英語は元々はドイツ語のZwerg(小人=侏儒)に由来します。周知のように、19世紀の代表的な文学者であるグリム兄弟が編集した「グリム童話」には「白雪姫」が収められています。「白雪姫」はディズニーのアニメーションを通じて我々にとっても非常に身近な童話ですが、「白雪姫」に登場する「7人の小人(sieben Zwerge)」こそが我々にとって最もイメージしやすい侏儒かもしれません。

 要するに「侏儒(Zwerg)」とはちっちゃいおじさんのことであり、しかも「せむし(buckliger)」つまり背が曲がって醜い姿をしているようなちっちゃいおじさんが、先にみた「トルコ人」のテーブルの中に隠れてチェスを行なっていた、ということです。

 以上、ほとんど前置きみたいな話ばかりでしたが、一見すると不要にも思われることをわざわざ取り上げたのは、ベンヤミンの第一テーゼを取り上げて語る論文がほとんど画像を用いずに論じているからです。しかしながら、画像(Bild)は、「歴史の概念について」の他のテーゼでは極めて重要な概念をなしており、したがって我々はこのテーゼを論じる際に画像を用いても良いはずなのです。ベンヤミンの第一テーゼの思想を文学的に読解するためには、少なくとも以上のような「トルコ人」や「せむしの侏儒」のイメージを膨らませて読むことが重要だと私は思います*2

おわりに

 ベンヤミンはこの第一テーゼの中で「人は、この装置に匹敵するものを、哲学において思い浮かべることができる」と述べています。これを真似して言うならば、「人は、この装置に匹敵するものを」、ITの分野においても「思い浮かべることができる」と言えるのかもしれません。昨今ではAIやビッグデータというものがバズワードとして用いられています。AIに任せれば上手くいく、という観念は、まるで「トルコ人」の自動人形のうちに人々が観ていたものを彷彿とさせます。AIやビッグデータといっても、実際には、アルゴリズムを組み直したり、常に問題がないようにインフラを整備している多くの人々の努力があってこそ成り立っています。ビッグデータ解析はとりわけ、データの集積だけで何かの役に立つというたぐいのものではなく、データサイエンティストによる解釈が必要です。女子高生AI「りんな」やBotチャットは自動的に返事をするバーチャルな「自動人形」です。が、深層学習が時としてウェブ上の情報に基づいて偏見を形成してしまう恐れがあるために、「自動人形」がチューリングテストに合格するためには、常に背後に人間が、もしかしたら表舞台には出てこない「せむしの侏儒」が常に見張っている必要があるのかもしれません。「歴史の概念について」の第一テーゼを読むと、AIやビッグデータなどのテクノロジーが、根源的には常にすでに人力に頼っているのだということを、私は想い起こさずにはいられないのです。

文献

*1:トルコ人」はder Schachtürke, der Türke, der Shachautomat, der Schachspielerなどと呼ばれたという(三枝 [2014]、18頁)。

*2:アレント [2005]や白井 [2012]では、ベンヤミンに関連して「せむしの侏儒」が詳しく取り上げられている。こちらもぜひ読まれたい。