まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ヘーゲル体系における完全性?

目次

はじめに

 今月初めてのブログ更新です。最近ブログの更新が滞っていたのは、ヘーゲルのテクストと真面目に格闘していたからです。真面目に格闘していたと言っても、正直頭が疲れるだけで全然前に進んでいないのですが、今回は思い切って書き下ろしの状態でヘーゲル哲学について書いてみます。そもそもこのブログはそういうやり方を取っているのだし。

 

ヘーゲル体系における完全性?

 さて、今回「ヘーゲル体系における完全性?」という少し妙なタイトルを付けましたが、このテーマで念頭に置いているのは、加藤先生によるヘーゲルは自身の体系を完成させなかったという主張です。

ヘーゲルには体系を完成する可能性がなかった。自己の体系についての、さまざまなイメージを思いつくままに語り続けていた。すべての学問を有機的に体系化したはずの「哲学的百科事典」の表面的な整合性を作ることができないばかりか、ヘーゲルには、自然科学の素材の増大の行きつく先を予見することなどできるはずがなかった。たとえヘーゲルが体系の記述を完成したとしても、それは根源一者が自己を対立のなかで変容させて、そこから統一を回復するという物語を、巧みに描き出すという意味にしかならない。それはせいぜい「上出来の」ファンタジーではあろう。」(加藤 [2010]、28頁)

そもそもヘーゲルの哲学が体系的に記述されているということが、ただちに完成されていることを、あるいはその完全性を意味するものではないにも関わらず、従来のヘーゲル解釈者が完成された体系ないしは体系の完全性というヘーゲル像を要求してきたことそれ自体が不当であると私は考えます。なぜなら、以下で見るようにヘーゲル自身は「どんな学問も知識も完全ではありえない」と述べているからです。

 まず「学問の体系」として叙述し続けたヘーゲルが「自己の体系についての、さまざまなイメージを思いつくままに語り続けていた」とまで言えるかどうかは疑問の余地があります。というのも、ヘーゲルは「学問とは、いやしくも学問であるならば、決して私見や主観的見解を基盤とするものでもない」(ヘーゲル [2001]、396頁)と述べているのであって、もしヘーゲルが「イメージを思いつくままに語り続けていた」のだとすれば、その行いは自身の学問観に反するからです。さもなくば、いかにして解釈者がヘーゲルの完成された体系という観念を抱くに至ったのかが明らかにされる必要があるのかもしれません。

 加藤先生が言うような「ヘーゲルが自身の体系を完成させなかった」という主張がある種のインパクトを持つのは、従来の解釈者が総じてヘーゲル体系のうちに哲学の完成を見てきたという認識を前提としているからです*1

 ここで興味深いと思われるのは、「何故従来のヘーゲル解釈者がヘーゲルの著作のうちに完成された体系を見出(そうと)してきたのか」という問題と、「そもそもヘーゲル自身が完成された体系というものを主張しているのか」という問題です。これらの問題に答えるのは簡単ではありませんが、ここでは後者の問題に多少なりとも答えてみたいと思います。

 ここで参考になるのは、ヘーゲルによる「完全性(Vollständigkeit)」の説明です。ヘーゲル法哲学講義録を元に弟子のガンスが追加した「補遺(Zusatz)」によれば、法典の完全性と関連して、ヘーゲル自身が哲学や学問体系の完全性について次のように述べています。

§216補遺「完全性とは、ある圏域に属するいっさいの個々のものがすっかり集められていることである。そしてこの意味ではどんな学問も知識も完全ではありえない。ところが、哲学もしくは何かある学問が完全でない、と人々が言うときには、彼らの考えていることは明らかに、「それが完全なものにされてしまうまでわれわれは待たなくてはならない、と言うのも最善のものがまだ見つかるかもしれないから」ということなのである。しかしこういう態度ではなにひとつ前進させられはしないのであって、幾何学もそうであるし、哲学もそうである。幾何学はそれ自身まとまった体系のように見えるが、それでもなおそこには新しいもろもろの規定が出てきうるし、哲学もなるほど普遍的理念と取り組むものではあるが、それでもやはりどんどん専門化されうるからである。」(ヘーゲル[2001]、155〜156頁)

(Hegel [1833], S.280-281.)

 ヘーゲルはいわば「梗概」として自らの哲学的な著作をいくつか刊行しましたが、その際に自身の哲学や学問体系として叙述したものは、決して「完全性」を伴うものではなく、それゆえそれが完成されたものではないことを自覚していたのであり、もっと言えば、完全無欠で完成された体系というものはあり得ないということを認識していたと言えるでしょう。というのも、完全なものを待っていてはいつまでも前進しないからです。ここでヘーゲルはある意味実践的であって、今回のブログ記事もヘーゲルの研究を完璧にしてから書こうと思ったらいつまでも記事をアップできないという認識から生まれたものです。

 以上のような認識からすると、ヘーゲル研究において重要なスタンスは、晦渋なヘーゲルのテクストと格闘しつつヘーゲルの著作をピンからキリまで調べ上げた上で完璧なヘーゲル理解を示そうとするよりは、むしろ多少荒削りでもヘーゲル哲学の輪郭を粗描していく方がヘーゲル的だと言えるのかもしれません。

 

文献

*1:浅学菲才のため、いつ頃から解釈者がヘーゲル体系のうちにその完成を認めてきたのかは知らない。が、少なくともフォイエルバッハの著作(1842〜1843年)にはすでに、ヘーゲルによって哲学が完成された旨の文章が散見される。「近世哲学の完成は、ヘーゲル哲学である。」(フォイエルバッハ [1967]、42頁)。「スピノザは現代の思弁哲学の本来の創始者であり、シェリングはその再興者、ヘーゲルはその完成者である。」(同前、97頁)。厳密にいえば、哲学史上の、あるいはドイツ古典哲学の完成者としてのヘーゲル体系と、ヘーゲル体系それ自体の完全性(あるいは完成度)とは区別されるべきかと思われるが、この点についての考察は別稿に委ねたい。