まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ベンヤミンのいわゆる『複製技術時代の芸術作品』

目次

 前回に引き続き、今回もヴァルター・ベンヤミンについて取り上げたいと思います。

はじめに

 私は少し前まではベンヤミンという思想家をさほど重要視していませんでしたが、ベンヤミンについて調べてみると意外にも面白いことが多く、例えばベンヤミンアドルノに「非弁証法的」と言われていたそうです*1。しかしながら、ベンヤミンの「非弁証法的」な点とは、決してネガティヴに退けられるべきものではなくて、むしろベンヤミンの独自性がそこにあるとでもいうべきポジティヴなものだと思います。この点については別の機会に取り上げます。 

 今回取り上げるのは、ベンヤミンのいわゆる『複製技術時代の芸術作品』です。原題は Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit です。これは直訳すると『技術的複製可能性の時代の芸術作品』です。山口先生は邦訳で原題を直訳にしつつ、「技術的複製可能性」という概念の重要性を次のように指摘しています。

「これまでの標題で「複製技術時代」という表現が選ばれたのは、おそらく「技術的複製可能性の時代」という直訳による表現が、日本語としてはあまりにも生硬で重いためだろう。しかし、「技術的複製可能性」はこのテクストのなかでもっとも中心的な概念の一つである。ベンヤミン論議のなかで「複製可能性」が問題となるのは、それがメディアの技術的進展のもっとも重要なメルクマールであり、そしていうまでもなく、その技術的進展にともなって「オーラの衰退」という芸術概念における根本的な転換が生じるからである。」(ベンヤミン [2011]、404頁)。

この記事のタイトルに『複製技術時代の芸術作品』の呼称を採用しているのは、結局のところこの題名の方が通俗化してしまっているからですが、これがあくまで通称であることを示す意味で「いわゆる」と付してあります。

今『複製技術時代の芸術作品』を読む意義

 先に申し上げておきますと、ベンヤミンの生きていた時代と我々の時代とは状況がかなり異なっているため、今『複製技術時代の芸術作品』を読む意義がどこにあるのかを語ることに躊躇いがないわけではありません。また私は在野研究者なので、わざわざベンヤミンの思想のアクチュアリティなどというものを説かずとも好き勝手に研究すれば良いと思うのですが、それでもベンヤミンの思考のアクチュアルな点について書きたくなってしまうものです。

 まず『複製技術時代の芸術作品』で言われていることは、カメラとフィルムの発明によって写真や映画が登場し、そしてこれらが人々に新たに芸術作品として受容されるようになると、従来、アウラという一回限りの体験としてみなされてきた「芸術」の概念が変容してしまうというものです。つまり、ベンヤミンは「技術的複製可能性」によって「芸術作品」の概念が刷新される時代に立ち会ったのであり、その時代を描写したことによって、歴史に名を残す思想家になったのだと言えます。

 そして時代認識として、ベンヤミンのいう「技術的複製可能性」というものが、現代の我々にとって身近に感じられるようになっていると思います。現代の「技術的複製可能性」を具体的に言うと、YoutubeNetflixのようなストリーミング技術を通じて、またTwitterInstagramTikTokのようなSNSを通じて、ビデオやミュージック、イメージ画像を、遠く離れた地域の多くの人々が手軽に配信・共有できるようになり、体験できるようになったことです。つまり、ベンヤミンのいう「技術的複製可能性」を実現しているのは、(動)画像圧縮技術であり、またそれを伝達するためのネットワークインフラの技術です。現在の支配的なテクノロジーを思想史的に捉えるためには、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』を無視することは決してできないと私は思います。 

 

文献

*1:アレント [2005]、254頁。

ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」

目次

はじめに

 最近、私はベンヤミンの著作や関連書籍に取り組んでいます。きっかけはInstagramで写真を始めたことで、ベンヤミンの写真論が気になり始めたからです。ベンヤミンの「写真小史」は、写真が芸術として認知され始めたばかりの頃に執筆されたもので、写真について論じる上でベンヤミンの写真論は避けて通ることができません。

