まだ先行研究で消耗してるの?

全然ロジカルじゃない(!)書きたいことをひたすら書くブログです。ノンロジカルエッセイ。

スピノザ『神学・政治論』における聖書解釈

はじめに

 皆さんはスピノザSpinoza, 1632-1677)*1という哲学者をご存知でしょうか。スピノザアムステルダムユダヤ共同体のうちに生まれましたが、徐々にユダヤ教の教義に疑問を抱くようになり、また活発化していた反デカルト主義運動の潮流のため、ユダヤ共同体から「破門へレム」宣告を下されたと言われています*2

 今回取り上げるのは、スピノザ『神学・政治論』(1670年)における聖書解釈論です。この本の扉にはハンブルクの出版社から出版されたと表記されていますが、それは架空の出版社であり、実際にはアムステルダムで出版されたといいます*3。私は、スピノザの提唱する聖書解釈の方法が、聖書のみならず他のあらゆるテクスト解釈においても通用する技法になり得るのではないかと考えています。

神学者の恣意的解釈に対抗するスピノザの聖書解釈

 ではスピノザはいかにして聖書を解釈するのでしょうか。スピノザによれば、聖書解釈の方法は、自然解釈の方法と同一だといいます。

こうした混乱を逃れ、神学上のさまざまな先入見から精神を解き放つためにも、また人間の思いつきを神の教えとして軽々しくもてはやさないためにも、わたしたちは本当の聖書解釈の方法を取り上げ、これを詳しく考察しなければならない。これを蔑ろにしては、わたしたちは聖書もしくは聖霊が説こうとしていることを、何一つ確実に知ることができないからだ。その方法をここで手短にまとめておくが、はっきり言うと、聖書を解釈する方法は自然を解釈する方法とまったく違わない。両者はむしろ完全に一致するのである。

スピノザ 2014:304)

Spinoza 1670 : 84)

「自然を解釈する方法」とはまさに自然科学だと言えるでしょうが、聖書解釈の方法がそのような自然科学的方法と同一であるならば、教義や信仰に頼ることなく、理論的に理解可能であるということになります。さらにスピノザは「自然解釈の方法」についてより詳しく次のように述べています。

自然の物語を取りまとめて、それをもとに、つまり確かなデータをもとに、さまざまな自然のものごとの規定を導き出す、というのが自然を解釈する方法のあらましである。聖書を解釈する場合もこれと同じなのだ。そこでは聖書の純正な歴史物語を取りまとめて、それをもとに、つまり確かなデータや原則をもとに、正しい帰結をたどって聖書作者たちの精神を導き出す、という作業が欠かせない。このようにすれば、誰でも(言うまでもなく、聖書を解釈しそこに含まれているものごとについて考察を進めるにあたって、聖書それ自体とその歴史的事情から取り出せないようないかなる原則もデータも認めない、という条件を守るならば、だが)誤りを犯す危険なしに進み続けられるし、わたしたちの理解力を超えることについても、自然の光によって分かることと同じくらい手堅く考察できるからである。

スピノザ 2014:304〜305)

Spinoza 1670:84)

「自然の物語」*4という言葉がやや引っかかる気がしますが、これは言い換えるなら、自然を観察して読み取ったことの束を表現したものと考えられます*5

 ここでスピノザは「聖書それ自体とその歴史的事情から取り出せないようないかなる原則もデータも認めない」ことを聖書解釈の条件としていますが、これは言い換えるならば、聖書解釈とはテクストとコンテクストからのみ引き出されなければならないということです。

 なぜこのようにスピノザが主張する必要があったのでしょうか。それは当時の神学者が自分たちの都合の良いように聖書を利用していたからです。

はっきり言っておこう。わたしたちの見るところでは、大部分の神学者たちは、どうすれば自分の思い込みや自分好みの考えを聖書からひねり出し、それらに神の権威をまとわせられるか腐心している。そのため彼らは他のことに従事している時にはありえないほど独断的で軽率な態度で、聖書あるいは聖霊の精神を解釈するのである。もしその際に不安材料があるとしても、それは聖霊[=聖書の精神]に何か誤ったことを読み込んで救いの道から外れることではない。彼らが恐れるのは、むしろ誤りを他人に暴かれることであり、またそれによって自分の権威を他人に踏みにじられ、軽んじられることなのだ。

スピノザ 2014:301〜302)

Spinoza 1670:83)

スピノザによれば、神学者たちによる聖書の誤読は、神の権威を自身の権威へと付け替えるための意図的な侵犯であり、このような誤りを犯すことに対して神学者たちは何も躊躇しなかったのだろうと思われます。スピノザが『神学・政治論』を書いたのも、まさにこのような実態を暴くためであったと言っても過言ではありません。そしてその萌芽は、すでにスピノザユダヤ人共同体から破門された頃にあったと言われています。

おわりに

 先にみたように、スピノザの「聖書それ自体とその歴史的事情から取り出せないようないかなる原則もデータも認めない」という聖書解釈の条件を、私は「聖書解釈とはテクストとコンテクストからのみ引き出されなければならない」と理解しました。

 しかしながら、スピノザから四世紀ほど経た現代にみられるのは、どちらかといえば脱文脈化*6という現象であり、これはとりわけTwitter上で散見されます。それは例えば、連続ツイートの一部だけを見てコメントが集まり、前後の文脈コンテクストを考慮することなく自分の意見を主張し合うというような現象です。つまり、テクストとコンテクストからのみ解釈を引き出すというのは、解釈者に少しばかりの注意力と努力が必要となるのであり、そのような努力が困難な場合に我々のコミュニケーションにおいて不具合が発生するのかもしれません。

文献

*1:スピノザの名前は「バルーフ」と「ベネディクトゥス」のどちらかで呼ばれる。「バルーフ」はヘブライ語で「祝福されたる者」という意味を持ち、「ベネディクトゥス」はラテン語で同一の意味を持つ。スピノザユダヤ人共同体から破門される前は「バルーフ」を名乗り、破門後に「ベネディクトゥス」を名乗り始めたという(松田 2007:387)。

