まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

大学の図書館は重要な存在

Twitterで以下のエントリーが流れてきました。

bonotake.hatenablog.com

この記事をきっかけに、あらためて冨山和彦さんの提言を読んで見ました。

冨山氏が大学をG型(グローバル型)とL型(ローカル型)に分けよと提言したのが2014年です。L型大学とは、要するに大学を専門学校か職業訓練校にしてしまえという提言として私は受け取りました*1

上のリンク先でbonotakeさんは冨山氏が提唱する「職能教育のレベルが低すぎる」と述べています。冨山氏の提唱する「実践力」ある教育例として挙げられているのは「弥生会計ソフトの使い方」(その前に大原簿記学校かTACに行け!)「道路交通法や大型二種免許の取得」(大学ではなく自動車学校に通え!)「工作機械の使い方」(それは工場で教えてもらえ!)などです。私も「こんなの本人を現場に3ヶ月もぶち込んどけば(よほど筋の悪い奴じゃない限り)すぐ覚えるんじゃないか」と思うような内容でした。わざわざ大学でやることですらないです。それだったらピーター・ティールが推奨するように大学を辞めることを応援する方がまだ理にかなっています。

また個人的には、G型とL型という二分法がもはや陳腐化した言説と化しているように思います。冨山氏のいう稼ぐ力が重要なのは理解しますが、G型とL型に分けることが、稼ぐ力を養うための適切な解だとは思えません。東京大学を中心とした国立大学をG型、他の大学をL型にするという発想は、結局のところ、既存の大学ヒエラルキーの観念を無自覚のうちに引き継いでしまっており、大学改革にすら値しない言説だと思います。どうせなら地域空間で区別するのではなく、職能的にG型(ジェネラル型)とP型(プロフェッショナル型)で区別する方がすっきりします。

 

ところで、私は最近、西周について調べています。西周の文献は、そのあたりの本屋には基本的に売っていません。大久保利謙編『西周全集』(全四巻揃い)は古書店で買うと10万円します(「日本の古本屋」調べ)。書籍を買うのに10万円は、誰でも手軽に買える値段ではないですよね。

しかし、大学図書館に行けば、西周全集が読めるのです。他の文献もありますし、デジタル化されていない紀要論文も読めます。もちろん学費は10万円の書籍を買う以上にもっとかかりますが、大学図書館でしかアクセスできない知の集積というものがあります。本当は全てデジタルデータ化されていれば良いのですが、今のところそうはなっていません。

なので、西周について調べる中で、私は大学図書館の重要性を思わず意識せざるを得なくなったのです。もちろん西周について研究したところで、稼ぐ力はつかないかもしれませんけれども、大学の存在意義というのは、冨山氏の考えるような稼ぐ力をつける場というところにあるのではなくて、むしろ冨山氏がL型大学から排除しようとしている学知を保護するところにあるのではないかと思うのです。

ちなみに英語のScienceやドイツ語のWissenschaftは日本語で「科学」や「学問」と訳されますが、これらの原義は「知ること(羅: scientia、独: Wissen)」にあるわけです。「科学」や「学問」が「知ること」であるならば、大学とは「知ること」を行う人々の「団体(universitas)」であるというのが本義です。

*1:大学がサイエンス(学)とアート(術)の場であるとするならば、L型大学はサイエンスを削ぎ落としてアートだけを残すということになる。ちなみに冨山氏は福沢諭吉を援用して、「L型は、福澤諭吉の「学問のすすめ」に立ち戻るべきだ。諭吉が簿記・会計を学べと書いていることを忘れていないか。実学こそ、教養だ。大学人はリベラルアーツの背景も意味も理解していない。」と述べている。実際には「実学」も「教養」も時代と地域によってその意味が変化している。例えば、「教養」には、労働を通じて形成されるドイツ的な意味での「教養(Bildung)」と、日本の旧制高校教養主義における読書を通じた人格形成としての「教養」などがあると思われるが、もし冨山氏のいうように「実学こそ、教養だ」ということになれば、L型大学はドイツ的な「教養」(これは、ヘーゲルが考えたような、労働を通じての陶冶である)を目指していると言えるかもしれない。しかし、少なくとも「リベラルアーツの背景も意味も理解」するために「立ち戻るべき」なのは、福沢諭吉という日本の「民」間の、すなわち私塾の先生が書いた『学問のすすめ』ではなく、ヨーロッパの伝統における自由七科(これは文法学・修辞学・論理学の3科と算術・幾何・天文学・音楽の4科から成る)であろう。

