まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

『源氏物語』覚書(2)

目次

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源氏物語』(承前)

桐壺(承前)

(『校異源氏物語』巻一、5頁)

……はじめより、我は、と思い上がりたまへる御方、めざましき物におとしめそねみ給ふ。同じ程、それよりげらふの更衣たちはましてやすからず。朝夕の宮仕へにつけても人の心をのみ動かし、うらみを負う積りにやありけむ、いとあづしくなりゆき、物心ぼそげに里がちなるを、いよいよ飽かずあはれなる物に思ほして、人の譏りをもえ憚らせ給はず、世のためしにも成りぬべき御もてなしなり。

(『源氏物語(一)桐壺―末摘花』岩波文庫、2017年、14頁)

與謝野晶子訳で鮮やかに訳出されているように、ここでは「最上の貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった」という「陽」の側面と、「宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた」という「陰」の側面との対比が描かれている。「そねみ」や「うらみ」を與謝野晶子が「嫉妬」と訳しているように、「嫉妬」がこの物語を動かす鍵となる感情として最初に登場している。

(つづく)

文献

『源氏物語』覚書(1)

目次

はじめに

 『源氏物語』といえば、知らない者はいないといっても過言ではないほど有名な古典文学作品である。にもかかわらず、恥を忍んでいうと、筆者はこれまで中学や高校で『源氏物語』を読んだのか否かさえも覚えていない。そもそも『源氏物語』が54帖という膨大な巻数を有しているということさえ今回この覚書を書くまで知らなかった。そのような私がこれから『源氏物語』を読んでみようというのだから「気が触れた」と思われても仕方がない。ヘーゲルだのマルクスだの西洋かぶれの哲学や思想を研究してきた人間が、三十半ばに差し掛かろうとしている時に、いきなり自国の古典文学作品に目を向けるということが一体何を意味しているのか、自分でもいまいちはっきりと理解していない。とはいえ、何事も時宜にかなった頃合というものがあり、早い遅いの問題ではないのだと思う。むしろ私の知らない豊穣なテクストがまだ数多く存在していることに喜びを感じるばかりである。

源氏物語

 先に触れたように『源氏物語』は54帖から成る膨大な作品である。原本はすでに消失している。現在残されているその写本には多くのバリエーションが存在するが、それぞれの写本には一部欠巻が存在する*1

 以下では、池田亀鑑編著『校異源氏物語』(中央公論社、1942年)および柳井滋・室伏信助・大朝雄二・鈴木日出男・藤井貞和今西祐一郎(校注)『源氏物語』(岩波書店、2017年)を基本テクストとして参照する。資料については「国書データベース」(国文学研究資料館)や「デジタル源氏物語」、その他ホームページを活用している。

岩波文庫版『源氏物語』の表紙にもなっている「源氏物語絵屏風」は「国書データベース」から閲覧可能である。

桐壺

(『校異源氏物語』巻一、5頁)

 いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひ給ひける中に、いとやんごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめき給ふ有りけり。

(『源氏物語(一)桐壺―末摘花』岩波文庫、2017年、14頁)

単語
  • 不定指示代名詞】いづれ:どれ。
  • 【格助詞】の:連体修飾語(連体格)。
  • 【名詞】御時(おほんとき):[接頭辞]「御」+[名詞]「時」。天皇の治世の尊敬語。
  • 【連語】にか:断定の助動詞「なり」の連用形「に」+係助詞「か」。「〜であろうか」。
いづれの御時にか

 冒頭の「いづれの御時にか」という件から、この物語が天皇を前提とした世界(つまり「日本」と我々が呼ぶ地域)を舞台にして描かれることが真っ先に宣言されている。このような舞台設定は例えば『ハリーポッター』がイギリスの世界を前提とするようなものである。

 天皇制を前提とし、そのうえで読者にとって問題となるのは、〈どの天皇が即位した時代なのか〉であろう。この点について天野紀代子は次のように語っている。

天野 ……更衣というものはもうすでに紫式部の時代にはいなかった。浅井虎夫の『女官通解』から「歴代皇后・妃・夫人・嬪の概表」を貼っておきましたけれども、「女御、更衣あまたさぶら」っていた時代は、醍醐天皇、せいぜい村上天皇の時までで、それ以降は更衣という妃はいないんですね。一条天皇にはもちろんのことです。女御や更衣が大勢仕えていたと始められる出だしで、読者はすぐさま五十年前、一〇〇年前の王朝を想像したことでしょう。

