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ジャック・デリダ『弔鐘』覚書(3)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ジャック・デリダ『弔鐘』(承前)

(左)ヘーゲル

「鷲(エグル)」に擬せられるヘーゲル

     Son nom est si étrange. De l'aigle il tient la puissance impériale ou historique. Ceux qui le prononcent encore à la française, il y en a, ne sont ridicules que jusqu'à un certain point : la restitution, sémantiquement infaillible, pour qui l'a un peu lu, un peu seulement, de la froideur magistrale et du sérieux imperturbable, l'aigle pris dans la glace et le gel.

 Soit ainsi figé le philosophie emblémi.

 彼の名はとても奇妙だ。エグルからその名は帝国的あるいは歴史的な権力を受け継いでいる。いまでも彼の名をフランス語風に発音する人はいるが、この人々が滑稽に思われるとしても、それもある点までのことである。というのも、このフランス語風の発音によって彼を少し読んだ者、少しだけ読んだ者が感じるあの印象が、教師然とした冷たさ、また、乱れを知らない真面目さが、意味論的に申し分なく復元されるからだ。氷塊グラス結氷ジェルに捕らわれた鷲、という次第。

 そのまま凝固していてもらおう、蒼白の象徴と化した哲学者には。

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)249頁)

フランス風に発音したヘーゲルの名前が、フランス語で「鷲」を意味する«aigleエグル»の発音と似ていることから、デリダヘーゲルを「エグル」の表象と結びつける。確かに鋭い目をもつ「鷲」の風貌は、事物を冷徹に概念把握するヘーゲルの眼差しに似ているようにも見える。だが、デリダによって「鷲」に擬せられているのは、キャンバスの上に描かれたヘーゲルではなく、彼の著作のテクスト上から垣間見えるヘーゲル像である。そして同時に「鷲」によって表象されているのは、「氷塊グラス結氷ジェル」という、ある種の硬さと冷たさの観念である。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/1831_Schlesinger_Philosoph_Georg_Friedrich_Wilhelm_Hegel_anagoria.JPG

 デリダのいう、「鷲 aigle」から受け継がれた「帝国的あるいは歴史的な権力 la puissance impériale ou historique」とはどういうことだろうか。ここで鷲がさまざまな紋章として通用してきたことを想起する必要があろう。例えば、ローマ帝国の国章は鷲であった。鷲とはまさに「帝国的あるいは歴史的な権力」の象徴に他ならないのである。

An eagle, white eagle, black eagle, Ganymede's eagle especially, dominates the whole corpus, swooping down on it, regularly, from behind, gripping and tightening it in its claws, fucking it with a beak in the neck. One can say a she-eagle [une aigle].

エグル〔un aigle〕、白鷲、黒鷲、とりわけガニュメデス Ganymède の鷲は、〔ジュネの〕テクスト身体の全体を支配し、規則的にそれに襲いかかり、後ろから、それを爪で握りしめて緊張させ、その首に嘴で口づけする。女性形で、une aigle〔雌鷲のほか、紋章の鷲、ローマ帝国、ロシア、ドイツ、ポーランドなどの国章、ナポレオン軍の軍標に用いられた鷲の標章を意味する〕と言うこともできる。

(Derrida2021: 68,鵜飼訳(10)270頁)

Aquila imperiale romana

 ヘーゲルに結びつけられた「鷲」の表象は『弔鐘』でどのような役割を果たすのだろうか。デリダは、ヘーゲルモーセに言及する際に登場する「鷲」に着目する。

 このように、モーセのVergleichungのなかで、鷲が言表される。その言表を、ヘーゲルは複写することから始める。申命記を、彼はほぼ忠実に書き写す。それから補足し訂正する、石を再び投げ上げるために。理の当然として、他者を石に変えるためにはおのれが石でなくてはならない。ゴルゴンのように、ユダヤ人は他者を石化する。ヘーゲルはすでにそう言っていた。今彼は、ユダヤ人自身が石であることを示す。彼の言説はレトリカルであるばかりでなく、レトリックについての、レトリックを主題とするものでもある。「ただしユダヤ人たちはこの美しい像(Bild)を成就しなかった。これらの鷲の雛たちは鷲にならなかった。彼らの髪に対する関係において、これらの鷲の雛たちは、むしろ、間違って石を抱いていた鷲の姿を思わせる。鷲はそれらにおのれのように飛ぶことを教えようとして雲のなかへ連れていったが、その石たちの重さはけっして飛翔になることができず、石たちが帯びる熱は借り物であり、けっして生の炎のうちに燃え出る(aufschlug)ことはなかったのである」。

     The logic of the concept is that of the eagle, the remainder of stone. The eagle frasps the stone in its talons and tries to raise it.

 概念の論理は鷲のそれであり、残余は石である。鷲〔ヘーゲル〕は石〔残余〕を爪でつかみ、育て高めようとする。

(Derrida2021: 65-66, 鵜飼訳(9)313、311頁)

鷲を書き写すヘーゲル(=鷲)という二重構造が生じている。さらにそこで「残余」が石に喩えられている。ここは、デリダヘーゲルのレトリックをさらなるレトリックで表現している箇所とも言える。

(右)ジュネ欄

包摂関係にある不均等な二つの欄

     Deux colonnes inégales, disent-ils, dont chaque — enveloppe ou gaine, incalculablement renverse, retourne, remplace, remarque, recoupe l’autre.

 不均等な二つの欄、二つのスタイルと彼らは言う、そのそれぞれが他方を包み、あるいはびっちり覆い隠す。計算不可能なまでに裏返し、反転させ、置き換え、記入し直す。そして、他方と交差=一致する。

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)248頁)

「不均等な二つの欄 deux colonnes inégales」というのは、まさにデリダが本書で試みようとしているもの、すなわち、左のヘーゲル欄と右のジュネ欄のことであろう。「不均等 inégales」なのは、各パラグラフの長さのことであり、左右のいずれかの欄が長くもあれば短くもあるからだ。左右の欄は互いに包摂関係にあるが、どちらの欄が他方を包摂するのかはケースバイケースである。

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