まだ先行研究で消耗してるの?

全然ロジカルじゃない(!)書きたいことをひたすら書くブログです。ノンロジカルエッセイ。

ヴィーコ『新しい学』覚書(2)

目次

以下の続きです。

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(承前)扉頁の前に置かれている絵の説明

 ヴィーコは続けて次のように扉頁の絵を説明します。

地球儀、すなわち、自然の世界の上に立っている、頭に翼を生やした女性は、形而上学Metafisica)である。これが形而上学という名辞の意味であるからである。見ている眼を内部にもった光り輝く三角形は、摂理Provvedenza)の顔をしたIddio)である。

(Vico 1744:1、訳17頁、強調引用者)

ここで前回も見た扉頁の絵を見てみましょう。

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(『新しい学』1744年版の口絵)

ヴィーコは「これが形而上学という名辞の意味である」と述べていますが、どうして「地球儀、すなわち、自然の世界の上に立っている、頭に翼を生やした女性」が形而上学ということになるのでしょうか。

 ここで「形而上学(Metafisica)」という名辞の起源である、アリストテレスのいわゆる「形而上学」について、小坂先生による説明をみておきましょう。

周知のように、アリストテレスの『形而上学』は最初から確固とした意図や構想をもって、順序正しく体系的に叙述されたものではなく、異なった時期に、異なったテーマについて書かれた論文や講義草稿類を、後に全集の編者が集めて一本としたものである。紀元前50〜60年頃と推測されているから、アリストテレスの没後、300年近くが経過している。『形而上学』(metaphysica)という題名も、アリストテレス自身がつけたものではなく、「自然学的諸著作の後に」(τὰ μετὰ τὰ φυσικά)配置するという、(全集の編者)アンドロニコス(Andronikos ho Rhodios)の残したメモが、そのまま後の学問名になったことは周知の事柄である。「後に」という意味のギリシア語μετὰが、同時の「超えて」という意味も有しているところから、「自然学を超えた学問」として「形而上学」という名称が定着した。超自然学ともいうべき性格の者である。内容的にはアリストテレスのいう「第一哲学」(πρώτη Φιλοσοφία)に符合している。

 ちなみに「形而上学」という日本語は『易経』(繋辞上篇)にある「形而上者謂之道、形而下者謂之器」(形より上の者、之を道と謂い、形より下の者、之を器と謂う)に由来している。命名者は井上哲次郎で、彼の編纂した『哲学字彙』(明治14年)に見える。

(小坂 2015:4〜5頁)

上述の説明を整理すると、次のようになります。

  • 形而上学 metaphysica」というタイトルはアリストテレスが付けた名辞ではない。
  • 形而上学」という名辞は「自然学的諸著作の後に τὰ μετὰ τὰ φυσικά」というメモに由来する。
  • ギリシア語のμετὰは「後に」と「超えて」の両方を意味する言葉である。
  • 形而上学」は「自然学を超えた学問」という意味の名辞である。

これらの点を考慮すると、「形而上学」が地球儀の上に乗っているのは、まさしく「形而上学 metaphysica」の「超えて μετὰ」という性質を表現したものであることが分かります*1

 しかし、疑問はまだ残ります。形而上学の女性がその上に立っている地球儀は、自然学を表現したものなのでしょうか。形而上学が「頭に翼を生やした女性」として描かれているのは一体なぜでしょうか。なぜこの形而上学は、男性ではなく「女性」として描かれているのでしょうか。どうして形而上学の女性は「頭に翼を生やし」ているのでしょうか。これらの点について私はまだよくわかっていません。この点について、上村忠男は図像学、イコノグラフィーの観点から考察を行っています*2

 もしかするとここで形而上学の役割を果たすべく「頭に翼を生やした女性」を起用したのは、尋常らしからぬその姿が「記憶術」と関わるからかもしれません*3。というのも、桑木野によれば「記憶術」においては極端で奇妙な力強いイメージが大きな効果をもたらすとされているからです。

イメージには、情報を圧縮する効果のほかに、心に強くうったえかけて内容を忘れにくくする力もある。だからこそ、「賦活イメージ(imagines agentes)」と名づけられた記憶用のメンタル画像は、可能な限りヴィヴィッドで、極端なものが推奨された。美しいのであれ、醜いのであれ、とにかく通常の規範を大きく逸脱した図像を意図的に準備することで、心を激しく揺さぶり、記憶に深く刻み付けてゆくのである。

(桑木野 2018)

形而上学を体現した「頭に翼を生やした女性」とは、まさに「通常の規範を大きく逸脱した」姿形であり、このような描写によって記憶することを意図したものかもしれないのです。

 (つづく)

文献

*1:「もっとも、誤解があってはいけないのでことわっておくが、「これが形而上学という名辞の意味であるからである」という一句の意味については、これを形而上学すなわちメタフィジカという名称が「後」ないし「超越」の意をあらわす接頭辞〈メタ〉と〈フィジカ〉すなわち「自然学」の合成語であることに言及したものと解釈することもできないわけではない。そして、この解釈を採用する場合には、図像学との連関をうんぬんすること自体、ほとんど無用になってしまう。そのうえ、そもそもヴィーコが口絵を作成するにあたって図像学辞典を参照したという確たる証拠はどこにも存在しないのである。」(上村 1998:78〜79頁)。結局、ここで上村は「これを形而上学すなわちメタフィジカという名称が「後」ないし「超越」の意をあらわす接頭辞〈メタ〉と〈フィジカ〉すなわち「自然学」の合成語であることに言及したものと解釈」しているのか否かはっきりしない。

