目次
はじめに
以下ではヘーゲル『法の哲学』第二部「道徳性 Moralität」を取り扱う。
ヘーゲルが『精神現象学』で「道徳的世界観」についてアレコレ論じているところから見ても、ヘーゲルの哲学体系において「道徳性」の位置付けというのは、究極的には乗り越えられるべき否定的な契機ぐらいの感じではある。
しかしながら、冷静に考えてみるならば、なぜ「道徳性」が本書の第二部として位置付けられているのかという点については、十分に明らかになっていない。ヘーゲルが第104節で「法から道徳への移行」を述べているからというだけでは、その論証は十分ではない。善悪の判断に関する道徳は、小学生でも教わるものであって、つまり抽象法と人倫といった青年期以降で理解されるよりも以前に習得が可能である。なのに「道徳性」が第二部に位置付けられる理由は一体何故であろうか。我々はヘーゲルの「道徳性」のポテンシャルを十分に評価できているのだろうか。
ヘーゲル『法の哲学』
「法から道徳性への移行」はいかにしてなされるのか
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すなわち、犯罪と復讐する正義*1とは、意志の展開の形態を、普遍的な、即自的に[存在する]意志と、個別的な、前者に対抗して、対自的に存在する[意志]との区別にまで進んだものとしてあきらかにし、そのうえでさらに、即自的に存在する意志が、この対立を廃棄して自分のうちに帰還し、そのことによって、みずから対自的かつ現実的になっていることをあきらかにするのである。こうして、法は、単に対自的に存在する個別的な意志に対抗するものとして確証されて、みずからの必然性によって現実的なものとして存在し、妥当するのである。
(Hegel1820: 103, 上妻ほか訳(上)256頁)
ここでは「即自存在」や「対自存在」といったヘーゲル語が多くて、一見すると内容が明瞭ではない。が、要するに、「復讐をおこなうのではなくして、刑罰をおこなう正義を要求すること」(第103節)がここでいわれている「普遍的即自 allgemeinen an sich」としての一方の意志である。他方で、「報復 Wiedervergeltung」としての「復讐」(第102節)が、ここでいわれている「個別的対自 einzelnen für sich」としての意志としてある。二つの意志は対立するが、「現実的なものとして存在し、妥当する」のは「刑罰をおこなう正義」である。
(つづく)
文献
- Hegel, 1820, Naturrecht und Staatswissenschaft im Grundrisse, Grundlinien der Philosophie des Rechts, Berlin. (Bayerische Staatsbibliothek, 2022)
- ヘーゲル 2021『法の哲学 自然法と国家学の要綱』上妻精・佐藤康邦・山田忠彰訳,岩波書店.
*1:「犯罪と復讐する正義」については、すでに本書の第102節で触れられている。「犯罪を廃棄することは、法の直接性というこの圏域〔第一部「抽象法」のこと—引用者〕においては、さしあたっては復讐 Racheである。復讐は、それが報復であるかぎりで、内容にしたがえば、正当である。しかし、形式からすれば、復讐は主観的意志の行為である。この意志は、生起するいかなる侵害のうちにも、自分の無限性をおき入れることができ、それゆえ、この意志が主張する正義は一般に偶然的であり、またこの意志は相手にとってももっぱら特殊的意志として存在するにすぎない。復讐は、これが特殊的意志の積極的な行為として存在することによって、新たな侵害となる。復讐は、このような矛盾として、無限進行に陥り、世代から世代へと無際限に継承されてゆくことになる。」(第102節、上妻ほか訳(上)253〜254頁)。