まだ先行研究で消耗してるの?

全然ロジカルじゃない(!)書きたいことをひたすら書くブログです。ノンロジカルエッセイ。

ホッブズの「哲学=科学」論

目次

 

はじめに 

先日TwitterのTLにより、隠岐さや香先生が新書を出版されるということを知りました。『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書、2018年刊行予定)というタイトルからしてその内容が非常に気になっています。

文系と理系がなぜ分かれたのかという点については、隠岐先生の本を読むことにして、今回この記事では文系と理系が分かれていなかった時代について簡潔にまとめたいと思います。

 

「文系」→「哲学」、「理系」→「科学」

まず「文系と理系」という区別は、日本固有の文脈を持っているので、これを別の言葉に置き換えてみましょう。「文系」を「哲学」と置き換え、「理系」を「科学」と置き換えることによって、哲学史を遡って論じることができるように思います。

今でこそ「哲学(科)」は文学部などの文系に位置しておりますが、哲学史上の哲学者が文系として活動していたかというと、全くもってそうではありません。

18〜19世紀にかけて、例えばカント*1ヘーゲル*2のような大哲学者たちは自然科学についても論じていました。なので、少なくともこの時点で「文系」と「理系」とを分けるという発想はまだなかったと思われますし、むしろ両者を統一し総合することこそが重要だったと言えるかもしれません。

 もっと遡ってみると、17世紀にデカルトが『哲学原理』で物質の運動について論じているのを眺めると、デカルトにとって哲学は科学だったと思います。またスピノザは『エチカ』で「幾何学的論証」という数学的手法を用いていました。ライプニッツ微積分の業績は言わずもがなです。

 

ホッブズの「哲学=科学」論

 ちなみに哲学者ホッブズにとって「哲学」とは「科学」の呼称に他なりませんでした。

科学(SCIENCE)すなわち諸帰結についての知識、それは哲学(PHILOSOPHY)とも呼ばれる。」*3

(Hobbes, Leviathan, Chap. IX. "Of the Severall SUBIECTS of KNOWLEDGE."の次ページに掲げられた表。「哲学=科学」の下位カテゴリーとして諸学が位置付けられていることが分かる。)

では、ホッブズは「哲学」と「科学」について、具体的にどのように述べているのでしょうか。

「科学」

まず「科学」について、ホッブズは『リヴァイアサン』第1部第5章「推論および科学について」で次のように述べています。

「このことによって明らかなのは、推論(reason)は、感覚および記憶のように我々に生まれつきのものではなく、慎慮のように経験だけによって得られるものでもなく、勤勉によって獲得されるものだ、ということである。その勤勉とは第一に、名辞の適切な付与における勤勉であり、第二に、諸要素すなわち名辞から、名辞のうちの一つと他のものとの結合によって作られる断定へ、そして或る断定と別の断定との結合で或る三段論法へと進んで、ついに我々が当面の主題に属する諸名辞の全ての帰結に関する知識すなわち人々が科学と呼ぶところのものへと到達するための優れた秩序ある方法を得るための勤勉である。」*4

ここでホッブズは「推論」について述べています。ホッブズによれば「推論」を勤勉によって獲得するという事は、アプリオリな生得物(感覚や記憶)でもなければ、アポステリオリな経験知(慎慮)でもないということです。ホッブズの文章を噛み砕いていうと、人が言葉の正確な用法を学び、これをもって三段論法のような論理学(これはアリストテレスまで遡ることができる)を勉強し、原因から結果について理解することで、ようやく「科学」と呼べる水準に到達できるということです。

ちなみにここでホッブズは「慎慮」と「科学」という二つのターム*5によって、「科学」の位置付けを表現しています。「慎慮」は単に経験されただけに過ぎないものです。これが「科学」と区別されているのは、「慎慮」という経験知は未だ論証されておらず、それゆえ知が不確実なものに止まっており再現性が低いと考えられるからです。これに対して「科学」は論証された知識であり、それゆえ結果の確実性が高いものです。