*2:詳しくは上村 1998、第二章を参照せよ。

*3:「この添え書きがキケロ以来の記憶術の伝統を踏まえたものである」(上村 1998:66頁)。

サイード『オリエンタリズム』覚書(2)

目次

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(承前)序説(一)

「オリエントを支配し再構成し、威圧する」ものとしてのオリエンタリズム

 サイードは続けてオリエンタリズムの三つ目の意味について言及する。

The interchange between the academic and the more or less imaginative meanings of Orientalism is a constant one, and since the late eighteenth century there has been a considerable, quite disciplined—perhaps even regulated—traffic between the two. Here I come to the third meaning of Orientalism, which is something more historically and materially defined than either of the other two. Taking the late eighteenth century as a very roughly defined starting point Orientalism can be discussed and analyzed as the corporate institution for dealing with the Orient—dealing with it by making statements about it, authorizing views of it, describing it, by teaching it, settling it, ruling over it: in short, Orientalism as a Western style for dominating, restructuring, and having authority over the Orient. 

オリエンタリズムの学問的な意味あいと、その多少とも想像力に関わる意味あいとのあいだには、不断の交流があった。十八世紀以来、これら両者のあいだには、かなりの量の完全に規律を課せられた——おそらくは統制すらされた——交通があったのである。ここで私は、オリエンタリズムの第三の意味合いに到達する。これは先の二つの意味内容のいずれよりも、歴史的・実質的にいっそう明確に限定しうるものである。オリエンタリズムを論じそれを分析するにあたって、ごく大雑把に、オリエンタリズムの出発点を十八世紀末とするならば、オリエンタリズムとは、オリエントを扱うための——オリエントについて何かを述べたり、オリエントに関する見解を権威づけたり、オリエントを描写したり、教授したり、またそこに植民したり、統治したりするための——同業組合的コーポレイト制度とみなすことができる。簡単に言えば、オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式スタイルなのである。

(サイード 1993:21頁)

オリエンタリズムの第三の意味は「オリエントを支配し再構成し威圧する」ものとしてのそれである。「支配(dominating)」と「威圧(having authority)」は主(西)の従(東)に対する関係として見れば似ているが、「再構成(restructuring)」は少しニュアンスが異なるようにおもわれる。

 ここでサイードオリエンタリズムのそのような意味の出発点を「十八世紀末」としているのは一体何故であろうか。それはおそらく、十八世紀末にオリエンタリズムが何らかの転換点を迎えたからなのだろうと思うが、それは本書を読み進めることによって明らかになるであろう。

フーコーの「言説」概念の援用

 サイードは、この「オリエントを支配し再構成し威圧する」ものとしてのオリエンタリズムを分析するにあたって、フーコーの「言説」概念を援用するという。

I have found it useful here to employ Michel Foucault’s notion of a discourse, as described by him in The Archaeology of Knowledge and in Discipline and Punish, to identify Orientalism. My contention is that without examining Orientalism as a discourse one cannot possibly understand the enormously systematic discipline by which European culture was able to manage—and even produce—the Orient politically, sociologically, militarily, ideologically, scientifically, and imaginatively during the post-Enlightenment period.

この点に関し、私は、ミシェル・フーコーの『知の考古学』および『監獄の誕生——監視と処罰』のなかで説明されている言説ディスクール概念の援用が、オリエンタリズムの本質を見極めるうえで有効だということに思い至った。つまり言説ディスクールとしてのオリエンタリズムを検討しないかぎり、啓蒙主義時代以降のヨーロッパ文化が、政治的・社会学的・軍事的・イデオロギー的・科学的に、また想像力によって、オリエントを管理したり、むしろオリエントを生産することさえした場合の、その巨大な組織的規律 = 訓練というものを理解することは不可能なのである。

(サイード 1993:21〜22頁、下線引用者)

 邦訳では"during the post-Enlightenment period"が「啓蒙主義時代以降の」と訳されている。この訳だと、およそ十七世紀から十八世期にかけての啓蒙主義の時代を含めたそれ以降の時代をすべて意味するようにおもわれる。だが、はたしてこのような理解で良いのだろうか。

 いったんこれをカタカナで訳すとして「ポスト啓蒙主義時代の間に」とするならば、どうだろう。先にサイードオリエンタリズムの出発点を「十八世紀末」としていたことを思い出されたい。ちょうどこの「十八世紀末」以降の時代がまさしく「ポスト啓蒙主義時代」に該当するのではないだろうか。

 ここでサイードは、フーコーの数多くの著作の中でも『知の考古学』と『監獄の誕生』の二つを取り上げ、それらの「言説ディスクール概念の援用が、オリエンタリズムの本質を見極めるうえで有効だということに思い至った」と述べている。

 何故サイードはここでフーコーのその他の著作(例えば『言葉と物』など)ではなく、『知の考古学』と『監獄の誕生』をあえて選んだのであろうか。

 この点について橋本は次のように述べている。

ちなみに、サイードは『オリエンタリズム』でフーコーの『知の考古学』と『監獄の誕生』を参照しているが、私見ではむしろ『狂気の歴史』の時期のフーコーとの関連の方がより明確であるように思われる。

(橋本 2016:1頁)

『狂気の歴史』の方がより相応しい理由として、橋本はフーコーが「西洋」と「東洋」について言及している箇所を引用している。確かにオリエンタリズムのテーマとしては、橋本が引用する『狂気の歴史』初版の序文の方がより近しいかもしれない。しかしながら、サイードが本書で援用しているのは「ミシェル・フーコーの『知の考古学』および『監獄の誕生——監視と処罰』のなかで説明されている言説ディスクール概念」である。おそらくサイードによるフーコー の「言説」概念の援用は、オリエンタリズムというテーマにおける近さによって選択されているわけではないのだろう。