*2:この出来事の顛末については、ナドラー 2012を見よ。

*3:吉田量彦「訳者まえがき」(スピノザ 2014:18)。

*4:上野修はこれを「博物学(自然史)」におけるそれとして理解している。「スピノザは自分の聖書解釈の方法が自然研究のそれと同じだと言う。なぜなら、自然現象と同様、聖書もまた自らが提示することがらの「定義」を含んでいないからである。だから聖書は「博物学(自然史)」のように、ひとつの資料体、「ヒストリア」として研究されねばならない」(上野 2014:120)。「語りの意味はいわば考古学的に復元されるべきものである。語られている内容が真理かどうかはとりあえず括弧に入れて考える。意味の復元のためには古代ヘブライ語の言語使用の規則、書き手の置かれた文化的・社会的・歴史的状況に関する実証的研究、そして語りのテーマの系統的分類、受容・編纂過程に関する資料研究、要するに博物誌でいう「ヒストリア」(実証的な研究データ)を整備しなければならない。こうしたヒストリアから導きだせないようなことはいっさい聖書の教えとして認めないこと、これが聖書解釈の一般規則である(第七章、上巻二三七頁)。実際、スピノザは『ヘブライ語文法提要』という草稿も残していて、近代的な文献学的聖書解釈の先駆けとさえ言われている」(上野 2014:43〜44)。

*5:工藤喜作によれば、この箇所でスピノザはベーコンの帰納法を念頭に置いているという。「スピノザは右の引用文において「自然の歴史」という言葉を用いている。この「歴史」(ヒストリア)という言葉が、今日我々が用いている歴史という言葉と異なる意味をもっていることは、右の引用文から明らかである。この点、ザクはギリシア語のヒストリアと同じ意味でこの言葉が使用されていると主張する。つまりそれは「探求」、「探求されるもの」を意味しているのである。このように「歴史」という言葉をその語源から理解するならば、確かに前出の引用の「自然研究」の意味が通ってくる。このことからスピノザの考えた自然研究の方法は、探求される所与としての自然の事実から自然の諸物を定義づけて行く方法であると言える。この意味でザクは、スピノザが聖書解釈の方法と一致すると考えた自然研究の方法は、ベーコンの帰納的方法であると主張する。因みにベーコンもまた「歴史」という言葉をスピノザと同じ意味で使っているのである」(工藤 2015:36〜37)。

*6:「脱文脈化」については一橋社会科学第7巻別冊〈特集:「脱/文脈化」を思考する〉(2015年3月)に収録された諸論文を参照せよ(例えば、大杉 2015)。

「普通」とは「良いこと」なのか——あるいは、ギフテッドに対する下方のピアプレッシャー

はじめに

 今回は「「普通」とは「良いこと」なのか」というテーマで書きたいと思います。

 きっかけは次のツイートを見かけたことです。

 このやりとりを読んで、私は非常に考えさせられます。

 「普通」って何でしょう。「普通」とは良いことなのでしょうか。なぜある人は「普通」でないことは「よくない」ことだと思うのでしょうか。

「普通」とは「良いこと」なのか

 ここで考えられる仮説は、次のようなものです。すなわち、ある人がいう「普通」とはその人にとっての「常識」であり、その人が自分の「常識」に反することを「よくない」ことだと感じるのは、その人が自分の「常識」から外れることを不快と感じるからではないでしょうか。もしそうだとするならば、その人は自分にとっての「快・不快」の感情がその人の「良い・悪い」の判断基準となっている、と言えなくもなさそうです。しかし、この場合の「良い・悪い」は、単に主観的な意味での「良い・悪い」であって、客観的な意味を持っていません。

 そもそも「常識」とは一体なんでしょう。「常識」というものは、多くの場合、その人がその時代の中で生きてきた共同体の中で形成された慣習に他ならないのではないでしょうか。そして自らの所属する共同体から別の共同体へ移動した時、かつての共同体のなかで形成された慣習が、別の共同体の中では通用しないことがあり得ます。この場合、かつての共同体の中で形成された慣習を「常識」として持つ人にとって「良いこと」は、別の共同体の中では「悪いこと」となることもあり得ます。このような違いを人は「文化の違い」と呼ぶかもしれません。例えば、キリスト教圏・イスラーム教圏・仏教圏で人はそれぞれ異なった「常識」つまり慣習を持ち、これに伴って「良い・悪い」と感じる「快・不快」の判断基準も変わってくることでしょう。

 「普通」とは、統計学で例えるなら、偏差値50であり、これは良くも悪くもありません。統計上、良い悪いの判定は、何を指標とするのかによって変わってきます。ある指標では優れているとみなされるものであっても、別の指標で見たら劣るかもしれません。ただ少なくとも一つ言えることは、本当の「良さ」すなわち卓越性エクセレンスは、つねに平均的個人にとっては「異端」でしかあり得ないのだということです。

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ギフテッドに対する下方のピアプレッシャー

 こうした本当の「良さ」を持っている「異端」の人をギフテッドと呼びます。ギフテッドについてはちょうど昨日の『クローズアップ現代+』(NHK、2019年8月28日(水)放送)で取り上げられていました。「ギフテッド」(Gifted)とは並外れた才能を"与えられたもの"の意であり、人口の上位2%に該当するIQ130を超える人々のことです。しかしながら、こうした卓越性を有するギフテッドが日本国内で生きづらい現状が問題としてフォーカスされ始めているのです。

www.nhk.or.jp

togetter.com

 日本ではしばしば「普通はこうだ」「みんなこうしてる」「常識だ」などという言葉で、子どもの卓越性を引き下げ、平均的個人へと解消しようとする大人たちがいるように感じます。これは「ピアプレッシャー」と呼ばれるものですが、どちらかといえば下方のピアプレッシャーです。この下方のピアプレッシャーが、日本では学校や職場やあらゆる場所でものすごく多く感じます。実際に私もまた父親からこれらの言葉を幾度も浴びせられてつらい思いをしてきました。

