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イェーリングの「権利感情」論

目次

 

今回はイェーリングの「権利感情」論について書きたいと思います。

 

イェーリング『権利のための闘争』

イェーリング(Rudolph von Ihering, 1818-1892)の代表作に『権利のための闘争』(Der Kampf um's Recht)という本があります。僕はこのタイトルを見ると思わず「権利をめぐる闘争」と訳してしまいます。というのも、このタイトルがアクセル・ホネットの『承認をめぐる闘争』(Kampf um Anerkennung)というタイトルと似ているからです*1。「承認をめぐる闘争」はもともとヘーゲルの著作に出てくるものです。

 

「権利感情」と「力」

さて、イェーリングは『権利のための闘争』の中で「権利」についてどのように語っているのでしょうか。少し長いですが著作から引用してみます。

「権利の力(Kraft des Rechts)は、愛の力と全く同様に、感情(Gefühl)にもとづく。理解も洞察も、足らない感情に置き換わることはできない。だが、愛がしばしば自覚されぬままであり、それがはっきりと意識されるには一瞬をもって足りるのと同様に、権利感情も、傷つけられていない状態においてはそれが何であるかを自覚することがないのだが、権利侵害という責苦によって問い質されてはじめて、権利感情が何であるかが自覚され、真実が顕れるとともに力が示されるのである。」(イェーリング [1982]、74頁)。

(Ihering [1894], S.41-42)

ここでイェーリングは「権利感情(Rechtsgefühl)」という語をキーワードとして用いています。イェーリングは権利も愛もその「力」の源泉がどちらも「感情」にあると考えます。感情が力を誘発するのです。

「権利感情がそれでもって自己に加えられた侵害行為に対して実際に反応するところの威力が、権利感情の健全さ(Gesundheit)の試金石である。権利感情がこうむる苦痛の程度は、危険に曝されている価値をどれだけ大きいものと考えていたかを、権利感情じしんに教えてくれる。感じている苦痛を危険から身を守れという警告として受けとめず、苦痛を耐え忍びながら立ち上がらずにいるならば、それは権利感情をもたないということだ。そうした態度も事情によっては宥恕できる場合があるかもしれない。しかし、それが長続きすれば、権利感情そのものにとってマイナスにならざるをえない。けだし、権利感情の本質は行動(That)に存するのだから──行動に訴えられないところでは権利感情は萎縮し、しだいに鈍感になり、ついには苦痛をほとんど苦痛と感じないようになってしまう。敏感さ、すなわち権利侵害の苦痛を感じとる能力と、行動力(Thatkraft)、すなわち攻撃を斥ける勇気と決意が、健全な権利感情の二つの標識(zwei Kriterien des gesunden Rechtsgefühls)であるように見える。」(イェーリング [1982]、75頁)。

(Ihering [1894], S.42-43)

イェーリングによれば、「健全な権利感情」は「敏感さ」と「行動力」との二つから成ります。イェーリングは「行動力」を「攻撃を斥ける勇気と決意」と言い換えています。

確かに攻撃を受けた際に、何も対抗しないのならば、ある意味で攻撃を容認したと受け取られかねません。「健全な権利感情」を示すには、苦痛に対して「嫌なことは嫌」*2と主張する「勇気と決意」が必要なのです。

とはいえ、「健全な権利感情」は歴史的にみて常に抑圧されてきたといえるでしょう。最近では「#Me Too」という運動が起きていますが、インターネットを通じて個人が自分の意見を公開できるようになったことで、これまで抑圧されてきた「健全な権利感情」が人々の間に徐々に取り戻されつつあるといえるのかもしれません。

 

文献

*1:ちなみに同一タイトルの研究だとLudwig Siep [1974]の方が先。

*2:「何かおかしいなと思ったときに声を上げることっていうのは、次の被害者を生み出さないことにつながると思うんですよね。被害者が泣き寝入りしない社会にしたいと思っていて、嫌なことは嫌と指摘できる社会になってほしいなと思っています」(大学生 町田彩夏さん)TBS NEWS「被害女性が語った"就活セクハラ"の実態とは」2018/5/31(木)。