(つづく)

文献

ヴィーコ『新しい学』覚書(1)

目次

はじめに

 この連載ではジャンバッティスタ・ヴィーコ『新しい学』(上村忠男訳、中公文庫)を読んでいきたいと思います。この邦訳は『新しい学』の第三版(1744年)を底本としたものであり、そのより正確な書名はジャンバッティスタ・ヴィーコ『諸国民の共通の自然本性についての新しい学の諸原理』です。

 この第一版(1725年)の翻訳は、ヴィーコ『新しい学の諸原理[1725年版]』(上村忠男訳、京都大学学術出版会)として出版されています。

扉頁の前に置かれている絵の説明

 『新しい学』1744年版には次のような口絵が挿入されています。

(『新しい学』1744年版の口絵。上村[1993]によれば、この1744年版の口絵では、1730年版にあった〈D.M〉(死者の霊に)という碑銘が彫り忘れられている。)

ヴィーコの『新しい学』はこの絵の説明から始まります。というのも、この図版を念頭に置いて読むことが、『新しい学』の「理念」を理解する助けとなるからです。

テーバイのケベス :口絵と記憶術

 ヴィーコは冒頭で次のように述べています。

テーバイのケベスが道徳的なことがらにかんして作成したのと同じような国家制度的なことがらにかんする図版をわたしたちもここに提示するので見てもらいたい。この図版は、読者にとって、この著作の観念を、これを読むまえに自分のうちに宿しておき、また読んでしまったのちにも、想像力の援助を得て、よりたやすく想い起こすのに役立つはずである。

(Vico 1744:1、訳17頁)

ここで最初のパラグラフを原著と上村忠男訳から引用したのですが、原文と比較すると邦訳のゴシック体の部分が元のイタリックや大文字の箇所と一致しないことが見てとれます。邦訳の凡例を参照すると「ゴシック体の部分はニコリーニの校訂本によって隔字体になっている部分である」と断り書きがしてあります。つまり邦訳でゴシック体になっている部分は、ヴィーコ自身の手による強調ではないということです。

 ところで冒頭の「テーバイのケベス」とは一体何者なのでしょうか。上村忠男先生は次のように説明しています。

テーバイのケベスは紀元前四世紀の哲学者で、ピュタゴラス派のピロラオスの弟子。プラトンの対話篇『パイドン』に、おなじくテーバイの出身でピロラオスの弟子であったシミアスとともに、ソクラテスの主要な対話者として登場するといえば、あるいは思いあたる人も少なくないかもしれない。『クリトン』(45B)によれば、シミアスといっしょに、ソクラテスの脱獄のための金を用意してアテナイにやってきたとされている。

 ヴィーコが言及しているのは、このテーバイのケベスのものであるとされてきた(ただし、今日では別人のものであると判定されている)著作『ピナクス』のことである。そこでは、クロノスの神殿の門前にかかげられていたという、人間の生涯を寓意的に表現した図板(ピナクス)をめぐって、ソクラテスふうの対話が展開されている。「テーバイのケベスが道徳上のことがらにかんしておこなったのとおなじように」というのは、この『ピナクス』における手法のことをいっているのである。そして、このことについては、当時の読者ならば、おそらく即座に察しがついたものとおもわれる。

(上村 1998:64頁)

プラトンの『パイドン』に登場するテーバイのケベスのことかと思えば、そうではないとのことです。少しややこしいですね。しかも「『ピナクス』における手法」は「当時の読者ならば、おそらく即座に察しがついたものとおもわれる」と書いてありますが、そう言われても何のことか私にはよくわかりません。この情報をもとに、もう少し調べてみましょうか。

 Wikipediaの英語版"Cebes"の項目には次のように書かれています。

The Tabula has been widely translated both into European languages and into Arabic (the latter version published with the Greek text and Latin translation by Claudius Salmasius in 1640). It has often been printed together with the Enchiridion of Epictetus.

Wikipediaのこの記述をもとに調べてみたところ、Claudius Salmasiusが1640年に出版したケベスの『ピナクス』がおそらくこれですね。そしてエピクテトスの著作と一緒に出版されたもの(1670年)はこれでしょうね。わかったところで大した意味はありませんが、せっかくなのでここにリンクを貼っておきます。

books.google.co.jp

books.google.co.jp

上村先生の解釈によれば、このような図版を用いて想起の役に立てるということは「キケロ以来の記憶術の伝統を踏まえたものである」(上村 1998:66頁)とのことです。

 「記憶術」といえば、一昨年出た桑木野 幸司『記憶術全史』(講談社、2018年) が記憶に新しいですね。

以下に続きます。

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文献

サイード『オリエンタリズム』覚書(1)

目次

はじめに

 この連載では、エドワード・W・サイード『オリエンタリズム』(今沢紀子訳、平凡社ライブラリー)の読解を試みる。

 何故、いまさらサイードの『オリエンタリズム』を読むのか。それは〈オリエンタリズム〉の観点から音楽思想史を整理するための第一歩に他ならない。

 〈オリエンタリズム〉という概念は、思想史上において多大な衝撃を残した。哲学史が概して西洋を中心にして語られるのと同じく、音楽思想史においてもまた語られるのは、ほとんど西洋におけるそれである。では、音楽思想史において〈オリエンタリズム〉という概念はどのように有効に作用するのであろうか。この点を考えるためには、さしあたって〈オリエンタリズム〉の概念そのものの正確な把握が必要不可欠である。