「哲学」

次に「哲学」についてはどうでしょうか。ホッブズは『リヴァイアサン』第4部第46章「空虚な哲学および架空のいいつたえから生じた暗黒」の中で「哲学」について次のように述べています。

哲学とは或るものごとの生成の仕方から、その諸固有性(Properties)にいたり、あるいは、その諸固有性からそのものの生成の、ある可能的な経路に至る、推論によって獲得された知識であり、それは、物質と人間の力が許す限り、人間生活が必要とするような諸効果を、生み出しうることを目指しているものであると解される。こうして幾何学者は、諸図形の構成から、それの多くの固有性を見出し、そして推論によって、その諸固有性から、諸図形を構成する新しい筋道を見出し、ついには、水陸の測量ができるようになり、さらに無限の他の用途に役立つのである。同様に天文学者は、天の様々な部分における太陽や星の、上昇下降と運動から、昼夜及び年の様々な季節の、諸原因を見出し、そうすることによって彼は、時間を測るのである。他の諸科学に関しても同様である。」*6

 ここで「哲学」は「推論によって獲得された知識」だと説明されていますが、これは先に見た「科学」についての説明と一致しています。ホッブズにとって「哲学」とは「科学」に他ならず、これを支えているのは原因から結果へと至る「推論=理性(reason)」です。

ここで「幾何学者」と「天文学者」という科学者が取り上げられていますが、彼ら科学者と哲学者とは、推論をもって法則の発見にあたっていたという点で同義だったのです。

 

結語

今回はとりわけホッブズにスポットライトを当て、近代初期において「科学」と「哲学」とが一致していたことを示しました。

さらに冒頭で述べたように、ここで「文系」を「哲学」と置き換え、「理系」を「科学」と置き換えることによって、少なくとも近代においては「文系」と「理系」とが、また「哲学」と「科学」とが分離していなかったことを論じました。

では、「文系」と「理系」とは、一体なぜ分かれたのかー、その答えは隠岐先生の新書を待つことにしましょう。

 

文献

 

*1:カント「天界の一般自然史と理論」「自然科学の形而上学的原理」(所収『カント全集 第十巻 自然の形而上学高峯一愚訳、理想社、1966年)。

*2:ヘーゲル「惑星軌道論」(所収『ヘーゲル初期哲学論集』村上恭一訳、平凡社ライブラリー、2013年)、ヘーゲル全集2『自然哲学』加藤尚武訳、岩波書店

*3:ホッブズ1992、148頁。

*4:ホッブズ1992、91頁

*5:ホッブズは英語だけでなくラテン語でも思考している。「多くの経験が慎慮であるように、多くの科学は学識(Sapience)である。すなわち、我々は通常、双方に対して知恵という一語しか持たないが、ラテン人は常に慎慮Prudentia)と学識Sapientia)とを区別して、前者は経験に、後者は科学によるものとしたのである。」(ホッブズ1992、93頁)。

*6:ホッブズ1985、105頁。

アマゾンについての新刊3冊

昨日、アマゾンについての新刊を買いました。

目次

 

佐藤将之『アマゾンのすごいルール』(宝島社)

 読んでいて感心した箇所を1つ挙げるならば、アマゾンが「ストック・オプション株ではなくRSU株を支給」(174頁)しているという点ですね。

「「RSU = Restricted Stock Unit」は、日本語で「制限付き株」と訳されます。要するに自社株のことですが、「権利行使(売る)タイミングが1年後、2年後など制限される」というのが大きな特徴です。」*1

「アマゾンにとってRSUは、ストック・オプションよりも使い勝手の良い株だと言えるでしょう。

 第1に、評価の高い功労者に「確実に」キャッシュ価値のあるものを渡せるという点。

 第2に、評価の高い功労者に「長く」会社にとどまってもらえるという点。」*2

アマゾンは社員に対してRSUのインセンティブを上手く活用していますね。このようにアマゾンが短期的ではなく長期的な目線で制度設計している点は素晴らしいと思います。

 