 そういうわけでベンヤミン『複製技術時代の芸術』(晶文社、1999年)を買って読み始めたのですが、ついついベンヤミン『歴史の概念について』(未来社、2015年)にも手を伸ばしてしまい、今はどちらかというと「歴史の概念について」の読解にハマっています。

ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」

 ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」(いわゆる「歴史哲学テーゼ」)は、ベンヤミン自死後、『社会研究誌』(Zeitschrift für Sozialforshung)の「ベンヤミン追悼特別号」(1942年)において公表された、およそ20のテーゼ群からなる草稿です。この草稿には、一部テーゼが追加・削除されたり修正された複数のバージョンが存在します*1。具体的にはハンナ・アーレントに手渡された手書き原稿や、バタイユに託されたタイプ原稿、ベンヤミンの自筆によるフランス語の手稿などがあります。またベンヤミンを知る人々の間では、この遺稿は「歴史哲学テーゼ」とも呼ばれていました。

 この草稿は第一テーゼからしていきなり難解で、私もかつて学生時代に読んだことがあるのですが、その時はうまく咀嚼できず、すぐに放り投げてしまいました。「歴史の概念について」の個々のテーゼを理解するためには、その他の諸テーゼを交互に行き来しながら、また諸テーゼ全体、あるいは当時のコンテクストを想起しつつ理解する必要があります。この草稿の難解さは、短いながらもまるで解釈学的循環の典型として挙げることができそうなほどですが、しばらく眺めていると「歴史主義」と「史的唯物論」、「勝利」と「敗北」、「メシア的な」ものと「解放」、「歴史の連続体」と「構成」などのキーワードが浮かび上がってきます。これらのキーワードについては、すでに多くの注釈者が述べているところであり、これ以上屋上屋を重ねる必要はないでしょう。

テーゼV──「過去の真の像」の儚さ

「V 過去の真の像はさっとかすめて過ぎ去ってしまう。それが認識可能である瞬間に閃めき、次の瞬間には永久に見えなくなってしまう像としてしか、過去は確固として留めておくことができない。「真理はわれわれから逃げ去ったりはしない」──ゴットフリート・ケラーに由来する、この言葉は、歴史主義の歴史像において、それが史的唯物論によって撃ち抜かれるところをまさに特徴的に示している。というのも、それは〔認識されなくなってしまってからは〕二度と取り返しのつかない過去の像であり、この像は、自分をその過去の像のなかで想念されたものとして認識しなかった各々の現在と共に、消え去ろうとしているのだから。」*2

f:id:sakiya1989:20181128223725j:plain(Benjamin [1991], S. 695)

ここでベンヤミンは「過去の像」の儚さをテーマに語っています。過去の像が儚いものであるがゆえに、留めておくことが難しいのです。しかもそれは決して捉えられないものではなく、認識できるがいつまでも認識することができないものだと表現されています。「過去(Vergangenheit)」とは、その概念からして「過ぎて消え去ったもの」の謂いなのですから、いつまでもこの場に留まっているようなものはそもそも「過去」ではないのです。ここにいつまでもいるようなものはむしろ「現在」です。

 「真理はわれわれから逃げ去ったりはしない」という言葉は、厳密にはゴットフリート・ケラーのものではなくドストエフスキーの『罪と罰』によるものらしいのですが*3、そのような態度で過去と向き合おうとする「歴史主義の歴史像」は、「過去の像」がどれほど儚いものであるかを全然理解していない、という風にも考えられるでしょう。別のテーゼでも歴史主義と史的唯物論の対立が表現されていますが、少なくともベンヤミンの考える「史的唯物論」とは、瞬く間に消え去ってしまう儚き「過去の像」をすくい取るような思想のことを言い表しているようです。