 そもそもサイードは音楽思想史においても無視できない思想家の一人である。サイードは音楽評論を数多く書き残しており、またユダヤ人音楽家であるダニエル・バレンホイムと対話を行った。サイードの音楽論が『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』といった彼の他の代表作と無関係に読み解けるなどと思うのは、あまりにも野暮な考えではないだろうか。

序説(一)

 『オリエンタリズム』の「序説(Introduction)」は比較的長い。この「序説」は丁寧に書かれており、三つの節で構成されている。最初の節では、サイードのいう「オリエント」や「オリエンタリズム」の概念について論じられている。

"European Western"は「西洋人」か

 まずサイードは「オリエンタリズム」が「オリエント」と関連するものであることについて述べている。少し長いが以下の論証の文脈に関わるので、パラグラフごと引用する。

Americans will not feel quite the same about the Orient, which for them is much more likely to be associated very differently with the Far East (China and Japan, mainly). Unlike the Americans, the French and the British—less so the Germans, Russians, Spanish, Portuguese, Italians, and Swiss—have had a long tradition of what I shall be calling Orientalism, a way of coming to terms with the Orient that is based on the Orient’s special place in European Western experience. The Orient is not only adjacent to Europe; it is also the place of Europe’s greatest and richest and oldest colonies, the source of its civilizations and languages, its cultural contestant, and one of its deepest and most recurring images of the Other. In addition, the Orient has helped to define Europe (or the West) as its contrasting image, idea, personality, experience. Yet none of this Orient is merely imaginative. The Orient is an integral part of European material civilization and culture. Orientalism expresses and represents that part culturally and even ideologically as a mode of discourse with supporting institutions, vocabulary, scholarship, imagery, doctrines, even colonial bureaucracies and colonial styles. In contrast, the American understanding of the Orient will seem considerably less dense, although our recent Japanese, Korean, and Indochinese adventures ought now to be creating a more sober, more realistic “Oriental” awareness. Moreover, the vastly expanded American political and economic role in the Near East (the Middle East) makes great claims on our understanding of that Orient.

アメリカ人ならば、オリエントについて、これとまったく同じ感じ方はしないであろう。多分に違った連想の仕方で、むしろ極東(主として中国と日本)を連想するのではないだろうか。アメリカ人と違って、フランス人とイギリス人には——また彼らほどでないとしてもドイツ人、ロシア人、スペイン人、ポルトガル人、イタリア人、スイス人にも——、私が本書でオリエンタリズムと呼ぶことになるものの長い伝統がある。それは、オリエントと関係する仕方なのであり、西洋人エスタンとしての経験のなかにオリエントが占める特別の地位にもとづくものであった。オリエントは、ヨーロッパにただ隣接しているというだけではなく、ヨーロッパの植民地のなかでも一番に広大で豊かで古い植民地のあった土地であり、ヨーロッパの文明と言語の淵源であり、ヨーロッパ文化の好敵手であり、またヨーロッパ人の心のもっとも奥深いところから繰り返したち現れる他者イメージでもあった。そのうえオリエントは、ヨーロッパ(つまり西洋)がみずからを、オリエントと対照をなすイメージ、観念、人格、経験を有するものとして規定するうえで役立った。もっともこのオリエントは、いかなる意味でも単なる想像上の存在にとどまるものではない。それは、ヨーロッパの実体的なマテリアル文明・文化の一構成部分をなすものである。すなわちオリエンタリズムは、この内なる構成部分としてのオリエントを、文化的にも、イデオロギー的にもひとつの態様をもった言説ディスクールとして、しかも諸制度、語彙、学識、形象、信条、さらには植民地官僚制と植民地的様式コロニアル・スタイルとに支えられたものとして、表現し、表象する。これとは対照的に、アメリカ人のオリエント認識は、それよりもかなり淡泊な印象を与えるかもしれない。もっとも、日本、朝鮮半島およびインドシナで、アメリカ人が行った近年の軍事的行動のおかげで、いくらかは冷静で現実的な「オリエント」認識が生まれつつあるというべきであろう。そのうえ近東(中東)においてアメリカ合衆国の政治的・経済的役割がはなはだしく拡大した結果、そちらのほうのオリエントをもアメリカ人はもっと理解すべきだということが声高に叫ばれるようになっている。

(Said 2003:1-2、訳18〜19頁、下線引用者)

ここで「オリエント」に対するアメリカの人々の感じ方がヨーロッパ諸国の人々とは異なると言われているのは、両者の植民地的経験が異なるからである。つまり、ヨーロッパが植民地とした地域とアメリカが植民地とした地域とが異なっていることで、両者のオリエント観もまた異なった様相を呈することになるのである。アメリカ人がオリエントという言葉で「むしろ極東(主として中国と日本)を連想するのではないだろうか」と言われているのはそういう意味である。

 ここで「西洋人エスタン」と(訳者がわざわざルビを振って)訳されている箇所に目を向けると、原文は"that is based on the Orient’s special place in European Western experience"と書かれている。辞書で「西洋」を引いてみると、「ヨーロッパ・アメリカ諸国の称」と書いてある。「アメリカ人と違って(Unlike the Americans)」とサイードが断り書きをしているように、ここではアメリカとヨーロッパとを対照した文脈で"European Western experience"が言及されているのであるから、ここは「西人」ではなく「西(の経験)」と訳すべきではないだろうか。

