まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ジャック・デリダ「署名 出来事 コンテクスト」覚書(1)

目次

はじめに

 ジャック・デリダJacques Derrida, 1930-2004)の有名なテクストに「署名 出来事 コンテクスト」(signature événement contexte, 1971)がある。このテクストは、1971年にモントリオール(Montréal)で行われた「フランス語哲学諸学会国際会議」(Congrès international des Sociétés de philosophie de langue française)の発表が元になっており、『哲学の余白』(Marges de la philosophie, 1972)の末尾に収録されている。のちに言語行為論者のジョン・サール(John Rogers Searle, 1932-)との論争を繰り広げたことにより、同じテクストが『有限責任会社』(Limited Inc.)の冒頭にも収録されている。デリダの署名とともに、デリダの文献ではほぼ必ずと言っていいほど言及されている重要なテクストである。

 ジャック・デリダ『弔鐘』(Glas, 1974)を読んでいると、「署名」という鍵句が度々登場する。そうすると、デリダはどのような問題設定で「署名」について述べているのだろうか、ということが気になってくる。そのような問題関心から本書を読んでいきたいと思う。

ジャック・デリダ「署名 出来事 コンテクスト」

前書きだけで力尽きた

(つづく)

文献

ジャック・デリダ『弔鐘』覚書(5)

目次

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ジャック・デリダ『弔鐘』(承前)

(左)ヘーゲル

略号とコード

Sa sera désormais le sigle du savoir absolu. Et l’IC, notons-le déjà puisque les deux portées se représentent l’une l’autre, de l'Immaculée Conception. Tachygraphie proprement singulière : elle ne va pas d’abord à disloquer, comme on pourrait croire, un code c'est-à-dire ce sur quoi l’on table trop. Mais peut-être, beaucoup plus tard et lentement cette fois, à en exhiber les bords

Sa〉は、これ以後、絶対知 savoir absolu の略号となる。そして〈IC〉が無罪障のお宿り Immaculée Conception の略号となることも前もって記しておこう、この両者の射程はたがいに代理=表象しあうから。この奇妙なとしか言いようのない速記法は、そう思われかねないとはいえ、コードの、すなわち過度に信頼されているものの分解を、まず第一に目指すのではない。だが、おそらく、ずっとのちに、そのときはゆっくりと、コードの縁の数々を晒し出すことになるだろう

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)249頁)

このパラグラフは、本文に〈Sa〉が登場するちょうど真横に並べられている。デリダによれば、〈Sa〉とは「絶対知 savoir absolu」の頭文字をつなげて作った略号である。デリダは略号の例としてもう一つ、〈IC〉を取り上げる。〈IC〉は、ここではいわゆる「無原罪懐胎 Immaculata Conceptio」の略号であり、これは文字通りには「汚れなき概念」を意味する。「無原罪懐胎」は、聖母マリアがその懐妊において原罪を免れたとするカトリックキリスト教教義学の解釈を含む概念であり、これをテーマとする絵画も多数存在する。

     What would the Immaculate Conception have to do with these little letters?

 無原罪懐胎=汚れなき概念、大文字で始まる〈Immaculée Conception〉が、あの小さな文字たちと、どんな関係があるというのか?

(Derrida2021: 67,鵜飼訳(10)272頁)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/24/Bartolom%C3%A9_Esteban_Perez_Murillo_021.jpg

(バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『エル・エスコリアルの無原罪懐胎』1660-65年頃、プラド美術館

「無原罪懐胎」の恣意性

 ちなみにデリダはこの「無原罪懐胎 Immaculée conception」に関連してか、本書の右側のジュネ欄で次のように述べている。

sibylline effect of arbitrariness in the immaculate choice, in the conception of syllables that name and open glory.

