まだ先行研究で消耗してるの?

全然ロジカルじゃない(!)書きたいことをひたすら書くブログです。ノンロジカルエッセイ。

私にとっての〈在野研究者〉

目次

はじめに

 今回は、「私にとっての〈在野研究者〉」というテーマで書きたい。

 つい最近、Twitter上で私のタイムラインに「在野研究者」というワードが何度か登場した。どうやら荒木優太(編著)『在野研究ビギナーズ』(明石書店、近刊)の発売にちなんで、「在野研究者」についてコメントがなされていたようである。

www.akashi.co.jp

編著者の荒木優太さんは、すでに複数の著作を発売している現代の代表的な在野研究者である。荒木さんの著書は以下の通り。

magazine-k.jp

www.iwanamishinsho80.com

Twitter上の「在野研究者」についての意見

 ところで、Twitterで散見された「在野研究者」の呼称についてのご意見には、次のようなものがあった。 

1.「在野研究者」よりも相応しい名称がある(フリーランス・独立(系)研究者・日曜研究者など)

 Twitter上の「在野研究者」についてのコメントは、およそ10年近く前まで遡ることができた。ここ2、3年以内に絞ってみると、Researchmapの設立者であり、少し前まで「東ロボくん」プロジェクトを行う研究者としても有名な新井紀子先生が、以前次のように意見を集めていた。

人文系研究者の一部の方々は「在野研究者」よりも「独立研究者」の方が良い呼称だと考えているらしい。

彼らが「在野研究者」よりも「独立研究者」のほうがよい名称であると考えるのは、彼らが英語のIndependent scholarの訳語として相応しい呼び方を選んでいるからであろう。

日曜歴史家で有名な研究者にフィリップ・アリエス(Philippe Ariès、1914-1984)がいる。しかし、「在野研究者」にとって日曜日が公休日であるというのは、一つの思い込みである。もし私のように「在野研究者」が毎週のように日曜日に仕事をしていたら、「日曜研究者」と名乗ることはできないだろう。

2.「在野」とは辞書的には「官」に対する「民」を意味する。それゆえ「在野研究者」は、民間の私大に属する研究者をも含むので、意味をなさない

 企業倫理研究者の山下祐介さんは「在野研究者」について次のように述べている。

ここで山下さんは、「民間は皆在野」であり、「私立大は皆民間」であり、それゆえに私立の研究機関に所属する研究者は皆「在野研究者」であるという三段論法でもって、「本来は、国立の研究機関の研究員でもない限り皆在野だと思う」と述べている。他方で、山下さんが「いわゆる在野研究者になったことがある」と述べている時の「在野」の意味は、「全くどこにも所属していない完全な無所属状態(何かしらの研究機関の研究員でもなく、大学の院生やODやTAやポスドクや非常勤講師ですらない)」である。

 最近のいわゆる「在野研究者」の用法は後者である。前者の用法、つまり「在野」の「本来的」で語源的な意味(「官」に対する「民」)にしたがって、私大に所属する研究者をわざわざ「在野研究者」と呼ぶのは、大隈重信の時代でもない限り、紛らわしいので使わない。

「在野研究者」でもResearchmapに登録できる

 「在野研究者」は大学研究機関に所属していないから「在野」なのだが、登録者が基本的に大学研究機関に所属しているはずのResearchmapでは「在野研究者」も登録できるのだという。内野正弘さんは次のように述べている。

 私にとっての〈在野研究者〉

 私が大学院の修士課程を修了したのが2015年3月である。その後、私が在野研究者として活動を始めてから、およそ4年になる。

 私は研究成果をスピーディに生産できるほどの能力がなく、そもそも大学のなかでの就職を目的とするキャリア形成にも興味がなく、したがって博士課程に進学したところで研究者として大成できないだろうという見込みがあった。なので、私は修士で外に出てくることにした。

 とはいえ、私の記憶では、確か自分が19歳か20歳そこそこの時に「一生かけて社会思想史に取り組んでいきたい」という決意をしたことは覚えている。私にとって研究とはそもそも査読を通過して掲載されることを目的とするものではなく、自己了解を目的とするものである。だから、掲載される媒体にこだわりはない。このブログという媒体があれば十分である。

私が正式に自分を「在野研究者」として載せたのは、田上孝一編『権利の哲学入門』(社会評論社、2017年)の執筆者紹介欄である。各々が所属を書くことになっていたが、他の執筆者は(教員であれ博士課程の院生であれ)どこかの大学に所属していた。しかし、私は大学に所属していなかったので、自分をなんと称したいいか悩んだ。「会社員」と書くのも場違いな気がして、ふと荒木優太さんの「在野研究の仕方ーーしか(た)ない?」(マガジン航)に出てきた「在野研究者」のことを思い出して、熟読した。その上で私は「所属」の箇所に「在野研究者」と書いて提出した。つまり私が「在野研究者」という呼称を用いることができたのは、荒木優太さんが「在野研究者」として先に活躍していたからなのである。

