まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

読書前ノート(9)平野啓一郎『私とは何か——「個人」から「分人」へ』

平野啓一郎『私とは何か——「個人」から「分人」へ』(講談社、2021年)

メタバースと〈分人主義〉

 メタバース関連書籍で何度か小説家平野啓一郎さんの〈分人主義〉について言及されていたので、本書を手に取ってみた。まずは〈分人〉という捉え方についてみていこう。

 一人の人間は、「分けられない individual」存在ではなく、複数に「分けられる dividual」存在である。だからこそ、たった一つの「本当の自分」、首尾一貫した、「ブレない」本来の自己などというものは存在しない。

(本書62頁)

平野はいわゆる自己同一性(アイデンティティ)についての新しい思想として〈分人〉を提唱している。〈分人〉或いは〈分人主義〉という思想は、人間という存在者を本質的に規定する〈個人〉或いは〈個人主義〉という思想への反発から生まれた。

 誰とどうつきあっているかで、あなたの中の分人の構成比率は変化する。その総体が、あなたの個性となる。十年前のあなたと、今のあなたが違うとすれば、それは、つきあう人が変わり、読む本や住む場所が変わり、分人の構成比率が変化したからである。十年前には大きな位置を占めていた当時の恋人との分人が、今はもう、別れて萎んでしまっていて、代わりにまったく性格の違う恋人との分人が大きくなっているとする。すると、あなた自身の性格、個性にも変化があるはずだ。個性とは、決して生まれつきの、生涯不変のものではない。

(本書89頁)

個人主義〉では個性は固定的なものとして捉えられていたが、〈分人主義〉では個性は変化するもの、弁証法的に流動的なものとして捉えられている。だが、ここでヘーゲルの名を呼び出すのは得策ではないだろう。むしろここで考えなければならないのは、メタバースと〈分人主義〉という思想との親和性である。

 人間は生得的な身体とは異なる身体を仮想空間において表現することができるようになった。仮想空間上の身体は、生得的な身体を模したものでもいいが、それとは別の、いかなるあり方であっても許容される。いかなるあり方であっても、というのは、仮想空間上では人間型でなく動物や妖怪の姿でも良いからである*1。仮想空間上の身体は、生得に発達した実在的な身体とは分かれているが、同一の存在者によって操作されている。このような状況を表現するのに〈分人主義〉という新たな思想がフィットしたのは偶然ではあるまい。