まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(17)

目次

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ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(承前)

貨幣,およびいくつかの鋳貨の額面について

ロック『再考察』からの引用

MR. Lock says, pag. 22. That Money differs from Uncoin'd Silver only in this, That the Quantity of Silver in each piece of Money, is ascertain'd by the Stamp it bears; which is set there, to be a Publick Voucher of its Weight and Fineness.

 That it is Quantity of Silver Mankind give or take, or contract for, that they estimate the value of other things, and satisfy for them; and thus by its Quantity, Silver becomes the Measure of Commerce.

ロック氏は22ページで言う.『貨幣が鋳造されていない銀と異なる唯一の点は,貨幣の量目と純度との公的保証としてそこにふされている刻印によって,貨幣の各個片に含まれる銀の量が確認される点にある.』

『人類が他の諸物の価値を評価し,そしてそれら〔他の諸物〕に対して支払うのは,彼らが授受したり契約したりする銀の量であり,かくして銀は,その量によって,商業の尺度となる.』

(Barbon1696: 12)

ここでバーボンが引用している著作は,ジョン・ロック『貨幣の価値の引き上げに関する再考察』(John Locke, Further Considerations Concerning Raising the Value of Money, London, 1695)である.ロックは『再考察』で次のように述べていた.

二,人々が他の諸物の価値を評価し,それら〔他の諸物〕に対して支払うのは,彼らが授受したり契約したりする銀のによってである.かくして銀は,そのによって,商業の尺度となる.

四,貨幣が鋳造されていない銀と異なる唯一の点は,貨幣の量目と純度との公的保証としてそこにふされている刻印によって,貨幣の各個片に含まれる銀のが確認される点にある.

(Locke1695: 22-23,田中・竹本訳246頁)

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文献

マルクス『資本論』覚書(13)

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マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

「抽象的人間的労働」はいかなる意味で「抽象的」か

(2)ドイツ語第二版

 いま商品体の使用価値を度外視するならば,その商品体にまだなお残っているのは,労働生産物というひとつの属性だけである.だが,労働生産物もまた我々の手の中ですでに変貌を遂げている.我々がその〔労働生産物の〕使用価値を捨象〔抽象化〕するならば,その労働生産物を使用価値にする物体的な諸成分と諸形式をも捨象〔抽象化〕することになる.それ〔労働生産物〕はもはや机でも家でも糸でもその他の有用な物でもない.すべてその〔労働生産物の〕感性的性状は抹消される.それ〔労働生産物〕はまたもはや指物労働や建築労働や紡績労働やその他の或る特定の生産的労働の生産物ではない.労働生産物の有用な性格と共に,それ〔労働生産物〕に具現化された労働の有用な性格は消失し,したがって,これらの労働の様々な具体的な諸形式もまた消失する.こうした労働はもはや互いに区別されるのではなく,みなことごとく同じ人間的労働に,抽象的人間的労働に還元されるのである.

(Marx1872a: 12)

(3)フランス語版

 諸々の商品の使用価値をひとまず取って措くことにすると,商品に残るものはただ,それが労働生産物であるというひとつの性質だけである.しかし,労働生産物それ自体が我々の知らぬ間にすでに変貌を遂げているのである.我々が労働生産物の使用価値を捨象〔抽象化〕するならば,それ〔労働生産物〕にこの〔使用〕価値を与えていた物質的・形式的な諸要素はすべて一度に消え去ってしまう.それはもはや,例えば,机や家,糸などの有用な対象ではない.それはまた,糸織り女工や石工の労働生産物,すなわちいかなる特定の生産的労働の生産物でもない.労働生産物の特殊に有用な性格とともに,労働生産物に含まれている労働の有用な性格も,ある種類の労働を他の種類の労働から区別する様々な具体的な諸形式も消え去ってしまう.したがって,もはや,こうした労働の共通な性格しか残っていない.こうした労働はすべて,同じ人間的労働に,人間的労働力が支出された特殊な形式にかかわりなく人間的労働力の支出に還元されている.

(Marx1872b: 14,井上・崎山訳529頁,訳は改めた)

(4)ドイツ語第三版

 いま商品体の使用価値を度外視するならば,その商品体にまだなお残っているのは,労働生産物というひとつの属性だけである.だが,労働生産物もまた我々の手の中ですでに変貌を遂げている.我々がその〔労働生産物の〕使用価値を捨象〔抽象化〕するならば,その労働生産物を使用価値にする物体的な諸成分と諸形式をも捨象〔抽象化〕することになる.それ〔労働生産物〕はもはや机でも家でも糸でもその他の有用な物でもない.すべてその〔労働生産物の〕感性的性状は抹消される.それ〔労働生産物〕はまたもはや指物労働や建築労働や紡績労働やその他の或る特定の生産的労働の生産物ではない.労働生産物の有用な性格と共に,それ〔労働生産物〕に具現化された労働の有用な性格は消失し,したがって,これらの労働の様々な具体的な諸形式もまた消失する.こうした労働はもはや互いに区別されるのではなく,みなことごとく同じ人間的労働に,抽象的人間的労働に還元されるのである.