 私は、研究職とは全然違う仕事をフルタイムでこなしながら、独自に「研究」を進めている。もしかすると研究のスピードが遅すぎて、他人から見たら研究しているようには見えないかもしれない。しかし、研究機関に所属していないのだから、そもそも年一本ぐらいは書かなければいけないということは全くない。自分のペースで進めていけば良いのである。私にとって〈在野研究者〉であるというのは、そういうことである。

 歴史を振り返ってみるならば、在野研究者はこれまでに数多く存在してきた。私にとって、歴史上有名な在野研究者の典型例は、カール・マルクスである。もちろんマルクスの時代には「在野研究者」という呼称はない。しかし、「研究者は大学研究機関に所属する者である」という観念は、極めて近代的な発想に過ぎない。

 マルクス資本論草稿の執筆過程こそ、彼の在野研究者としての活動と呼ぶに相応しい。マルクスの在野研究者としての研究スタイルを形作ったのは、彼が若い頃から死ぬまで続けた、膨大な書籍からの抜粋ノート作成の習慣である*1

 マルクスは、若い時にはブルーノ・バウアーに従って大学講師の道を目指していたはずだが、バウアーやフォイエルバッハをはじめとするヘーゲル左派の人々が大学からパージされてから、その流れでマルクスもまた大学での就職の目処がなくなってしまった。だから、マルクスは大学の外に活動の拠点を求めるしかなかった。

 マルクス独自研究によって生計を立てていたのではなかった。マルクスは経済学批判とは別にジャーナリストとしての仕事も行っていたし、エンゲルスに手伝ってもらいながら、『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』に11年間にわたって執筆していた*2マルクスの研究を資金面で実質的に支えていたのがエンゲルスであった*3。だから、マルクスを「在野研究者」と呼ぶことはできても、「独立研究者」とは呼ぶことは難しい。

 では、経営者エンゲルスならば「独立研究者」と呼ぶに相応しいと言えるだろうか。エンゲルスの業績の一つは、フェミニズムの古典ともなった『家族・私有財産・国家の起源』である。しかし、この著作はそもそもマルクスによるモーガン『古代社会』からの抜粋ノートなしにはあり得なかった。したがって、エンゲルスの研究もまたある意味でマルクス依存していたと言える。

 またマルクスを「在野研究者」と呼ぶことは、辞書的にも適切である。「在野」には「野党」という意味があるからだ。研究者にとっての「与党」は大学・研究機関などである。

 〈在野研究者〉はマージナルな存在である。これを英語で表記するならばIndependent scholarというよりはむしろmarginal ResearcherあるいはResearcher at the Marginsとなるだろう。

 〈在野研究者〉は複数の意味においてマージナルである。

 まず第一に、大学・研究機関から見て周縁に位置するという意味において、また同時に研究とは別の領域に所属する者でありながら研究を行うという意味でもまた周縁に位置しているからだ(Researcher at the Margins)。

 そして第二に、〈在野研究者〉は、研究の傍らで仕事をしているわけだが、その仕事に対して余剰な時間と資金(これらがもし余剰でない場合には、研究者自身の労働力の再生産に充てられるに過ぎない)を用いて研究を継続している(marginal Researcher)。

最後に書いておくが、以上の私のコメントは、あくまでも、私にとっての〈在野研究者〉について書いたまでであって、他の「在野研究者」たちの見解を代表するものでないし、他の人が同じ見解を有しているとはこれっぽっちも思っていないことを断っておく。

*1:マルクスによる抜粋ノートはMEGA第Ⅳ部門に収められている。この点について詳しくは大谷禎之介・平子友長編『抜粋ノートからマルクスを読む:MEGA第Ⅳ部門の編集と所収ノートの研究』(桜井書店、2013年)をみよ。

*2:「一八五一年の初めに、元フーリエ派で、この頃には奴隷制に反対する進歩派の『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』紙の社長であったチャールズ・デイナがマルクスに、イギリスとヨーロッパの諸問題に関する記事の寄稿を依頼した。ところがマルクスは英語の作文力に問題があったため、ドイツ語の原稿をエンゲルスが英語に翻訳しなければならなかった。そしてこれはたいていエンゲルスが自分でそれを書くことを意味していた」(トリストラム・ハント『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』東郷えりか訳、筑摩書房、2016年、258頁)。

*3:「「親愛なるエンゲルス氏」と、イェニーがよく呼びかけていた人物は、彼の年収の半分以上を常時、マルクス家の為に割り当てていた。総計すると、彼が雇用されていた二〇年のあいだに三〇〇〇ポンドから四〇〇〇ポンド(今日に換算すれば三〇万ポンドから四〇万ポンド)になる」(トリストラム・ハント、前掲書、250〜251頁)。

ヘーゲル『精神現象学』立法理性のコンテクストとカント批判

目次

はじめに

 今回は「ヘーゲル精神現象学』立法理性のコンテクストとカント批判」というテーマで書く。その概要は以下の通りである。

 我々は(1)まず最初にヘーゲル精神現象学』の理性章が先行研究においてカント批判を遂行されたものとして読まれてきたことを確認する。その上で、(2)カント批判としてくだんの命題を吟味したパラグラフを読み進めるために、コンスタンとカントの虚言論争というコンテクストを導入する。しかし、コンテクストの導入によって明らかとなるのは、虚言論争における論題(「嘘の禁止は社会を(不)可能にするか」)とは異なる命題(「各人は真実を語るべきである」)が『精神現象学』においては検討されているという事態である。そこで我々としては、むしろかの虚言論争から命題を変更すること、このことがヘーゲル戦略であり、この変更によってこそ、ヘーゲル間接的にカント批判を遂行したのではないか、と考える。