ベンヤミンにおける一回性、個別性、瞬間性へのこだわり

 ところでベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」のうちに見られる特徴が何かと言えば、それはベンヤミンにおける一回性、個別性、瞬間性(とでも言えるようなもの)へのこだわりかもしれません。

 すでにベンヤミンは一回性、個別性、瞬間性(とでも言えるようなもの)へのこだわりを別のところで、すなわち「複製技術時代の芸術」において、複製技術によって失われてしまった「アウラ」という言葉で示していました*4。もちろん「歴史の概念について」では「アウラ」への言及は皆無ですが、「過去のイメージ」がそもそも複製不可能なものであり、そうであるがゆえに「過去のイメージ」はその瞬間において、かつての古典的な意味での芸術の一回性と同型的なものを有しているのです。

 

文献

*1:この点、詳しくはベンヤミン [2015]、28頁以下の鹿島徹による整理を参照されたい。現時点でこの原稿は、自筆原稿が2点、タイプ原稿が4点確認されている。

*2:訳文は、平子友長訳(平子 [2005])、山口裕之訳(ベンヤミン [2011])、鹿島徹訳(鹿島 [2014]、ベンヤミン [2015])を参考にしたが、適宜改めた。

*3:「新全集版の編者注によれば、「真理はわれわれから逃げ去ることはない」という言葉は、詩人ゴットフリート・ケラーの『寓詩物語(Sinngedicht)』(と出典が『パサージュ論』N3a,1に明記されている)には見られない。同時期に読んでいたドストエフスキー罪と罰』ドイツ語訳の第三部第一章にそのまま出てくるため、ベンヤミンが混同したもののように思われる。」(鹿島 [2014]、17頁)。

*4:「芸術作品の一回性とは、芸術作品が伝統とのふかいかかわりのなかから抜けきれないということである。伝統そのものは、もちろんどこまでも生きたものであり、きわめて変転しやすい。たとえば古代のヴィーナス像は、それが礼拝の対象出会ったギリシャ人のばあいと、災いにみちた偶像出会った中世カトリック僧侶たちのばあいとでは、それぞれ異なった伝統にかかわっていたのである。しかし、両方のばあいに共通していえることは、ヴィーナス像のもつ一回性であり、換言すれば、そのアウラであった。」(ベンヤミン [1999]、18頁)。

Instagram(2)──調理としてのフィルター

 これまでここ数年にわたって文字における表現を探究してきましたが、Google Pixel 3 XLの新しいカメラを手に入れてからは写真における表現も面白くなってきました。

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 Instagramには写真アプリでおなじみのフィルターを標準搭載しています。「管理」からフィルターを追加すれば、全40種類のフィルターから選択が可能です。

f:id:sakiya1989:20181119144532p:plainInstagramのフィルターは最大40種類から選択可能。「管理」からフィルターを追加して利用できる。)

 ちなみに、僕がInstagramにアップロードした写真もすべてテーマごとにフィルターを適応しています。例えば、横浜駅の写真にはInstagramの「Hefe」フィルターを適用しました。「Hefe」フィルターの特徴はコントラストを強める点にありますので、このフィルターを電飾のある夜景写真に適用すると、黒が引き締まって電飾の色が強調されるようになり、魅せたい部分が浮かび上がってくる効果が得られました。

「フィルター」の語義矛盾?

 ここで一つ面白いのが、「フィルター」という名前がその機能からしてやや語義矛盾であるように使用されている点です。

 本来ならば「フィルター」とは、これによって不純物を取り除くものであり、これはつまり濾過するという機能を持っています。この意味が転じて、例えば「学歴フィルター」と言われるように、一定水準未満の大卒者をふるいにかけて選抜するという意味でも用いられることがあります。この意味におけるフィルターは、それを通して不純物の通過を阻み、純粋なものを抽出することに主眼が置かれています。