 とにかく大人たちが思い違いをしてはならないと思うことは、「普通」とは決して「良いこと」でも「悪いこと」でもないということです。そして必要なことは、本当に「良いこと」(卓越性)に対して「普通」を押し付けることが、本当に「良いこと」を潰すことになってしまうおそれがあることに、大人たちがもっと自覚的になることです。

「Zenly」は恋人の信頼を取り戻せるか

 めずらしく職場の女性Sさん(仮名)が相談してきた。

 Sさんには1年ほど前から付き合っている彼氏がいる。

 Sさんはもうすぐ彼氏の実家で働く予定で、ゆくゆくは結婚も視野に入れているところだった。そんな矢先、Sさんは彼氏であるMさんのことが信用できなくなってしまったのだという。一体があったのか。

 Sさんの彼氏はTwitterをやっていて、Sさんは彼氏のTwitterアカウントを把握している。Sさん自身はTwitterアカウントを持っていないが、彼氏のアカウントIDは覚えやすいものだった。なので、Sさんはときどき彼氏のTwitteを検索して閲覧していたという。

 Sさんが久しぶりに、彼氏のTwitterアカウントを検索して閲覧したところ、彼氏は自身のTwitterアカウントでパチスロで当てた写真を上げていた。

 Sさん自身はパチスロに詳しくないので、彼氏がパチスロをやりに行ったのかの確証がなかった。そこで職場の同僚に画像を見てもらったところ、その同僚の友達がその手の仕事をしており、画像を送って鑑定をしてもらった。鑑定の結果、彼氏がTwitterに上げた写真は、まだ出たばかりの新台のもので間違いないという。

 Sさんはもともとパチスロをやる人が嫌いで、そのことを今の彼氏と付き合う前にも公言していたという。Sさんがパチスロをやる人が嫌いになった理由は、Sさんが高校生の頃に兄が自分の銀行口座に貯まっていたお金を引き出して30万円ほどパチンコに使い切ってしまったからなのだという。

 Sさんが今の彼氏と付き合うようになってから、彼氏が友達に誘われてパチンコに行くことはあったらしい。ただ、その際は事前に知らされていたので、特に気にはならなかったようだ。

 ところが今回、彼氏がTwitterに新台パチスロの写真を上げた日付けを確認すると、その日付けは、彼氏がちょうど仕事の研修で普段とはちがう場所に行く日であった。当日、Sさんは夕方に彼氏から仕事が終わったと報告を受けていたが、彼氏がパチスロに行ったことは聞いていなかった。実際のところは、彼氏は仕事の研修を通常よりも早く終えており、午後の空いた時間を使ってパチスロに行ったと見られている。

 Sさんは彼氏に、その日パチスロに行ったのかどうか問いただした。すると彼氏は「パチスロには行っていない。ただ友達に誘われて無料で打ち試しができるやつに行った」と答えたそうである。Sさんが調べたところ、無料で打ち試しができるパチスロは関係者ぐらいしかあり得ない。彼氏の返答がどうも怪しいと睨んだ。

 そこでSさんは、友達に誘われた証拠を見せてほしいと彼氏に頼んだ。すると彼氏は「友達に誘われときの会話はいつも削除しているから無い」と答えたそうである。これに対してSさんは、誘った相手側に残っているやりとりをスクショでいいから送ってもらうよう彼氏に頼んだ。すると彼氏は「友達の側も削除しているからやりとりは残っていない」と答えたそうである。

 このような嘘がいつまでもつき通せるはずもなく、最終的に彼氏はパチスロに行ったことを認めた。そしてSさんは、彼氏がパチスロに行ったことをごまかそうとしたことによって、突如として彼氏のことを信頼できなくなってしまったそうである。

 以上がSさんの相談の大まかな内容である。

 

 今回相談されたからといって、こちらがソリューションを提案する必要は全然なかったのだが、ちょうどSさんが彼氏と位置情報を共有するかどうかという話が出たので、私はSさんに巷で大人気の位置情報アプリ「Zenly」の存在を教えてあげた。

 「Zenly」は女子中高生をはじめとする若者に人気のアプリであり、友達の位置情報を検索したり、チャットや電話でやりとりをすることも可能である。

 さっそくSさんは彼氏にZenlyをインストールするようにLINEで促した。彼氏はすぐにそれに応じた。彼氏の位置情報は自宅を指していた。「パチンコに行ったらすぐにわかるからね」と、SさんはZenlyのチャット機能で釘を刺した。

 はたして「Zenly」は恋人の信頼を取り戻せるのだろうか。

ロボットと労働

目次

はじめに

 今回は「ロボットと労働」というテーマで書きたいと思います。

 いきなりですが、「ロボット」と「労働」は、その語感が似ていないでしょうか。え、似ていない?それは失礼しました。

 さて「ロボットと労働」について語るには、まずもって「ロボットとは何か」、また「労働とは何か」というところから始めなければならないと思うのですが、それも本格的にやろうとするとかなり骨が折れそうですので、今回はこれらのアウトラインだけでも示せればいいなと思います。

「ロボット」と「労働」

 「ロボット」の語源となったのは、カレル・チャペック(1890-1938)の戯曲『R.U.R.』(1920年)です*1

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/87/Capek_play.jpgWikipedia:『R.U.R.』の一場面より)

カレルは「ロボット」という言葉が案出された経緯について次のように語っています。

 この「ロボット」という語を考え出したのは戯曲『R・U・R』の著者〔引用者注:カレル・チャペック〕ではなく、著者はこの語を世の中に送り出したにすぎない。そのいきさつはこうである。とあるひょっとした瞬間にくだんの著者は芝居の素材を思いついた。そして、この考えがさめないうち、ちょうどその時、イーゼルの前で、刷毛の音がきこえるほどキャンバスに向かって筆をふるっていた兄の画家ヨゼフのところへかけて行った。

