まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

読書前ノート(8)バーチャル美少女ねむ『メタバース進化論』

バーチャル美少女ねむ『メタバース進化論——仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界』(技術評論社、2022年)

それは参与観察さえ〈超えて〉いる

 今年最初で最大の衝撃の書かもしれない。私が本書を手にしたのは、今後のトレンドを示すための社内向けのスライドを作成するためにもしや参考になるかもしれないと思って書店でふと手にしたことがきっかけだった。いわゆる〈メタバース〉の関連書籍の中で最初に手にしたのが本書だったのは幸いであった。とにかく驚かされるのは著者の教養の深さである。その叙述に現れる教養の深さとはまさにアカデミックな世界におけるそれであり、それが本書のいたるところに現れている。例えば、本書35頁以下の「メタバースではないもの」という箇所で、「メタバースSNSのことではない」「メタバースはオンラインゲームのことではない」「メタバースはAR・VRのことではない」「メタバースはNFT・ブロックチェーンのことではない」というように、なんと否定神学の形式で〈メタバース〉が論じられているのである。こうした叙述様式の点においては、佐藤航陽『世界2.0 メタバースの歩き方と創り方』(幻冬社、2022年)國光宏尚『メタバースとWeb3』(エムディエヌコーポレーション、2022年)のような経営者の方々によって書かれたメタバース系の書籍とは一線を画している。目次の出来栄えに感動すら覚える。形式だけでなくその内容も充実しており、実在するいわゆる「中の人」が社会学系大学院博士課程を修了されているのか、はたまたどこかの大学で教鞭を執っているのか等は不明であるが、少なくとも本書が素晴らしい日本語で書かれ読めることに感謝すべきである。しかもカラー印刷で1,980円(税込)というのはどう考えても安い、安すぎる。

ルソー『社会契約論』(10)

目次

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ルソー『社会契約論』(承前)

第一編

第三章 最強者の権利について

 「最強者の権利」とはどういうものなのだろうか.そしてそれは「権利」と呼ぶに値するものなのだろうか.

 しばらく,このいわゆる権利なるものがあると仮定してみよう.私は,そこからはただ,説明不可能な,わけのわからぬ戯言しか生じない,と言いたい.なぜなら,権利をつくるものが力だ,ということになると,原因〔=力〕が変われば,結果〔=権利〕も変わる.最初の力に打ち勝つすべての力は,前者の権利を受け継ぐ.服従しなくても罰せられずにすむなら,不服従も正当になりうる.そして,最強者がつねに正しいのだから,したがって,最強者になるよう行動することだけが問題となる.ところで,力が失われると滅んでしまうような権利とは,どんな権利なのか.もし,力によって服従しなければならないのなら,義務によって服従する必要はない.また,もし,服従を強制されなくなれば,服従の義務はなくなる.だから,この〔権利という〕語は,力に何もつけ加えていない,ということがわかる.この語は,ここではなんの意味もない.

(Rousseau1762: 10-11,17頁)

「最強者の権利」とは,その力によって他人を服従させる権利のことであるが,その権利者よりもさらにより強い者が現れれば,従来の最強者の権利がたちまち無効になる.ということは,結果的に「最強者の権利」を持っていなかったということになる.こうしたものは「権利」ではないとルソーは考える.

第四章 奴隷状態について

 この章では「奴隷状態」について考察される.「奴隷状態」は,前章でみた「最強者」と比較すると,およそ対照的な立場である.公平性の原理を掲げるルソーのロジックからすれば,「最強者の権利」と同様に「奴隷状態」もまた首肯されるものではない.

 いかなる人間も,その同胞に対して生まれながらの権威を持つものではなく,また力はいかなる権利も生み出さない以上,人間のあいだのあらゆる正当な権威の基礎としては,ただ約束だけが残る.

(Rousseau1762: 13,作田訳18頁)

ここでルソーは「約束 conventions」という語を用いている.«convention»とはルソーの鍵句である.ルソーにとっては「約束 convention」が社会制度の根幹をなす.

 さらにルソーはグローティウスの思想を論駁するために「譲渡」という概念に着目する.

第五章 最初の約束につねにさかのぼらなければならないこと

 ルソーはいわば起源の探究者である.ここでもまた社会制度の根源を「約束」に求めている.

