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ルソー『言語起源論』覚書(2)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ルソー『言語起源論』(承前)

第四章 最初の言語の特徴的性質、およびその言語がこうむったはずの変化について

 ルソーは初期の言語の特徴を音の未分節の側面から考察する。

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自然の声は分節されないので、語は分節が少ないだろう。間に置かれたいくつかの子音は、それによって母音の衝突が解消され、母音が流暢で発音しやすくなるのに十分だろう。逆に音は非常に多様で、抑揚の多様性によって同じ声が何倍にも増すだろう。音長やリズムが別の組み合わせのもとになるだろう。つまり自然のものである声、音、抑揚、諧調は、協約によるものである分節が働く余地をあまり残さず、人は話すというよりは歌うようなものになるだろう。語根となる語はたいてい模倣的な音で、情念の抑揚か、感知可能な事物の効果であるだろう。擬音語がたえず感じられるだろう。

(Rousseau1781: 368, 訳30〜31頁)

この辺りは、言語と音楽の起源が同一という第十二章「音楽の起源」におけるルソーの主張につながってくる。

 

第五章 文字表記(エクリチュール)について

野生人と野蛮人

 ルソーによれば,エクリチュールの「三つの書記法」が,ネイションとしての人間の三つの状態に対応するという.その際にルソーは"peuples sauvages"(野生人)と"peuples barbares"(野蛮人),そして"peuples policés"(ポリスの人々)をその言語特性に従って区別している.

 以上の三つの書き方は国民 nations としてまとまっている人間を考察する際の三つの状態に比較的正確に対応している.事物〔対象〕の描写は野生人 peuples savages に適しており,語や節の記号は野蛮な国民 peuples barbares に,アルファベットは文明化された国民 peuples politicés に適している.

(Rousseau1781: 370-371,増田訳34〜35頁)

"peuples politicés"が増田訳では「文明化された国民」と訳されている.本書の文脈からすれば,"peuples policés"は後にでてくるギリシャ人を指していると考えられるので,これはもっと言えば「ポリスの人々 peuples policés 」を意味していると思われる.その際,たしかに「政治的 political 」は「市民的 civil 」と同義であったから,"politicés"を「文明化された」と訳すことも可能かもしれない.中村隆之(1975–)によれば,"sauvage"と"barbare"には次のような違いがある.

 ところでいま「野生人」という言葉を使ったのには理由があります.フランス語では「野蛮人」を指す"barbare"(バルバール)のほかに"sauvage"(ソヴァージュ)がしばしば用いられるからです.これらの語は,文明を知らない状態にある人々を指す点では同じですが,"barbare"が文明言語を話せない人というニュアンスを帯びるのにたいし,"sauvage"は語源的には「森に住む人」を指します.ですから"sauvage"のほうは動物との親近性がある語として解されます.森のなかで未開生活を送る人々,というイメージが典型です.「未開人」ともよく訳されますが,ここでは「野生人」としておきます.

中村2020:37).

さらに中村は別の箇所で次のように述べている.

モンテスキューは『法の精神』(一七四八年)で"sauvage"(野生人)と"barbare"(野蛮人)を分類し,前者は狩猟民を典型とし,団結できない小民族,後者は牧畜民を典型とし,団結できる小民族としました.これらの野生/野蛮の段階と対置されるのが文明であり,野生/野蛮の段階にある民族は土地を耕作しないとしました.

中村2020:57).

さて、ルソーの文脈に戻ろう.ルソーは"sauvage"と"barbare"をどのように描いているのだろうか.

古代メキシコ人と古代エジプト人の文字の描き方

 先ずルソーは,書き方の最初の例として対象を描く場合があるといい,その描き方には「直接的 directement 」か「寓意的な図像による par des figures allégoriques 」ものかの二種類があると述べている.具体的には「メキシコ人 les Mexicains 」と「エジプト人 les Egyptiens 」のそれである.

 諸言語を比較してその古さを判断する別の仕方は文字表記エクリチュールから得られ,しかもこの術〔文字表記エクリチュール〕の完成度と反比例している.文字表記エクリチュールが粗野であればあるほどその言語は古い.書き方の最初のものは音ではなく物自体〔対象そのもの〕を描くことであり,それはメキシコ人たちがしていたように直接描くか,昔エジプト人たちがしていたように,寓意的な図像によるかである.この状態は情熱的な言語に対応しており,すでに何らかの社会や情念によって生じた欲求を思わせる.

(Rousseau1781: 370,33〜34頁)

ここで「メキシコ人」とは,具体的に何を指しているのだろうか.一つ考えられるのはマヤ文明象形文字であろう.ディエゴ・デ・ランダ(Diego de Landa,1524-1579)が『ユカタン事物記』(Relación de las cosas de Yucatán, 1566)の中でマヤ文字をアルファベットと対照表のかたちで次のように示している.