鈴木康弘『アマゾンエフェクト!』(プレジデント社)

このツイートをした直後、閉店間際の有隣堂に駆け込み、追加で2冊買いました。

この本はタイトルが素晴らしい。

つまり釣りです。完全にタイトルに釣られて買っちゃいました。

秀逸なのは「ほぉ赤字会社の社長が温泉旅行に行くとは?(大意)」と皮肉を言われる件です。

アマゾンというのはおそらく立ち向かうべき対象ではなく、そのインフラをみんなの為に利用開発すべきツールと考える方が生産的かと思います。

 

GAFAリサーチ・ジャパン『アマゾンがわかる』(ソシム)

この本はアマゾンページでは評価星3つとイマイチですが、実際はインフォグラフィックスが綺麗だし、内容もバランス良く配分されていて、アマゾン入門に丁度良いと思いました。僕は好きですね。

 

まとめ

 

文献

 

*1:佐藤2018、175頁

*2:佐藤2018、177頁

【抜粋ノート】ヘーゲル『法の哲学』における「正義(Gerechtigkeit)」の用例集

凡例

  • ヘーゲル『法の哲学』の翻訳は、主に藤野渉・赤沢正敏訳(中公クラシックス)を参照したが、訳文は適宜改めてある。
  • 原語はHegel Werke Bd.7, Suhrkampに依拠した。
  • 引用箇所は、節番号(§)及びAnm.(注釈)とZu.(補遺)で示す。 
「持ちものと資産との不均等な配分にたいする自然の不正義Ungerechtigkeit der Natur)を論じるわけにはいかない。というのも、自然は自由ではなく、そのため公正(gerecht)でも不正(ungerecht)でもないからだ。」(§49Anm.)

「だが特殊性の規定、私がどれだけ占有するかという問題は、右の平等外に属する。正義(Gerechtigkeit)は各人の所有が平等であるべきことを要求する、という主張は、ここでは間違いだ。というのも、正義はただ、各人が自分のものとしての所有をもつべきことを要求するだけだからである。反対に特殊性とは、むしろ、まさに不平等こそがそこに根をおろしているところのものであって、ここでは平等のほうが無権利(Unrecht)であろう。」(§49Zu.)

「だが問題は単に害悪でもなければ、あれこれの良いことでもなくて、はっきりと、無権利Unrecht)と正義Gerechtigkeit)なのである。右の皮相的な観点によって、犯罪における第一のかつ実体的な観点であるところの、正義Gerechtigkeit)の客観的な考察が脇へ置かれる。」(§99Anm.)

「権利と正義(Gerechtigkeit)とは、自由と意志とのうちにその座を有するのであって、おどかしが向けられるところの、不自由のうちにであってはならない。……おどかしはひっきょう、人間を憤激させて、人間がそれにたいしておのれの自由を証示することになりかねない。だがそういうおどかしは正義をまったくわきにおくのだ。」(§99Zu.)

「正義(Gerechtigkeit)の存在の仕方にかんしていえば、もともと、それが国家のなかでもつ形式、つまり刑罰としての形式が唯一のなのではないし、国家は正義そのもの(Gerechtigkeit an sich)を制約する条件ではない。」(§100Anm.)

「だが平等規定は、報復の表象のなかへ一つの根本的な困難さをもちこんだ。刑罰諸規定の質的及び量的な性状からいっての正義(Gerechtigkeit)は、しかし、もともと、事柄そのものの実体的なものよりも、もっと後のことである。」(§101Anm.)