 しかしながら、写真アプリにおける「フィルター」は写真素材を加工する機能を持っており、暗くしたり明るくしたり鮮やかにしたり青っぽくしたり、あたかも特殊なレンズを通じて見たような風景へと加工が行われます。これは場合によってはフィルターの適応によってノイズ(不純物)を付加することさえあります。このような意味でのフィルターを料理に例えると、フィルターとは調理だと言えます。つまり、食材を炒めたり焼いたりして、さらに調味料を加えるようなものです。もちろん食材を生でそのまま食べることもできますが、食材を調理することによってより豊かな味わいが得られるのと同様に、フィルターの適応を通じて写真のより多様な表現が可能となるのです。

Instagram──スクエアのうちに表現されし美学

 Instagramをはじめました。

 今までInstagramのアプリさえ触ったことがなかったのですが、今月自分のスマホGoogle Pixel 3 XLに変えたことがきっかけで、新しい機種の写真性能を試してみたくなったので、撮影した写真をInstagramで公開する事にしました。

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※写真はいずれもGoogle Pixel 3 XL(2018年11月1日発売)で撮影

 

 Instagramをやりはじめていくつかわかったことがあります。

スクエア(正方形)と洗練されたUI

 Instagramでは、元画像が4:3や16:9で撮影されていても、初期設定では端っこがカットされてスクエア(正方形1:1)でアップロードされます。もちろん設定を変えればオリジナル比率で表示できますが、InstagramのUIとしてはスクエアで表示することを想定していると思われます。私はここにInstagramの美学を感じました。

 またInstagramiPad専用アプリを作っていないので、iPadInstagramをアプリで閲覧する場合、x1かx2でモバイル同様のアプリを表示することになります。InstagramiPad専用に最適化されたアプリを作っていないということは、逆に考えるとモバイルのような小型のディスプレイに最適化されたUIを追求しているのではないかと勝手に想像しました。

 この点を説明するために、以下で具体的に比較してみましょう。

f:id:sakiya1989:20181113163628p:plainスクショ1

上のスクリーンショットスクショ1)をご覧ください。ここでアップロードされた写真はスクエアではなく、縦に長くなっています。これによって、続くコメントが画面内に収まらず、省略されてしまっています。

f:id:sakiya1989:20181113163257p:plainスクショ2

次に、上のスクリーンショットスクショ2)をご覧ください。ここで写真はスクエアでアップロードされています。写真が画面の一部しか占領していないため、下にはコメントやハッシュタグが並んでいます。つまり、ここでは写真をスクエアで表示する事によって、画面の中にコメントを同時に収めることに成功しているわけです。

 以上の違いから想定されることは、次の通りです。すなわち、Instagramでは、ただ単に各ユーザーが画像だけを他のユーザーに公開し共有するだけでなく、画像と共に据えられた自他のコメントを同時に画面内に表示することも重要視しているということです。

 したがって、先に述べたとおり、Instagramの初期設定ではスクエアで写真がアップロードされるわけですが、Instagramにおいてスクエア表示を基本としていることはモバイルのディスプレイで写真を適切に表現するために追求されたInstagram独自の美学だと思うわけです。

【音楽】よく聴く好きな曲【相川七瀬・茅原実里・MANISH】

特に書くことがありませんので、今回は僕の好きな曲を紹介します。

 

相川七瀬「UNLIMITED」

youtu.be

TVアニメ『SAMURAI 7』の主題歌です。上のサムネは関係なし。

 

茅原実里境界の彼方

youtu.be

TVアニメ『境界の彼方』(2013年)の主題歌だそうです。見たこと無いのでストーリーは知りませんが、曲が良かったので何度も聞いています。

 

MANISH「煌めく瞬間に捕らわれて」

youtu.be

説明不要。この曲を聴くとサビの部分でスラムダンクのEDが走馬灯のように蘇ります。

 

松岡正剛『情報生命』(角川ソフィア文庫、2018年)