⒈ 先行研究におけるカント批判という読解

 今回取り上げるテクストは、ヘーゲルの『精神現象学』(C)(AA)「理性」V.「理性の核心と真理」C.「自身にとって、それ自体として、それ自身だけで実在的である個体性」b.「法則を定立する理性」の「だれもが真実を語るべきである」という命題が吟味されている以下の箇所である。

各人は真実を語るべきである。』──この無条件的に言明されている義務においては、ただちに「各人が真実を知っているならば」という条件が附加されることになる。命令はかくして、いまやつぎのようなものとなる。「各人は、真実についてはその都度各人の知識と確信とにしたがって真実を口にすべきである」。

ヘーゲル2018:648〜649、訳文は適宜改めた。) 

(Hegel 1807:360-361)

ここで『精神現象学』の理性章、とりわけ「立法理性」と「査法理性」の箇所が、これまで概ねカント批判として読まれてきたことを確認しておこう。それはたとえば、「ヘーゲルの『精神現像学』に於ける「立法理性」論および「査法理性」論は、カント倫理学の中核を成す思想に対する全般的な批判として、目論まれている」(二宮 1992:14)という読解に見られ、また「「実在性の全体」概念の継承を通じて、ヘーゲルはカントを批判しているとさえいえるのではないだろうか。なぜなら、『精神現象学』の場合、「あらゆる実在性の確信」としての理性の真理は、カントが論じなかった精神にあるとされるからである」(飯泉 2015:150)という近年の読解にも見られる通りである。

⒉ コンスタンとカントの虚言論争というコンテクスト

 さて、ヘーゲルが取り上げるこの命題の背景にあると思われるのは、「嘘の禁止」をめぐるバンジャマン・コンスタンとカントとの論争である*1。この論争では、「嘘の禁止は社会を不可能にする、というコンスタンの批判に対して、カントは嘘の禁止が他人に対する義務一般の本質を含むこと、すなわち社会契約の基礎であることを指摘し、嘘の禁止こそがむしろ社会を可能にすることを主張している」(小谷 2018:81〜82)。なお「この論争は「論争」といわれながらも、実際の応酬としてはただ一度のコンスタンによるカント批判と、それに対するカントのやはり一度きりの反論とで終わっている」(堤林 2002:5)。

 もしヘーゲルが、このようなコンスタンとカントの虚言論争という背景を考慮に入れつつ、「各人は真実を語るべきである」という命題の検討をつうじて、カント批判を遂行したのだとすれば、ただちに次のような疑問が湧いてくる。それはすなわち、なぜヘーゲルは、「嘘の禁止は社会を(不)可能にするか」という論題から「各人は真実を語るべきである」という命題へと変更し、後者についてのみ検討を加えたのかという疑問である。というのも、ヘーゲルが「嘘をついてはいけない」という命題から「真実を語るべきである」という命題へと変更することによって、『精神現象学』では「嘘の禁止は社会を(不)可能にするか」という(コンスタンとカントの間での)論点が抜け落ちてしまっているからである。さらに加えて、「嘘をついてはいけない」ことと「真実を語るべきである」こととは、似て非なることがらである。それゆえヘーゲルのここでのカント批判は──この箇所がそもそもカント批判であるならばの話だが──直接的なものではなく、(「嘘禁止は社会を(不)可能にするか」という論題の欠如と、そこから「各人は真実を語るべきである」という命題への変更という二重の意味において)間接的なものとなってしまっているからだ。

 そこで我々が思いつくのは次のような事態である。それはすなわち、「嘘をついてはいけない」という命題から「真実を語るべきである」という命題へと変更することこそが、カント批判を遂行するためのヘーゲルなりの戦略だったのではないか、ということである。というのも、ヘーゲルはこのパラグラフにおいて「真実を語るべきである」という命題を「健全な理性」に検討させることによって、前提条件を必要とし、かつこの命題がより精確には「真実を語らない」ことになってしまうという帰結に至らしめることによって、くだんの命題が(前提条件を必要とせずに妥当するはずの)定言命法としては不成立であることを示しているのだが、出発点となる命題がすでに成立しないのであれば、その帰結として「社会を可能にするか否か」という論題を検討することはもはやできなくなってしまうからである。この点について詳しくは次回以降に論じたい。

文献

*1:コンスタン『政治的反動について』(Des réactions politiques, 1796)およびカント『人間愛から嘘をつくという、誤って権利だと思われてるものについて』(Über ein vermeintes Recht aus Menschenliebe zu lügen, 1797. 通称『嘘論文』)。