形式からいえば復讐は一つの主観的な意志の行為である。この主観的な意志は、行われたどの侵害のなかへもおのれの無限性を置き入れることができ、この主観的な意志の正義(Gerechtigkeit)はそのため総じて偶然的である。」(§102)

「ここで無権利の止揚の仕方について現に存在しているこうした矛盾が(他の無権利のばあいの矛盾と同様に、§86、89)解消されることを要請することは、主観的な利益と形態から解放されているとともに力の偶然性からも解放されているような、したがって復讐的ではなく刑罰的な正義strafenden Gerechtigkeitを要請することである。」(§103) 

「即自的には私のものでもあるところの正義(Gerechtigkeit)のなかで、私はただ他人の主観的な信念を知らされるだけであって、その正義が実行されると自分はただ或る外的な暴力(Gewalt)によって取り扱われているとしか思えないことになる。」(§140Anm. (e)の最後)

「倫理はそのため諸々の民族にとって永遠の正義(Gerechtigkeit)として、即かつ対自的に存在する神々として表象されたのである。」(§145Zu.)

ユスティニアヌスのように、たとえ形式不備の集録にすぎないにしても、国民にラント法Landrecht)を与えた支配者、ましてそれを秩序立った明確な法典として与えた支配者は、たんに国民の最大の恩人となり、国民からそれに対する感謝の念をもって賞賛されただけでなく、同時に偉大なる正義の行為(großen Akt der Gerechtigkeitを成し遂げたのである。」(§215Anm.)

「刑罰は客観的に見れば、犯罪の止揚を通じておのれ自身を回復しこれによりおのれ自身を有効なものとして実現する法律の宥和であり、犯罪者の主観に即して見れば、彼によって知られ、彼のため及び彼の保護のために有効な彼の法律の宥和であって、それゆえ彼自身、この法律が彼に対して執行されることにおいて正義(Gerechtigkeit)が満たされるのを認め、この執行が彼自身のなすべきことを果たすことにすぎないことを認める。」(§220) 

「犯罪者は事実を否認することがあり、そのために正義の利益(das Interesse der Gerechtigkeit)が危うくされるという困ったことが生じる。」(§227Zu.)

「正義とは市民社会における一つの偉大なものである。」(§229Zu.)

「なるほどこうしたことは損害の一つの可能性すぎないが、しかしそのことがなんらの損害も与えないということも、一つの偶然であるから、同じくまた一つの可能性以上のものではない。これがそのような行為のなかに含まれている無権利側面(Seite des Unrechts)であり、したがってポリツァイ的な刑罰の正義の究極の理由(der letzte Grund der polizeilichen Strafgerechtigkeit)である。」(§233)

「じじつお金(Geld)はしかし自余の資産と並ぶ一つの特殊な資産ではなくて、その他の資産全般に通じる普遍的なものである。とはいえ、その他の資産といっても、現存在の外面性として現われ、その外面性において一つの物件Sache)として捉えられることができるかぎりでの資産のことである。この最も外面的な尖端によってのみ、量的な規定性が可能なのであり、これに伴って弁済の正義と平等(Gerechtigkeit und Gleichheit der Leistungen)とが可能なのである。」(§299Anm.) 

「だがお金によって平等の正義(Gerechtigkeit der Gleichheit)ははるかにうまく貫徹されることができるのである。」(§299Zu.)

「世論(öffentliche Meinung)はそのため正義の永遠なる実体的な諸原理を、そしてまた全体制と立法と総じて一般的な状態との真の内容と成果とを、常識の形式(Form des gesunden Menschenverstandes)で、すなわち全ての人に先入見の形態をとって浸透している倫理的な基礎の形式で含んでいる。」(§317)

 

 

ヘーゲルの正義論

目次

 

今回は、ヘーゲル『法の哲学』におけるヘーゲルの正義論について書きたいと思います。

sakiya1989.hatenablog.com

 

「正義」と「平等」

ヘーゲルの『法の哲学』においては「正義」は総じて「平等」との関わりで登場しますが、テクスト上では「正義」よりも先に「不正義」が語られ、これは配分の不平等との関わりで登場します。

「持ちものと資産との不均等な配分にたいする自然の不正義Ungerechtigkeit der Natur)を論じるわけにはいかない。というのも、自然は自由ではなく、そのため公正(gerecht)でも不正(ungerecht)でもないからだ。」(ヘーゲル2001, §49Anm.)

