実は最近、プログラミングを勉強しようと考えております。
そんな中、いつものようにネットサーフィンしていたところ、「Microsoftに入社しました」と書いてあるアカウントを発見しました。
何!?お写真を拝見したらめちゃくちゃ可愛い人が写っているではないか!?
この方すごいです。ちょまどさんというらしい。かわいいイラストも描いているようで、しかも上手!
よーし、僕もプログラミング覚えてマイクロソフトに入社するぞー!
Netflixで「シドニアの騎士」を全話見ました。これはマジでオススメです。
内容はさておき、「シドニアの騎士」の中では、人間が光合成(!)できるようになったため、メシを食べるのは週一回で済む、という設定になっています。ただ一人、主人公の谷風長道は普通の人間なので、毎日メシを食べないとエネルギーが持たないです。谷風がメシを食う場面は本当に美味しそうです。
僕はお腹が空く時は本当に体が持たないほどエネルギー不足になったり、お腹もしょっちゅう空くので、かつてはメシを食うのが面倒になった時期もありました。
しかし「シドニアの騎士」を見て、毎日メシを食うというのは幸せなことだと思うようになりました。なぜなら、美味しいものを食べて毎日満足感を得られるなんてすごくないでしょうか。もし食事が週一回の頻度になってしまったら満足感を得る回数が極端に減ってしまうことでしょう。
ただ一応「シドニアの騎士」の中では人間は光合成によってある種の満足感を得られるようです。しかし、我々が食べるものは、お寿司・カレー・洋食など毎回変化させることができます。人間は毎回変化に富んだ食事によって楽しくエネルギー補給をできるのです。この点で、人間のエネルギー補給の仕方は、車にガソリンを入れたり、パソコンがバッテリーを充電する仕方とは全く違っています。これはやはりすごいことだと改めて思った次第です。
突然ですが、「人に教える」って難しくないですか。
人間誰しも自分のよく知らない分野はありますが、人に聞かれた時に優しく教えられる人は神だと私は思います。人によっては質問すると「そんなことも知らないの?」的な態度を取る人もいますし、自分自身も人に教えるのはそんなに好きじゃないです(渋々教えますが、もしかするとそれが顔に出ちゃってるかもしれません)。
さて、問題は新人教育についてです。
「新人」が入ってきた時の対応は難しいです。なぜなら、「新人」と言っても、本当のど素人であることもあれば、ある程度の経験者であることもあるからです。さらに人それぞれ既存の知識量、得意分野も異なれば、飲み込みの早さ、効率性、筋の良さなどの要素も加わってくるので、もう本当に「人それぞれ」というしか言いようがない。
僕自身は「新人」指導は苦手です。僕自身経験が浅いのと、どう指導したらいいか分からないというのが本音です。同僚や先輩にはダメなところをうまく(かつ厳しく)指摘してくれる人がいるので有り難いです(彼は人に教えるのが上手いなぁ)。
で、僕の記憶にあるのが、今の仕事に初めて入った現場の上司があんまり教えてくれなかった、ということ。いや、上司なりに教えていたのかもしれません。僕自身も仕事を最初の頃は全然正確に飲み込めていなかったので。
僕の最初の上司は、あまりにも同じ仕事を長くしすぎたために、異分野から入ってきたど新人にどう教えたらいいのか分からなかったのかもしれません。しかし、僕の最初の上司にとっては「常識」となっていることでも、新人にとっては、未知の世界なわけです。だから、新人にはどんどん仕事の基本的な正しい考え方を教えなければならないと思うのです。
しかしまあ、ミスするたびに叱られる私にとっては「いやいや、そんなの聞いてねえよ…!」の連続でした。まあそういう現場なのかもしれませんが。
で、昔の上司の愚痴を書いたところで、今の自分も似たようなものかもしれないと思い直した次第です。ふむ、「人に教える」というのは一つのスキルなのかもしれませんね。
さて、先輩のしつこい質問のおかげで、私も『論理哲学論考』がどういう書物かちょこっと把握できました。
『論理哲学論考』には読み方があります。
『論理哲学論考』は命題集と言っても良い作りをしていますが、それぞれの命題には番号が割り振られています。この番号は内容を掴んでみると、実はトピック別に細分化されていることがわかります。ですので、「このあたりの命題ではヴィトゲンシュタインは何をトピックとして取り上げて語っているのか」を意識して、自分でトピック別にサブタイトルをつけていったら読みやすくなるのではないでしょうか(実際私はそうしてみました)。
ネットでググってみたら「『論理哲学論考』さっぱりわからん」みたいな人もいるっぽいですが、私の所感では「ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は極めてシンプルに考えぬこうとした書物」という気がします。『論理哲学論考』が難しいと感じる人は、「そこに深遠さなど何もない」ということを念頭に置いて読んでみれば良いのではないでしょうか。
先日、私は大学時代の先輩からLINEでいきなり「ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んだんだけど、ウィトゲンシュタインは結局何が言いたいのよ?」って聞かれたのです。
いやあ、ヴィトゲンシュタインとか専門じゃないし、『論理哲学論考』は買って持ってたんですが、一回パラパラ読んだだけでちゃんと理解してなかったんですよね。なので、答えられないままLINEを放置していたのですが、何度か「お前の意見を聞きたい」ってくるので、必死で読んで次のように回答しました。