「文字じゃない言語」──山口つばさ『ブルーピリオド』

はじめに

 Twitterで「インテリヤンキーが絵をかく楽しさに目覚める話」というものを見かけた。

読んでいるうちに引き込まれた。

『ブルーピリオド』という漫画らしい。

第1巻が電子版で無料で読めるということで、Amazon Kindleで第1巻を購入した。

結局、読み進めるうちに最新第5巻まで購入した。

それにしても、なぜこんなに引き込まれるのだろう。

ねとらぼの対談も面白い

『ブルーピリオド』の作者である山口つばささんと、画家の中島健太さんとの対談が「ねとらぼ」に載っていた。

この対談も色々と考えさせられる。

nlab.itmedia.co.jp

『ブルーピリオド』は、一言で言えば、主人公の矢口八虎東京藝術大学を目指す漫画だ。しかし、そこには様々なドラマがある。

美大の学費と親による承認の問題

主人公の八虎は、美術部員の絵を見たことをきっかけに、美大を受験することを決意する。

美大は、他の一般的な学部の学費と比べて、学費が高いと言われる。

八虎の家庭では、私立美大のような高額の学費を払うことは難しい。八虎の父親は本人が進みたい道に進むことを認めている。他方、母親は学費が経済的で、かつ一般的な学部に八虎が進学することを望んでいる。

f:id:sakiya1989:20190701205741j:plain(山口つばさ『ブルーピリオド (1) 』一筆目「絵を描く悦びに目覚めてみた」より)

八虎は志望校を東京藝大一本に絞ることにする。その理由は、東京藝大の学費が美大の中でもとりわけ安いからだ。

藝大の倍率はものすごく高く、藝大を出て普通に就職することはできる。が、藝大を出たからといって、画家になれる訳ではない。作中で八虎も美大進学について母親を説得することに悩んでいる。

画家になることについて、対談では次のように語られている。

中島:学費を払っているから指導してほしい(笑)。でも、美大に入ったあと「どうやったら画家になれるのか」が本当にわかりませんでした。自分の場合は父が急逝して経済的な事情から、早く自分の作品をお金に変えなきゃというモチベーションが芽生えて、それでとにかく動いたのが今につながっているんですが、「どうやって」をあらためて考えると美大教育にはその視点がない。「絵を描いて/それを生活の糧にして/また描く」方法を一切教えてくれない。藝大もそうでしたか?

山口:全くないですね。サバイバルの方法は知りたかった。これは私自身が圧倒的に勉強不足だったんですけど、卒業するまでプライマリーとセカンダリーの違いも知りませんでした。お金に対する「がめつい≒恥ずかしい」空気はめちゃめちゃあって。

「美大は“絵で食べる方法”を教えてくれない」 漫画『ブルーピリオド』作者と完売画家が考える“美術で生きる術”

八虎は美大を卒業した後、どうなっていくのだろうか。

なぜ『ブルーピリオド』に心揺さぶられるのか

僕が『ブルーピリオド』を読んで心揺さぶられるのは、主人公が絵に対して真摯に向き合っているところだ。

主人公が大学受験を目指す高校生だからかもしれないが、およそ10年も前の自分の青春時代に、自分は何をしていたのかを想い起しながら読んでしまう。つまり、自分自身の過去が想起されるから心揺さぶられるのかもしれない。

作中で主人公はもちろん東京藝大に受かるために絵を練習しているのであるが、究極的には東京藝大に受かるために絵を描いているのではない。というのも、「表面的なテクニックではなく、本質的に自ら楽しんで絵を描けているのか」という問いが、主人公には常に突きつけられているからだ。

「文字じゃない言語」──自己表現の先にある「会話」

『ブルーピリオド』を読んだ後は、自分は自分の望む良い仕事をできているか、ということを自分に突きつけられるような気がする。なぜなら、本当に良いと思う自分の中の基準ではなく、ついつい上司が求めているものを基準として仕事をしてしまっているかもしれないからだ。

f:id:sakiya1989:20190701212353j:plain(山口つばさ『ブルーピリオド (1) 』一筆目「絵を描く悦びに目覚めてみた」より)

ここで主人公は「周りに少し気を遣いすぎる」という性格が美術の先生によってズバリ指摘されている。『ブルーピリオド』を読み進めたとしても、主人公は周りを気にし過ぎるという性格をなかなか脱却していくことができない。主人公の八虎は独自の視点を持っているものの、彼が上手く絵を描けない時には、きまって他の作品と比較し、他の作品を参考にしようとしてしまっている*1

主人公の八虎は、自頭が良く、相手の期待に応えることがうまい。しかしそれは、自分ではなく、周りに、世間に合わせているだけ。上手く世渡りするのであれば、それで良い。

しかしながら、美術においては、空気を読んで周りに合わせることに価値はない。むしろ徹底的に自己の審美観と向き合い、多種多様な素材や道具を用いて能動的に表現することこそが美術だと言える。

f:id:sakiya1989:20190702004534j:plain(山口つばさ『ブルーピリオド (1) 』一筆目「絵を描く悦びに目覚めてみた」より)

美術は「文字じゃない言語」だと作中で言われている。が、この「文字じゃない言語」を通じて「ちゃんと人と会話」することができるのは、『自分にはこう見える』『自分はこれが好きだ』という“自己”をそこに表現することによってだけなのである。