汚れなき〔immaculée〕選択における恣意性、栄光を名指しかつ開く音節の数々の思いつき゠懐胎〔conception〕における恣意性の、神託的効果。

(Derrida2021: 13,鵜飼訳294頁)

ここで「恣意性」という言葉が出てくるが、左側のヘーゲル欄でデリダは「ここでヘーゲルは、ある種の記号の恣意性について自説を述べる」(297頁)と述べ、ヘーゲルのMoralitätとSittlichkeitという言葉の恣意性について言及している。

He then explains the passage from Moralität to Sittlichkeit and tries to justify the all but arbitrary choice of these two words. It is because this choice is arbitrary that the translations waver.

彼はそのとき、道徳性(Moralität)から人倫(Sittlichkeit)への移行を説明し、この二つの語の、ほとんど恣意的な選択を正当化することを試みる。翻訳が定まらないのは、この選択が恣意的だからである。

(Derrida2021: 13,鵜飼訳297,295頁)

速記法のアンビバレントな両側面

 「速記法 tachygraphie」という語は、古代ギリシア語の〈ταχύς 速い〉に由来する。略号を用いるのは、もともとは羊皮紙のような書くための資源が枯渇していたからであり、数多くの宗教上の観念が略号によって示されてきた。一方で、それは、弁論をすばやく書き取るためのものとしても用いられてきた。国会答弁は専門家によって記号を用いてすばやく記録される。古くはソクラテスキケロの弁論が速記術で書き記されたと言われる。

 速いことと遅いこととは、対照的である。デリダが「ずっとのちに、そのときはゆっくりと」と述べる際、デリダは「速記法」の速効性と遅効性というアンビバレントな両側面に言及したのではないだろうか。

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文献

読書前ノート(12)

目次

國分功一郎スピノザ——読む人の肖像』(岩波書店、2022年)

「……を私は……と解する」という定義の仕方は、ただ単に「名目的な」だけなのか

 國分功一郎は本書の中で『エチカ』冒頭の「定義」について次のように述べている。

 この定義群を目にして最初に気がつくのは、それらが『知性改善論』の定式化した発生的定義とは形態を異にしているということである。それらはいずれも「……を私は……と解する」「……は……と言われている」という形態を取っている。これらは定義される対象の発生原因をその内に含むものではない。単に用語の意味を確定している名目的な定義に過ぎない。なお、これらの定義の後には七つの公理が置かれているが、これらの公理も発生的な形態を取ってはいない。

國分功一郎スピノザ——読む人の肖像』岩波書店、2022年、130頁)

國分の解釈によれば、「……を私は……と解する」という定義の仕方は「名目的な」ものに過ぎない。「……に過ぎない」というのはドイツ語では„nur“であるが、ほんとうにそれ「だけ nur」なのだろうか。「名目的」ということは、実質的な意味合いを持っていないということでもある。

 國分はスピノザの定義の仕方を「名目的」だと切り捨てるが、私はもうすこしスピノザの定義の仕方に着目してみたい。

 ちなみに「定義」において登場する「私」の存在については、以前このブログでも取り上げた。最近ではこの点についてネオ高等遊民さんがYouTubeで言及してくれている。

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youtu.be

 スピノザが「……を私は……と解する」と定義する際に、この叙述様式にはどのような意義があると考えられうるか。『エチカ』は幾何学的な仕方での叙述が目指されているのだが、幾何学的な叙述が目指された所以というのは、神学とは別の仕方で「神=自然」について叙述する必要があったからではないのだろうか。聖書やトーラーを引用するわけでもなく、「〈私が〉理解する」限りでの「神」についての定義を披露するというのは、敬虔なユダヤ教徒からすれば、不遜な行為そのものではないのか。「……を私は……と解する」という「神について」の定義の仕方が、敬虔なユダヤ教徒にとって不遜な印象を与えるのだとすれば、スピノザのこのような定義の仕方は「名目的」なもの「に過ぎない」のではなく、実質的な緊張関係を孕むはずである。