人間は生まれた時は不平等です*1。なぜなら生まれる環境が様々異なるからです。資産に恵まれた環境に生まれる人もいれば、当然、恵まれない環境に生まれる人もいます。

では、「生まれ」という「自然」は不平等なのかというと、そうではないとヘーゲルは説きます。というのも、自然においては正/不正というものはそもそも存在しないからです。先の引用で「自然は自由ではない」と述べられていましたが、「正義」は「権利」と同様に、「自然」という「不自由」のうちにではなく、「自由と意志とのうちに」存在するのです。

「権利と正義(Gerechtigkeit)とは、自由と意志とのうちにその座を有するのであって、おどかしが向けられるところの、不自由のうちにであってはならない。……おどかしはひっきょう、人間を憤激させて、人間がそれにたいしておのれの自由を証示することになりかねない。だがそういうおどかしは正義をまったくわきにおくのだ。」(ヘーゲル2001, §99Zu.)

ここで「権利と正義とが自由と意志とのうちに」あるということは、権利と正義とはその根本を同じくしていると言えます。根を同じくしているとはいえ、それでもやはり「権利」と「正義」とは区別されるように思います。

 

iusの分離としての「権利(Recht)」と「正義(Gerechtigkeit)」

ところで、長谷川宏さんはヘーゲル『法哲学講義』(作品社、2000年)の翻訳を出すときにタイトルを「正義の哲学」あるいは「社会正義の哲学」にしたかったと述べています*2。また長谷川宏「社会正義の哲学」*3でも同様の趣旨が述べられています。

私が次の記事「【抜粋ノート】ヘーゲル『法の哲学』における「正義(Gerechtigkeit)」の用例集」で示したように、ヘーゲル『法の哲学』の中に「正義(Gerechtigkeit)」論はあります。しかし、そのさい、ヘーゲルの権利論が正義論を包摂しているのであって、その逆ではないことに注意が必要です。

長谷川宏さんの訳し方では、RechtもGerechtigkeitも「正義」の名の下に還元してしまうので、ヘーゲルの原テクストで表現されている両者の違いがかえって不明確になってしまいます。したがって、長谷川さんによる「Recht(権利=正義)」の訳し方と読み方は、ヘーゲル『法の哲学』のテクストの正確な読解を妨げるものであると言えるでしょう*4

「正義」の概念史を追ってみると、古くはアリストテレスの正義論に突き当たります。近年でも正義論に関する議論が活発ですが、正義論はもともと配分や矯正、交換に関する議論から始まったと言えるのです。正義や権利は歴史的にはラテン語のius(jus)で表現されてきましたが、ヘーゲルのテクストにおいて「正義(Gerechtigkeit)」と「権利(Recht)」が区別されるのであるならば、かつて二重の意味を持っていたiusがヘーゲルのテクストにおいてはRechtとGerechtigkeitに枝分かれしていると言えなくもないのです。そして古典的正義論は、ヘーゲルにあってはRechtよりもむしろGerechtigkeitの方に還元されています。 

ちなみに、ここで面白いのはGerechtigkeitという語が、ge-とrechtの組み合わせによって、過去の古典的iusを言い表しているように見えることです。つまり「正義」としてのiusは古典的なiusですから、ドイツ語のGerechtigkeitはそれを文字で表現しているように見えるのです。

 

文献

 

*1:余談。確かホッブズは『リヴァイアサン』で、人間は見た目や能力が多少異なっていてもその差異は無視できる範囲であるから、人間の自然を平等とみなしたはずだ。しかし、ホッブズはまだ、人間の生まれた家庭の資産環境には注目していなかったように記憶する。