西周「百学連環」とencyclopedia

最近、「西周賞」というものが創設されました。

応募資格は40歳以下の若手研究者で、「ひろく西周にかかわる学術論文」というテーマで募集しています。締め切りは平成30年7月20日(必着)。賞金は10万円です。

www.tsuwano.net

僕はこの西周賞の募集を見て、すでに西周(1829-1897)*1について調べ始めています。半分ぐらい本気で書いてみようかなという感じです。

とりあえず書店で手にとって買えた文献は、山本貴光『「百学連環」を読む』(三省堂、2016年)でした。

山本さんの本を読むと、途中から西周の「百学連環」について学んでいるのか「ウェブスター英語辞典」について学んでいるのか分からなくなってきます(笑)*2

育英社での西周の講義を弟子の一人である永見裕が筆記したものが「百学連環」と呼ばれているのですが、この「百学連環」というタイトルは西洋のencyclopediaからきています*3西周ギリシア語の語源に遡り、「円環」(kuklos)と「子供」「教育」(paidos)という語を意識して、「英国のEncyclopediaなる語の源は、希臘のΕνκυκλιοζ παιδειαなる語より来りて、即其辞儀は童子を輪の中に入れて教育なすとの意なり」*4と述べています。

ところで、encyclopediaについて考察する際に、西洋哲学史上重要なものとして真っ先に思いつくのは、ディドロダランベールの手によって編集された『百科全書』*5と、ヘーゲルの『エンチクロペディー』*6です。

ディドロダランベールの『百科全書』は複数の文化知識人の書き手による記事の集大成という性格を持っていますが、これに対して、ヘーゲルの『エンチクロペディー』は知識が体系的に記述されている(そしてこれこそがWissenschaftである)点が特徴的です*7西周は一般的には明治の啓蒙思想家と紹介されており、この点で前者すなわちフランスの啓蒙思想家に接点があるように見えます。が、しかしながら、「百学連環」の体系性という面に着目すると、西周が思想的に近いのはむしろ後者すなわちドイツの哲学者ヘーゲルであるような気がします*8

もっとも西周が学問の体系を重視するようになったのは、西周がオランダに留学し学んだライデン大学のフィッセリング*9教授による影響が強いと思われますが、この辺りをもう少し調べてみなければと思う次第です*10

 

文献

*1:「日本近代哲学の父」とも呼ばれる明治期の重要な啓蒙思想家。最初に「哲学」の語を用いた学者として知られる。西曰く、他に「理性(reason)」「悟性(understanding)」「感性(sensibility)」「覚性(sense)」「演繹(deduction)」「帰納induction)」「観念(idea)」「命題(proposition)」「主観(subject)」「客観(object)」「総合(synthesis)」「分解(analysis)」「実在(being)」などの訳語を造語した。西周の用いた訳語の列挙について、詳しくは小泉 [2012]をみよ。

*2:小玉齊夫によれば「Noah Webster による『A Dictionary of the English Language』の初版は1828年であるが, 西周が依拠したのは, おそらく, Ch. A. Goodrich 及び N. Porter によって増補改訂された1864年版である」(小玉 [1986]、57頁)。

*3:この点、詳しくは渡辺 [2008]をみよ。

*4:西周「百学連環」『西周全集』第四巻、11頁。

*5:正式なタイトルは『百科全書、あるいは学問と技芸・工芸の総辞典』である。L'Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers, par une société de gens de lettres. 1751-1772. 逸見 [2006]も参照のこと。

*6:G.W.F. Hegel, Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse. 1817.