 スピノザが「……を私は……と解する」と定義する場合、この定義の仕方は、客観性を志向していると考えられる幾何学的な叙述様式に反して、多かれ少なかれ恣意性を含んでいる。「われわれ」ではなく、他ならぬ「〈私が〉理解する」限りでの、「定義」である。このような「定義」が『エチカ』の幾何学的な叙述様式を根底で支える土台である。その土台が恣意的である限りで、『エチカ』という建築物の土台は堅固なものではあり得ない。しかし、聖書やトーラーを抜きにして、「神について」叙述するには、それ以外の方法があり得たであろうか。「われわれ」と複数形にできるほど、ドゥルーズ=ガタリのように思想の主体を複数化できるほど、スピノザの思索に同伴するものは存在しただろうか。ユダヤ共同体を破門されたスピノザにとって「私は」という一人称単数形をとることは、はたして「名目的な」ものに過ぎないのだろうか。もしもベンヤミンだったならら、デリダだったなら、「私は」にこだわり、そこにスピノザの何らかの声なき声を掬い取るのではなかろうか。

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Netflixが没落する日

はじめに

 巷で人気の『機動戦士ガンダム 水星の魔女』(サンライズ、2022年)を筆者は毎週Amazonプライムビデオで視聴している。同作品が10月20日(木)よりNetflixでも配信されるようになった。そこで、ふとそれぞれのストリーミングサービスで『水星の魔女』の画質を比較することにした*1

『水星の魔女』をNetflixで観ない方が良い理由

 AmazonプライムビデオよりもNetflixの方が月額料金は高い。しかしながら、こと『水星の魔女』に関して言えば、Netflixよりも、Amazonプライムビデオの方が画質が良かった。したがって、『水星の魔女』をNetflixで観ることはお勧めしない。

 AmazonプライムビデオではHDにふさわしい画質を提供していた。諧調もしっかりと表現できているし、ノイズが少ない。EDのフィルムグレインをしっかり再現しようとしているので、パキッとした仕上がりになっており、好印象である。

 これに対して、Netflixの映像では細部にノイズが乗っていた。暗部ではブロックノイズが見え、諧調を表現できていない。これで「高画質」を名乗るのであれば、担当者のエンコードが下手なのでは?と思う。マトリクスを変えた方が良い。「Dolby Vision」マークがついているが、この画質で「Dolby Vision」表記は詐欺である*2

Netflixの「Dolby Vision」表記(現在は消えている)

 こうした画質の違いが『水星の魔女』だけに限ったことなのかはわからない。だが、ここで明らかなことは、NetflixよりもAmazonプライムビデオの方が『水星の魔女』の画質が良かったということと、NetflixよりもAmazonプライムビデオの方が月額料金が安いということである。

 『水星の魔女』の配信開始日が、Netflixは遅かった。そもそも当初は『水星の魔女』をNetflixで配信するというアナウンスはなかったのである。だが、『水星の魔女』が放送後に「ウテナだ!」と話題にのぼるにつれ、Netflixも配信に加わらないわけにはいかなくなったであろうということは当然予想される。Netflixは今回『水星の魔女』を急いで配信しようとしたから、エンコードに高負荷をかけずに速く処理したのだろうか。

【参考】『水星の魔女』ED比較画像

Prime Video版(サンライズロゴあり)
フィルムグレインが再現されていて概ね良好である。

Netflix版(ロゴなし)
フィルムグレインが潰れノイズが乗っている。

Prime Video版(サンライズロゴあり)
フィルムグレインは残っているが多少ブロック化している。

Netflix版(ロゴなし)
フィルムグレインが再現されていて概ね良好である。

Prime Video版(サンライズロゴあり)
フィルムグレインが再現されていて概ね良好である。

Netflix版(ロゴなし)
フィルムグレインが潰れノイズが乗っている。

【参考】『水星の魔女』ED比較画像2

  • 撮影日:2022年11月2日
  • 作品名:『機動戦士ガンダム 水星の魔女』エピソード2「第1話 魔女と花嫁」

Prime Video版(サンライズロゴあり)
フィルムグレインが保たれていて良好である。

Netflix版(ロゴなし)