ヴィトゲンシュタインは何のために『論理哲学論考』を書いたのか?その意義をヴィトゲンシュタイン自身は次のように書いている。
「本書が全体として持つ意義(Sinn、意味)は、概ね次のように要約されよう。総じて言えることは明晰判明に言えるのであり、語ることのできないことについては口を閉じざるを得ない、と。」(『論理哲学論考』序)
一見複雑に見える『論考』の一つ一つの文全てが、実は「言えることは明晰判明に言えるのであり、語ることのできないことについては口を閉じざるを得ない」という極めて単純なことを示すための要素となっている。「語ることのできないこと」(例えば、倫理や生命(Leben)の問題)について問いただし、疑うことはナンセンス(無意味)だというわけである。
「したがって、本書は思考(Denken)に対して限界を引くのであり、あるいはむしろ、思考(Denken)に対してではなく、思想(Gedanken、思考されたもの)の表現に対して、というべきだろう。というのも、思考に限界を引くには、我々はその限界の両側面を思考できるのでなくてはならないからだ(したがって、思考不能なことを思考できなくてはならないからだ)」(『論理哲学論考』序)
ここでヴィトゲンシュタインが区別している「思考(Denken)」と「思想(Gedanken)」とは、英語で言えばThinkingとThoughtのようなもので、「考えている(ことがらとその状態)」と「考えられたもの(過去分詞のニュアンス)」という違いを持っている。「思考(Denken)」を正確に取り扱うためには、「思考」に対する評価者自身(われわれ)が、「思考」の内部ではなく思考の外側にたち、思考の限界を見据えられるようなメタな立場から思考を捉える必要があるというわけである。
ただし、こうして今書かれている言葉もあくまでナマの「思考」そのものではなく、「思想の表現」にすぎない。言語化された時点でそれは「思想の表現」となってしまうのである。したがって、ヴィトゲンシュタインが『論考』で示し得たのは、思考の限界というよりも、思想の表現の限界なのである。
以上の回答で先輩は「おまえうまくまとめたな」と返信くれたので、ようやく解放された次第です。
今朝、Netflixで鉄のラインバレル第18話「メメントモリ」を見ていました。
内容は次のような感じです。
ー子供の頃から、矢島英明は、いじめられている早瀬浩一を守るために戦っていた。矢島はなぜ他人のために傷を負ってまで戦ったのか。「コウイチのためだ」と矢島はいう。この「他人のために」というのが、実は表面的な理由、単なるポーズであって、本当は「リサコ(女)にかっこいいところを見せたい」というのが本当の理由だったというのが明らかになる。ー
うーん、なかなかいいですね(笑)。口先で言っている理由と本質的な動機が違うということはよくあると思いますが、それがアニメの中でよく表現できています。
アドラー心理学には、口で言っているのとは異なる本質的な動機にまで踏み込む分析があったような気がします(もしかしたら私がフロイトの精神分析と勘違いしているかもしれませんが…)。
今日はペーパーレス化について書きたいと思います。
ペーパーレス化とは、僕の頭の中で今パッと思い浮かんだ定義によれば、従来大量の紙で処理していたものを削減していく運動のことです。ペーパーレス化は、まあ単純に内容を減らすことによっても可能ですが、基本的には、紙の代わりにPDFのような電子ファイルの利用を推し進める手法を想定しています。
官僚が国会議員のところに毎日大量の報告書を持っていくという話を聞いたことがあります。そういうところではPDFを利用して、タブレットで閲覧するのがこれからのやり方として望ましいと言えるでしょう。
逆にペーパーレス化を極端に推し進めてペーパーゼロにしてしまうと、世の中には困ってしまう人もいます。例えば、今の最先端のデバイスには(iPhoneのように)説明書がほとんどない商品が存在します。それらの取扱説明書は概ねメーカーサイトからDLできますが、ネットに不慣れでそのやり方すらわからない人が世の中にはまだ多くいるわけですから、ペーパーゼロは取扱説明書までたどり着けない彼らを困惑させてしまうことにもなりかねません。ですので、今のところネットリテラシーが十分普及するまでは「なんでもかんでもPDFでOK」というわけにはまだいかないのが実情だと思われます。
もちろんペーパーレス化は、将来、紙が全く不要になるということを意味しているのではありません。内容によっては、紙の方が内容を理解しやすいものもあります。例えば、私は今日、この論文(注)をDLして、セブンイレブンのプリンターで紙に印刷して、帰宅する電車内で読みました。iPadでPDFを大量にDLしてざっくり眺め回すことはよくしますが、内容が硬いものは印刷しないと頭に入ってこないことがあります。
(注)「この論文」は次のサイトからDLできます。ビットコインの原論文を読む » ピッチブレンド blog
あとは自分がパソコンで書いた原稿を推敲するには、やはり紙に印刷して眺めた方が、追い追いアイデアが浮かんでくることが多いです。理由はよくわかりません。
そういえばウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールが『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』という本を数年前に出していました。ちょっと気になったので今度読んでみようと思います。