 「ねえ、ヨゼフ」と、著者は語りかけた。「芝居のためのいい考えが思い浮かんだんだけど」

 「どんな」と画家はモグモグといった(本当にモグモグとであった。なぜならこういった時、口に刷毛をくわえていたからである)。

 著者はどういう筋か手短に話した。

 「じゃあ書いたら」と、画家は刷毛を口からとりもせず、キャンバスに塗る手も休めずにいった。

 「でもねえ、その人工の労働者をどう呼んだらいいのか分からないんだ」と、著者はいった。「もしラボルとでもいうと、どうも自分には本物らしくなく思えてね」

 「じゃあロボットにしたら」と、画家は口に刷毛をくわえて、絵を描きながらいった。それが採用された。そういう経緯でロボットという語が生まれたのである。

(チャペック 1989:197〜198、強調引用者)

ここから「ロボット」という語を最初に案出したのがカレル・チャペックではなくその兄ヨゼフ・チャペック(1887-1945)であること、「ロボット」とは「人工の労働者」の謂いであったことが分かります。つまり、人間の労働を機械に代替させるべく作られたもの、これが「ロボット」なのです。

 カレル・チャペックが「ラボル」という語には満足できず、兄の案出した「ロボット」を採用したということは、カレル自身にとって「ラボル」と「ロボット」との間に、何らかのニュアンスの違いが感じられたと見てよいでしょう。つまり、カレルは「ラボル」にはリアリティが感じられなかったが、「ロボット」にはリアリティを感じたのです。

 では、「ラボル」と「ロボット」にはどのような意味があるのでしょうか。『R.U.R.』の翻訳者千葉栄一は訳者「あとがき」の中で次のように述べています。

「ロボット」は、「R・U・R」の著者カレル・チャペックがこの戯曲の中の人造人間を表現するために、兄のヨゼフからヒントを得て作った新語で、チェコ語には「賦役」を意味するrobotaという語があり、その語末のaをとったものである。チェコ語と同系のスラブ語であるロシア語にもработа(rabota)という語があって「労働」を意味する。またこのごはドイツ語のArbeit「労働」とも関係がある(ドイツ語のArbeitの語頭の二文字をひっくり返して見るとよく分かる)。しかし、スラブ語派とゲルマン語派にまたがるこの語の言語学的説明は容易ではない。

(チャペック 1989:206、強調引用者)

カレルが最初に案出した「ラボル」において観念されているのは、おそらく英語のlabor / labourと同じく、「労働(者)」だと思われます。これは語源的には「苦痛」や「困難」を意味します*2。これに対して「ロボット」の語源であるrobotaもまた「労働」という意味を含んでいますが、もっというと「賦役、強制労働、奴隷状態」という意味合いを持っています*3

 歴史を俯瞰してみると、古典古代の時代には、「労働」とは家(オイコス)の中で奴隷が担うべきものとされ、奴隷に労働を委託することを基盤として、これによって家長(父親)は政治社会(ポリス)の中で人間の本性を発揮する事ができるとされてきました。『R.U.R.』はその後はるかに近代的に工業化した時代に書かれたものですが、このようにかつて奴隷が担っていた労働を機械に代替させ、人間は労働から自由になりたいという発想こそが、「ロボット」の背後にある根源的な思想とみることもできるでしょう。

「ロボット」という語は「ロボータ」と「ロボトニーク」のかばん語として造語されたという言説について

 なお西山禎泰先生は「ロボット」の語源を「ロボータ」と「ロボトニーク」のかばん語としています。

ロボットの語源はチェコ語で「強制労働」を意味するロボータとスロバキヤ語で、「労働ママ」を意味するロボトニークとされており、掛け合わせて作られた造語である。また、チャペックはロボットの着想にはゴーレム伝説が影響していると語っている。

(西山 2011:151)

ここでは「ロボトニーク」とは「「労働・・」を意味する」ものだと述べられていますが、正しくは「「労働者・・・」を意味する」ものでしょう。

 しかし、私が今回調べた限りでは、「ロボット」という語が「ロボータ」と「ロボトニーク」のかばん語として造語されたとする言説については、残念ながら明確な典拠を確認することができませんでした。つまりそれは、まことしやかに語られてはいるものの、実はあくまで極めて蓋然性の高い臆見・・に過ぎないのではないのか、ということです。英語の文献をちらほら読んでみましたが、「ロボータ」が言及されることはあっても「ロボトニーク」を持ち出す文献が確認できませんでした*4。にもかかわらず、日本語で読めるパンフレットの中ではこのような言説がいつの間にか再生産されています*5

 少なくとも言えることは、「人工の労働者」の呼称として「ロボット」という語を案出したのはカレルの兄ヨゼフである、ということです。「なぜ「ロボット」という語を思いついたのか」ということは、その発案者であるヨゼフ自身に訊ねるほかありません(もちろん「死人に口無し」なのですが)。そして「ロボット」という語から推測される語源として最有力なものが、千葉氏の述べる、「チェコ語には「賦役」を意味するrobotaという語があり、その語末のaをとったものである」という説なのです。「ロボトニーク」という語もまた、この語が「ロボータ」の語源と同根である限り、「ロボット」の語源として無関係とはいえません。とはいえ、「ロボット」という語が「ロボータ」と「ロボトニーク」のかばん語だという——しばしば日本語文献において登場するステレオタイプな——言説は、果たして正確な知識・・だと言えるのでしょうか。

おわりに

 金森修先生は遺作『人形論』の中で、この戯曲『R.U.R.』の大筋を次のように整理しています。

その作家、チャペックは戯曲『ロボット』(一九二〇)によって、重要で斬新な自動人形の図柄を提案した。ロボットとは、働く能力はあるが考えることのできない存在、労働機能性には優れるが〈魂〉をもたない存在だ。この劇自体の大枠は、単純労働を機能的かつ効率的に行うことのできるロボットが大量に生産され、工場で自在に活動する時期を経て、しばらくした或る時、ただ閑暇に任せておしゃべりばかりしている人間たちを追放し、自分たちの天下にしようと、激しく大規模な反乱を起こすというテーマで構成される。それは或る意味で〈資本家vs労働者〉というマルクス主義的な構図を〈人間vs人造人間〉という構図にずらしてみせた一種の革命譚に過ぎない。ちょうどオーウェルの『動物農場』(一九四五)が、同型の構図を〈人間vs動物〉で実験してみせたように。