*7:「哲学体系をこのように「エンチュクロペディー」として表す仕方は、近代ドイツ哲学においてひとつの主流であったと言えるが、ヘーゲルの右の定義にも示唆されているように、この構想はしばしば、フランスの百科全書 百科全書 アンシクロペディに代表されるような知の集合体(Aggregat)を構築するプロジェクトへの批判を含んでいる。周知のように〈エンチュクロペディー〉という語は〈知の円環〉を意味するギリシア語に由来するが、この言葉に関連させていうなら、百科全書と近代ドイツの哲学的エンチュクロペディーとでは、〈円環〉という言葉のもとで理解される意味が決定的に異なる。すなわち、百科全書において円環が、諸学問の対象や方法を委細を尽くして網羅する(einschließen)という、内容的な完結性を表す意味をもつとすれば、カントやヘーゲルたちが試みた哲学的エンチュクロペディーにあって、円環は、広汎な哲学的諸学問の内容をそれらの「根本概念」に限定し、概略ないし輪郭(Grundriss, Umriss)という形で表すという、形式に関わる意味をもっている。この形式に関わる意味として何より、〈全体が部分に先立つ〉という体系固有の概念構造が前提におかれていることはもはや言うまでもない。」(阿部 [2018]、98〜99頁)。この後に続けて阿部はエンチュクロペディーの「教授法的な視座」についても説明しているので、ぜひ参照されたい。

*8:この点は井上 [2017]も参照のこと。井上は、西周が常にヘーゲル、とりわけ彼の『歴史哲学講義』を意識しつつも、西周ヘーゲル評価が徐々に高評価から低評価へと移り変わっていると分析している。ちなみに「性法」とは「自然法」のこと、「利」はミルのいわゆる「功利」のこと(西周は1877年にジョン・スチュワート・ミル"Utilitarianism"功利主義)を『利学』というタイトルで翻訳出版している)。西周津田真道とともにフィセリング教授から性法(自然法Natuurregt)・万国公法(国際法Volkenregt)・国法学(Staatsregt)・制産之学(経済学Staathuskunde)・政表之学(統計学Statistiek)の五科を体系的に学んでいる(渡部 [2008]、24頁)。

*9:Simon Vissering, 1818-1888. 長尾龍一「フィセリングと自然法」も参照のこと。

*10:渡部は「百学連環」の体系よりもむしろ分節性に着目している。「一般に「百学連環」は西洋学問を体系的に紹介したと言われる。確かにそれは間違ってはいない。だが注意しなくてはならないのは、西が力点を置いているのは体系の包括性ではなく、むしろ分節性である。「結びついている」というよりも「切れている」ことの重要性である。」(渡部 [2008]、32頁)。

ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』はシュールな思考の本だ

今日、オリックス推しプロ野球評論家比較政治学朝鮮半島地域研究で有名な木村幹(@kankimura)先生がTwitterで次のようにつぶやいているのを見かけました。

 確かに歴史学者が頭の中で「ドラえもん」の主題歌を流して落ち着かせている光景を想像するだけで、極めて「シュール」だと言わざるを得ません。

日常的には「奇妙なこと」を意味するものとして使われているこの「シュール」という言葉は、元々はアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスムsurréalisme)」宣言(1924年)に端を発するフランスの芸術運動の略であり、例えば、無意識下でしか起こり得ない奇妙な世界を描いた絵画はシュルレアリスム絵画と呼ばれています。その意味で、木村先生が述べたような光景は「シュール」だと言えます。

僕が今読んでいるヴィトゲンシュタインの『哲学探究』という本もまた極めてシュールな思考に富んでいます。一例を挙げると、ヴィトゲンシュタインが、道で出会った人々がみな痛みを抱えていると想像する一節がそれです。

391 もしかしたらこんなことが想像できるかもしれない(といっても、簡単なことではないが)。つまり、道で出会うどの人も、ものすごい痛みをかかえているのだが、痛みをうまく隠している、と。ここで重要なのは、うまく隠していることを私が想像しているにちがいないという点だ。つまり軽々しく私が、「あ、あの人は心の痛みをかかえてる。けれどそのことはあの人のからだとどんな関係があるんだろう!」とか、「そのことは結局、からだにはあらわされてないぞ!」などと言わないという点である。ーそしてもしも私がそのことを想像するならー私はなにをしているのだろう? 私は自分になにを言っているのだろう? 道で出会う人たちをどんなふうに見ているのだろう? たとえばひとりの人をじっと見て、「そんなにひどい痛みをかかえているのに、笑うなんて、むずかしいにちがいない」などなどのことを想像をしているのだ。いわば私は役を演じているのである。ほかの人が痛みをかかえているかのように、ふるまっているのである。私がそのようにふるまっている場合、私は……と想像している、と言われたりするわけである。」(ヴィトゲンシュタイン哲学探究』兵沢静也訳、岩波書店、2013年、230頁、強調は原文ママ