 そう考えると、「ヨーロッパ(つまり西洋)」と換言の意味で訳されている"Europe (or the West)"という箇所もまた「ヨーロッパ(あるいは西洋)」と訳した方が良いとも考えられる。「西洋(West)」が「ヨーロッパ・アメリカ諸国の称」だとしても、アメリカ諸国を抜きにした「ヨーロッパ(Europe)」が(重なる部分があるとはいえ)厳密には同じではないからである。あるいは、「西洋(West)」は意味的に「ヨーロッパ(Europe)」を包摂するが、その逆ではないからである。

 「ひとつの態様をもった言説として」という訳出もいささか奇妙である。文字通りに読めば「言説の一様態として(as a mode of discourse)」である。この箇所も包摂関係が逆に捉えられて訳出されている。

 直前の一文「それは、ヨーロッパの実体的なマテリアル文明・文化の一構成部分をなすものである」の原文は"The Orient is an integral part of European material civilization and culture"である。ここで強調されている"material"は「想像上の(imaginative)」との対比において用いられている。"material"の訳語は「実質的な」でも良かったのではないだろうか。

 ちなみに「一構成部分(an integral part)」の"integral"は、ここでは「構成」よりもむしろ「必須の、不可欠な」というニュアンスかと思われる*1

「学術的(アカデミック)」なものとしてのオリエンタリズム

 サイードによれば、オリエンタリズムには複数の意味があり、その第一のものは「学術的アカデミック」なものだとされる。

It will be clear to the reader (and will become clearer still throughout the many pages that follow) that by Orientalism I mean several things, all of them, in my opinion, interdependent. The most readily accepted designation for Orientalism is an academic one, and indeed the label still serves in a number of academic institutions. Anyone who teaches, writes about, or researches the Orient—and this applies whether the person is an anthropologist, sociologist, historian, or philologist—either in its specific or its general aspects, is an Orientalist, and what he or she does is Orientalism.

私は、オリエンタリズムという語に複数の意味あいを与え、しかもしれらを相互依存関係のうちに絡みあったものとして考える。このことは読者の目にこれから明らかになってゆくであろう(しかも、読み進むにつれてますます明らかになるであろう)。オリエンタリズム複数の意味あいダゼグネイションのうち、もっとも広く一般に認められているのは、学問に関係するアカデミックなものである。事実、オリエンタリズムというレッテルは、あまたの研究機関のなかで依然として通用している。オリエントの特殊な、または一般的な側面について、教授したり、執筆したり、研究したりする人物は——その人物が人類学者、社会学者、歴史学者、または文献学者のいずれであっても——オリエンタリストなのである。そして、オリエンタリストのなす行為が、オリエンタリズムである。

(Said 2003:2、訳19〜20頁、下線引用者)

原文と対照すると、このパラグラフで二回目の「複数の意味あい」と訳されている原語は"designation"であることになるが、おそらく訳者は前の文の意味をとって意訳したように思われる。"desigonation"を英和大辞典で引いてみると、その意味は「指示、指定」や「称号、名称」だという。

 また邦訳で「もっとも広く一般に認められているのは」と訳されているのは"The most readily accepted"であるが、「広く一般に」は訳者の補いだろうか。しかし、ここで「オリエンタリズム」という名称が「もっともすすんで受け取られた」のは「学術的アカデミック」なものとしてなのだから、これが専門家以外にまで「広く一般に」広がっているとは到底思われない。意味を補うのなら「広く一般に」ではなくむしろ「狭く専門家の中で」とした方が適切ではなかったか。その受け取られた範囲は、あくまで「人類学者、社会学者、歴史学者、または文献学者」という専門家の中でのことに過ぎないのである。

 したがって、この一文は「オリエンタリズムという名称がもっともすすんで受け取られたのは学術的アカデミックな〔分野における〕それである」とでも訳せるだろうか。またこの場合の"Orientarism"は「東洋学」と訳すことができよう。

 この「学術的アカデミック」な意味でのオリエンタリストの代表者としてサイードが扱うのは、後の章で出てくるシルヴェストル・ド・サシやエルネスト・ルナンのような文献学者たちであろう。

 

西洋と東洋との「存在論的・認識論的区別」におけるオリエンタリズム

 オリエンタリズムの第二の意味は、「西洋」と「東洋」の比較対照によって設けられた「存在論的・認識論的区別にもとづく思考様式」である。

Related to this academic tradition, whose fortunes, transmigrations, specializations, and transmissions are in part the subject of this study, is a more general meaning for Orientalism. Orientalism is a style of thought based upon an ontological and epistemological distinction made between “the Orient” and (most of the time) “the Occident.” Thus a very large mass of writers, among whom are poets, novelists, philosophers, political theorists, economists, and imperial administrators, have accepted the basic distinction between East and West as the starting point for elaborate theories, epics, novels, social descriptions, and political accounts concerning the Orient, its people, customs, “mind,” destiny, and so on. This Orientalism can accommodate Aeschylus, say, and Victor Hugo, Dante and Karl Marx. A little later in this introduction I shall deal with the methodological problems one encounters in so broadly construed a “field” as this.