*2:長谷川宏正義のありか011」。

*3:ヘーゲル2001所収。

*4:ちなみに、松井によれば、カントの場合には「権利(Recht)」と「正義(Gerechtigkeit)」とは厳密に区別できないという。「カントは正義を法的な枠組みの中で考えるので「正義」と「法」を厳密に区別することはできない。だが言葉のうえからいえば、「正義」はGerechtigkeitで、「法」や「権利」はRechtなので一応は区別されうる。ただし、形容詞のrechtになると両者の関係はかなり曖昧になる。その最たる例が「それ自身で、あるいはその格率からみて、各人の随意志の自由が普遍的法則に従って各人の自由と両立しうる各行為は正しい」という「法の原理」である(Vgl.VI.MS.231)。これは行為の"正しさ"を述べた原理であるから「正義の原理」としても構わない。むしろ正義のほうが法よりも外延が大きいと考えられる。アリストテレスの「全体的正義」はそうした含みを持つ概念である。それに正義は、神の審判のように、もともと宗教に密接に関連する概念である。したがって正義を法的領域に限定するのは、その本来の語義に反するようにも思える。だがカントはそうは考えない。彼はむしろ正義を宗教領域から解放して法的領域に限定することを戦略として目指している。」(松井2003、17〜18頁)。

家庭用POSシステムについて ーEC市場・潜在的在庫・レコメンド機能問題への一寄与ー

Twitterで「家庭用POSシステム」なるものについて呟いたので、以下にまとめておきます。

目次

 

Amazonのレコメンド機能

コトの発端はAmazonからのおすすめメールでした。

何故か怒ってますね。私疲れてたんでしょうか…。

でも、しょっちゅう来るんですよ、Amazonからの参考にならない「おすすめメール」が。

で、なんでそういう参考にならないレコメンドが来るのか。理由は簡単です。僕が該当の商品のページを見たからです。

 僕の場合はこのブログでAmazonへのリンクを貼る際に「Amazonアソシエイトツールバー」を利用しています。「Amazonアソシエイトツールバー」でリンクを作成する為には、該当の商品ページにアクセスしなければなりません。このアクセス履歴に基づいてレコメンドメールが届くのです。 しかし、僕はAmazonのアフィリエイターではありますが、Amazonのユーザーとしてはほとんど注文しておらず、大抵リアル書店で書籍を購入してしまっているので、Amazonのおすすめとは常にすれ違いが起きてしまっているのです。

it-koala.com

 

家庭用POSシステム

そしてこの擦れ違い問題を解消する為に、僕は書斎の本をデータベース化するというアイデアに思い至ります。

ここで「家庭用POSシステム」などという単語を急に思いついたわけですが、「そもそもなんで家庭内にPOSシステムが必要なんじゃい」って自分で自分にツッコミたくなりますね。POSシステムというよりは「蔵書管理システム」とか、あるいは「OPAC(図書館蔵書検索システム、Online Public Access Catalog)みたいなやつ」といったほうが良かったかしら。家庭用なのでOPACと言ってもOPAC(個人蔵書検索システム、Online Private Access Catalog)になりますが。

it-koala.com

また上で「棚卸し並みの作業」と書きましたが、本のISBNバーコードをスキャンしてデータ化するって「棚卸し並み」どころか完全に棚卸しそのものですよね(笑)。

バーコードスキャンはスマホのカメラ機能でも代用可能ですが、蔵書数が多い場合には専用のハードを使ったほうがやりやすいかもしれません。スキャン用のハンディなスマートデバイスを買って、Bluetooth連携してみるだけです。

 

潜在的在庫

【訂正】Twitterで「書斎のデータベース化」と述べていますが、正確には「蔵書のデータベース化」です。アホですみません…。

上の部分で「潜在的在庫」なる概念を思いつきました。これは例えるならば「潜在的転職者」みたいな発想です。

僕のビジョンとしては、書籍を出品の意思がない状態でデータベース上に登録だけしておいて、市場価格を算出し、希少価値があれば出品を促すというものです。保有者(あるいは本の所有者が死んだ場合は相続者)がその商品の希少価値を知らない場合もあるので、書斎をデータベース化しておくだけでもやる意義は十分にあると思います。