(「〈シンポジウム〉『源氏物語』の魅力」法政大学国文学会『日本文学誌要』77巻、4頁)

現代の我々が読めば曖昧な記述に見える「いづれの御時にか」という導入も、当時の人々が読めば「すぐさま五十年前、一〇〇年前の王朝を想像」することが可能であったという指摘は重要である。天野は続けて言う。

天野 ……作者がどうして身分の低い更衣を持ち出したかという上では、醍醐帝の更衣に藤原桑子というのがいますけれど、これは中納言にまでなった藤原兼輔の娘で、紫式部にとってはお祖父さんの姉妹に当たります。そのことが創作の上で重要に関わっていたのではないかと思われます。一族の名誉であった入内が、更衣だったことへの特別な思い入れがあったに違いないということです。

(同前、4頁)

作者すなわち紫式部は勿論『源氏物語』の作中には登場しないのだが、天野のように作者がどのような意図で舞台設定をしたのかにふかく思いをめぐらすとき、あらゆる舞台設定が必然的なものであるかのように思われてくる。

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文献

*1:源氏物語』の写本については「国書データベース」に整理されているのでそちらを参照されたい。

読書前ノート(40)ジョン・ダワー『容赦なき戦争』/『敗北を抱きしめて』

目次

ジョン・W. ダワー(猿谷要監修、斎藤元一訳)『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別』平凡社ライブラリー、2001年。

ジョン・ダワー(三浦陽一・高杉忠明訳)『増補版 敗北を抱きしめて』岩波書店、2004年。

世俗的・通俗的な「テキスト」へのこだわり

 『容赦なき戦争』という著作の特徴について、ダワーは次のように述べている。

…政策立案と戦闘状況の記述に焦点を合わせるかわりに私は、敵と味方の両陣営に殺戮を心理的に容易にした、むき出しの感情と紋切り型の言葉とイメージを探究することを選んだ。このことは学者たちが一般に頼りとする公式文書とはまったく違う「テキスト」、たとえばスローガン、歌、映画、漫画、それにありふれた慣用語句とキャッチフレーズを、私に吟味させることになった。こうした表現形式を真剣に受け止めるにさいし私は、「大衆文化史」の手法のいくつかを、あの戦争に応用していた(歴史家である私にとって新しいアプローチであった)。

(ダワー『容赦なき戦争』6頁、強調引用者)

評者は歴史研究については素人であるので、「スローガン、歌、映画、漫画、それにありふれた慣用語句とキャッチフレーズ」などのいわば世俗的・通俗的な「テキスト」——これは官僚の手によって作成された「公文書」とは対照的である——を研究対象として吟味することが、歴史研究においてどれほど一般的な手法なのか否かについては、残念ながら判断を下すことができない。だが、「大衆文化史」の手法を応用した、こうした手法がダワーの著作の魅力となっているのは明らかであるように思われる。

 世俗的・通俗的な「テキスト」に着目したダワーの研究手法は、『容赦なき戦争』の続編にあたる『敗北を抱きしめて』でも遺憾無く発揮されている。そしてダワーのこうした研究手法は、勝者の歴史であるいわゆる「ホイッグ史観」に対抗しているようにも思われる。

吉田茂のような有名人だけでなく、日本社会のあらゆる階層の人々が敗北の苦難と再出発の好機のなかで経験したこと、そして彼らがあげた「声」を、私はできる限り聴き取るように努力した。この作業をはじめた当初は、歴史のこの瞬間に耳を傾けることによって、いったい何が得られるのか、私には予想できなかった。しかしこの時代に起きた多くのことを慎重に書き進め、それが終わったとき、私はある事実に深く心を打たれていた。悲しみと苦しみのただ中にありながら、なんと多くの日本人が「平和」と「民主主義」の理想を真剣に考えていたことか!もちろん、「平和」と「民主主義」こそ、私自身の国がたたかい取ろうと努力している当のものにほかならない。日本人も私たちと同じ夢と希望をもち、同じ理想とたたかいを共有しているのだ。それを知ることは、アメリカ人の多くの読者にとって驚きであると同時に、明らかに心が暖まり、勇気のわく発見だったのである。

(ダワー『増補版 敗北を抱きしめて(上)』ⅹⅶ頁、強調引用者)

ここでダワーは「それ〔日本人が「平和」と「民主主義」の理想を掲げ努力していること〕を知ることは、アメリカ人の多くの読者にとって驚きである」と述べているが、アメリカ人がそれに驚くのは一体なぜであろうか。この点に関しては、『容赦なき戦争』におけるダワーの分析が頼りになる。というのも、『容赦なき戦争』によれば、日本人は対外的には「劣等の人種」と見做されていたからである。