(Marx1883: 4–5,『資本論①』76〜77頁,訳は改めた)

このパラグラフはドイツ語第二版以降で大幅な加筆修正が施されている.すなわち,ドイツ語初版では,商品の物体的に多様な側面と,「労働」による商品の「統一性 Eineheit」の側面という二つの側面から論じられていたが,ドイツ語第二版以降では,こうした記述が撤回されているのである.

 こうした記述がなぜ撤回されたのかという点については,次のように考えられる.すなわち,「労働」と一言で言っても,それには「指物労働や建築労働や紡績労働やその他のある特定の労働」のように「様々な verschiednen 具体的諸形式」が考えられるため,商品の物体的な多様性と対照をなす労働の「統一性 Einheit」という一見鮮明な図式が直接的には成立しないことにマルクス自身が気が付いたからではないだろうか.

 加えて,ドイツ語第二版以降で見られるのは,単なる「労働」という表現から「抽象的人間的労働」という表現への変更である.ここで「抽象的人間的労働」はいかなる意味で「抽象的」なのであろうか.マルクスによれば,「労働生産物の使用価値を捨象する Abstrahiren」ことによって同時に「労働生産物を使用価値にする物体的な諸成分と諸形式をも捨象する abstrahiren」ことになるのだが,かくして労働生産物の「感性的性状が抹消される」のみならず,この抽象化作用に伴って「指物労働や建築労働や紡績労働やその他のある特定の労働」のような「これらの労働の様々な具体的な konkreten 諸形式もまた消失する」という.つまり,ここで「抽象的人間的労働」の「抽象的」とは,「これらの労働の様々な具体的な諸形式」という具体的な側面が消失したという事態と,その消失をみちびくところの労働生産物の使用価値の捨象(抽象化)という二つの側面を示していると言えるのではないだろうか.

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文献

マルクス『資本論』覚書(12)

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マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

商品の多様性と統一性

(1)ドイツ語初版

 それらの交換関係すなわちそれらが交換゠価値として現象するところの形式とは独立に,諸商品はそのために何よりも先ず価値として端的に考察されるべきである⁹.

 使用対象や財貨としては諸々の商品は物体的に多様な諸物である.これに対して,それらの価値が在ることはそれらの統一性をなしている.この統一性は自然からではなく,社会から生じてくる.多様な使用価値において多様に表現されているに過ぎない共通の社会的実体とは——労働である.

(Marx1867: 4)

このパラグラフからドイツ語初版と第二版以降とで記述が大幅に異なっているので,それぞれ分けて考察してみよう.

 「交換関係」とは或る商品と別の商品とを比較した場合の「割合 Proportion」のことであり,それは例えば「一クォーターの小麦」が「x量の靴墨,y量の絹,z量の金等々」との等式によって表現されたのであった.マルクスはこうした交換関係を一旦度外視して,「商品はそのものずばり価値として考察されるべき」だという.このようにマルクスは,いわゆる「現象形式 Erscheinungsform」としての「交換価値」ではなく,より本質的な「価値」そのものを考察すべきだというのである.

 商品は,その物体的な側面から見ると様々な姿形をしており,この点で商品は多様(Verschiedenheit)である.しかし,商品の「価値」について言えば,その外観のもつ多様性とは裏腹に,「労働 Arbeit」という「統一性 Einheit」にその基盤を持っている.つまり「価値」の実体とは「労働」に他ならない.マルクスが「統一性が自然ではなく社会から生じる」という場合,商品のその物体がもっている自然な性質に「価値」の起源があるのではなく,「労働」という社会的な営みの中に「価値」の起源があるということが,含意されている.

原注9

⁹)我々が今後「価値」という語をそれ以上規定せずに用いる場合,それは交換価値について取り扱っている.

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文献

ラシャトル版かオリオル復刻版か?——フランス語版『資本論』をめぐって

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はじめに

 フランス語版『資本論』には,ラシャトル版とオリオル復刻版と呼ばれる二つの版本があることが知られている.現在,Googleブックスを通じて閲覧可能なフランス語版『資本論』のデジタルデータには,オックスフォード大学所蔵のものと,ローマ・サピエンツァ大学所蔵のものがある.以下では,これらの所蔵本がラシャトル版なのかオリオル復刻版なのかという点について見ていくことにする.

シャトル版(1872-75)とオリオル復刻版(1884/85)

 フランス語版『資本論』には,いわゆるラシャトル版とオリオル復刻版があることが知られている.