ECサイトが活発になるにつれて、家庭の中にある物はそのうち全て潜在的在庫とみなされるようになるのではないでしょうか。潜在的在庫の傾向は、メルカリの登場以降、特に注目すべきだと思います。

【訂正】書斎」→「蔵書」に置き換えてください。

上の部分はつまり、購買行動のビッグデータ分析は活発だと思うのだけど、家庭の中にある物(ストック)のデータが不足しているのではないか、ということが言いたかったのです。

ホッブズの権利論 ー自然権と自由ー

目次

 

 

承前

今回はホッブズの権利論*1について書きたいと思います。

この記事は以下の記事の続きです。

sakiya1989.hatenablog.com

「権利」はオランダ語のregtや英語のrightの翻訳語として用いられるようになりました。しかしながら、regtやrightという言葉それ自体が、ラテン語のius(jus)の翻訳語だと考えるとどうでしょうか。もしそうだとすれば、「権利」はiusの重訳から生まれた、と言えなくもなさそうです。

 

ホッブズの「自然権

例えば、政治哲学者ホッブズは、「自然権(Right/Ius)」と「自然法(Law/Lex)」の区別に留意しつつ*2、「自然権」について次のように述べています。

「著者が通常自然権Jus Naturale)と呼んでいる自然の権利(Right of Nature)とは、各人が自分自身の自然を、即ち自分自身の生命の維持のために、自分自身の意志する通りに自分自身の力を行使することに対して各人が持っている自由であり、従って、自分自身の判断力と理性において、それに対して最適な手段であると見做すような、如何なることでも行う自由である。」(ホッブズリヴァイアサン』第1部14章)*3

f:id:sakiya1989:20180501112726j:plain

(上の画像(英語版『リヴァイアサン』)はLeviathan - Thomas Hobbes - Google ブックスから)

f:id:sakiya1989:20180506010501j:plain

(上の画像(ラテン語版『リヴァイアサン』)はLeviathan, sive de materia, forma et potestate civitatis ecclesiasticae et ... - Thomas Hobbes - Google ブックスから)

ホッブズの言葉を敷衍すると、「自然権」が「自然の」と呼ばれる理由は、この権利が「自己の生命」というまさに「自然(Nature)」にかかわるものだからです。ホッブズにおいて「自然権」とは、自分の力(power/potentia)を行使する「自由」ですが、ここで「力」は「自己の生命を維持する」という目的に適合する限りで認められており、そのため「自然権」における自由とは極めて合目的的な、目的合理的な自由です*4

ここではホッブズ解釈にこれ以上立ち入りませんが、上述の引用箇所から、ホッブズが英語のrightをラテン語のjusの翻訳語として用いていることがわかると思います。したがって、「権利」はrightの翻訳語であると同時に、jusの重訳だと言えるのです。

 

自然権」と「自由」

そしてもう1つ指摘しておくと、「権利とは正しいことである」という、まるで辞書からその内容を引っ張ってきたような説明が専門家の中にもしばしば散見されるのですが、そのような説明は同語反復(トートロジー)に過ぎません。そもそも「権利(Right)」とは「正しいこと(ラテン語のiustum、これはもっと遡るならばアリストテレス『ニコマコス倫理学』のディカイオシュネーに該当する)」なのですから。「権利(Right)」すなわち「正しいこと(ius)」とは一体何なのかを説明しないことには、「権利」を説明したことにはなりません。 

ちなみにホッブズにおいて「自然権」という「権利(Right/Ius)」が、単に正しいとか正しくないという観点*5ではなく、むしろ「自由(Liberty/Libertas)」の観点から論じられている点には注意すべきかと思います。

実は私は以前、ヘーゲルの権利論の読解をまさに「権利」と「自由」という観点から注意を促した*6のですが、ヘーゲルだけでなく既にホッブズにおいても「権利」と「自由」との結びつきは非常に強いと考えられるのです。ヘーゲルの『法の哲学』の副題に「自然権(Naturrecht)」と書かれている理由も、まさに「権利」と「自由」の観点から説明できるような気がします。