*1:「自分ではなく周りを気にし過ぎる」という美術上の致命的な弱点を抱えているのは、実は八虎だけではない。東京藝術大学に現役主席合格した姉を持つ桑名マキもそうであるし、「女装男子」として登場する鮎川龍二(ユカちゃん)もそうである。桑名は姉の作風を、姉の面影をいつも意識してしまう(『ブルーピリオド (4) 』)。鮎川は「女装」という個性的なキャラを演じており、日本画家を目指して自己を表現しているように見えるのだが、実はそれは祖母に味方し、祖母の期待に応えることでしかなかった(『ブルーピリオド (5)』)。「自分ではなく周りを気にし過ぎる」というのは、ある意味で、誰もが持ちうる弱点なのであり、この点を克服することによってのみ画家になれるといっても過言ではないのかもしれない。

Wikipediaを利用した学習法

はじめに

最近、知らない言葉が増えてきました。

いや、正確に言うと、以前から少しずつ見聞きしていたのですが、改めて考えると説明できないし、よく分かっていない言葉が沢山あったのです。グラント*1、ハーマン、レイ・ブラシエ*2、加速主義、ゼノフェミニズム…などなど。

というわけで、しばらく普通に勉強してみようと思います。

 

ところで勉強っていっても、どうやって勉強するのでしょう。

普段私はフルタイムで働いています。独学で新しい用語を覚えていくのは、意外と大変です。本を買ってなんとな〜く読んでいても、頭に入ってこないこともあります。

そこで僕はWikipediaを活用して、自分専用の用語集を作ることにしました。

Wikipediaを利用した学習法

Wikipediaから気になる言葉をピックアップしてGoogleドキュメントにコピペし、そしてそれを紙に印刷して批判的に読む。知らない言葉には印をつけてさらに調べる。ーーたったこれだけですが、個人的にはものすごく学習効果が高いと感じています。

具体的に「加速主義」の項目を例に取ってみましょう。

ja.wikipedia.org

Wikipediaの「加速主義」の項目には次のように書いてあります。

「1848年の「自由貿易問題についての演説」と題する演説におけるカール・マルクスを含め、多くの哲学者が明らかに加速主義的態度を表明している。  」(下線引用者)*3

この箇所を読むだけでも、次のような疑問が湧いてきます。

  • 「多くの哲学者」って具体的に誰なのか?
  • 「明らかに」って書いてあるけど、本当に明らかなのか?
  • マルクス自由貿易問題についての演説」から引用しているけど、この引用は適切なのか?
  • 「加速主義」がただ単に加速度の増大を問題とするのみならず、常に資本主義との関連において語られるとするならば、「自由貿易問題についての演説」よりも、むしろ『経済学批判』や『資本論』およびその諸草稿からも引用し、これらのうちにマルクスの加速主義的態度をみるべきではないのか?
  • マルクス一人取り上げたとしても、その加速主義的態度は初期マルクスから晩期マルクスまで一貫しているのか否か。

とまあ、こんな感じで批判的に読んでいく感じです*4

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文献

 

  

*1:Ian Hamilton Grant (1963-). 主著に『シェリング以降の自然哲学』(Philosophies of Nature After Schelling, London and New York, 2006)がある。「『シェリング以後の自然哲学』においてグラントが行っているのは、ドゥルーズ哲学の源泉の一つであるシェリングの自然哲学に遡り、それ位よってドゥルーズとそのカント主義の残滓を除き去ろうとする試みであった。」(浅沼 2019、107頁)。

*2:Ray Brassier (1965-). 主著に『ニヒル・アンバウンド:啓蒙と絶滅』(Nihil Unbound: Enlightenment and Extinction, London, 2007)がある。ブラシエは「思弁的実在論 Speculative Realism (SR) 」という概念を考案したとされる。「ブラシエの思想の核心を乱暴にまとめると次のようになるだろう。すなわち、我々は人類が絶滅した後の世界について思考することができるだろうか?あるいは言い換えれば、人間にとってのあらゆる意味や目的が滅却された地点においても、それでも思考は可能だろうか?そしてもし可能であるとするならば、それはどのような思考なのだろうか?等々……。」(木澤 2019、189頁)。

*3:「加速主義」Wikipedia、2019年6月27日閲覧。

*4:マルクスと加速主義については、小泉 2019を参照のこと。「現代の左派加速主義は、愚直なまでにマルクスの古典的図式に立ち返ろうとする一面をもっている。そしてこの回帰は、七〇年代・九〇年代の過剰な内在主義を緩和して、資本の論理を「外在化」したという一点において重要なものである。」(小泉 2019、131頁)。

スマホ決済サービスについて

目次

スマホ決済サービス

さて、今回は「スマホ決済サービスについて」というテーマで書こうと思います。

今一番ホットな話題が「〇〇pay」というスマホ決済サービスではないでしょうか。有名なスマホ決済サービスとしてはLINE PayPayPay楽天ペイd払いなどが挙げられます。

xn--nckuag2b3koa3c.com

スマホ決済のブランドがあまりにも乱立し過ぎており、追いかけるのも面倒な印象を受けます。僕は最初に慣れたブランドを使い続ける事になりそうです。

 