Prime Video版(サンライズロゴあり)
フィルムグレインが保たれていて良好である。

Netflix版(ロゴなし)
わざわざ高い金を払って見る画質ではない。

誰がEDをまともに観るのか?——Netflixの圧縮思想 

 上に示した比較画像はED部分だけであるが、そもそもNetflixはアバンやOP、本編と比較して、ED部分の圧縮率を高く設定しているように思われる。その背景にあるのは、ユーザーの大多数はクレジットをまともに観ていない、或いはクレジットをスキップしている、という事実ではないかと考えられる。この事実をビンジ・ウォッチング(binge-watching、一気見)について調査する中で突き止めたのは、他ならぬNetflix自身であろう。そこからNetflixが『クレジットをまともに観る人は少ないのだから、EDにビットレートを割り当てなければよいではないか』という発想に至るには、一歩踏み出すだけでよかったはずである。

 EDの圧縮率を上げれば、端末にDLする1話あたりのデータ量を少なく抑えられ、その分トラフィック負荷も低減される、というメリットがある。Netflixほどのユーザー数を抱えていれば、エコロジーの観点からしても、通信インフラや電力に与える影響力は、1MB単位での変化であっても計り知れないものがある。したがって、Netflixのように圧縮率を適度にコントロールすることは、一概に悪いとは言えない。Netflixの圧縮思想は、さしずめそんなところであろう。

 洗練されたオタクはわざわざEDを飛ばさない。次回予告も、最後の一枚絵のテロップも、しっかり見届けるのである。だから、EDでわざとビットレートを下げたりして手を抜かないでほしい。せっかくサブスクで気にせず高画質で見れるはずなのに、『ええい、だったら俺にエンコードさせろ!』などと余計な頭を使うことになってしまう。そんなことはさせないで欲しい。私がこんな記事を書くこと自体が、NetflixのNPSにとってマイナスに働いてしまう。

おわりに

 NetflixAmazonプライムビデオについては、以前、このブログで触れたことがある(「映像ストリーミングサービス:Netflixを支える技術」)。その際に、NetflixAWSを用いてエンコードしているとネットの記事には書いてあった。AWSAmazonのサービスであるから、Amazonプライムビデオの動画もAWSエンコードしているはずである。NetflixAmazonプライムビデオのどちらが存分に高負荷なエンコードを行うことが可能かといえば、当然AWSを自社グループのサービスとして有しているAmazonプライムビデオであろう。Amazonは紙媒体を殲滅すべくKindleプロジェクトを立ち上げたことでも知られているが、同様の戦略(低価格・高品質・即配信)をAmazonプライムビデオでも行っている。これに対して、『水星の魔女』に関して言えば、Netflixは高価格・低品質・遅配信になってしまっている。もしもこのような状況が今後も慢性化するならば、Netflixは今後、Amazonに蹴落とされ、早々とFAANG*4から没落するかもしれない。

*1:筆者はNetflixのスタンダードプランに加入している。Netflixのスタンダードプランの解像度はHDに対応しているが、4K UHDには対応していない。配信コンテンツのソースごとに元の画質や解像度が異なるので、加入プランだけで画質に関して一概には言えない。動画ストリーミングサービスは、通信環境(Wi-Fiかモバイルデータ通信か)の回線速度(下り速度)によって、最適な画質を提供する。その為、画質を比較する為には、Wi-Fi環境下で最高画質になるようにあらかじめ設定しておく必要がある。

*2:2022年11月1日時点で、「Dolby Vision」の表記がNetflixアプリから消えたことに気づいた。私の書き込みで消されてしまったのだろうか。

*3:エピソード1が「Prologue」なので、1話分カウントがズレる。

*4:Facebook(現Meta)、AppleAmazon.comNetflixGoogleの略。

ジャック・デリダ『弔鐘』覚書(4)

目次

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ジャック・デリダ『弔鐘』(承前)

(左)ヘーゲル

〈絶対知〉とそのテクスト

     Qui, lui? L’aigle de plomb ou d’or, blanc ou noir, n’a pas signé le texte du savoir absolu. Encore moins l’aigle rouge. D’ailleurs on ne sait pas encore si Sa est un texte, a donné lieu à un texte, s’il a été écrit ou s’il a écrit, fait écrire, laissé écrire.

