まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ジョン・ロック『統治二論』覚書(1)

目次

はじめに

 本稿ではジョン・ロック『統治二論』(John Locke, Two Treatises of Governmen, 1690)の読解を試みる。

 彼の著作に関しては、私はさほど興味を持ってこなかったものの、あることがきっかけで突然読んでみたくなった。きっかけは、ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)が『社会契約論』の中で、家族との類比によって国家を語っていたことである*1。しかもルソーが語る際の「家族」は、父親と子どもたちとの関係性に限定されており、妻であり母親である女性が捨象され無視された形での「家族」であった。

 父親と子どもたちとの関係性によって説明される政治社会であり国家であるもの。そこから立ち現れてくる図式とは、一体どのようなものであろうか。こうしたことに疑問を持つや否や、そもそも父親と子どもたちとの関係性によって政治社会の在り方を示そうとした先行者がいたことを思い出す。それはロバート・フィルマー(Sir Robert Filmer, 1588-1653)であり、そして後に彼を批判したジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)である。

 それともう一つ、私が今一つ理解できていない点がある。フィリップ・アリエス(Philippe Ariès, 1914-1984*2は『アンシャン・レジーム期の子どもと家族生活』(L'enfant et la vie familiale sous l'Ancien Régime, 1960)において、「子ども enfant」のあり方が変容していく様を明らかにしたといわれている。そうした観点からすると、ジョン・ロックやルソーらに代表される政治哲学の著作に登場する「子ども」の役割とは、どのように位置付けられるのだろうか。むろんジョン・ロックもルソーもすでに近代人であるから、彼らの著作における「子ども」観もまた(常にすでにそうであるが)十分に近代的である。だが、フィルマーが父と子の関係を持ち出すとき、その源泉であるのは『旧約聖書』に他ならない。キリスト教紀元を遡って行った場合に、父と子の関係はどのように捉えられており、そうした家族観がロックやルソーらにどのような影響を与えていたのか。こうした事柄が解明されるべきことと思う。

(つづく)

文献

*1:政治社会あるいは国家論における家族の問題については拙稿「ルソー『社会契約論』覚書(5)」を参照されたい。

*2:フィリップ・アリエスについては拙稿「日曜歴史家フィリップ・アリエスと〈精神性の歴史〉」を参照されたい。