この学問的伝統——その蓄積、移転、専門分化、伝達が本書の主題の一部をなす——にも関係するのだが、オリエンタリズムにはより広いジェネラル意味がある。すなわち、オリエンタリズムは「東洋オリエント」と(しばしば)「西洋オクシデント」とされるものとのあいだに設けられた存在論的・認識論的区別にもとづく思考様式なのである。かくて詩人、小説家、哲学者、政治学者、経済学者、帝国官僚を含むおびただしい数の著作家たちが、オリエントとその住民、その風習、その「精神」、その運命等々に関する精緻な理論、叙事詩、小説、社会詩、政治記事を書きしるすさいの原点として、東と西とを分かつこの基底的な区分を受け入れてきた。そしてこの種のオリエンタリズムは、例えばアイスキュロス、さらにヴィクトル・ユゴー、ダンテ、カール・マルクスをまでも取り込むことになる。これほどに広い意味をもつ「分野フィールド」のなかで我々が出会うことになる方法論上の諸問題については、私はこの序説の少し後のほうで論じるつもりである。

(Said 2003:2-3、訳20〜21頁)

先のパラグラフの「アカデミックな」ものとしての「オリエンタリズム」が専門家の中でのいわば狭い範囲において通用していたものであったのに対して、ここでは「オリエンタリズム」がより「一般的な」人々、すなわち「詩人、小説家、哲学者、政治学者、経済学者、帝国官僚を含むおびただしい数の著作家たち」のうちにいかにして看取されるかについて注意が向けられる。これもまた『オリエンタリズム』の後の章の内容を予告するものである。例えば、カール・マルクスについては第二章「オリエンタリズムの構成と再構成」二「オリエント在住とオリエントに関する学識」の中で取り上げられるであろう。

 サイードのいう「存在論的・認識論的区別(ontological and epistemological distinction)」とは、一体どういうことであろうか。この第二の意味は次のパラグラフでは「想像力に関わる(imaginative)」ものだと言われている。おそらくサイードがここで言いたいことは、「西」とか「東」といった区別が、実在する区別ではなく、人間の頭脳の中で作られた「想像上の」区別だということではないだろうか。

(以下につづく)

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文献

*1:ジーニアス英和大辞典』【integral】の例文に次のようなものがある。"Television has long since become an integral part of Japanese life."「テレビはずっと前から日本人の生活になくてはならないものになっている。」

ルソー『言語起源論』覚書(7・完)

目次

(以下のつづきである)

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第十九章 どのようにして音楽は退廃したか

 もともと起源を同一にしていた音楽と言語とは、いつからか分離し、区別されるようになった。それはいかにして区別されていったのだろうか。

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哲学の研究と推論の進歩は文法を改良し、最初は言語を歌うようなものにした活発で情熱的な調子を言語から奪ってしまった。

(Rousseau 1781:427、増田訳123頁、強調引用者)

それまで韻文であった言語が、哲学者の言語使用によって、散文になる。これにより、 それまで言語が持っていた「旋律」という特徴が抜き去られ、生気のないものとなる。

 それまで「情念」に向けられていた言語使用はソフィストの登場とともに終焉を迎え、以後「理性」に向けられた言語使用へと変わる。

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そのように旋律は言説に密着しなくなって、少しずつ独自の存在になり始め、音楽は歌詞からより独立したものになった。すると音楽が詩の抑揚と諧調にすぎなかった時に引き起こした奇跡も徐々に止んで行った。〔そして以前は〕音楽が情念に対する影響力を詩に与えていたが、その影響力は以後、ことばが理性に対して及ぼすだけになってしまった。それ故ギリシャソフィストや哲学者で満ちてくると有名な詩人も音楽家も見られなくなった。説得する術を培うことで感動させる術を失ったのだ。

(Rousseau 1781:428、増田訳123〜124頁、強調引用者)

哲学者によって言語から音楽的要素が骨抜きにされ、その結果として近代人の言語からは弁論術が失われたとされる。この近代語における弁論術の喪失が、次章「言語と政体の関係」を読み解く鍵となる。

 

第二十章 言語と政体の関係

 この章でルソーは古代と近代における言語(弁論術)の違いについて考察している。両者の違いはどこにあったのだろうか。

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自由に好都合な言語がある。それは響きがよく、韻律や諧調に富み、とても遠くからでもその弁舌が聞き分けられる言語だ。われわれの言語は長椅子でのざわめきのためにできている。現代の説教師たちは聖堂で苦労して汗まみれになるが、彼らが何を言ったのか何もわからない。一時間叫んで疲れ果て、半死半生の状態で説教壇を後にする。たしかにそれほど疲れる必要はなかったのだ。

(Rousseau 1781:432-433、増田訳132頁)

ルソーによれば、古代の弁論は人々にとってよく聞き取れたが、近代の弁論は人々の耳に届かない、聞き取りづらいものになっているという。これは前章における言語からの音楽的要素の喪失という観点とセットで捉えられるべきである。

 では、言語がまだ音楽的要素を持っていた古代において弁論はいかなるものであったのか。

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古代においては、公共の広場で簡単に民衆に聞いてもらうことができた。丸一日話しても気分が悪くなることはなかった。将軍たちは軍隊に演説をしていた。人々は彼らの話を聞き、彼らは疲れ果てることは決してなかった。

(Rousseau 1781:433、増田訳132頁)

音楽的要素と一体であった古代の言語においては、弁論は聴取されやすく、聞き手と話者の両者にとってそれが長時間にわたっても疲れにくいものであった。これは先の疲れやすい「現代の説教師」と呼ばれる人々とは大違いである。

 

文献

ルソー『言語起源論』覚書(6)

目次

(以下のつづきである)

sakiya1989.hatenablog.com

 

第十六章 色と音の間の誤った類似性

 この章では、音楽と絵画、そしてそれらの構成要素である音と色とが——両者が類似のものとして捉えられていたにもかかわらず——いかに異なっているかということが示される。音楽と絵画はいかなる点で異なっているのだろうか。

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このように一つ一つの感覚にはそれに独自の領野がある。音楽の領野は時間であり、絵画の領野は空間である。一度に聞こえる音を増加させたり、色を次々と展開したりしても、それはその構成を変えることである。それは耳の代わりに目を置き、目の代わりに耳を置くことである。