 誰か、彼とは? 鉛のあるいは黄金の鷲が、白鷲あるいは黒鷲が、絶対知のテクストに署名したわけではない。まして、赤鷲が署名したわけではない。そもそもまだ知られていないのだ、〈Sa〉がテクストかどうか、テクストに場を与えたかどうか、それが書かれたかどうか、あるいは、それが書いた、書かせた、書くにまかせたかどうか。

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)249頁)

「鉛のあるいは黄金の鷲、白鷲あるいは黒鷲」というのは、一体何を意味しているのだろうか。これは、直前のパラグラフにある「エンブレム〔象徴〕と化した哲学者 le philosophie emblémi」という語に着目すると、様々な色で示された国章の鷲のことを指しているのではないだろうか。「黄金の鷲」は「サラディンの鷲」とも呼ばれる。「白鷲」はポーランドの国章であり、「黒鷲」はドイツの国章である。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6b/Eagles_in_heraldry_-_collage_of_arms_of_Germany_Poland_Mexico_and_Egypt.png

古今東西のヘーゲリアンは、不遜にも自らを「絶対知」の立場に位置づけるようなことはしてこなかった、という意味だろうか。

 デリダは〈絶対知〉の位置付けについて考える。〈絶対知〉というテクストは、例えば、ヘーゲルの『精神現象学』の最後章に登場する。したがって、〈絶対知〉は一つのテクストである。だが、その〈絶対知〉というテクストは、〈絶対知〉の立場から書かれたのであろうか。〈絶対知〉が〈絶対知〉について書くということは、自己言及的なプロセスを経ていることになる。

(右)ジュネ欄

〈残ったもの〉という計算不可能なものの計算可能性

     L’incalculable de ce qui est resté se calcule, élabore tous les coups, les tord ou les échafaude en silence, vous vous épuiseriez plus vite à les compter. Chaque petit carré se délimite, chaque colonee s'enlève avec une impassible suffisance et pourtant l'élément de la contagion, la circulation infinie de l'équivalence générale rapporte chaque phrase, chaque mot, chaque moignon d'écriture (par exemple « je m'éc… ») à chaque autre, dans chaque colonne et d’une colonne à l’autre de ce qui est resté infiniment calculable.

 〈残ったもの ce qui est resté〉の計算不可能性はおのれを計算する。あらゆる打撃クウ*1は入念に仕上げられ、たがいによりあわされ、しずかに組み上げられる。その打撃の数を数えようとしても、数えきれずに疲れ果てるのが落ちである。動じることなき自足をもって、小さな四角はどれもおのれの限界を画定し、欄はどちらも持ち上げられている。それでいながら、伝染の場が、一般的等価の無限の循環が、どの文、どの語、どのエクリチュールの切り株(たとえば «je m'éc…»*2)をも、他のそうしたものへと関係づける。無限に計算可能な〈残ったもの ce qui est resté〉の、それぞれの欄のなかで、そして一方の欄から他方の欄へと。

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)248頁)