(金森 2018:86〜87)

カレル・チャペックの戯曲『R.U.R.』が我々にとって極めてリアリティを持って演じられるのは、この戯曲ではまさに人間の労働者による反乱のアナロジーでもって、「人工の労働者」による反乱が描かれているからに他ならないと言えるでしょう。

 ところで、歴史的に振り返ると、ロボットと似たような機械を意味する言葉には、オートマタやアンドロイド・ガイノイドヒューマノイド、サイボーグなどがあります。これらの語の考察は別の機会に譲りたいと思います*6

文献

*1:Karel Čapek, R.U.R. (Rossumovi Univerzální Roboti), 1920.

*2:「たとえばギリシア語はponeinとergazesthaiを区別し、ラテン語はlaborareとfacereあるいはfabricari——この二つは同じ語源を持つ——を区別する。フランス語ではtravaillerとouvrer、ドイツ語ではarbeitenとwerkenが区別されている。これらのすべての事例において、ただ「労働」に相当する語だけが苦痛とか困難という明白な意味をもっている。ドイツ語のArbeitは、もともと農奴によって行なわれた農業労働だけを指し、Werkといわれた職人の仕事には適用されなかった。フランス語のtravaillerは、それ以前のlabourerに取って代わったものであるが、一種の拷問であるtripaliumからきている」(アレント 1994:198)。

*3:ゆうきまさみ機動警察パトレイバー』(小学館、1988〜1994年)には「レイバー」というロボットが登場するが、作者はおそらく「ロボット」の語源としての「労働レイバー」の意を識っていたのではないだろうか。

*4:"The term "robot" is derived from the Czechoslovakian word "robata", which is defined as forced labor or servitude." in Faust 2006, p.3.

*5:Wikipediaの「ロボット」の項の注で「ロボトニーク」を「ロボット」の語源とする典拠として参照されているのは次の文献である。「ロボットの語源は、チェコスロバキアの劇作家カレル・チャペックが1920年に書いた劇曲「ロッサム万能ロボット製造会社RUR」の中で、チェコ語で労働や苦役を意味する「ロボータ」とスロバキア語の「ロボトニーク」から人造人間を指すロボットを造語し、登場させたことに由来します」(九州共立大学工学会 2003:3)。しかしながら、この文献もまた「ロボトニーク」をロボットの語源とする典拠を示していない。

*6:ここで一点だけ触れておくならば、「ロボット」が「労働(者)」という観念を含む呼称であるのに対して、「オートマタ」や「サイボーグ」などの他の語はそうではないのではないかという仮説を筆者は持っている。

私にとっての〈在野研究者〉

目次

はじめに

 今回は、「私にとっての〈在野研究者〉」というテーマで書きたい。

 つい最近、Twitter上で私のタイムラインに「在野研究者」というワードが何度か登場した。どうやら荒木優太(編著)『在野研究ビギナーズ』(明石書店、近刊)の発売にちなんで、「在野研究者」についてコメントがなされていたようである。

www.akashi.co.jp

編著者の荒木優太さんは、すでに複数の著作を発売している現代の代表的な在野研究者である。荒木さんの著書は以下の通り。

magazine-k.jp

www.iwanamishinsho80.com

Twitter上の「在野研究者」についての意見

 ところで、Twitterで散見された「在野研究者」の呼称についてのご意見には、次のようなものがあった。 

1.「在野研究者」よりも相応しい名称がある(フリーランス・独立(系)研究者・日曜研究者など)

 Twitter上の「在野研究者」についてのコメントは、およそ10年近く前まで遡ることができた。ここ2、3年以内に絞ってみると、Researchmapの設立者であり、少し前まで「東ロボくん」プロジェクトを行う研究者としても有名な新井紀子先生が、以前次のように意見を集めていた。

人文系研究者の一部の方々は「在野研究者」よりも「独立研究者」の方が良い呼称だと考えているらしい。

彼らが「在野研究者」よりも「独立研究者」のほうがよい名称であると考えるのは、彼らが英語のIndependent scholarの訳語として相応しい呼び方を選んでいるからであろう。

日曜歴史家で有名な研究者にフィリップ・アリエス(Philippe Ariès、1914-1984)がいる。しかし、「在野研究者」にとって日曜日が公休日であるというのは、一つの思い込みである。もし私のように「在野研究者」が毎週のように日曜日に仕事をしていたら、「日曜研究者」と名乗ることはできないだろう。

2.「在野」とは辞書的には「官」に対する「民」を意味する。それゆえ「在野研究者」は、民間の私大に属する研究者をも含むので、意味をなさない

 企業倫理研究者の山下祐介さんは「在野研究者」について次のように述べている。

ここで山下さんは、「民間は皆在野」であり、「私立大は皆民間」であり、それゆえに私立の研究機関に所属する研究者は皆「在野研究者」であるという三段論法でもって、「本来は、国立の研究機関の研究員でもない限り皆在野だと思う」と述べている。他方で、山下さんが「いわゆる在野研究者になったことがある」と述べている時の「在野」の意味は、「全くどこにも所属していない完全な無所属状態(何かしらの研究機関の研究員でもなく、大学の院生やODやTAやポスドクや非常勤講師ですらない)」である。

 最近のいわゆる「在野研究者」の用法は後者である。前者の用法、つまり「在野」の「本来的」で語源的な意味(「官」に対する「民」)にしたがって、私大に所属する研究者をわざわざ「在野研究者」と呼ぶのは、大隈重信の時代でもない限り、紛らわしいので使わない。

「在野研究者」でもResearchmapに登録できる

 「在野研究者」は大学研究機関に所属していないから「在野」なのだが、登録者が基本的に大学研究機関に所属しているはずのResearchmapでは「在野研究者」も登録できるのだという。内野正弘さんは次のように述べている。