ヴィトゲンシュタインの「想像」はあくまで仮定の話ですが、ヴィトゲンシュタインの想像する内容が極めて「シュール」だと思いました。この本には他にもシュールな思考がたくさん繰り広げられています。ヴィトゲンシュタインヤバイ…。

ヴィトゲンシュタインはかつて「人は語り得ないことについては沈黙しなければならない」*1と述べておりましたが、晩年ライフワークとして推敲し続けた『哲学探究』にはおよそ「語り得ない」であろうことがたくさん書かれています。その意味で、『論理哲学論考』と『哲学探究』は相互補完的な役割を持っていると言えるかもしれません。

 

*1:ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』命題7。>>Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.<< Wittgenstein, Logisch-Philosophische Abhandlung, 1921.

テクスト解釈の多様性

今回はテクスト解釈について書きたいと思います。

 

まずはこちらの画像をご覧下さい。

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このイラスト何に見えますか?

目があるから、多分動物ですね。

カモかしら。アヒル?ウサギにも見えますね。

どうでしょう。どちらにも見えるし、書き方が結構曖昧じゃないですか。

この絵は「ウサギ-アヒル錯視(rabbit-duck illusion)」と呼ばれるものです。

この絵がウサギとアヒルのどちらにも見える(そして僕にはカモに見える)ということは、言い換えると、これは多様な解釈が成立しうる絵だということです。

ちなみに、この絵が多様な解釈を成立させている要因は、目や鼻が詳細に書き込まれておらず、細部が捨象されているからではないかと僕は思います。

さらにこの画像を2つ並べて「アヒルがウサギを食べている」という文脈を与えることで、同じ画像であるにも関わらず同時にアヒルとウサギという別々の種類の動物として認識する見方が成り立つようです。これは非常に面白いですね。(詳しくは下のリンク先をご覧下さい。)

karapaia.com

さて、ここまでイラストがどう見えるかのお話をしてきましたが、このような解釈の複数性はイラストだけでなく、テクストの中でも起こりうると思うのです。

例えば、著者はアヒルのつもりで書いたものが、同時にウサギが描写されていると読者が理解することもあるかも知れません。著者本人は決してウサギを書いたつもりはなかったとしても、テクストとしては著者の手を離れて読者に届けられている以上、そこにウサギが表現されているかも知れないのです。

この場合、テクスト解釈としては、著者の意図通りにアヒルが描かれている事を確認しつつも、そこにウサギが描写されている事を指摘することが新たな発見となります。特に哲学書のようにテクストの内容が難しい場合、その基本線や輪郭を正確に捉えるだけでも難しい場合があります。つまり、そこにアヒルが描かれているという事をまとめるだけでも大変なのですが、そこに描かれている事をまとめるだけでは面白くないわけです。普通の人がそこに何が描かれているのか理解できず、頑張ってようやくアヒルが描かれている事を理解できるような次元でありながら、なおかつ実はウサギもそこに描かれているという事を指摘できた時がテクスト解釈の面白いところというか醍醐味だと思うのです。

そしてテクスト解釈で注意しなければならないのは、「これがウサギに決まっている」とか「アヒルに他ならない」というように、解釈を1つに決め込もうとする態度です。「こうであるべき」というような規範を持ち込むと、本来あり得たはずのテクスト解釈の多様性が見失われてしまうかもしれないからです。 どちらにも見えるのだから、どちらも認めてしまっていいのです。