中国では、2014年以降キャッシュレス化が進んでいると言われています。

中国で主に使用されているのは微信支付ウェイシンジーフーWeChat Payウィーチャットペイ*1支付宝ジーフーバオAlipayアリペイ*2です。

とりあえず日本でAlipayを使えないものかとアプリをインストールしてみたのですが、表記が中国語だったので一旦見送る事にしましたw

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ネットで検索すると、開設方法を解説しているサイトもありますね。

clifehack.com

 

WeChat Payの利用者を爆発的に増加させた「红包」機能

中国には「红包ホンバオ」という文化があります。 これは、春節(中国の旧正月)や誕生日などの記念日に、紅い袋にお金を入れてプレゼントする文化のことらしいです。

日本で言えば「祝儀袋(あるいはボーナス)を渡す」のに近い概念かもしれません。(もちろん厳密にいうと、日本の「祝儀袋」という文化は、「红包」とは違う歴史的背景を持っているので、両者を同義とみなす事は出来ませんが…。)

中国のLINEともいうべきWeChatが決済サービスにおいてユーザー数を爆発的に増やしたのが「红包」という機能を実装したからだという話があります。

「2014年春節にはウィーチャットのお年玉機能「微信紅包」が爆発的な人気を博した。ウィーチャットは市場獲得のために特別にリソースをつぎ込んだわけではなかったにもかかわらず、微信紅包は想像をはるかに超えるスピードでウィーチャットユーザーに広がり、それに伴ってテンセントの時価総額は1兆香港ドルを突破した。」(廉薇ほか2019、92頁)

西村友作によると、この「ホンバオ」機能によってユーザーはゲーム感覚でウォレットにお金を手に入れ、これを機会にQRコード決済へのハードルが低くなったということです。

「「ホンバオ」は一対一のチャット上で渡すのが基本だが、グループチャット内で複数の相手に送ることもできる。面白いのは、グループチャット内で「ホンバオ争奪戦」ができる機能を搭載したことだ。この場合、「ホンバオ」の送り手が、総額と「ホンバオ」数(もらえる人の数)を決めて送る。もらう側は早くタップした人から順番に獲得できるが、もらえる金額はランダムに決まる。」(西村2019、29〜30頁)

「このプロモーションにより、それまでウィーチャットペイを使ったことのなかったユーザーの「ウォレット」(アプリ内の口座)に、急にお金がたまり始めた。実は私もそうだった。この年の春節に、中国人の同僚や友人たちとのグループチャットの中で、よく意味を理解しないままゲーム感覚で遊んでいたら、気が付いたら「ウォレット」のなかに数十元(数百円)のお金が入っていた。」(同前、31頁)

微信红包」の特徴は「拼手气红包」というランダムな金額を複数の人々に送金できる点です。WeChat Payでは同額を複数人に送信することもできるのですが、獲得できる金額をランダムにする事によって、送金機能がゲーム性を獲得したのです。ユーザーがゲーム感覚で残高を獲得していったことで、WeChat Payのシェアは大きく拡大したと言われています。

 

「全員にあげちゃう300億円祭」(LINE Pay)

同じようなゲーム性を狙ってシェアの拡大を目論んでいるのが、ちょうど昨日から始まったLINE Payの「祝!令和 全員にあげちゃう300億円祭」(5/20(月)〜5/29(水))だと思われます。

これは「友だち」に1,000円相当のLINE Payボーナスを送金するキャンペーンだそうです。送金金額を「1,000円相当」と固定したのは、日本で金額をランダムにしたらクレーム沢山来そうだからかも知れません。

www.itmedia.co.jp

 

文献

 

*1:腾讯(Tencent、テンセント)が運用する中国のメッセンジャーアプリ「微信ウェイシンWeChatウィーチャット)」に決済サービスを追加したもの。

*2:蚂蚁金服Ant Financialアント フィナンシャル Services Group)が運用するサービス。

ジャック・デリダ『弔鐘 (Glas)』について

今日はジャック・デリダ『弔鐘 (Glas)』を読んでおりました。

ジャック・デリダの『弔鐘』は、完訳が待望される著書の一つです。左欄にヘーゲル論が、右欄にはジュネ論が同時並行で展開された、そのデザインが極めて斬新で挑戦的な構成の本です。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/e/e8/Derridaglas.jpg(Derrida 1974, Glas

 とりあえず今日さらっと眺めて気づいたことですが、『弔鐘』は割と引用が多用されたテクストなんですね。中盤ではヘーゲルの書簡(ニートハマーとのやりとり)が長々と引用されてますし、後半ではマルクスのパリ手稿からの引用から一転してフォイエルバッハの『キリスト教の本質』からの引用が続きます。しかし、元ページ数を記載しない点はアカデミックな形式に従ってないですし、そもそもページの構造が従来の書籍の形式をかなり逸脱しています。こうした形式の逸脱こそがデリダの「脱構築」なのかもしれませんが、発想の起源を辿れば、タルムードの書籍のデザインに似ている気がしなくもないですね(下図参照)。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f2/First_page_of_the_first_tractate_of_the_Talmud_%28Daf_Beis_of_Maseches_Brachos%29.jpg