 じっさい,もし先に約束がなかったとすれば,選挙が全員一致でないとき,少数者が多数者の選択に従う義務はどこにあるのだろうか.主人を欲する百人が,それを欲しない十人に代わって議決をする権利は,いったいどこから出てくるのだろうか.多数決の法もまた約束によって取り決められたのであり,少なくとも一度は全員の一致があったことを前提として作用しているのである.

(Rousseau1762: 24-25,作田訳26頁)

ルソーの推論によれば,権利や義務の取り決めには最初に全員の一致があったという.これは本当だろうか.

第六章 社会契約について

 この章タイトルは「社会契約について Du pacte Social」である.本書のタイトルである『社会契約論』(Du Contract Social)と比較すると,ここでは«contract»ではなく«pacte»となっていることに注意されたい.«convention»も「約束」と訳されているが,«contract»と«pacte»と«convention»とは一体どのように区別されているのだろうか.

 各個人が自然状態にとどまろうとして用いる力よりも,それにさからって自然状態のなかでの人間の自己保存を妨げる障害のほうが優勢となる時点まで,人間が到達した,と想定してみよう.そのとき,この原始状態はもはや存続しえなくなる.だから,もし生存様式を変えないなら,人類は滅びるだろう.

(Rousseau1762: 26,作田訳26頁)

ここでルソーは「自然状態 l'état de nature」や「自己保存 leur conservation」「障害 les obstacles」という言葉を用いているが,これらはいずれもホッブズの自然状態論を想起させるのに十分である(Hobbes1651: 64).ルソーは自然状態論をホッブズの思想から借用したのだろうか.少なくとも,ルソーは自然状態を「原始状態 état primitif」として想定し,そこから推論を行っている.

 ところで,人間は新しい力をつくりだすことはできず,現に持っている諸力を結びつけ,方向を与えることができるだけであるから,生き残ってゆくためには,障害の抵抗に打ち勝てるようにみなが集まって諸力の総和をつくりだし,これらの力をただ一つの原動力で動かして,共同の活動に向けることしか,ほかに方法はない.

(Rousseau1762: 26-27,作田訳26〜27頁)

この箇所はどうも物理法則を念頭に置いているように思われてならない.そして実際,ベクトルの概念を用いて説明されることもある.つまりここで「力 force」とは,力学的世界観のもとで捉えられている.

(つづく)

文献

フォイエルバッハ『将来の哲学の根本命題』覚書(3)

目次

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フォイエルバッハ『将来の哲学の根本命題』(承前)

プロテスタンティズムの理神論

 3

 しかしながら,プロテスタンティズムは,神それ自体あるいは神としての神を——神それ自体が本来の神である以上は——ただ実践的に否定しただけで,理論上はそれを存続させていたのである.神は存在するが,しかしただ人間にとって,つまり宗教的な人間にとっては存在しない.それは彼岸的なあり方ヴェーゼンであり,いつかあの天国ではじめて人間にとって対象となるものである.しかし,宗教の向こう側〔彼岸〕にあるものは,哲学のこちら側〔此岸〕にあるし,前者にとって対象でないものこそ,まさに後者にとって対象である.

(Feuerbach 1843: 1-2,松村・和田訳9頁,訳は改めた)

プロテスタンティズムが「ただ実践的に nur praktisch」否定しただけの「神それ自体 Gott an sich あるいは神としての神 Gott als Gott」*1とは,いかなる神であったか.プロテスタンティズムが否定したのは,カトリシズムがまさに実践的に示しているような世俗的のあり方であって,「彼岸的なあり方 jenseitiges Wesen」としての神ではなかった.

 ここでルターは「神それ自体」と「人間にとって」の観点からプロテスタンティズムの神について整理しているが,このような手法は〈即自存在アンジッヒザイン〉と〈対自存在フュアジッヒザイン〉の観点から叙述したヘーゲルのそれを匂わせるものである.つまりプロテスタンティズムは「神それ自体 Gott an sich」,いわば〈即自存在〉としての神は否定するが,天国に召された人間が自らの「対象 Gegenstand」として顕在化させる「神」,いわば〈対自存在〉としての神までは否定しなかったのである.