しかしながら、人間はしばしば二元論で考えてしまうので、「Aか、さもなくばB」という狭い考えに陥りがちです。割と自信家ほどそういう態度ですので、僕はそういう人が嫌いだったりします。もちろん実在のウサギはウサギであり、実在のアヒルはアヒルであり、ウサギであると同時にアヒルでもあるという事態は現実的には考えにくいのではありますが、見方としてはウサギであると同時にアヒルであるようにも見えるということは可能なのであって、実在の事物と認識の仕方をそれぞれ区別しつつも、認識の仕方を柔軟に変えていく発想こそが、テクスト解釈上は重要なのだと思う次第であります。

 

ところで今回この「ウサギとアヒル」の絵を取り上げたのは、ヴィトゲンシュタインがこの絵を『哲学探究』で取り上げたことを僕が知っていたからです。その絵がこちら(↓)。

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んん〜、元ネタのリアルな描写のイラストから、随分ゆるふわ系のイラストに変わってないか〜?

こういうのLINEスタンプにありそうですね〜。

この絵についてヴィトゲンシュタインは「当初、私にはウサギにしか見えなかった」とコメントしています*1

 

*1:「以前、この絵を見せられたことがあったはずだが、そのとき私にはウサギにしか見えなかったと思う。【*118】」ヴィトゲンシュタイン哲学探究』兵沢静也訳、岩波書店、2013年、379頁。

ブルデューに学ぶ

今回はブルデューについて書こうと思います。

 

僕は最近ブルデューの本を読んでいます。一般的にはあまり聞き馴染みがないかもしれませんが、ブルデューPierre Bourdieu, 1930-2002)はフランスの社会学者です。日本では藤原書店から翻訳が沢山出ています。

今月はブルデューの本を3〜4冊ほど買ってみたのですが、僕が何度か読んだのは『科学の科学』(藤原書店、2010年)という本です。

僕はブルデューをかじりながら、ブルデューは偉大な人物だった、とつくづく思います。なぜなら、ブルデューは社会の事柄を表現する様々な用語を作り出したからです。それは例えば「ハビトゥス」「文化資本」「界」などです。ブルデューがこれまで表現されてこなかった社会の事柄をずばり表現する新たな用語を作り出すことによって、我々はそれを理解することができるようになったのです。ブルデュー用語の1つである「文化資本le capital culturel)」という概念は、これによって事柄を説明できる寄与が大きく、画期的だと思います*1

ブルデューの他にも素晴らしい仕事をした社会学者はいます。イヴァン・イリイチの「シャドウワークshadow work)」という概念もまた、この言葉によって社会の、というよりは家庭の事柄を理解し、説明することを可能にしました。

僕はブルデューイリイチのことを念頭に置きながら、見えてるようで説明できていない事柄はないかな〜と思って過ごしているのですが、全然見えてきません。忙しなくすぎていく日々。なので、彼らのように事柄をずばり表現するだけでもすごいことだと思うのです。

*1:もちろんブルデューが「資本」という概念を拡張し転用した最初の人だというわけではない。「資本」といえば金銭的・経済的な用法が真っ先に頭に浮かぶが、すでにアダム・スミスは「人的資本(Human Capital)」という言葉で人間の技能や判断力を表現しており、またジョン・デューイは1899年の『学校と社会』のなかで「社会関係資本Social capital)」という言葉を用いてコミュニティについて論じている。後者に明確な定義を与えたのがブルデューである。

家族というメタファー

昨日、フレデリック・ラルー『ティール組織』(鈴木立哉訳、英治出版、2018年)を買って読みました。類稀に見る良書だと思います。

ラルーは、会社組織を主に5つに類型化し、これらの類型を用いて組織の発達段階を示しています。その際に、ラルーはインテグラル理論を参考にして、組織の発達段階のそれぞれに色をつけています。

ラルーによれば、組織は、前組織的段階では①無色、②神秘的(マゼンタ)、原初的な組織段階では③衝動型(レッド)、そして次第に④順応型(アンバー)、⑤達成型(オレンジ)、⑥多元型(グリーン)、⑦進化型(ティール)へと移行するような7つのステージに分類されます。