 かつて90年代に『批評空間』(浅田彰柄谷行人編集、太田出版)という雑誌がありました。『弔鐘』はこの雑誌の巻末に鵜飼哲訳で連載されていたのですが、連載中に雑誌が廃刊となり、部分訳のまま途絶えました。

 『弔鐘』の研究は十分になされているとは言えないと思うのですが、一応スチュアート・バーネット編『デリダ以後のヘーゲル』(ルートリッジ、1998年、未訳)は目を通しておいた方が良さそうですね。

 日本語の文献だと、『弔鐘』はまだほんの僅かに言及されている限りですが、青柳悦子デリダで読む『千夜一夜』』の中で扱われており、また鵜飼哲『ジャッキー・デリダの墓』所収の「デリダにおけるヘーゲル──『弔鐘』における〈晩餐〉の記号論を中心に」でも扱われています。そして2015年に出た『現代思想』「総特集 デリダ」所収のマイケル・ナース「デリダ最盛期」では、デリダの死刑論講義と合わせて言及されています*1

 

文献

*1:「しかし二年目の死刑論講義では、デリダは『弔鐘』に出てくるこれらのテーマすべてを想起するのみならず、実際に『弔鐘』そのものを参照する──そしてこれはこの講義においては非常に稀なことである。それはまるで、四半世紀後に『弔鐘』が──そしてジュネが──デリダ自身の著作と思考のうちで、再生ないし再盛を、新たな最盛期〔floruit〕を迎えたかのようである。」(現代思想 2015、49頁)。

「マンスプレイニング」について──レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』を中心に

はじめに

 今回は「「マンスプレイニング」について──レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』を中心に」というタイトルで書きたいと思います。

 皆さんは「マンスプレイニング」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。「マンスプレイニング」とは、男性を意味する「man」と、「説明すること」を意味する「explain」をかけ合わせたかばん語です。この言葉は2008年以降に使用されたとみられています。

マンスプレイニングとは何か──ソルニットの違和感

 Googleで「マンスプレイニング」を検索してみると、「男性が、女性を見下すあるいは偉そうな感じで何かを解説すること」を意味する言葉として解説されています。

 「マンスプレイニング」という言葉ができたのは最近のことです。レベッカ・ソルニットによれば、2008年4月にソルニットが書いたオンライン記事のエッセイが広く読まれたことがきっかけとなり、後に「マンスプレイニング」という語が使用されるようになったといいます。ただし、「マンスプレイニング」という語そのものは、ソルニット自身が考案したものではないと本人は述べています。

エッセイが公開された直後に「マンスプレイニング」(mansplaining)という語も使われ出した。私が考え出した語だと言われることもあるが、実はまったくかかわっていない。エッセイと、それを具現化した〔そのアイデアを体現した〕ような男たちがインスピレーションになっているのは確かだが(個人的にはどうもしっくりこない語なので〔私はその語に疑念を抱いているし〕、自分で使うことはあまりない。「マンスプレイニング」だと、説教したがるのは男の内在的な欠陥だと強調しているような感じがする〔私にはそれが、男たちがそのような欠陥を(男の属性として)本来的に持っているという考えに少しばかり重きをなしているように見える〕。私が言いたいのはあくまで、説明できもしないことをしたがったり、人の話を聞かない男たちもいる、ということ。記事の中では明確に書いていなかったかもしれないが、興味はあるけどよく知らない事柄をだれかに説明してもらうのは好きだ。でもこちらがよく知っていて、むこうが何ひとつ知らないことについて説教されても、まともな会話にならない)。*1

 

The term "mansplaining" was coined soon after the piece appeared, and I was sometimes credited with it. In fact, I had nothing to do with its actual creation, thought my essay, along with all the men who embodied the idea, apparently inspired it. (I have doubts about the word and don't use it myself much; it seems to me to go a little heavy on the idea that men are inherently flawed this way, rather than that some men explain things they schouldn't and don't hear things they should. If it's not clear enough in the piece, I love it when people explain things to me they know and I'm interested in but don't that the conversation goes wrong.)

「個人的にはどうもしっくりこない語なので」の原文は"I have doubts about the word"となっています。ソルニット自身は「マンスプレイニング」という語を用いることについては戸惑いを感じており、「マンスプレイニング」という語を用いることによって伝えたいこととは別のことが伝わってしまうことに対して危惧を予見している、というようなニュアンスでしょうか。つまり、ソルニットは、「マンスプレイニング」という語が体現している内容(「説教したがるのは男の内在的な欠陥だと強調している」こと)と、ソルニット自身が訴えたい内容(すなわち「説明できもしないことをしたがったり、人の話を聞かない男たちもいる」こと)とは微妙にズレていると感じているようです。どうしてこのようなズレが生じてしまっているのでしょうか。

 このズレをヨリ明らかにするために、まずソルニット自身が記述しようとした「説明できもしないことを〔説明〕したがったり、人の話を聞かない男たち」が一体どのような人たちなのかを確認しましょう。それは彼女が体験した次のエピソードを読めば、一発で理解できます。