 私にとっての〈在野研究者〉

 私が大学院の修士課程を修了したのが2015年3月である。その後、私が在野研究者として活動を始めてから、およそ4年になる。

 私は研究成果をスピーディに生産できるほどの能力がなく、そもそも大学のなかでの就職を目的とするキャリア形成にも興味がなく、したがって博士課程に進学したところで研究者として大成できないだろうという見込みがあった。なので、私は修士で外に出てくることにした。

 とはいえ、私の記憶では、確か自分が19歳か20歳そこそこの時に「一生かけて社会思想史に取り組んでいきたい」という決意をしたことは覚えている。私にとって研究とはそもそも査読を通過して掲載されることを目的とするものではなく、自己了解を目的とするものである。だから、掲載される媒体にこだわりはない。このブログという媒体があれば十分である。

私が正式に自分を「在野研究者」として載せたのは、田上孝一編『権利の哲学入門』(社会評論社、2017年)の執筆者紹介欄である。各々が所属を書くことになっていたが、他の執筆者は(教員であれ博士課程の院生であれ)どこかの大学に所属していた。しかし、私は大学に所属していなかったので、自分をなんと称したいいか悩んだ。「会社員」と書くのも場違いな気がして、ふと荒木優太さんの「在野研究の仕方ーーしか(た)ない?」(マガジン航)に出てきた「在野研究者」のことを思い出して、熟読した。その上で私は「所属」の箇所に「在野研究者」と書いて提出した。つまり私が「在野研究者」という呼称を用いることができたのは、荒木優太さんが「在野研究者」として先に活躍していたからなのである。

 私は、研究職とは全然違う仕事をフルタイムでこなしながら、独自に「研究」を進めている。もしかすると研究のスピードが遅すぎて、他人から見たら研究しているようには見えないかもしれない。しかし、研究機関に所属していないのだから、そもそも年一本ぐらいは書かなければいけないということは全くない。自分のペースで進めていけば良いのである。私にとって〈在野研究者〉であるというのは、そういうことである。

 歴史を振り返ってみるならば、在野研究者はこれまでに数多く存在してきた。私にとって、歴史上有名な在野研究者の典型例は、カール・マルクスである。もちろんマルクスの時代には「在野研究者」という呼称はない。しかし、「研究者は大学研究機関に所属する者である」という観念は、極めて近代的な発想に過ぎない。

 マルクス資本論草稿の執筆過程こそ、彼の在野研究者としての活動と呼ぶに相応しい。マルクスの在野研究者としての研究スタイルを形作ったのは、彼が若い頃から死ぬまで続けた、膨大な書籍からの抜粋ノート作成の習慣である*1

 マルクスは、若い時にはブルーノ・バウアーに従って大学講師の道を目指していたはずだが、バウアーやフォイエルバッハをはじめとするヘーゲル左派の人々が大学からパージされてから、その流れでマルクスもまた大学での就職の目処がなくなってしまった。だから、マルクスは大学の外に活動の拠点を求めるしかなかった。

 マルクス独自研究によって生計を立てていたのではなかった。マルクスは経済学批判とは別にジャーナリストとしての仕事も行っていたし、エンゲルスに手伝ってもらいながら、『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』に11年間にわたって執筆していた*2マルクスの研究を資金面で実質的に支えていたのがエンゲルスであった*3。だから、マルクスを「在野研究者」と呼ぶことはできても、「独立研究者」とは呼ぶことは難しい。

 では、経営者エンゲルスならば「独立研究者」と呼ぶに相応しいと言えるだろうか。エンゲルスの業績の一つは、フェミニズムの古典ともなった『家族・私有財産・国家の起源』である。しかし、この著作はそもそもマルクスによるモーガン『古代社会』からの抜粋ノートなしにはあり得なかった。したがって、エンゲルスの研究もまたある意味でマルクス依存していたと言える。

 またマルクスを「在野研究者」と呼ぶことは、辞書的にも適切である。「在野」には「野党」という意味があるからだ。研究者にとっての「与党」は大学・研究機関などである。

 〈在野研究者〉はマージナルな存在である。これを英語で表記するならばIndependent scholarというよりはむしろmarginal ResearcherあるいはResearcher at the Marginsとなるだろう。

 〈在野研究者〉は複数の意味においてマージナルである。

 まず第一に、大学・研究機関から見て周縁に位置するという意味において、また同時に研究とは別の領域に所属する者でありながら研究を行うという意味でもまた周縁に位置しているからだ(Researcher at the Margins)。

 そして第二に、〈在野研究者〉は、研究の傍らで仕事をしているわけだが、その仕事に対して余剰な時間と資金(これらがもし余剰でない場合には、研究者自身の労働力の再生産に充てられるに過ぎない)を用いて研究を継続している(marginal Researcher)。

最後に書いておくが、以上の私のコメントは、あくまでも、私にとっての〈在野研究者〉について書いたまでであって、他の「在野研究者」たちの見解を代表するものでないし、他の人が同じ見解を有しているとはこれっぽっちも思っていないことを断っておく。

*1:マルクスによる抜粋ノートはMEGA第Ⅳ部門に収められている。この点について詳しくは大谷禎之介・平子友長編『抜粋ノートからマルクスを読む:MEGA第Ⅳ部門の編集と所収ノートの研究』(桜井書店、2013年)をみよ。

*2:「一八五一年の初めに、元フーリエ派で、この頃には奴隷制に反対する進歩派の『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』紙の社長であったチャールズ・デイナがマルクスに、イギリスとヨーロッパの諸問題に関する記事の寄稿を依頼した。ところがマルクスは英語の作文力に問題があったため、ドイツ語の原稿をエンゲルスが英語に翻訳しなければならなかった。そしてこれはたいていエンゲルスが自分でそれを書くことを意味していた」(トリストラム・ハント『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』東郷えりか訳、筑摩書房、2016年、258頁)。