〈残余〉は計算不可能であるが、その計算不可能なものを計算しようとすると際限がなく悪無限に陥る。

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文献

*1:「このような形で聖化された受贈者に、一撃クウで侵入し、麻痺させる」(Derrida1986: 6,鵜飼訳(1)236頁)。

*2:「『一幅のレンブラントから残ったもの』はその二本の欄柱に展開する、主体ーー「どんな人も他の人と等価である」ーーの、諸項の、際限なく交換される反対物の、«je m'éc…»(「私は流れ込んだ」〔je m'écoulais〕、私の体に、他者の体に)の一般的等価の理論あるいは出来事を。S'écouler〔流れ込む〕という連辞は、l'«écoeurement»〔吐き気〕、le«regard échangé»〔交わされたまなざし〕、le«sentir s'écouler»〔流れ込むのを感じること〕、«je m'étais écoulé»〔私は流れ込んだ〕、«j'écrivais»〔私は書いた〕に引き継がれる。私は私を書いた、「これほどの吐き気」、「悲しみ」(この言葉は十ページたらずのうちに六回も使われている)のなかで。それは、逆さまに見つめあう二本の柱の、無限の交換の理論あるいは出来事である。」(Derrida2021:52-53,鵜飼訳(7)274、272頁)。

ジャック・デリダ『弔鐘』覚書(3)

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ジャック・デリダ『弔鐘』(承前)

(左)ヘーゲル

「鷲(エグル)」に擬せられるヘーゲル

     Son nom est si étrange. De l'aigle il tient la puissance impériale ou historique. Ceux qui le prononcent encore à la française, il y en a, ne sont ridicules que jusqu'à un certain point : la restitution, sémantiquement infaillible, pour qui l'a un peu lu, un peu seulement, de la froideur magistrale et du sérieux imperturbable, l'aigle pris dans la glace et le gel.

 Soit ainsi figé le philosophie emblémi.

 彼の名はとても奇妙だ。エグルからその名は帝国的あるいは歴史的な権力を受け継いでいる。いまでも彼の名をフランス語風に発音する人はいるが、この人々が滑稽に思われるとしても、それもある点までのことである。というのも、このフランス語風の発音によって彼を少し読んだ者、少しだけ読んだ者が感じるあの印象が、教師然とした冷たさ、また、乱れを知らない真面目さが、意味論的に申し分なく復元されるからだ。氷塊グラス結氷ジェルに捕らわれた鷲、という次第。

 そのまま凝固していてもらおう、蒼白の象徴と化した哲学者には。

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)249頁)

フランス風に発音したヘーゲルの名前が、フランス語で「鷲」を意味する«aigleエグル»の発音と似ていることから、デリダヘーゲルを「エグル」の表象と結びつける。確かに鋭い目をもつ「鷲」の風貌は、事物を冷徹に概念把握するヘーゲルの眼差しに似ているようにも見える。だが、デリダによって「鷲」に擬せられているのは、キャンバスの上に描かれたヘーゲルではなく、彼の著作のテクスト上から垣間見えるヘーゲル像である。そして同時に「鷲」によって表象されているのは、「氷塊グラス結氷ジェル」という、ある種の硬さと冷たさの観念である。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/1831_Schlesinger_Philosoph_Georg_Friedrich_Wilhelm_Hegel_anagoria.JPG

 デリダのいう、「鷲 aigle」から受け継がれた「帝国的あるいは歴史的な権力 la puissance impériale ou historique」とはどういうことだろうか。ここで鷲がさまざまな紋章として通用してきたことを想起する必要があろう。例えば、ローマ帝国の国章は鷲であった。鷲とはまさに「帝国的あるいは歴史的な権力」の象徴に他ならないのである。

An eagle, white eagle, black eagle, Ganymede's eagle especially, dominates the whole corpus, swooping down on it, regularly, from behind, gripping and tightening it in its claws, fucking it with a beak in the neck. One can say a she-eagle [une aigle].

