まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

「産婆術」というレトリックに対する疑念

ソクラテス これに対して、わたしがおこなっている助産の技術には、産婆たちがかかわる全部のことが入ってくるが、ただし婦人をでなくて男性を介助すること、および、かれらの魂が生むのを見守るのであって、身体が産むのを見守るのではないこと、これらの点で違っている。そして、とくにわたしの側の技術には、最大の特徴として、つぎのことがそなわっている。すなわち、若者の思考がみかけだけのもので虚偽を生み出しているのか、それとも、実質のある真正なものを生み出しているのかを、あらゆる仕方で吟味することができる、ということがそれだ。

プラトン『テアイテトス』渡辺邦夫訳、光文社、2019年、62頁)

はじめに

 今回は「産婆術」というレトリックに対する疑念について書きたいと思う。

 ソクラテスが自分と相手との対話を通じて真理を引き出す方法のことを「問答法 διαλεκτική」と呼んだが、プラトンは『テアイテトス』でこの手法を「産婆術 μαιευτικός」と表現した。

 ソクラテス式問答法としての「産婆術」は一種のレトリックであるが、そのレトリックによる仮象の下に、なにか本質が覆い隠されているような気がしてならない。

「産婆術」というレトリックに対する疑念

 第一の疑念は、「産婆術」が「問答法」の比喩表現として用いられることによって、助産師の経験に基づく実践が軽んじられているのではないかという点にある。むろん私は助産師ではないし、出産に立ち会ったことはないから、助産の大変さというのは実際には知らないし、体験したこともない。古代より助産師とは基本的に女性であったとされる。ただし、例外的に男性の助産師も存在した記録もある*1

 ソクラテスは相手との対話を通じて真理を引き出すのだが、対話と助産とはその過酷さにおいて比較にならない。というのも、出産とは母子両方の生命をかけた命懸けの行為であるが、ソクラテスの対話に関しては、登場人物はしばしば余暇の中で行われており、命懸けの行為とは程遠い。もっとも毒杯を仰いで死んだソクラテスは、国家の法に従う市民としてというよりもむしろヤブ医者扱いされた「助産師」として死んだことになるのだが、出産で死ぬとしたら普通は「助産師」ではなく母親か子どもの方である。

 第二の疑念は、「産婆術」によって引き出されるものの違いである。出産で生まれる赤ん坊は、大人からすれば未熟である。未熟な赤ん坊が成長し目指していく目標は、完成された大人である。これに対して、ソクラテスの「問答法」がその対話を通じて引き出すのは〈真理〉である。〈真理〉が完全なものだと仮定すれば、完成された大人を目指す未熟な赤ん坊は、〈真理〉への出発点に位置付けられることになろう。赤ん坊は出生後の成長を通じていわば〈真理〉へと近づいていく。

おわりに

 以上の疑念から、筆者には「産婆術」という一見わかりやすそうなレトリックがその実態を覆い隠しているような気がしてならない。

 ソクラテスの母親は助産婦だったという。だが、ソクラテス助産の行為を見て知っていたとしても、はたして対話を通じて真理を引き出す行為を「産婆術」に擬えることは妥当であろうか。実際の「産婆術」が介入するのは子どもの妊娠・出産・養育というプロセスの一部に過ぎない。対話を介しての真理への展開の道程を「産婆術」と呼ぶならば、「産婆術」が担うのはやはりそのプロセスの一部と見なされねばならないだろう。

 「問答法」すなわち「弁証法 Dialektik」という言い方は後世の哲学者に継承されたが、これに対して「産婆術」というレトリックは残らなかった。その理由は、やはり後者の比喩表現の不適切さに起因するのではなかろうか。