(つづく)

文献

*1:「神としての神 Gott als Gott」については本書第六節を参照.「神としての神——精神的あるいは抽象的本質としての神,言いかえれば,人間的でなく,感性的でなく,ただ理性あるいは知性にとってだけ近づくことができ対象的である本質としての神とは,理性そのものの本質にほかならず,ただ普通の神学や有神論が,それを,想像力によって理性とは別の独立した存在として表象しているのである.」(Feuerbach 1843: 2,松村・和田訳10頁).

フォイエルバッハ『将来の哲学の根本命題』覚書(2)

目次

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フォイエルバッハ『将来の哲学の根本命題』(承前)

近世の課題

 先ず最初にフォイエルバッハは,いきなり「将来の哲学」について語る前に,それ以前の「近世の課題 die Aufgabe der neueren Zeit」を議論の出発点とする.

 §. 1.

 近世の課題は,神の現実化と人間化——神学の人間学への転化(Verwandlung)と解消であった.

(Feuerbach 1843: 1,松村・和田訳8頁)

ここで〈転化 Verwandlung〉が強調されている点については,本書の中で徐々に明らかにされるであろうが,さしあたりこれに関連するところではすでにフォイエルバッハは『哲学改革のための暫定的命題』(1842年)の中で「神学の秘密は人間学である」と述べていたことが注目される.

 神学の秘密は人間学である.だが,思弁哲学の秘密は神学——思弁神学である.思弁神学と通常の神学との区別は,後者(通常の神学)が畏れと無知ゆえに彼岸へ遠ざけていた神的存在を,前者(思弁神学)が此岸へ移しかえていること,すなわち現在化し,規定し,実現していることにある.

(Feuerbach1846: 244,松村一人・和田楽訳97頁,訳は改めた)

フォイエルバッハはここでは〈思弁哲学——思弁神学——人間学〉をひとつながりの連関のうちに捉えている.フォイエルバッハのこのような理解を可能にした背景には,〈人間〉という存在から大きな乖離状態に陥っていた〈通常の〉哲学や神学に対するアンチテーゼとして,思弁神学と思弁哲学を「此岸」的なものと位置付ける論理が大きく作用している.

 『暫定的命題』(1842年)のこの一節を援用した解釈が可能であるならば,フォイエルバッハが「神学の人間学への〈転化〉」と述べた際の「神学」が,厳密には「思弁哲学」を意味するというように理解できよう.実際,フォイエルバッハは「思弁哲学」と「通常の神学」という区別を『根本命題』でも引き継いでおり,次のように述べている.

 §. 8.

 通常の(gemeine)神学は,人間の立場神の立場にする.これに対して思弁神学は神の立場人間の立場あるいはむしろ〔ヨリ精確にいえば〕思考者の立場にする.

(Feuerbach 1843: 8-9,松村・和田訳16頁)

 ちなみに「近世」とは,歴史学における一つの時代区分を意味する用語である.「近世」は,およそ近代の始まりに位置しており,中世よりも後の時代を指している.「近世の課題」の背景にあるのは,具体的にはルター(Martin Luther, 1483-1546)の宗教改革運動*1に端を発するプロテスタンティズム(Protestantismus)である.

Ferdinand Pauwels(1830–1904), Luther hammers his 95 theses to the door, 1872.

プロテスタンティズム

 §. 2.

 この人間化の宗教的あるいは実践的な仕方が,プロテスタンティズムであった.まさに人間であるような神,すなわち人間的な神,したがってキリスト——これのみがプロテスタンティズムの神である.プロテスタンティズムはもはや,カトリシズムのように,神がそれ自身何であるかを心にかけず,それが人間にとって何であるかを問題とする.だからそれは,もはや後者のように思弁的,すなわち観想的傾向をもっていない.それはもう神学ではなく——本質的にキリスト論,すなわち宗教的人間学にすぎない.

(Feuerbach 1843: 1,松村・和田訳8頁)

前節の「神学の人間学への転化と解消」という「近世の課題」を果たしたのはプロテスタンティズムであった.ここで「神学」とは,それが「宗教的人間学」へと転化する以前の「神学」のことであり,したがって「神学」とはカトリック神学に他ならない.カトリック神学では「神とはそれ自身何であるか」が問われ,神それ自体の根本概念こそが問題であった.これに対して,プロテスタンティズムでは「人間にとって神とは何であるか」が問われ,人間を問題の中心的観測者に据えたのである.換言すれば,プロテスタンティズムは神それ自体を考察するのではなく,神を見ている人間の方を考察するのである.端的に言えば,カトリシズムは神を考察の対象とし,プロテスタンティズムは神を観照する人間を考察の対照とするのである.カトリックのように「神とはそれ自身何であるか」が問われるならば,そのような神学は「思弁的,すなわち観想的傾向」を持つことになるであろう.であるならば,プロテスタンティズムは神をどのように扱っているのであろうか.この点については次節で述べられている.

