目次
第十六章 色と音の間の誤った類似性
この章では、音楽と絵画、そしてそれらの構成要素である音と色とが——両者が類似のものとして捉えられていたにもかかわらず——いかに異なっているかということが示される。音楽と絵画はいかなる点で異なっているのだろうか。
このように一つ一つの感覚にはそれに独自の領野がある。音楽の領野は時間であり、絵画の領野は空間である。一度に聞こえる音を増加させたり、色を次々と展開したりしても、それはその構成を変えることである。それは耳の代わりに目を置き、目の代わりに耳を置くことである。
(Rousseau 1781:421、増田訳112頁、強調引用者)
ここでルソーが「耳」と「目」を、すなわち視覚と聴覚を司る器官を挙げていることからも分かる通り、音楽は「耳」すなわち聴覚に独自の領野である「時間」に関わり、絵画は「目」すなわち視覚に独自の領野である「空間」に関わるものである。
音楽は時間の領野に属するからその音はしだいに消え去るという特徴を持っているのに対して、絵画は空間の領域に属するのでその色は持続性を持ち、音と異なって消え去ることはない。
聞くことができないものを描くことができるのは音楽家の大きな利点である一方、見えないものを表現することは画家にはできない。そして動きのみによって作用する芸術の驚異は動きによって安らぎの像さえ作ることができることだ。睡眠、夜の静けさ、孤独、静寂さえ音楽の絵画に含まれる。
(Rousseau 1781:423、増田訳114〜115頁、強調引用者)
ここでルソーが「静寂」さえも音楽の範疇に捉えていることは慧眼に値する。というのも、楽器を奏でるのでない静寂が音楽として考察の対象として認識されたのは、ようやく現代音楽になってからであるからだ(例えば、ジョン・ケージなど)。
第十七章 みずからの芸術にとって有害な音楽家たちの誤り
この章は『言語起源論』の中で最も短い章である。
すべてのことがいかにして前述の精神的効果に帰着するか、そして音の威力を空気の作用と繊維の振動という観点からのみ見る音楽家たちは、この芸術の力が何に存するのかということをいかにわかっていないかということをわかってほしい。彼らは、この芸術を純粋に
身体的・物理的な 印象に近づければ近づけるほどこの芸術をその起源から遠ざけてしまい、原初の力強さをそいでしまう。声による抑揚を離れて和声の制度に専念することで、音楽は耳にとってよりうるさくなり、心にとって甘美さをより失った。音楽はすでに語るのをやめてしまった。やがて音楽は歌わなくなり、そのすべての和音と和声全体をもってしてもわれわれに何の効果も及ぼさなくなるだろう。(Rousseau 1781:424、増田訳118頁、強調引用者)
「すべてのことがいかにして前述の精神的効果に帰着するか、そして音の威力を空気の作用と繊維の振動という観点からのみ見る音楽家たち」が見落としていたのは、「抑揚」のもつ力である。
第十八章 ギリシャ人たちの音楽体系はわれわれのものとは無関係であったこと
この章でルソーは次のように述べている。
われわれの和声が
中世の 発明であることは知られている。われわれの体系の中からギリシャ人の体系を見つけ出せると主張する人々はわれわれをばかにしている。ギリシャ人の体系は、われわれのいうところの和声的なところとしては、完全な協和音にもとづいて楽器の和声を固定するのに必要なものがあるだけだった。(Rousseau 1781:425、増田訳119頁、強調引用者)
ここで「中世の」と訳されている箇所は、原文ではgothiqueである。私はこれが「ゴシック様式の」と訳されるべきものだと思う*1。
ゴシック様式とは中世の教会建築様式を指す言葉である。確かにゴシック様式は中世に属するが、しかし中世の建築様式のすべてがゴシック様式というわけではない。われわれはルソーが「ゴシック様式の(gothique)」と形容したところの意義を汲み取るべきである。
ここで一つ想起されるべきは、中世の音楽が教会音楽として発展していったことである。グレゴリオ音楽は単旋律から始まったが、9世紀末にはオルガヌムと呼ばれる二つの旋律を重ね合わせる技法が記述されている(『音楽提要』895年)。
12世紀にオルガヌムは本格的に頂点を迎えることになる。その代表の一つがサン・マルシャル修道院におけるサン・マルシャル楽派(École de Saint-Martial)、いわゆるアキテーヌ楽派(École d’Aquitaine)であり、もう一つがパリのノートルダム大聖堂におけるノートルダム楽派(École de Notre-Dame)である。いうまでもなくノートルダム大聖堂はゴシック建築の代表格である。私はルソーが「ゴシック様式の(gothique)」と書いたとき、ルソーの念頭にあったのはこのノートルダム楽派だったのではないかと考える。
しかし、厳密に追求すれば解せない点もある。というのも、いわゆる「和声」は直接的には「ゴシック様式の発明」はなかったはずだからである。だが、もし和声の源流が(対位法と重なる)オルガヌムにあると考えるならば、和声とは間接的にはゴシック様式の発明であるといえなくもない*2。
文献
- Rousseau 1781, Essai sur l'origine des langues, Où il est parlé de la Mélodie & de l'Imitation Musicale.
- ルソー 1986『人間不平等起源論/言語起源論 ルソー選集6』原好男・竹内成明 (訳), 白水社.
- ルソー 2007 (1970)『言語起源論 旋律および音楽的模倣を論ず』小林義彦 (訳), 現代思潮新社.
- ルソー 2016『言語起源論 旋律と音楽的模倣について』増田真 (訳), 岩波書店.
*1:既存訳を参照したところ、小林義彦訳(1970年)では「われわれの和声はゴート人の考え出したものであることは知られている」(小林訳139頁、強調引用者)と訳されており、竹内成明訳(1986年)では「私たちの和声が中世の産物であることは知られている」(竹内訳199〜200頁、強調引用者)と訳されていた。したがって、増田訳は「中世の(gothique)」と意訳した竹内訳を踏襲した形になる。
*2:ノートルダム楽派の有名な人物であるレオニヌスは『オルガヌム大全(Magnus Liber)』を著したが、彼が作曲した音楽はまだ多声音楽(ポリフォニー)であって、(ルソーがいうような)和声(ハーモニー)ではなかった。レオニヌス『オルガヌム大全』の全曲が二声部で作曲されていたが、後のアルス・アンティクアの時代(12世紀中頃〜13世紀末)には声部の数が二声から、三声ないし四声以上に増えた。さらにアルス・ノーヴァの時代(14世紀)にはリズムが多様化していった。ルネサンス期(15世紀〜16世紀)には和音が意識されるようになった。