*3:「「親愛なるエンゲルス氏」と、イェニーがよく呼びかけていた人物は、彼の年収の半分以上を常時、マルクス家の為に割り当てていた。総計すると、彼が雇用されていた二〇年のあいだに三〇〇〇ポンドから四〇〇〇ポンド(今日に換算すれば三〇万ポンドから四〇万ポンド)になる」(トリストラム・ハント、前掲書、250〜251頁)。

ヘーゲル『精神現象学』立法理性のコンテクストとカント批判

目次

はじめに

 今回は「ヘーゲル精神現象学』立法理性のコンテクストとカント批判」というテーマで書く。その概要は以下の通りである。

 我々は(1)まず最初にヘーゲル精神現象学』の理性章が先行研究においてカント批判を遂行されたものとして読まれてきたことを確認する。その上で、(2)カント批判としてくだんの命題を吟味したパラグラフを読み進めるために、コンスタンとカントの虚言論争というコンテクストを導入する。しかし、コンテクストの導入によって明らかとなるのは、虚言論争における論題(「嘘の禁止は社会を(不)可能にするか」)とは異なる命題(「各人は真実を語るべきである」)が『精神現象学』においては検討されているという事態である。そこで我々としては、むしろかの虚言論争から命題を変更すること、このことがヘーゲル戦略であり、この変更によってこそ、ヘーゲル間接的にカント批判を遂行したのではないか、と考える。

⒈ 先行研究におけるカント批判という読解

 今回取り上げるテクストは、ヘーゲルの『精神現象学』(C)(AA)「理性」V.「理性の核心と真理」C.「自身にとって、それ自体として、それ自身だけで実在的である個体性」b.「法則を定立する理性」の「だれもが真実を語るべきである」という命題が吟味されている以下の箇所である。

各人は真実を語るべきである。』──この無条件的に言明されている義務においては、ただちに「各人が真実を知っているならば」という条件が附加されることになる。命令はかくして、いまやつぎのようなものとなる。「各人は、真実についてはその都度各人の知識と確信とにしたがって真実を口にすべきである」。

ヘーゲル2018:648〜649、訳文は適宜改めた。) 

(Hegel 1807:360-361)

ここで『精神現象学』の理性章、とりわけ「立法理性」と「査法理性」の箇所が、これまで概ねカント批判として読まれてきたことを確認しておこう。それはたとえば、「ヘーゲルの『精神現像学』に於ける「立法理性」論および「査法理性」論は、カント倫理学の中核を成す思想に対する全般的な批判として、目論まれている」(二宮 1992:14)という読解に見られ、また「「実在性の全体」概念の継承を通じて、ヘーゲルはカントを批判しているとさえいえるのではないだろうか。なぜなら、『精神現象学』の場合、「あらゆる実在性の確信」としての理性の真理は、カントが論じなかった精神にあるとされるからである」(飯泉 2015:150)という近年の読解にも見られる通りである。

⒉ コンスタンとカントの虚言論争というコンテクスト

 さて、ヘーゲルが取り上げるこの命題の背景にあると思われるのは、「嘘の禁止」をめぐるバンジャマン・コンスタンとカントとの論争である*1。この論争では、「嘘の禁止は社会を不可能にする、というコンスタンの批判に対して、カントは嘘の禁止が他人に対する義務一般の本質を含むこと、すなわち社会契約の基礎であることを指摘し、嘘の禁止こそがむしろ社会を可能にすることを主張している」(小谷 2018:81〜82)。なお「この論争は「論争」といわれながらも、実際の応酬としてはただ一度のコンスタンによるカント批判と、それに対するカントのやはり一度きりの反論とで終わっている」(堤林 2002:5)。

 もしヘーゲルが、このようなコンスタンとカントの虚言論争という背景を考慮に入れつつ、「各人は真実を語るべきである」という命題の検討をつうじて、カント批判を遂行したのだとすれば、ただちに次のような疑問が湧いてくる。それはすなわち、なぜヘーゲルは、「嘘の禁止は社会を(不)可能にするか」という論題から「各人は真実を語るべきである」という命題へと変更し、後者についてのみ検討を加えたのかという疑問である。というのも、ヘーゲルが「嘘をついてはいけない」という命題から「真実を語るべきである」という命題へと変更することによって、『精神現象学』では「嘘の禁止は社会を(不)可能にするか」という(コンスタンとカントの間での)論点が抜け落ちてしまっているからである。さらに加えて、「嘘をついてはいけない」ことと「真実を語るべきである」こととは、似て非なることがらである。それゆえヘーゲルのここでのカント批判は──この箇所がそもそもカント批判であるならばの話だが──直接的なものではなく、(「嘘禁止は社会を(不)可能にするか」という論題の欠如と、そこから「各人は真実を語るべきである」という命題への変更という二重の意味において)間接的なものとなってしまっているからだ。

 そこで我々が思いつくのは次のような事態である。それはすなわち、「嘘をついてはいけない」という命題から「真実を語るべきである」という命題へと変更することこそが、カント批判を遂行するためのヘーゲルなりの戦略だったのではないか、ということである。というのも、ヘーゲルはこのパラグラフにおいて「真実を語るべきである」という命題を「健全な理性」に検討させることによって、前提条件を必要とし、かつこの命題がより精確には「真実を語らない」ことになってしまうという帰結に至らしめることによって、くだんの命題が(前提条件を必要とせずに妥当するはずの)定言命法としては不成立であることを示しているのだが、出発点となる命題がすでに成立しないのであれば、その帰結として「社会を可能にするか否か」という論題を検討することはもはやできなくなってしまうからである。この点について詳しくは次回以降に論じたい。

文献

*1:コンスタン『政治的反動について』(Des réactions politiques, 1796)およびカント『人間愛から嘘をつくという、誤って権利だと思われてるものについて』(Über ein vermeintes Recht aus Menschenliebe zu lügen, 1797. 通称『嘘論文』)。