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文献

*1:ルター『95ヵ条の論題(95 Thesen)』1517年.

フォイエルバッハ『将来の哲学の根本命題』覚書(1)

目次

はじめに

 本稿ではルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach, 1804-1872)の『将来の哲学の根本命題』(Grundsätze der Philosophie der Zukunft, 1843)を読む.

 かつて筆者は大学院生時代に「ヘーゲル左派研究をしたい」と周囲に漏らしていたが,あれから早10年が経とうとしている.研究は全く進んでいない.フォイエルバッハを読む羽目になったのは,初期マルクスをその時代に即して理解しようと思ったからである.マルクスフォイエルバッハ人間主義に同意しつつも,その関心を社会問題の解決に応用しようとした.そのためにマルクスが最初に取り掛かったのはヘーゲル法哲学の批判であったが,マルクスに先行してヘーゲル法哲学に言及していたのはアーノルト・ルーゲ(Arnold Ruge, 1802-1880)であった.マルクスはルーゲとともに『独仏年誌』(Deutsch-Französische Jahrbücher, 1844)を刊行するものの,その間にマルクスはルーゲのごとき政治的共和主義をも乗り越えて,政治体=国家や法という上部構造よりもむしろ近代市民社会や経済という土台の方に研究の矛先を向けたのである.

フォイエルバッハ『将来の哲学の根本命題』(1843年)

フォイエルバッハ『将来の哲学の根本命題』1843年,表題紙)

 タイトルは「〈将来の〉哲学の根本命題 Grundsätze der Philosophie der Zukunft」であって,「哲学の根本命題 Grundsätze der Philosophie」ではない.ここで「将来=未来の der Zukunft」というのは,一つには少なくとも1843年頃のフォイエルバッハ自身から見て「将来の」ということであろうが,それはいかなる意味を持っているのだろうか.フォイエルバッハ自身はこのタイトルを名付けた理由について,初版「序文 Vorwort」の中で次のように説明している.

 私がこれを『将来の(der Zukunst)哲学の根本命題』と名づけたわけは,現代は一般に洗練された幻想と,意地わるい偏見の時代であるために,単純な真理を(die einfachen Wahrheiten)——この根本命題はこれらの真理から抽象されたものである——まさにその単純さのために,理解することができず,ましてその価値をみとめることはできないからである.

(Feuerbach 1843: ⅲ,松村・和田訳7頁)

ここで「将来 Zukunft」は,「洗練された幻想と意地わるい偏見の時代」としての「現代 Gegenwart」と好対照をなしている.何故本書が「根本命題」たり得るかと言えば,フォイエルバッハによれば,それが諸々の「単純な真理 die einfachen Wahrheiten」(ここで「単純な真理」が複数形であることに注意されたい)に基づいて「そこから抽象化されたもの abstrahirt sind」だからである.

 さらにフォイエルバッハは「将来の哲学」について次のように述べている.

 将来の哲学は,哲学を「死んだ魂」の国から,肉体をもった生きた魂の国へふたたび導き入れるという課題を,つまり,哲学を神々しい,何の欲求もない思想の法悦から,人間的悲惨の中へ引きおろすという課題を持っている.この目的のために,それは,人間的知性と人間的言語以上の何ものも必要としない.

(Feuerbach1843: ⅲ-ⅳ,松村・和田訳7頁)

フォイエルバッハの時代に「現代の哲学」というものがあったとすれば,それは人間の「肉体をもった,生きた魂」を欠いた,「死んだ魂」の哲学だった.「肉体をもった,生きた魂」は欲求を持っている.だがその「肉体をもった,生きた魂」は「人間的悲惨」の中にある.