 マイブリッジの名前を出すや、彼は私を遮った。「今年出たばかりのマイブリッジ関連のとても重要な本を知ってるかね」。

 無邪気な娘役を演じることに夢中になっていた私は、自分の本と同じ主題の本がその年に出ていたのに見落としていた、と危うく信じかけた。男はすでにそのとてもインポータントな本とやらについて、ああだこうだとまくし立てていた──その表情にはすごく既視感があった──はるか彼方までおよぶ自分の権威、そのぼんやりと霞む地平線をじっと見つめながら滔々と長話をする男の、満足しきった表情。

 念のためにいっておくと、私のまわりはこんな男ばかりではない。若い頃からずっと私の話を聞き、激励し、著作を出版してくれた編集者たち。どこまでも寛容な弟。そしてペレン先生のチョーサーの授業で聞いて以来忘れられない『カンタベリー物語』の学僧のように、「学び教えることを惜しまない」すばらしい友人たち。といっても、碌でもないのもまたいるわけだ。ミスター・インポータント氏が、私が当然知っているべき件の本について自慢げに語っていると、サリーが「それ、彼女の本ですけど」と割って入った。というか、とにかく男を黙らせようとした。*2

ここを読む限り、「ミスター・インポータント氏」と呼ばれる男の説明する行為は、言ってしまえば自己満足的な行為です。つまり、相手のもつ知識水準に合わせて会話することをせず、一方的に自分の知識を披瀝するという行為は、双方的な会話というよりもただの演説に近いかもしれません。そこにあるのはコミュニケーション上の機能不全だと言えそうです。

 ソルニットが感じているように、もし「マンスプレイニング」という語が「説教したがるのは男の内在的な (inherently) 欠陥だ」ということを強調するものだとすれば、それはすなわち「説明すること」が男性に顕著にみられる一般的な傾向ということになってしまいます。英語のinherentlyは「本来的な」という意味です。もし「マンスプレイニング」が男性が生まれ持って備えている男性特有の性質であるならば、男性が男性をやめないかぎり自分自身から「マンスプレイニング」という属性を除こうとすることは困難であることになります。

 もし「マンスプレイニング」が男性の社会的役割によって構成されたジェンダーの問題だとすれば、その発生の起源を解明することによって解決の糸口を探ることはできるでしょうし、それによって「マンスプレイニング」が解決不可能ではなく解決可能な問題であるという見通しを持てることこそが重要だと思います*3

 少なくとも、「説明する」という行為が言語活動であるという点から、「マンスプレイニング」が男性に本来的に備わっている属性ではないと考えられます。というのも、言語というものは学習を通じて後天的に獲得されたものであり、したがって言語使用によって為される「マンスプレイニング」もまた後天的に獲得された性質だと考えられるからです*4

 ソルニット自身は、「念のためにいっておくと、私のまわりはこんな男ばかりではない」と釘を刺し、「マンスプレイニング」の一般化には否定的なようです。そして、そうであるがゆえに「マンスプレイニング」という語に対してソルニットが違和感を抱いていると言えるかもしれません。

おわりに

 もし「マンスプレイニング」が男性一般にみられる傾向ではなく、ある特定の男性にみられる傾向だとすれば、その傾向は何に起因するものなのでしょうか。

 今回は「マンスプレイニング」を取り上げましたが、日本ではあまり聞かれていないように思います。日本ではむしろよく用いられるのは、「マンスプレイニング」に似た言葉で、男女共に見られる「マウンティング」かもしれません。「マウンティング」については別の機会に述べたいと思います。

文献

*1:ソルニット [2018]、22頁。〔〕は引用者による補足、強調は引用者によるものである。

*2:ソルニット [2018]、8〜9頁。

*3:とは言うものの、「マンスプレイニング」がジェンダーの問題だからその解決が"容易だ"ということにはならない。むしろジェンダーの問題だからこそ拘束力が強く解決し難いという可能性も大いにある。「マネーとタッカーの業績は、次の二点にまとめることができる。第一に、生物学的還元説に対して、セックス(生物学的性差)とジェンダー(心理学的性差)とは別なものだとあきらかにしたこと、第二に、だからといってジェンダーが自由に変えられるようなものでなく、その拘束力が大きいことを証明したことである。」(上野 [2015]、11頁)。

*4:そもそもジェンダーと言語とは、根本的なところで結びついている。「「性自認」は二歳までの言語習得期に形成されると言われている。ホルモンと同じく、この臨界期を過ぎるとその後は変化しない。心理学的な性差研究にはおびただしい蓄積があり、幼児の時から、男児は空間能力にすぐれ、女児は言語能力にすぐれているといった調査結果があるが、マネーとタッカーによれば、被験者が調査に応じられるようになるまでには、「性自認」は形成されてしまっていることになる。したがって言語によっておこなわれるあらゆる心理学的性差研究は、一種の「予言の自己成就」、すなわち言語によって形成された性差を言語によって追認するという作業になる。…(中略)…マネーとタッカーは、生物学的性差の基盤のうえに、心理学的性差、社会学的性差、文化的性差が積み上げられるという考え方を否定し、人間にとって性別とはセックスではなくジェンダーであることを、明瞭に示した。人間においては、遺伝子やホルモンが考える、のではない。言語が考える、のである。」(上野 [2015]、10〜11頁)。