今日はヴィーコの文献を読みました。さらっとだけど。
↓これ読んでびっくりしたのは、ヴィーコ『新しい学』からの引用が、イタリア語原著じゃなくてドイツ語訳版を参照していたこと。
— 荒川幸也 Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2018年8月31日
山田貞三 [1986]「G.ヴィーコの『新しい学』」https://t.co/9Y3U3yoiqD
この論文、ドイツ語版のヴィーコ『新しい学』を読んで要約した論文でした。
このタイトルで紀要に載せるなら、さすがにイタリア語原著から引用しろよって思う。それとも昔はイタリア語原著を参照するのは難しかったのだろうか。今はGoogle Booksで簡単に見れるけど。
— 荒川幸也 Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2018年8月31日
次の論文もヴィーコ『新しい学』のイタリア語原著を読んでいないようです。
↓「以下、私の引照するヴィコの著作は、殆んど總てミシュレーの佛譯からである。」(122頁) みなまで言うな…
— 荒川幸也 Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2018年8月31日
青木 巖 [1928]「デカルトよりヴィコへ」https://t.co/fTn8oTrDDW
まあ1928年という90年も前の時代なので、原著で読めなかったのは仕方がないのかな。(え?)
ミシュレはヴィーコの『新しい学の原理』を『歴史の哲学の原理』として仏訳出版したんだね。
— 荒川幸也 Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2018年8月31日
でも、ヴィーコの「新しい学」を、ミシュレのように「歴史哲学」として捉えてしまって良いのかな?(まだわからない。)
坂口治子 [1998]「ヴィーコ受容に見るミシュレの方法の転換」https://t.co/QCkJ2zLwrd
確かにミシュレがそう解釈したように、ヴィーコの『新しい学』を「歴史の哲学」 として捉えることができるだろう。しかし、『新しい学』を「歴史の哲学」として捉えてしまうと、それが持っているより豊穣な内容を捨象してしまいかねないという危惧を抱きました。
あーなるほど。ミシュレ以来、「歴史哲学」として解釈されてきた『新しい学』を「美学」として捉えなおしたのがB. クローチェなのね。
— 荒川幸也 Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2018年8月31日
山下俊介 [1981]「G.B.ヴィーコの美学(Ⅰ)」https://t.co/bYe4cY5PDK
次の論文は、ローマ法学者から見たヴィーコ評価です。
ヴィーコはローマ法学者としても評価されているよ。確かにヴィーコの『新しい学』読むと、法・正義論のマニアックな知識がすごい笑
— 荒川幸也 Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2018年8月31日
ジュリアーノ・クリフォ [1988]「ヴィーコ、修辞学とローマ法」https://t.co/WoDr7kzfsU