 松岡正剛『情報生命』(角川ソフィア文庫、2018年)を買って読みました。 松岡正剛の千夜千冊という有名なサイトがありますが、そこから加筆修正して文庫にしたものが本書だそうです。

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 内容がネットで読めるとはいえ、なんだかんだ言って紙に印刷された書籍として読むのは最高ですね。ディスプレイを眺めて読むのとはやはり違います。もちろん情報を得るだけならタブレットのディスプレイで十分なのですが、私が読書体験を通じて身体が喜びを感じるのはやはり紙媒体のようです。それがなぜなのかは分からないけど、もしかすると青年期の紙媒体を通じた読書が身体に染み付いてしまっているのかもしれません。

 本書にはミーム*1オートポイエーシス*2カオスの縁シンクロニシティ*3などの概念が登場します。個人的には「生命体における情報をダーウィン進化論的に捉える」という視点がすごく刺激的でした。

 そして本書にインスピレーションを得て、「情報における生命」あるいは「情報的生命」というものがあり得るかどうかについて考えをめぐらしました。現在に引きつけて考えると、SNSTwitterFacebook)は(文字も写真も動画もエンコードされたデータを送っているという意味で)実は情報のやりとりだと言えますが、しかし情報のやりとり以上のものがそこにはあるはずで、ゆえにSNSに生命を感じるとはどういうことなのかと考えながら読み進めていきました。

 とても面白かったので、何故か夜中にこの本の小テストを作ってしまいました。予習・復習用に、ぜひ解いてみて欲しいです。

docs.google.com

文献

*1:ミーム(meme)とは、リチャード・ドーキンスによって提唱された概念で、「遺伝子(gene)のスペルにあわせて模倣や記憶を“遺伝”しているかとおもわせる」(松岡 [2018]:130頁)ものである。「文化意伝子」と解釈されている。

*2:オートポイエーシス・システムとは「トポロジカルな理論生物学によって推理できる自律的・自己言及的・自己構成的なシステム」(松岡 [2018]:186頁)であり、それゆえ閉鎖系である。ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・ヴァレラ『オートポイエーシス』(河本英夫訳、国文社、1991年)では、オートポイエーシス・システムの特徴として「①自律性、②個体性、③境界の自己決定、④入力も出力もないこと」(松岡 [2018]:187頁)があげられている。

*3:シンクロニシティとは、そこにははっきりした因果関係などないはずなのに、まるで隠れたリズムが同期的にはたいていたかのように結び合わされている現象が場面をこえて同時的におこっていることをいう」(松岡 [2018]:305頁)。

Google+の閉鎖とユーザーの情報流出について

 先日、Google+の閉鎖がアナウンスされた。サービスは2019年8月をもって終了予定だそうだ。

jp.techcrunch.com

 ちょうど「Google+つまんないな」と思っていたタイミングだったので、Google+閉鎖のニュースを見たとき、「無くなるのか、最近使いづらいし良いタイミングだな」と思った。

 個人的な感想だが、Google+は最初に触った瞬間から今ひとつ面白みに欠けるなと感じていた。最近までその理由は分からなかった。だが、敢えて理由を言語化するならば、おそらくGoogle+は自分の感情が揺さぶられないから面白くないのだろう。

 まず、あの+(プラス)ボタンを押したところで、Twitterのようにつながりを感じたり、広がっていく感じが全然しない。投稿記事が四角く表示されるのも、なんだか整理されすぎてて面白みがない。

 ちなみにGoogle+閉鎖についてのコメントで僕が面白いと思ったのは、Hideyuki Tanakaさんの次のコメントだ。

Hideyuki Tanakaさんは、「Googleのソーシャル的なものへの考え方」と「世間」との衝突を示唆している。もちろん「世間」とは「ソーシャル的なもの」に他ならない。

 彼の示唆にインスピレーションを得て端的に言うならば、Googleの考え方とSNSのあり方とが実は相反するものである可能性がある、ということになるだろう。

 では、Googleの考え方とは何か。それは以下の言葉に端的に示されている。

Googleの使命は、世界中の情報を整理し、世界中の人がアクセスできて使えるようにすることです。」(「Google について」より)