エグル〔un aigle〕、白鷲、黒鷲、とりわけガニュメデス Ganymède の鷲は、〔ジュネの〕テクスト身体の全体を支配し、規則的にそれに襲いかかり、後ろから、それを爪で握りしめて緊張させ、その首に嘴で口づけする。女性形で、une aigle〔雌鷲のほか、紋章の鷲、ローマ帝国、ロシア、ドイツ、ポーランドなどの国章、ナポレオン軍の軍標に用いられた鷲の標章を意味する〕と言うこともできる。

(Derrida2021: 68,鵜飼訳(10)270頁)

Aquila imperiale romana

 ヘーゲルに結びつけられた「鷲」の表象は『弔鐘』でどのような役割を果たすのだろうか。デリダは、ヘーゲルモーセに言及する際に登場する「鷲」に着目する。

 このように、モーセのVergleichungのなかで、鷲が言表される。その言表を、ヘーゲルは複写することから始める。申命記を、彼はほぼ忠実に書き写す。それから補足し訂正する、石を再び投げ上げるために。理の当然として、他者を石に変えるためにはおのれが石でなくてはならない。ゴルゴンのように、ユダヤ人は他者を石化する。ヘーゲルはすでにそう言っていた。今彼は、ユダヤ人自身が石であることを示す。彼の言説はレトリカルであるばかりでなく、レトリックについての、レトリックを主題とするものでもある。「ただしユダヤ人たちはこの美しい像(Bild)を成就しなかった。これらの鷲の雛たちは鷲にならなかった。彼らの髪に対する関係において、これらの鷲の雛たちは、むしろ、間違って石を抱いていた鷲の姿を思わせる。鷲はそれらにおのれのように飛ぶことを教えようとして雲のなかへ連れていったが、その石たちの重さはけっして飛翔になることができず、石たちが帯びる熱は借り物であり、けっして生の炎のうちに燃え出る(aufschlug)ことはなかったのである」。

     The logic of the concept is that of the eagle, the remainder of stone. The eagle frasps the stone in its talons and tries to raise it.

 概念の論理は鷲のそれであり、残余は石である。鷲〔ヘーゲル〕は石〔残余〕を爪でつかみ、育て高めようとする。

(Derrida2021: 65-66, 鵜飼訳(9)313、311頁)

鷲を書き写すヘーゲル(=鷲)という二重構造が生じている。さらにそこで「残余」が石に喩えられている。ここは、デリダヘーゲルのレトリックをさらなるレトリックで表現している箇所とも言える。

(右)ジュネ欄

包摂関係にある不均等な二つの欄

     Deux colonnes inégales, disent-ils, dont chaque — enveloppe ou gaine, incalculablement renverse, retourne, remplace, remarque, recoupe l’autre.

 不均等な二つの欄、二つのスタイルと彼らは言う、そのそれぞれが他方を包み、あるいはびっちり覆い隠す。計算不可能なまでに裏返し、反転させ、置き換え、記入し直す。そして、他方と交差=一致する。

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)248頁)

「不均等な二つの欄 deux colonnes inégales」というのは、まさにデリダが本書で試みようとしているもの、すなわち、左のヘーゲル欄と右のジュネ欄のことであろう。「不均等 inégales」なのは、各パラグラフの長さのことであり、左右のいずれかの欄が長くもあれば短くもあるからだ。左右の欄は互いに包摂関係にあるが、どちらの欄が他方を包摂するのかはケースバイケースである。

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文献

ジャック・デリダ『弔鐘』覚書(2)

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ジャック・デリダ『弔鐘』(承前)

(左)ヘーゲル

デリダの問い

 Qui, lui?

 誰か、彼とは?

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)249頁)

この問いは一見すると自明であるように思われる。なぜなら、ここで「彼 lui」とはヘーゲルに他ならないからである。どうしてデリダはこのような奇妙な問いを発したのであろうか。しかしデリダに言わせれば、その一見すると自明な問いが奇妙なのではなく、「彼〔ヘーゲル〕の名がとても奇妙」なのだという(後述)。

(右)ジュネ欄

〈残余〉とは何か

     Comme le reste.

 残余と同じく。

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)248頁)

ここで「残余と同じく」とはどういう意味であろうか。これは、二つに分かれた『小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ棄てられた一幅のレンブラントから残ったもの』(Ce qui est resté d’un Rembrandt déchiré en petits carrés bien réguliers, et foutu aux chiottes)が、それ自体、残余と同様の役割を果たすということだろうか。

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文献