純粋にそして真に人間的に思考し,語り,行為することは,しかし,来るべき世代にはじめて許されている.目下の急務は,まだ人間を描き出すことではなく,かれをその落ちこんだ泥沼から引きだすことである.この根本命題は,このまじめでそしてやっかいな仕事の産物でもある.根本命題の課題は,絶対者の哲学すなわち神学から,人間の哲学,すなわち人間学の必然性を導きだし,そして神的哲学の批判によって人間的哲学の真理*1を基礎づけることであった.したがってこの根本命題の意義を認めるためには,近世哲学の正確な知識が前提される.

(Feuerbach1843: ⅳ,松村・和田訳7〜8頁)

この「根本命題」が行うのは,「人間を描き出すこと」ではない.人間とは何か,ということについては人間の本性についてホッブズやらロックやらヒュームやらが語っているが,フォイエルバッハが行うのはそうではない.人間を捨象した神学を批判して「人間」という存在を救い出すことが課題なのである.フォイエルバッハにとって「真理」とは,「神々しい」ものではなく,どこまでも「人間的な」ものなのである.

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文献

*1:松村・和田訳では「人間的哲学の批判」となっている.

インシュレーターを買いました

目次

定在波とインシュレーター

 前回有機ELテレビやサウンドバーを購入したと書いたが、その続きである。わざわざ購入したSONYサウンドバーの音質に満足できず悩んでいた。というのも、有機ELテレビに内蔵されているスピーカーの方が声が聞き取りやすく臨場感に溢れていたからだ。『さすがにサウンドバーとして独立した商品として販売するのに音質が雑魚すぎるのでは?』との疑念を隠せなくなった。

 その疑念を払拭するきっかけとなったのが、たまたまネットで見かけた「定在波」について書かれた次の記事である。

av.watch.impress.co.jp

貪るようにして記事を読んだ。音は波の性質を持っている。空気を通じて振動が伝わり、部屋の中で反射するわけである。スピーカーの性能を引き出すには置く場所も考慮する必要があるというわけだ。波であるから、スピーカーの置き場所によっては音波が相殺されて聴き取り難くなる可能性もある。

 併せてAmazonレビューに設置の仕方を詳しく書いているユーザーがいた。購入前にも読んだが、改めて重要だと思ったので入念に読み直してみた。

ミュージシャンのオーディオオタクです(Accupahseのアンプをはじめいろんなモニタースピーカーやヘッドホンなどを利用しています)。 マンション住まいですが、プロジェクターを利用して100inch超で映画やPrimeビデオなどを見るのに合わせて使っています。音声はプロジェクターからBlootoothを使って飛ばしています。利便性や音的に丁度良い具合だと感じます。

・ほかの方のレビューのある通りサブウーファーはなく低音はガンガンではありません。いやらしく盛った低音処理もありません。但し背面の小さなバスレフが優しく低域を支えてくれていますので、映画のアクションシーンなどはテレビの内臓スピーカーなどに比べ十分迫力があります。マンションなどで騒音が気になる方は丁度良いバランスだと思います。

Bluetoothはsbcコーデックですが、特に遅延を感じません。また映像作品を見る際に音質劣化は一切気になりません。

・セールで買ったのですが、値段から考えると十分納得できる良い音質だと感じます。全域フラットではなく、家庭での映像視聴用にある程度チューニングされた音だと思います。広がりは本機大きさより広くもなく狭くもないです。疑似サラウンドもスタンダードではあまり感じません。シネマモードにすると上下左右に広がる感があります。

・但し本機を扱うには注意点があります。買って封を開け設置して直ぐは「あまり音が良くない」と感じました。

①底のゴム足が低く設置面とかなり近く音質が損なわれるため、金属製インシュレーターを底面に入れ接地面から1cmくらい高さを保ったところ音が良くなりました。インシュレーターの種類は何でも良いと思います。

②背面に対しても同様です。バスレフ面が背面にあるので壁から少し離して設置するように気を付けてください。低音以外に音の広がりもよくなります。

エージングでかなり音が良くなりますので注意してください。50時間くらいで全域に渡って音抜けが良くなり、耳障りな感もなくなります。

(clint「マンションでプロジェクター見るのにちょうど良いです。」)

www.amazon.co.jp

なるほど、後半で本機を扱う際の注意点について書かれている。「インシュレーター」という知らない用語が出てきた。なんだそれは。「インシュレーター」についてネットで調べてみたところ、スピーカーの底面に設置するものだということがわかってきた。十円玉で代用することも可能だそうだが、「インシュレーター」をスピーカーの底面に置くだけで音質が変わるのだという。マジか。試さない手はない。