Googleによって開発されたあらゆるサービスの根本理念が、上の一文に示されていると言える。確かに、Googleは情報を整理することと、アクセスしやすくすることには長けている。例えば、写真を圧縮しクラウド上に無制限に保存することができるGoogleフォトでは、デバイスを問わず写真にアクセスでき、またアップロードされた写真は顔を機械学習で自動識別し、整理され、音声検索などで簡単に調べられる。またオフィスソフトの類は、ドキュメントやスプレッドシートを用いればGoogleドライブで代替することができる。

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 だが、SNSの醍醐味は、人々が情報発信とそれへのコメントを通じて感動を分かち合うところある。この感動の度合いが、Google+には少し物足りないように個人的には感じた。TwitterFacebookで「いいね」を押された時の報酬系ドーパミンが、Google+でははたらかないのだ。(もちろんGoogle+で主に活動して楽しんでいる人たちがいるのも知っているのだが。)

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 おそらくSNSは俯瞰しにくくて、なおかつもっと混沌としてて良いのだと思う。Googleお得意のタグ付けやサークルという切り分けによって情報を整理しすぎると、SNSの混沌*1が秩序付けられて、創発的な面白みがなくなってしまうのではないか、そんな気がしてならない。

 ちなみに、閉鎖する理由として、ユーザーの情報流出という問題が指摘されていて、これはこれでかなり痛いニュースだ。

gigazine.net

 ちょうど僕は、先週あたりに、「スマートフォンGoogleアカウントとかよく分からないという人に「Googleアカウントに登録して情報の流出とか大丈夫なんですか?」と聞かれたばかりだった。

 そこで、僕はこう答えた。「大丈夫かどうかと聞かれたら、絶対に大丈夫とは言い切れないです。常にネットに繋がっているので、いつ(Googleアカウントの)情報が流出しないとも限らないです。もちろん(Googleの)データセンターがどこにあるか一般には分からないように分散されていて、(Googleは)セキュリティ対策もしてるはずですが、(流出する)リスクはゼロにはならないないです。でも、Androidのシェアは大半を占めていて、Androidを使っている人は全員Googleアカウントを持っています。そうでないとアプリを入れられないので。」

 正直、僕のこの答えが必ずしも正解だとは思わない。特に最後の部分、<Androidを使っている人がGoogleアカウントを持っている>から、<Googleアカウントを使っても良い>という帰結には決して至らない。だから余計な言葉だとは自分でも思ったが、こういう質問をしてくる初心者には多少安心させるために「みんな使っているから」などと言わざるを得ない部分もある。しかし、「みんな使っているから」などと人から言われたら、僕は内心ムカッとする。クソみたいな理由だからだ。結局のところ、<Googleアカウントを作らなければAndroidが機能しないから、嫌でもGoogleアカウントを作成せざるを得ない>というだけの話だ。

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 「Googleアカウントに登録して情報の流出とか大丈夫なんですか?」という質問は、正直なところ情報管理リスクの観点からみて極めて素人臭く感じた質問だが、ある意味で本質を突いた良い質問でもあった。少なくとも、セキュリティ対策を講じれば万事解決ということには決してならないのだから、我々ができることといえば、Googleだからといって情報管理を完全に信頼してしまうのではなく、情報は常に漏洩する可能性を秘めているということを認識しておくことと、可能な限り、漏洩しても良い情報しか書いたり保存しないようにしておくことぐらいだろう。

*1:SNSの混沌の代表例は、Twitterリツイート機能だ。突如としてタイムラインにフォロー外のアカウントのつぶやきが紛れ込んでくる。アカウント間のやりとりが公開されているし、批判も飛び交う。さらにブロック、鍵アカ、アカウント停止等々…。Twitterはあまりにも混沌としている。