「文字じゃない言語」──山口つばさ『ブルーピリオド』

はじめに

 Twitterで「インテリヤンキーが絵をかく楽しさに目覚める話」というものを見かけた。

読んでいるうちに引き込まれた。

『ブルーピリオド』という漫画らしい。

第1巻が電子版で無料で読めるということで、Amazon Kindleで第1巻を購入した。

結局、読み進めるうちに最新第5巻まで購入した。

それにしても、なぜこんなに引き込まれるのだろう。

ねとらぼの対談も面白い

『ブルーピリオド』の作者である山口つばささんと、画家の中島健太さんとの対談が「ねとらぼ」に載っていた。

この対談も色々と考えさせられる。

nlab.itmedia.co.jp

『ブルーピリオド』は、一言で言えば、主人公の矢口八虎東京藝術大学を目指す漫画だ。しかし、そこには様々なドラマがある。

美大の学費と親による承認の問題

主人公の八虎は、美術部員の絵を見たことをきっかけに、美大を受験することを決意する。

美大は、他の一般的な学部の学費と比べて、学費が高いと言われる。

八虎の家庭では、私立美大のような高額の学費を払うことは難しい。八虎の父親は本人が進みたい道に進むことを認めている。他方、母親は学費が経済的で、かつ一般的な学部に八虎が進学することを望んでいる。

f:id:sakiya1989:20190701205741j:plain(山口つばさ『ブルーピリオド (1) 』一筆目「絵を描く悦びに目覚めてみた」より)

八虎は志望校を東京藝大一本に絞ることにする。その理由は、東京藝大の学費が美大の中でもとりわけ安いからだ。

藝大の倍率はものすごく高く、藝大を出て普通に就職することはできる。が、藝大を出たからといって、画家になれる訳ではない。作中で八虎も美大進学について母親を説得することに悩んでいる。

画家になることについて、対談では次のように語られている。

中島:学費を払っているから指導してほしい(笑)。でも、美大に入ったあと「どうやったら画家になれるのか」が本当にわかりませんでした。自分の場合は父が急逝して経済的な事情から、早く自分の作品をお金に変えなきゃというモチベーションが芽生えて、それでとにかく動いたのが今につながっているんですが、「どうやって」をあらためて考えると美大教育にはその視点がない。「絵を描いて/それを生活の糧にして/また描く」方法を一切教えてくれない。藝大もそうでしたか?

山口:全くないですね。サバイバルの方法は知りたかった。これは私自身が圧倒的に勉強不足だったんですけど、卒業するまでプライマリーとセカンダリーの違いも知りませんでした。お金に対する「がめつい≒恥ずかしい」空気はめちゃめちゃあって。

「美大は“絵で食べる方法”を教えてくれない」 漫画『ブルーピリオド』作者と完売画家が考える“美術で生きる術”

八虎は美大を卒業した後、どうなっていくのだろうか。

なぜ『ブルーピリオド』に心揺さぶられるのか

僕が『ブルーピリオド』を読んで心揺さぶられるのは、主人公が絵に対して真摯に向き合っているところだ。

主人公が大学受験を目指す高校生だからかもしれないが、およそ10年も前の自分の青春時代に、自分は何をしていたのかを想い起しながら読んでしまう。つまり、自分自身の過去が想起されるから心揺さぶられるのかもしれない。

作中で主人公はもちろん東京藝大に受かるために絵を練習しているのであるが、究極的には東京藝大に受かるために絵を描いているのではない。というのも、「表面的なテクニックではなく、本質的に自ら楽しんで絵を描けているのか」という問いが、主人公には常に突きつけられているからだ。

「文字じゃない言語」──自己表現の先にある「会話」

『ブルーピリオド』を読んだ後は、自分は自分の望む良い仕事をできているか、ということを自分に突きつけられるような気がする。なぜなら、本当に良いと思う自分の中の基準ではなく、ついつい上司が求めているものを基準として仕事をしてしまっているかもしれないからだ。

f:id:sakiya1989:20190701212353j:plain(山口つばさ『ブルーピリオド (1) 』一筆目「絵を描く悦びに目覚めてみた」より)

ここで主人公は「周りに少し気を遣いすぎる」という性格が美術の先生によってズバリ指摘されている。『ブルーピリオド』を読み進めたとしても、主人公は周りを気にし過ぎるという性格をなかなか脱却していくことができない。主人公の八虎は独自の視点を持っているものの、彼が上手く絵を描けない時には、きまって他の作品と比較し、他の作品を参考にしようとしてしまっている*1

主人公の八虎は、自頭が良く、相手の期待に応えることがうまい。しかしそれは、自分ではなく、周りに、世間に合わせているだけ。上手く世渡りするのであれば、それで良い。

しかしながら、美術においては、空気を読んで周りに合わせることに価値はない。むしろ徹底的に自己の審美観と向き合い、多種多様な素材や道具を用いて能動的に表現することこそが美術だと言える。

f:id:sakiya1989:20190702004534j:plain(山口つばさ『ブルーピリオド (1) 』一筆目「絵を描く悦びに目覚めてみた」より)

美術は「文字じゃない言語」だと作中で言われている。が、この「文字じゃない言語」を通じて「ちゃんと人と会話」することができるのは、『自分にはこう見える』『自分はこれが好きだ』という“自己”をそこに表現することによってだけなのである。

*1:「自分ではなく周りを気にし過ぎる」という美術上の致命的な弱点を抱えているのは、実は八虎だけではない。東京藝術大学に現役主席合格した姉を持つ桑名マキもそうであるし、「女装男子」として登場する鮎川龍二(ユカちゃん)もそうである。桑名は姉の作風を、姉の面影をいつも意識してしまう(『ブルーピリオド (4) 』)。鮎川は「女装」という個性的なキャラを演じており、日本画家を目指して自己を表現しているように見えるのだが、実はそれは祖母に味方し、祖母の期待に応えることでしかなかった(『ブルーピリオド (5)』)。「自分ではなく周りを気にし過ぎる」というのは、ある意味で、誰もが持ちうる弱点なのであり、この点を克服することによってのみ画家になれるといっても過言ではないのかもしれない。