 アジアにおける戦争に伴う人種的表現やイメージは、しばしばあまりにも生々しく軽蔑的なものが多かった。たとえば連合国側は、日本人の「ヒトより下等」な側面を主張した。そのために普通、猿や害虫のイメージがよく使われた。もう少しましなものでは、日本人は遺伝的に劣等の人種であり、原始性、幼児性、集団的な情緒障害という観点から理解されるべきだという言い方がなされた。漫画家、作曲家、映画制作者、戦争特派員、マスメディアは一般にこうしたイメージでとらえた。戦時中日本人の「国民性」を分析しようとした社会科学者やアジア専門家もまた同様であった。

(ダワー『容赦なき戦争』42〜43頁)

日本人は理性的でなく非論理的である、というのが西洋人の見解であった(『容赦なき戦争』183頁)。そうした日本人が「平和」と「民主主義」という理想を掲げ努力している姿は、西洋人からすれば確かに驚きであろう。

マルクス『資本論』覚書(23)

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マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

「ある物」の分析

(1)ドイツ語初版

 ある物は,〈交換価値〉でなくとも,〈使用価値〉でありうる.それは,人間にとってのその物の存在(Dasein)が,労働をつうじて媒介されていない場合である.たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである.ある物は,〈商品〉ではなくても,有用であり人間労働の生産物であることがありうる.自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は,〈使用価値〉はつくるが,〈商品〉はつくらない.商品を生産するためには,彼は使用価値を生産するだけではなく,〈他人のための使用価値社会的使用価値〉を生産しなければならない.最後に,どんな物も,使用対象であることなしには,〈価値〉ではありえない.物が無用であれば,それに含まれている労働もまた無用であり,労働のなかにはいらず,したがって価値をも形成しないのである.

(Marx1867: 6-7,『資本論①』81〜82頁)

(2)ドイツ語第二版

 ある物は,価値ではなくても,使用価値であることがありうる.それは,人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合である.たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである.ある物は,商品ではなくても,有用であり人間労働の生産物であることがありうる.自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は,使用価値はつくるが,商品はつくらない.商品を生産するためには,彼は使用価値を生産するだけではなく,他人のための使用価値,社会的使用価値を生産しなければならない.最後に,どんな物も,使用対象であることなしには,価値ではありえない.物が無用であれば,それに含まれている労働も無用であり,労働のなかにはいらず,したがって価値をも形成しないのである.

(Marx1872a: 15-16,『資本論①』81〜82頁)

(3)フランス語版

(Marx1872b: 15-16)

(4)ドイツ語第三版

 ある物は,価値ではなくても,使用価値であることがありうる.それは,人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されていない場合である.たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである.ある物は,商品ではなくても,有用であり人間労働の生産物であることがありうる.自分の生産物によって自分自身の欲望を満足させる人は,使用価値はつくるが,商品はつくらない.商品を生産するためには,彼は使用価値を生産するだけではなく,他人のための使用価値,社会的使用価値を生産しなければならない.最後に,どんな物も,使用対象であることなしには,価値ではありえない.物が無用であれば,それに含まれている労働も無用であり,労働のなかにはいらず,したがって価値をも形成しないのである.

(Marx1883: 7-8,『資本論①』81〜82頁)

ここでマルクスは,「ある物」の「あり方 Dasein」を主に三つの側面から考察している.

  1. 〈交換価値〉或いは「労働による媒介」の欠如:《ある物は,(交換)価値ではなくとも,使用価値であることがありうる》.なぜなら,その物が持つ「人間にとっての効用 Nutzen für den Menschen」がその物を「使用価値」たらしめる*1のであるが,ある物が「交換価値」を持つのはその物が「労働によって媒介されて durch Arbeit vermittelt」いる場合に限定されるからである.したがって,ある物にまだ労働が投下されておらず,なおかつ,その物が自然のあり方のままで使用価値を持っている場合には,《ある物は(交換)価値であることなしに使用価値であることが可能である》.この例としてマルクスは「空気や処女地や自然の草原や野生の樹木など」を挙げている.
  2. 〈商品〉の欠如:《ある物は,商品ではなくとも,有用であり人間労働の生産物であることがありうる》.人間的労働には,大きく分けて二種類ある.一つは〈自分自身の欲望を満足させる〉という意味で「有用な」人間的労働であり,もう一つは〈他者の欲望を満足させる〉という意味で「有用な」人間的労働である.その物が〈商品〉として存在するためには,その物が「他人のための使用価値,すなわち社会的使用価値」を備えている必要がある,とマルクスはいう.つまり,この「他人のための使用価値,すなわち社会的使用価値」を形成するのは,確かに「労働」ではあるが,もっというとそれは「社会的分業」としての人間的労働に他ならない.
  3. 〈使用価値〉の欠如:《どんな物も,使用対象であることなしには,価値ではありえない》.労働によって生まれた産物が「無用 nutzlose」である場合がそうである.われわれが「価値のないガラクタ」と呼ぶものが凡そこれに当てはまるであろう.