 ここまでスピーカーにおける「定在波」と「インシュレーター」について学んできたのであるが、これらを知った時、私は仕事でホテルに宿泊しており自宅で試すことができなかった。とりあえずAmazonで先に「インシュレーター」を注文し、帰宅したら音質の変化を確かめてみることにした。

オーディオテクニカ ハイブリッドインシュレーター

 というわけで、自宅に届いたのがこちらのインシュレーターである。

中を開けると、小さな円柱の真鍮でできたインシュレーターが入っていた。底面はコルクでできている。インシュレーターは素材によって音の傾向が変わるという。インシュレーターの素材には金属、木材、ゴム、樹脂などがある。私が購入したインシュレーターは真鍮とコルクという二つの素材を組み合わせて作られているから「ハイブリッド」なのである。

インシュレーターをさっそくサウンドバーの底面の四隅に置いてみた。定在波を考慮して、テレビスタンドの位置を部屋の真ん中へと移動させた。すると…。

なんと本当に音質が変わった!臨場感も違うし声の聞き取りやすさも全然違う。TV本体内蔵スピーカーよりもサウンドバーの音質の方が圧倒的に良くなった。

 インシュレーターを設置する時にサウンドバーの裏面を見て気づいたのだが、サウンドバー本体には薄いゴムの設置面が四隅と中央に一点、計五点付いていた。しかし、サウンドバーが横に広く土台からはみ出してしまっていたので、中央の一点だけでサウンドバー本体をずっと支えた状態で音を出していたのだ。これではサウンドバー本来の性能を引き出すべくもない。無知ゆえに『音質が雑魚すぎる』とか思ってしまい本当に申し訳ない。サウンドバー一つ使いこなすにも多少の知恵が必要なのである。

有機ELテレビを買いました

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最近購入したもの

 引っ越しを機にテレビを購入した。3LDKの家に引っ越してきたので、大型テレビを置く余裕ができた。前の家にはテレビが無かったが、前の家はそもそも1Rで狭かったので、テレビを置くようなスペースもなく(ほぼ本棚)、映像は基本的に11インチiPad Proで事足りていた。実家にはPanasonicの20型の液晶テレビがあったものの、テレビの音が煩くて嫌だったので、一人暮らしを始めてからはずっと遠ざけていた。

LG 55型 4Kチューナー内蔵 有機EL テレビ

 購入したのはLGの55型の有機ELテレビだ。今や液晶テレビ有機ELテレビの半額で買えるのだが、長く使うことも考慮して今回は大型の有機ELテレビにした。正直どのメーカーが良いのか自分では判断がつかなかったが、LGのこの有機ELテレビがAmazonで高い評価を多く得ていた点と、通常のテレビは60Hzの表示性能だが、この有機ELテレビは120Hzの表示性能を有している点が決定打となった。スピーカーも30Wで製造されているメーカーが多い中、このテレビは2.2ch/40Wの性能を有していたこともある。

LG 55型 4Kチューナー内蔵 有機EL テレビ OLED55B1PJA Alexa 搭載 2021 年モデル

アイリスプラザ テレビ台 ハイタイプ

 最近の薄型テレビは壁掛けできる仕様になっている(VESA規格というらしい)。しかし、引っ越し先は賃貸集合住宅なので、壁に穴を開けるわけにいかない。そこでテレビと同時に購入したのがアイリスプラザのテレビスタンドである。土台がしっかりしていてある程度の揺れにも耐えられそうな仕様のものを選んで購入した。

ソニー サウンドバー / HT-S100F

 もう一つ購入したのがソニーサウンドバーである。実は先ほどこのテレビのスピーカーが2.2ch/40Wである点に触れたが、ウーファーが付いていることにより臨場感が感じられ、音質は非常に良いものだった。しかし、集合住宅で隣の部屋に重低音が響いてしまう恐れがあることを懸念し、ウーファーのついていない2.0chのサウンドバーを購入した。臨場感は正直減ってしまったが、隣の部屋の住民に重低音で迷惑をかけるよりはよっぽどマシだと判断したからである。