(Rousseau 1781:421、増田訳112頁、強調引用者)

ここでルソーが「耳」と「目」を、すなわち視覚と聴覚を司る器官を挙げていることからも分かる通り、音楽は「耳」すなわち聴覚に独自の領野である「時間」に関わり、絵画は「目」すなわち視覚に独自の領野である「空間」に関わるものである。

 音楽は時間の領野に属するからその音はしだいに消え去るという特徴を持っているのに対して、絵画は空間の領域に属するのでその色は持続性を持ち、音と異なって消え去ることはない。

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聞くことができないものを描くことができるのは音楽家の大きな利点である一方、見えないものを表現することは画家にはできない。そして動きのみによって作用する芸術の驚異は動きによって安らぎの像さえ作ることができることだ。睡眠、夜の静けさ、孤独、静寂さえ音楽の絵画に含まれる。

(Rousseau 1781:423、増田訳114〜115頁、強調引用者)

ここでルソーが「静寂」さえも音楽の範疇に捉えていることは慧眼に値する。というのも、楽器を奏でるのでない静寂が音楽として考察の対象として認識されたのは、ようやく現代音楽になってからであるからだ(例えば、ジョン・ケージなど)。

 

第十七章 みずからの芸術にとって有害な音楽家たちの誤り

 この章は『言語起源論』の中で最も短い章である。

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すべてのことがいかにして前述の精神的効果に帰着するか、そして音の威力を空気の作用と繊維の振動という観点からのみ見る音楽家たちは、この芸術の力が何に存するのかということをいかにわかっていないかということをわかってほしい。彼らは、この芸術を純粋に身体的・物理的なフィジー印象に近づければ近づけるほどこの芸術をその起源から遠ざけてしまい、原初の力強さをそいでしまう。声による抑揚を離れて和声の制度に専念することで、音楽は耳にとってよりうるさくなり、心にとって甘美さをより失った。音楽はすでに語るのをやめてしまった。やがて音楽は歌わなくなり、そのすべての和音と和声全体をもってしてもわれわれに何の効果も及ぼさなくなるだろう。

(Rousseau 1781:424、増田訳118頁、強調引用者) 

 「すべてのことがいかにして前述の精神的効果に帰着するか、そして音の威力を空気の作用と繊維の振動という観点からのみ見る音楽家たち」が見落としていたのは、「抑揚」のもつ力である。

 

第十八章 ギリシャ人たちの音楽体系はわれわれのものとは無関係であったこと

 この章でルソーは次のように述べている。 

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われわれの和声が中世のゴシック発明であることは知られている。われわれの体系の中からギリシャ人の体系を見つけ出せると主張する人々はわれわれをばかにしている。ギリシャ人の体系は、われわれのいうところの和声的なところとしては、完全な協和音にもとづいて楽器の和声を固定するのに必要なものがあるだけだった。

(Rousseau 1781:425、増田訳119頁、強調引用者)

ここで「中世の」と訳されている箇所は、原文ではgothiqueである。私はこれが「ゴシック様式の」と訳されるべきものだと思う*1

 ゴシック様式とは中世の教会建築様式を指す言葉である。確かにゴシック様式は中世に属するが、しかし中世の建築様式のすべてがゴシック様式というわけではない。われわれはルソーが「ゴシック様式の(gothique)」と形容したところの意義を汲み取るべきである。

 ここで一つ想起されるべきは、中世の音楽が教会音楽として発展していったことである。グレゴリオ音楽は単旋律から始まったが、9世紀末にはオルガヌムと呼ばれる二つの旋律を重ね合わせる技法が記述されている(『音楽提要』895年)。

 12世紀にオルガヌムは本格的に頂点を迎えることになる。その代表の一つがサン・マルシャル修道院におけるサン・マルシャル楽派(École de Saint-Martial)、いわゆるアキテーヌ楽派(École d’Aquitaine)であり、もう一つがパリのノートルダム大聖堂におけるノートルダム楽派(École de Notre-Dame)である。いうまでもなくノートルダム大聖堂ゴシック建築の代表格である。私はルソーが「ゴシック様式の(gothique)」と書いたとき、ルソーの念頭にあったのはこのノートルダム楽派だったのではないかと考える。

 しかし、厳密に追求すれば解せない点もある。というのも、いわゆる「和声」は直接的にはゴシック様式の発明」はなかったはずだからである。だが、もし和声の源流が(対位法と重なる)オルガヌムにあると考えるならば、和声とは間接的にはゴシック様式の発明であるといえなくもない*2

(以下につづく)

sakiya1989.hatenablog.com

文献

*1:既存訳を参照したところ、小林義彦訳(1970年)では「われわれの和声はゴート人の考え出したものであることは知られている」(小林訳139頁、強調引用者)と訳されており、竹内成明訳(1986年)では「私たちの和声が中世の産物であることは知られている」(竹内訳199〜200頁、強調引用者)と訳されていた。したがって、増田訳は「中世の(gothique)」と意訳した竹内訳を踏襲した形になる。

*2:ノートルダム楽派の有名な人物であるレオニヌスは『オルガヌム大全(Magnus Liber)』を著したが、彼が作曲した音楽はまだ多声音楽(ポリフォニー)であって、(ルソーがいうような)和声(ハーモニー)ではなかった。レオニヌス『オルガヌム大全』の全曲が二声部で作曲されていたが、後のアルス・アンティクアの時代(12世紀中頃〜13世紀末)には声部の数が二声から、三声ないし四声以上に増えた。さらにアルス・ノーヴァの時代(14世紀)にはリズムが多様化していった。ルネサンス期(15世紀〜16世紀)には和音が意識されるようになった。