以上三点でもってマルクスは「交換価値」と「商品」と「使用価値」とがそれぞれ厳密には異なる概念であることを示している。それを「商品」として考察するならば,一つには「使用価値」から見た「商品」と,もう一つには「交換価値」から見た「商品」という二面性を持っている.だが,それを「ある物」として考察してみれば,それは「交換価値」と「商品」と「使用価値」という三つの側面から分析できることがわかる.『資本論』第一章第一節を通じて示されたのは,まさにこの点である.

(つづく)

文献

*1:「ある物がもっている人間的生活のための有用性は,その物を使用価値にする.」(Marx1867: 2,『資本論①』73頁).拙稿「マルクス『資本論』覚書(6)」参照.

ライプニッツ『モナドロジー』覚書(6)

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ライプニッツモナドジー』(承前)

モナドにおいてその生成と消滅のプロセスはあり得るか

 ライプニッツはいう。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 また、モナドには解体の危惧はない。かつ、単純な実体が自然的に消滅することがあるとはどうしても考えられない。

(『モナドジー』§4)

「解体 dissolution」とは、要するに、複合物においてのみ可能な現象である。なぜならば、複合物とは、個々の要素の寄せ集めだからである。「解体」してバラバラになった個々の要素は「単純な実体」というモナドに還元される。しかし、「単純な実体」と「複合物」がその本性上、明確に区別されている。「単純な実体」は、「部分がない sans parties」(§1)というその自然本性からして、それが「消滅する périr」ことはあり得ない、とライプニッツはいう。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 同じ理由で、単純な実体が自然的に生じることがあるとは、どうしても考えられない。単純な実体は、複合によってつくることはできないからだ。

(『モナドジー』§5)

ここでもまたライプニッツは「自然的に naturellement」を「その自然本性からして」というような意味合いで用いている。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 かくしてモナドは、生じるのも滅びるのも、一挙になされるほかない、と言ってよい。つまり、創造によってしか生じないし、絶滅によってしか滅びない。けれども複合されたものは、部分部分で生じる、もしくは滅びる。

(『モナドジー』§6)

ここでライプニッツが「モナドは、生じるのも滅びるのも、一挙になされるほかない」と述べる理由は、「単純な実体」たる「モナド」が、「複合物」とは全く異なる性質を持つからである。すなわち、「複合物」の性質は「部分部分で生じる、もしくは滅びる」点にあるが、この点で「複合物」は、「部分がない」(§1)という「単純な実体」たる「モナド」とその本性からして、本質的に全く異なっている。「単純な実体」たる「モナド」は、「複合物」の延長線上で捉えられてはならない。そもそも「モナド」のように「部分がないところには、拡がり〔延長〕も、形も、可分性もない」(§3)からである。

 「モナド」にあっては、「創造 creation」と「絶滅 annihilation」だけが可能であるというのは、「創造」や「絶滅」が「一挙になされる」ものであり、そのプロセスとしての「部分がない」(§1)からである。反対に「始まり commencer」と「終わり finir」といった生成消滅のプロセスは、その推移的な変化の部分を取り出すことができるがゆえに、「モナド」の本性には対応しない。

(つづく)

文献

ライプニッツ『モナドロジー』覚書(5)

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ライプニッツモナドジー』(承前)

ライプニッツスピノザ

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 しかも、各モナドは他の各モナドと異なっているはずだ。じっさい自然のなかでは、二つの存在が互いにまったく同じようであってそこに内的差異すなわち内在的規定に基づく差異を見いだせない、ということは決してない。

(『モナドジー』§9)

ここでライプニッツスピノザの「実体的差異」の思想に範を得ている*1

 またライプニッツのいう「モナド」は外的原因に影響されない。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 以上に述べたことから、モモナの自然的変化は内的原理から来ることがわかる。外的原因はモナドの内部に作用することができないからである。