ホッブズにおいて「自然権」は「力(power/potentia)」を行使する自由と言われているわけですから、「権利」と「力」が全く関係ないとは言い切れなさそうです。が、IusとRightの同一性という観点を持ちつつ、Iusとしての「権利」についてもう少し時代を遡ってみる必要があります。 

(つづく)

 

文献

 

*1:このテーマについてはすでに素晴らしい先行研究が存在する。小林によれば「ホッブズは, 「権利が法より先に存在する」という学説を自然法の分野に適用して「自然権自然法に対する優越」という見解を導いた。その見解は近代政治思想史上最初に論じられ, しかも後世に影響を与えた見解である。」(小林2007、57〜58頁)。

*2:「この主題についてかたる人々は、権利Jus and Lex, Right and Lawを混同するのが常であるが、しかし、両者は区別されるべきである。」(ホッブズ1992、216頁)。

*3:ホッブズ1992、216頁。

*4:同時に我々はホッブズによる後続の「自由」についての説明を考慮に入れる必要がある。「自由(LIBERTY)とは、その言葉自身の意味によれば、外的障碍の不在と解される。この障碍は、人がやりたいように行う力の一部を取り去り得るのだが、その人のもとに残された力を、彼の判断力と理性が彼に指示するであろうように使用することを妨げることはできない。」(ホッブズ1992、216頁)。 ホッブズの論理に従えば、「外的障碍」が「生命の維持」を脅かすようなものであるならば、そのような障碍は取り除かれなければならないということになるだろう。

*5:正しいとか正しくないという観点は、ホッブズのいわゆる「自然状態」ではそもそも存在しない。「正邪(Right and Wrong)と正不正(Justice and Injustice)の概念は、そこ〔自然状態の戦争状態〕には存在の余地をもたない。共通の権力がないところには、法はなく、法がないところには、不正はない。」(ホッブズ1992、213頁)。

*6:荒川2017。

田上孝一編著『権利の哲学入門』社会評論社、2017年

昨年出版された田上孝一編著『権利の哲学入門』(社会評論社、2017年)には、自分も執筆者の一人として参加した。この本は二部構成であり、第一部は「権利の思想史」、第二部は「現代の権利論」となっている。

f:id:sakiya1989:20180501110706j:plain

第一部「権利の思想史」では、アリストテレス古代ローマトマス・アクィナスホッブズ*1、ロック、ルソー、カント、J.S.ミル、ヘーゲルマルクスの権利論が扱われている。このように「権利」というテーマで各哲学者・思想家の専門家が執筆した日本語の論集はこれまでになかったと思われる。その意味で画期的な本だと思う。

もちろん書籍として出版する以上、文字数の制限が存在する。なので、それぞれの執筆者が書きたくても書ききれなかった内容が多数存在すると思われる。かくいう自分がそうであった。「ヘーゲルの権利論」というテーマ(ヘーゲル法哲学の核心に当たるかもしれないテーマ)を頂きながら、ヘーゲルの「法律(Gesetz)」論やヘーゲルの「正義(Gerechtigkeit)」論について考えたことは、テーマ及び文字数の関係で削ぎ落とさざるを得なかった。

ヘーゲル法哲学の邦訳では、そのタイトル(『の哲学』*2からしていきなりRechtが「法」と訳されてしまうので、日本語表記では「法律」と「権利」の差異にどうしても無頓着になりがちである。そのため、本来であれば、ヘーゲルの「法律」論や「正義」論も論じることができれば、私が著した「ヘーゲルの権利論」の内容もよりクリアに伝えられることができたかもしれない。

*1:Amazonの内容紹介では、「ホップスの権利論」と記載されているが、「ホッブズ」の間違い。

*2:Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts oder Naturrecht und Staatswissenschaft im Grundrisse, 1821.