ラモー『和声論』覚書(1)

目次

はじめに

 本稿ではラモーの『和声論』を取り上げる。ルソーは『言語起源論』でラモーの『和声論』を批判しているが、そのルソーは若い時にラモーの『和声論』をよく読み学んだという。

楽譜も読めない音楽の素人である私がラモーの『和声論』を読み解こうなどとは、ともすれば不遜な態度かも知れないが、多めに見て頂きたい。

 

序文

 ラモーは『和声論』「序文」で音楽の歴史について語っているが、その際にラモーは古代の音楽家現代の音楽家とを比べている。

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 われわれの時代に至るまでに音楽がどれほどの進歩を遂げてきたとしても、がこの技芸のすばらしい効果に鋭敏になるに従って、のほうは音楽の真の諸原理を探求することに関してますます好奇心を失ってきたようである。したがって、音楽においては経験がある種の権威を獲得した一方で、理性は自らの権利を失ったのだと言うことができる。

(訳1頁、下線引用者)

ここでは「耳(oreille)」と「心(esprit)」、「経験(experience)」と「理性(raison)」とが対比的に用いられているように思われる。ラモーによれば、古代の人々は「理性」でもって音楽の原理を明らかにしたが、現代のわれわれは「経験」を優先しがちであり、音楽の原理の探求がないがしろにされているという。

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古代の人々からわれわれに残された書物は、ただ理性のみが彼らに音楽の諸特性のもっとも多くの部分を発見する手段をもたらしたことをまったく明白に示している。しかしながら、経験は古代の人々がもたらしてきた多くの音楽の諸規則に賛同するよういまなおわれわれに促すにもかかわらず、今日ではその理性から引き出されうるあらゆる利点がないがしろにされ、単なる実践という経験が優先されてしまっている。

(訳1頁、下線引用者)

ここで具体的な名前は挙げられていないが、「ただ理性のみが彼らに音楽の諸特性のもっとも多くの部分を発見する手段をもたらした」例としては、ピュタゴラスが発見した数比論かもしれないし、数学者アリストクセノスや、天文学者でもあったプトレマイオスの音階論かもしれない*1

 経験すなわち演奏(パフォーマンス)ばかりが重視される時代だからこそ、ラモーが本書で行うような音楽の諸特性の解明が意義を持つとでも言いたげな文章である。

 

第1章 音楽と音について

 では、ラモーにとって「音楽」とは一体何であろうか。

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 音楽とは音の学である。それゆえにが音楽の主要な対象である。

 音楽は概して和声旋律に分けられる。しかしわれわれは、旋律が和声の一部にすぎず、音楽のあらゆる特性の完全な理解のためには和声の知識で十分であることを以下で示そう。

(訳26頁、下線引用者)

「概して(ordinairement)」つまり音楽は和声と旋律の二つに分けられるのが通例であるが、そのような常識に反した主張をラモーは行っているというのである。ラモーによれば、旋律よりも和声の領域の方が広く、旋律は和声のもとに包摂されている。ラモーが「和声」をタイトルにできた所以である。

 ところで音楽を「音の学(Science)」と述べたところにラモーの音楽観が垣間見える。中世の大学では音楽は自由七課の一つに数えられていた。

自由七課は学芸学部(または人文学部教養学部)となり、上位三学部(神学部、医学部、法学部)へ進学するための基礎教養として必修となった。これが中世大学のモデルとなる。学芸学部は語学にかんする三課程(トリヴィウム:文法、修辞学、論理学)と、数学にかんする四課程(クヮドリヴィウム:数学、幾何学天文学、音楽)に分けられた。

(菅野 2015、205頁)

したがって、音楽とはあくまで基礎科目の一つという認識であった。

 しかし、より時代を遡ると、四世紀の古代ローマの哲学者アウグスティヌスはその『音楽論』のなかで"musica est scientia bene modulandi"と述べていた。もしかするとラモーはアウグスティヌスのこの言葉を知っていたのかもしれない。

musica est scientia bene modulandi(音楽とは、正しく〔訳注:音を〕動かす学である)"。これは、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 384—430年)が、その著〈音楽論 De musica 〉のなかで、音楽を定義して記した言葉である。そこでは、音楽が"学(scientia)"として、また"倫理的(bene)なもの"として、さらには"運動(modulandi)"としてもとらえられており、こうした音楽の定義は、古代ギリシアの音楽観を総括的にあらわすとともに、つづく中世の音楽観の基礎をなすものである。

(竹井 1981、13頁)

ラモーは音楽を「音の学」と述べたが、そのScienceとは近代的な意味での「科学」というよりもまだ「知識」に近い意味だったであろう。

(つづく)

文献

*1:「紀元前四世紀の哲学者・音楽理論家アリストクセノス、紀元二世紀の天文学者・数学者プトレマイオスは、ピュタゴラスの発見した数比論を進化させた音階論を著している。アリストクセノスは音楽演奏の現実にもとづいて音階をとらえ、たとえば4度を全音二つと半音一つとするなど、現代の平均律に相当する説を展開している。いっぽう、当時ローマ帝国領であったアレクサンドリアで活躍し、天動説を主張したプトレマイオスは、完全音程の8度、調和音程の4度と5度、さらに4度(テトラコルド)を三分割して生じる旋律音程をより厳密に数比で表し、感覚にも合理性にも適した分割だとしている(クラウディオス・プトレマイオスハルモニア論』第一巻第十五章、山本健郎訳『古代音楽論集』より)。」(菅野 2015、185〜186頁)。