(『モナドジー』§11)

ライプニッツのいう「モナド」は、スピノザのいう「実体」に似ている。というのは、スピノザのいう「実体」もまた、ライプニッツの「モナド」と同様に、外的原因に影響されないからである*2

 ライプニッツのいう各モナドの差異は、スピノザの実体的差異で理解可能である。ライプニッツの単純実体における「多」の概念もスピノザの実体的変状で理解可能である。ライプニッツにあって、スピノザにあってはまだ叙述しえなかった思想といえば、「微分」によって表象されるような微細な連続的変化の観念かもしれない。

微細な変化、一と多

 以下の一節に、微分にもつながるライプニッツ思想の特徴が凝縮されている。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 しかしまた、変化の原理のほかに、変化するものの細部があり、それが単純な実体の、いわば特殊化と多様性を与えているにちがいない。

(『モナドジー』§12)

ここでライプニッツが強調しているのは、「変化」というのが一瞬にして別のものになる断続的な変化ではなく、§10で先に述べられていたように、変化が連続的であるがゆえにその連続性のうちなる無限のうちに「変化するものの細部」が横たわっているという点である。このことをライプニッツは「多」と言い換えている。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 この細部は、一なるもの、すなわち単純なもののなかに、多を含んでいるはずだ。じっさいすべての自然的変化は徐々になされるから、どこかが変化してもどこかは変わらないままである。したがって、単純な実体のなかには、部分はないけれども、いろいろな変状や関係があるにちがいない。

(『モナドジー』§13)

ライプニッツのいう「多」の概念もまた、スピノザのいう実体の「変状」という概念の影響を受けているように思われる。

 さて、こうした連続的変化のうちに見られる「多」の表現形態のことをライプニッツは「表象」と呼んでいる。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

 一なるもの、すなわち単純実体のなかで、多を含み、これを表現する推移的状態がいわゆる表象にほかならない。これは意識される表象ないし意識とはしっかり区別されねばならない。それはこのあとで明らかにする。

(『モナドジー』§14)

ここでライプニッツは「表象」と「意識」とを厳密に区別するが、ライプニッツによる両者の区別はデカルト派理論への批判を含意している。

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

デカルト派の人たちは意識されない表象を無いものと見なし、この点で大きな過ちを犯した。その結果彼らは、精神だけがモナドであって、動物の魂も他のエンテレケイアも無い、と信じるようになった。そして通俗の意見にしたがって、長い失神状態と厳密な意味での死を混同した。そうして完全に遊離した魂というスコラの偏見にふたたび陥り、ひねくれた心の人たちに魂死滅の説を固めさせることさえになった。

(『モナドジー』§14)

デカルト派の理論では、長い失神状態と死とを区別できない。なぜなら、〈無意識の状態〉という点では失神状態と死とは同一と見なされるからである。失神状態が時間的に長く持続すれば、それは究極的には死と同等と見なされる、というのは欠陥のある見方だとライプニッツは考える。

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文献

*1:「諸事物の自然のうちには、同一の本性または同一の属性を有する二つの実体あるいはそれ以上多くの実体は存在し得ない」(スピノザ『エチカ』第一部定理5)。拙稿「スピノザ『エチカ』覚書(10)」参照。

*2:「実体は他の物から産出されることができない」(スピノザ『エチカ』第一部定理6系)。拙稿「スピノザ『エチカ』覚書(11)」参照。

羽田空港航空機衝突事故

 2024年1月2日、羽田空港日本航空JAL)旅客機と海上保安庁の航空機が衝突事故を起こした。旅客機に乗っていた乗員乗客は全員無事避難できたが、海保庁航空機に搭乗していた船長を除く隊員5名が亡くなった。この事故の詳細については、のちに調査報告書で明らかにされるであろうが、前日に起こった能登半島地震の余韻冷めやらぬうちにこの事故が発生したことで、『まだ二日しか経過していないのに恐ろしい出来事が続く2024年とは、一体どれほど恐ろしい一年になるのだろうか』と悲観した人々も少なくなかったと思われる。

 注目されたのはJALの対応である。乗員乗客の全員が無事避難できたことは、「90秒ルール」と呼ばれる訓練を平時から行っていた結果として賞賛された。同時に、乗客が大きなパニックを起こさずに「規律訓練」された人々だったことも功を奏したと考えられる。したがって、『これがもしLCC(いわゆる格安航空)だったら可能だったろうか』と考える人々もいた。