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ハンナ・アーレント『活動的生』覚書(2)

目次

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ハンナ・アーレント『活動的生』(承前)

第一章 人間の被制約性

アウグスティヌスの二つの問い

 アーレントアウグスティヌスに倣って二つの問いを示している。

アウグスティヌスは、いわゆる人間学的問題を哲学に導入し、人間とは何かという問いを追求した最初の人だと、ふつう言われる。ところがそのアウグスティヌスは、「何であるか」と「誰であるか」の違いと、それにまつわる難問を知りぬいていた。」

(『活動的生』森一郎訳、428頁)

「人間とは何か」という問いの中には、「何であるか」と「誰であるか」という二つの問いが混在している。アウグスティヌスはそのことに気づいていた。では、二つの問いにはどのような違いがあるのだろうか。

「私は誰であるか」と「私は何であるか」という二つの問いを、アウグスティヌスは区別した。前者の「誰か」は、人間が自分自身に宛てる問いである——「そして私は、自分を自分自身に向けて、自分に向かって、おまえはいったい誰なのか(tu, quis es?)と尋ねました。そこで私は、人間だ、と答えました」(『告白』第一〇巻第六章)。これに対して、後者の「何か」は、人間が神に宛てる問いである。「では神よ、私とはいったい何でしょうか。私の本質とは何か(Quid ergo sum, Deus menu? Quae natura sum?)」(同署第一〇巻第一七章)。というのも、人間というgrande profundumつまり大いなる深み(第四巻第十四章)には、「人間のうちなる人間精神には何一つ知ることのできない、人間の何か(aliquid hominis)があります。おお主よ、人間をお作りになったあなたは、人間の一切(eius omnia)を知りたもう(第一〇巻第五章)。

(『活動的生』森一郎訳、428頁)

アーレントの整理によると、「私は誰であるか」と「私は何であるか」という問いの違いは、その問いが向けられる宛先の違いによるものであるという。その宛先は、人間か神か、のいずれかである。人間を超越した神によって、人間の外部から考察される人間のあり方と、人間が人類の内部に存在しながら自分自身を考察する人間のあり方との間には、明確な区別がある。

 これは実に不思議な違いである。なぜなら、ここで考察対象となっている人間は、神という視点から見られようが人間という視点から見られようが、同一の存在であることに変わりはないからである。神の視点から見られることによって人間の本質が異なった仕方で表現されるとすれば、それによって人間のあり方が変化したからではなく、神という視点を導入することによって人間に対する意義付けが新たに加えられたと見るべきではないだろうか。

(つづく)

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