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ホッブズ『リヴァイアサン』覚書(2)

目次

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ホッブズリヴァイアサン

序説

「自動機械」の政治哲学への応用

まずは「序説」から見ていこう。

自然(神がそれによってこの世界をつくったし、それによってこの世界を統治している、その技術アート)は、人間の技術によって、他のおおくのものごとにおいてのように、人工的動物をつくりうるということにおいても、模倣される。すなわち、生命は四肢の運動にほかならず、その運動のはじまりが、内部のある主要な部分にある、ということをみれば、すべての自動機械 Automata(時計がそうするように発条ばねと車でみずから動く機関エンジン)が、人工の生命をもっていると、われわれがいってはいけないわけがあろうか。心臓は何かといえば、ひとつの発条にほかならず、神経はといえば、それだけの数のにほかならず、そして関節は、それだけの数のにほかならず、これらが全身体に、製作者 Artificer によって意図されたとおりの運動を、与えるのではないだろうか。

(Hobbes1651: 1, 訳37頁)

ここでホッブズは「自動機械オートマタ」というモチーフを自身の政治哲学に導入し・応用していることがわかる。つまり、『リヴァイアサン』の出版が1651年であることを考慮すると、ホッブズは最新の科学技術を政治哲学に導入し・応用したと言えるだろう。そしてその点にこそホッブズの独自性があるといえる。

自然という技術と人間の技術

 「自動機械」を作るのは「技術アート」である。だが、それは「人間の技術によって by the Art of man 」自然を模倣したものであって、神の技術によって作られたものではない。つまり、神の技術によって作られたものは「自然」と呼ばれ、それと対照的に、人間の技術によって作られたものは「人工的アーティフィシャル」と呼ばれる。

 「生命*1は四肢*2の運動にほかならず、その運動のはじまりが、内部のある主要な部分にある」という箇所にホッブズの機械論的生命観が読み取れる。

 しかしながら、ホッブズのこの機械論的な「生命」観はあまりに極端で、一面的であるようにも見える。例えば、『五体不満足』(講談社、1998年)の著者である乙武洋匡氏には手足がないが、彼がひとつの「生命」であることは間違いない。となると「生命」は「四肢の運動」を抜きにしても考えられることになる。

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文献

*1:「生命」の原語は feeing life だが、私には feeing のニュアンスが正直よく分からない。feeing は fee [他動]「〜に謝礼(チップ)を払う」の現在分詞である。

*2:「四肢」の原語は Limbs である。しかし、手足が必ずしも四つだとは限らないから、Limbsは「手足」または「分肢」とでも訳した方がよかろう。