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2f/De_Landa_alphabet.jpg

(Diego de Landa, Relación de las cosas de Yucatán, 1566.)

一方で,古代エジプトの文字はおよそヒエログリフ(Hieroglyph)と呼ばれる聖刻文字と,そこから変化したヒエラティック(Hieratic)と呼ばれる神官文字,そしてデモティック(Demotic)と呼ばれる民衆文字の三種類に分かれていた.

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/16/C%2BB-Egypt-Fig2-LetterDevelopment.PNG

ヒエログリフからヒエラティック,デモティックへの変遷)

ちなみにルソーが『言語起源論』を書いたときには,ヒエログリフはまだ解読されていなかった.シャンポリオン(Jean-François Champollion,1790-1832)によるロゼッタ・ストーンの解読が1822年であり.そのロゼッタ・ストーン(Pierre de Rosette)が発見されたのは,ルソー没後20年が経過した1799年であった.

なぜブロストフェドン方式は廃れたのか

 最初,ギリシャ人はフェニキア人の文字だけでなく,彼らの行の方向,つまり右から左をも採用した.それから彼らは畝溝うねみぞのように書くことを考えた,つまり左から右へ,そして右から左へと交互に反転するのだった.そして結局ギリシャ人はわれわれがこんにちしているように,すべての行を左から右へと始める仕方で書くようになった.この進歩はまったく自然なものである.というのは,畝溝のような書き方は,もちろん読むのに最も便利なものだ.その方式が印刷術とともに定着しなかったことに驚きさえしている,しかし手で書くのがむずかしいので,手稿が増えてすたれたにちがいない.

(Rousseau1781: 373-374,増田訳37頁)

ここでルソーが「畝溝のように par sillons 」と述べている書き方は,ブストロフェドンβουστροφηδόν)あるいは「牛耕式」と呼ばれているものである.

 日野資成(1954-)によれば,文字の方向には4種類が考えられる(日野2006:14).すなわち,「右から左へ」「左から右へ」「上から下へ」「下から上へ」である.日野は,日本語の横書きも戦前と戦後で変化しており,「右から左へ」から「左から右へ」に変化していると述べた上で,文字の方向性について以下のように整理している.

初期のシュメール文字は,粘土板上に右から左に書かれていた.紀元前2000年の初めまでにはシュメール人の書家たちは左から右へと横書きに書くようになった。エジプトのヒエログラリフ表記の通常の方向は,総じて右から左であったが,逆の方向も存在した.原カナーン文字の書く方向はさまざまで,上から下,右から左,左から右,さらには行の変わるたびに右左の方向を変えるブストロフェドン方式で書かれることもあった.ブストロフェドン方式はいわゆる犂耕式書法で,牛で畑を耕すときの歩き方にちなみ,右から左へ,左から右へ,右から左へと方向を交互に変えて書く方法である.原カナーン文字から派生したフェニキア文字とアラム文字の多くは水平方向に右から左へと書かれる.ギリシャキプロス音節文字はそのほとんどが右から左へと書くが,左から右に書くものもあり,またブストロフェドン方式で書くものもある.初期のギリシャ・アルファベット表記にも三つの様式すべてがみられる.その中で,左から右への方向が優位にあり,その後に発生したエトルリア,ラテン,コプト,キリルなどの表記体系に引き継がれている.中国語は上から下に書き,右から左へと欄を進める.モンゴル表記も上から下へと書くが,左から右へと欄を進める.バタック文字は縦書きであるが,下から上へと書き,左から右へと欄を進める.

(日野2006:14〜15)

先の引用でルソーは,ブストロフェドン方式が読むことには適しているが書くことには適していないために廃れたのではないかと考察している.つまり,文字の方向性の進歩は〈読みやすさ〉よりも〈書きやすさ〉を重視して変化したのではないか,このようにルソーは考えたのである.

 

 

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 文字表記エクリチュールは言語を固定するはずのものと思われるがまさに言語を変質させるものだ。文字表記エクリチュールは言語の語ではなくその精髄を変えてしまう。文字表記エクリチュールは表現を正確さに置き換えてしまう。人は話す時には感情を表し、書く時には観念を表すものだ。

(Rousseau1781: 375,増田訳39〜40頁)

エクリチュールは正確さの面では優れているが、しかし同時にパロールがもっていた感情表現を失ってしまう。

 エクリチュールパロールのこのような違いは、次章でみるホメロスの詩の朗読者(アオイドスとラプソドス)の話にも関係してくる。音楽との関連で言えば、楽譜によって内容が固定化され作曲者によって楽曲が管理されるようになった近代音楽が言語同様に生気を失っていくことに似ているかもしれない。

 

第六章 ホメロスが文字を書けた可能性が高いかどうか

 第六章ではホメロスが取り上げられている。というのは、いわゆるホメロスの著作(『イリアス』と『オデュッセイア』)こそが現存する最初期のエクリチュールであり、言語の起源をめぐる議論において、現存する最初期のエクリチュールを取り扱わないわけにはいかないであろうから。