さらにそれぞれの組織はメタファーで表現され、衝動型(レッド)はオオカミの群れ、順応型(アンバー)は軍隊、達成型(オレンジ)は機械、多元型(グリーン)は家族、進化型(ティール)は生命体のメタファーで表現されています。

nol-blog.com

で、ここまでは前置きです。ぶっちゃけティール組織について書きたいわけじゃないんです。

僕がこの本を読んで気になったのは、多元型(グリーン)組織のメタファーが「家族」であるとされている点です。

 達成型(オレンジ)パラダイムは組織を機械とみているが、ほとんどの多元型(グリーン)組織は自社を家族にたとえる。多元型(グリーン)組織のリーダーたちの発言に耳を傾けると、「家族」という言葉がそこかしこに聞こえるはずだ。「従業員は同じ家族の一員」「皆が一緒」「お互いに助け合う」「お互いのために存在している」といったように。(フレデリック・ラルー『ティール組織』英治出版、2018年、60頁)

しかし、ラルーはこの本で「家族」についてはほとんど説明していません。そうすると、我々が多元型(グリーン)組織について理解しようとする際に、家族のメタファーによって多元型(グリーン)組織の理解が助けられるというよりは、むしろ逆に多元型(グリーン)組織の特徴を通じて、メタファーとして用いられている家族のあり方を類推することになります。

さて、ここで読者の方に「いやいやいや、「家族」なんて説明しなくても分かるでしょ?」と突っ込まれそうです。が、よく考えて見てください。

・あなたの育った家族では多様性は尊重されてきましたか?

・一般的に家族とは、多元型(グリーン)組織のように、その中で個人の多様性を尊重し、自律性を促し支援するようなものだと言えますか?

家族とは、国や地域ごとに異なり、家族それ自体が多様性に満ちた組織形態ではないでしょうか。おそらくアメリカの家族のあり方と、日本、インド、イギリス、アフリカの家族のあり方は同じではないでしょうし、ラルーが会社組織を類型化できたのと同じぐらい、家族の類型と発達段階についても解明される必要があると思います。

もちろん『ティール組織』は会社組織についての本であり、家族の説明にページを割く必要はそれほどないとは思います(著者もまさか自費出版の本が12ヶ国語に翻訳されるとは予期していなかったでしょう)が、私には著者のラルーが無意識のうちに自分自身の育った国地域の文脈(コンテクスト)を前提として、その中で認識する「家族」というものをメタファーに用いているような気がしてなりません。

実は、200年ほど前に市民社会や会社を「家族」というメタファーで表現したヘーゲルという哲学者がいました。ヘーゲルはいわゆる『法の哲学』(1821年)のなかで市民社会を「普遍的な家族」(§239)と捉え、会社コルポラツィオを「第二の家族」(§252)として捉えました*1ヘーゲルは、市民社会の前章で家族の内容について理念的に説明しているので、市民社会や会社を家族のメタファーを用いて説明しても、その内容はある程度定まっています。そのため、ヘーゲルの場合には、ラルーのように「家族」を曖昧な意味でメタファーとして用いることは避けられているといえます。

今日、「家族」について考えるのだとすれば、理想的な家族だけでなく、リアルな家族の特徴や欠陥についても目を配らせなければならないと感じます。もっと言うと、家族をメタファーとして用いる際には、パターナリズムドメスティックバイオレンス(DV)、ネグレクトのような家族における欠陥ないしは負の側面をも考慮に入れる必要があるということです。なぜかというと、会社組織を家族のメタファーで表現できるのだとすれば、会社組織の中でも家族におけるネガティブな側面が現れる(反映される)可能性があるからです。それは、いわゆる「ハラスメント」と呼ばれるものとして現れていると言えるでしょう。ラルーの組織類型を逆に家族に反映させるならば、恐怖で統制する衝動型(レッド)の家族というものもありえるかもしれません。家族というメタファーが多元型(グリーン)組織のようにポジティブな側面で現れるならば良いのですが、その方向を誤るとコンプライアンス的に大変問題となるわけです。

結局、何が言いたいかというと、「家族」をメタファーとして用いる際には、いささかセンシティブに取り扱う必要があるということです。

*1:ヘーゲル市民社会における家族的なものについて、詳しくは拙著「ヘーゲルの権利論」(所収:田上孝一編『権利の哲学入門』社会評論社、2017年)をご覧下さい。

「手抜き」のススメ

今回は、「手抜き」について書きたいと思います。

 