 さて、現代のホメロス学の観点から言えば、ルソーの述べていることは、ホメロス学の通説的見解とさほど変わらないかもしれない。しかし、ルソーの時代におけるホメロス学の観点から言えば、どうだろうか。ルソーは何か彼の時代において、彼独自の見解を示してはいないのだろうか。

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イリアス』が書かれたのなら、それが歌われることははるかに少なかっただろうし、吟遊詩人たちラプソドスは求められることも少なく、それほど増えなかっただろう。ヴェネチアにおけるタッソー以外、これほど歌われた詩人はほかにいない、しかも〔タッソーの場合は〕あまり本を読まないゴンドラの船頭たちによって〔歌われたの〕だ。

(Rousseau1781: 377, 訳45頁)

ヴァルター・ブルケルト(1931-2015)の提唱以来、古代ギリシア吟誦詩人ラプソドス吟遊詩人アオイドスとは区別されている(Burkert1987)。ブルケルトによれば、文字がない時代の詩の朗読者をアオイドス(ἀοιδός、吟遊詩人)と呼び、文字ができてからの朗読者のことをラプソドス(ῥαψῳδός、吟誦詩人、吟唱詩人)と呼ぶ。両者は似ているが、アオイドスと比較すると、ラプソドスは(文字が書かれたものに基づいた上演であるが故に)創造的な口承詩人ではなかったとされる*1。増田訳ではラプソドス(les Rhapsodes)は「吟遊詩人たち」と訳されているが、これはむしろ「吟誦詩人(吟唱詩人)」と訳したほうが良かったかもしれない。

 また内容を理解するのには差し支えない些末なことであるが、「ヴェネチアにおけるタッソー」とは、訳注にある通りトルクァート・タッソ(Torquato Tasso, 1544-1595)という叙事詩人のことである。ゴンドラの船頭たちによって歌われたと思われる彼の詩には『解放されたエルサレム』(La Gerusalemme liberata, 1581. 邦題「エルサレム解放」)という叙事詩がある。この叙事詩に基づく楽曲やオペラ、絵画がいくつも作られてきた。フランツ・リストFranz Liszt, 1811-1886)の曲に『タッソー、悲劇と勝利』(Tasso, lamento e trionfo)がある。リストはかつてヴェネチアでゴンドラの船頭がタッソーの「解放されたエルサレム」を歌うのを聞いて大変感銘を受けたという*2

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ホメロスによって使われた方言の多様性も非常に強力な先入観となる。ことばパロールによって区別される方言は、文字表記エクリチュールによって接近し混ざり合い、すべてが少しずつ共通のモデルにいたる。ある国民が本を読んで勉学すればするほどその方言は消え、民衆の間で訛りジャルゴンの形でしか残らない。民衆はあまり本を読まず、まったく書かないから。

(Rousseau1781: 377, 訳45頁)

ホメロスの著作における方言の混交については松本1972を見よ。

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この詩は長いこと、人々の記憶の中だけに書かれたままだった。かなり後になって、多くの苦労の末に書かれた形に編纂されたのだ。ギリシャで本と書かれた詩が増えてから、比較してホメロスの詩の魅力が感じられるようになった。

(Rousseau1781: 378, 訳45頁)

ヴォルフ『ホメロス序説』(Wolf1795)に、(「かなり後になって、多くの苦労の末に書かれた形に編纂された」という)ルソーと同様の主旨の主張が看取される。例えば、(和辻哲郎「ホーメロス批判」の要約としてであるが)佐藤は次のように述べている。

イリアス』や『オデュスイア』はいずれも唯一の作者の作ではなくして、多くの歌人の作である。それらの多くの古い歌をと横溢的な全体にまとめあげたのは、作の出来上がった時よりも数世紀の後の有名でない人々、ペイシストラトスの任命した文学委員達であった。これがヴォルフの主張の主旨である。彼はこれを厳密な本文批判によって証明したのではなく古くから言い伝えられた疑しい伝説と文字のない時代にこんな長い叙事詩を制作することは不可能であるということに基づいて結論したのであった。

(佐藤1976: 6, 強調引用者)

古典専門家ヴォルフよりも先にルソーが同様の主旨のことを述べている点は、ホメロス学におけるルソーの見解の先進性が評価されても良いのではないだろうか。

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文献

*1:「天才詩人ホメロスの出現以降は、その権威がもたらした影響でアオイドスの比較的自由な創作はなくなり、ラプソドスによる固定したテクストの正確な伝承の段階に入った。そしてこの段階では、すでに文字使用もさかんになっていたから、例えば書くことに堪能なラプソドスなどが、ホメロスのテクストを文字で固定したと考えられる」(小川1990: 127)。

*2:タッソー、悲劇と勝利 - Wikipedia