みなさん「手抜き」に対してネガティブなイメージを持っていませんか。

僕は少し前まで、手を抜いちゃダメだと思っていました。例えば、大学院での研究とか、仕事とかでです。なんで手を抜いちゃダメかと思っていたかというと、手を抜いたらダメなやつになると思っていたからです。

でも、「手を抜いちゃダメだ」と思っているからといって、何事も必ずしもうまく行くわけじゃないんです。いや、むしろ僕の場合は非効率で、つまり要領が悪くてダメダメな結果ばかり残してきました。

手を抜かないようにしようとするとどうなるか。おそらく人は無理できるまで頑張ろうとするんです。まあ無理して頑張るのも、しばらくは続けられます。でも、二年、三年と経っていくうちに、どこかでプッツンってなっちゃうんじゃないかな。

もちろん多少無理が必要な時期もあるかもしれません。例えば、未経験の学習を積んでいる頃などは。

しかし、実はその後が問題で、一定期間を越えた後は、継続する力が重要になってくると思います。というのも、短期的に成果を挙げることは、一時的に無理すれば可能なので、割と簡単ですが、成果を短命に終わらせるよりも、むしろ継続的に結果を出していく方がはるかに難しいのです。

最近、企業において「サステナビリティ(sustainability)」すなわち持続可能性の重要性が聞かれるようになってきましたが、サステナビリティの重要性はちょうど人間個人、ひとりひとりにおいても当てはまると言えるでしょう。人間が生きていくのも仕事をするのも同じ個体の生命活動なのであって、これはどちらかというとワークライフバランスと表現されることが多いですが、その根本には恒常性(ホメオスタシス)のバランスや、サステナビリティ(持続可能性)の観点が入っているように思います。無理を続けるならば、ワークライフバランスサステナビリティは実現不可能です。

それで「手抜き」に話を戻すと、仕事で継続的に成果をあげていくためには、「手抜き」こそが非常に重要ではないかと思うわけです。ここで反発が来そうですね。仕事頑張らなくていいのか、と。

しかし、よく考えてみてください。「手を抜くこと」は、実は知性が要求される行為だと思うんです。むしろ手を抜くことによって、これまでイノベーションが促進されて来たのではないかと思うぐらいです。

例えば、作業の機械化やAI化は、ある意味「手抜き」のためのテクノロジーだと言えます。もし人間が有史以来、「手抜き」をしなければ、おばあさんは洗濯機を使わずに河へ洗濯に行ってしまいますし、駅の改札は機械ではなく人が目視確認で出入りをチェックすることになってしまいます。GUIがなければ、人はコマンドプロンプトでいちいちコードで命令しなければならなくなります。しかし、もうお気付きのように退屈なことはPythonにやらせれば良いのです! 

また最近ではRPA(Robotic Process Automation)やEPA(Enhanced Process Automation)、CA(Cognitive Automation)というワードが聞かれるようになりました。これらは単純作業の代替か、イレギュラー対応可能か、ビッグデータをもとに判断を下せるかによって分類されますが、いずれもロボットに作業を代替させることで「手抜き」を可能にするとともに、同時に人間がさらなる創造的な仕事に着手することを助けます。

bizhint.jp

テクノロジーの進歩とは、人が「手を抜く」ためにあると言っても過言ではないと思います。そして「手抜き」によって生まれた空隙を使って、さらに人は他の活動をできるようになるので、結果的にはパフォーマンスは向上していくはずです。こうして経済発展を可能にするものをイノベーションと呼びます。逆にイノベーションが起こらなくて困っているのであれば、もしかすると「手を抜くこと」を怠っているからかもしれないのです。

では、イノベーションを起こすには、どうしたら良いのでしょうか。まずは「手抜き」ができそうな作業を探してみましょう。もし「手抜き」ができそうな部分を発見したら、どうしたらロボットに代替できるのかを考えてみましょう。こういう発想がもしかすると新たなイノベーションを生み出すかもしれません。