 フランス語版『資本論』は,ドイツ語版『資本論』の2版にかなりの改訂を加えた版本です.したがってフランス語版『資本論』は,『資本論』研究においてドイツ語版とはまた独自な価値のある版本とされています.これは1872年から1875年にかけて,44分冊を9回シリーズに分けてパリで発行されました.翻訳者はジョセフ・ロア,発行はラシャトル出版社でした.この版本を,後年に出版された復刻版と区別して,ラシャトル版と呼びます.ウローエヴァの調査によれば,ラシャトル版は9シリーズが順次刊行された後,すべてのシリーズを仮綴して1冊の本としても発行されたと言われています.

 この後,ラシャトルから出版社を譲られたアンリ・オリオルが,品切れとなった一部のシリーズを1884年に増刷します.また,ラシャトルの版本全体の復刻版を1885年に刊行します.これらは,紙型の組み換えなどがおこなわれ,ラシャトル版とは体裁の異なっている版本です.こちらは前者と区別してオリオル復刻版と呼びましょう.このオリオル復刻版については,印刷体裁の異なるいくつかの異本があることが知られています.

久保ほか2003:9)

シャトル版とは,1872年から1875年にかけて分冊で発行されたものと,その全体を指す.これに対して,オリオル復刻版とは,1884年に増刷された分冊と,1885年に発行された全体の復刻版を指す.いずれの版本も本文に差異はないとされているが,細部を比較すると,章タイトル飾りや挿画が違っていることが確認されている.

 フランス語版『資本論』が分冊で発行されたことにより,一冊の本として閉じられたもののなかには,ラシャトル版とオリオル復刻版が混在しているものがあり得る.実際,上の東北大学の報告(久保ほか2003:10以下)で示されているように,パスカルが所蔵していたフランス語版『資本論』は,途中(232ページ)まではマルクスパスカルに謹呈したラシャトル版で,それ以降(233ページから)はのちにパスカル自身が購入したオリオル復刻版が綴じられている.

 これらの点を踏まえて,以下では現在Googleブックスで閲覧可能なフランス語版『資本論』がラシャトル版なのかそれともオリオル復刻版なのかを検討する.

オックスフォード大学所蔵本

 まずはオックスフォード大学所蔵のフランス語版『資本論』を見てみよう.

表紙には「アンリ・オリオル監修」(HENRY ORIOL, DIRECTEUR)の文字が見える.これは,この版本がオリオル復刻版であることを示すものであろうか.その判断については留保しつつ,続いて224ページ17章冒頭を見てみよう.

他の章では飾りの中に"CHAPITRE"と表記されているが,ここでは"XVII"とだけ表記されている.続いて268ページの挿画を見てみよう.

ここには楽器だけが描写されているが,次に見るように楽器と楽譜が描写されているものや,ものによっては人物画が描かれているもの等が確認されている.人物画のものはパスカル本に含まれおり,これがオリオル復刻版の特徴であるといわれている.

 このオックスフォード所蔵本は,東北大学の報告では中野本と呼ばれている版本の特徴に一致している.「中野本はラシャトル版の特徴を備えて」(久保2003:10)いるとされているので,オックスフォード所蔵本はラシャトル版の可能性が高い.しかしながら,上で見たように,表紙には「アンリ・オリオル監修」の名前が付いている.この点からオリオル復刻版の可能性も排除できない.

 もともとラシャトル版の表紙に「アンリ・オリオル監修」と表記されていたのかもしれないが,この点については他の版本を比較しないことにはなんとも言えない.

ローマ・サピエンツァ大学所蔵本

 次にローマ・サピエンツァ大学所蔵本のフランス語版『資本論』を見ていこう.

 この所蔵本の表紙はスキャンされておらず,そのため,表紙に「アンリ・オリオル監修」の文字が付されていたのか不明である.さしあたり比較可能な224ページを見てみよう.

オックスフォード大学所蔵本とは異なって,こちらでは"CHAPITRE"の文字が見える.また268ページの挿画は次のようになっている.

オックスフォード大学所蔵本とは異なって,こちらでは楽器と楽譜が描かれている.

以上のようにオックスフォード大学所蔵本とローマ・サピエンツァ大学所蔵本とを比較することによって,フランス語版『資本論』に異版また異刷がある可能性が確認された.

文献

『シン・エヴァ』を外国語で観て気づいたこと

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はじめに

 先日よりAmazonプライム・ビデオで『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が多言語で全世界に配信されるようになりました。

 私はさっそく英語・フランス語・ドイツ語の吹き替え字幕で『シン・エヴァ』を堪能してみました。『シン・エヴァ』だけでは飽き足らず、改めて『序』もドイツ語で観てみました。

『シン・エヴァ』を外国語で観て気づいたこと

 普段はあまり外国語で映画を観ないので、新鮮な気づきがいくつかありました。その一つが、吹き替えと字幕とでは、同じ言語であっても、キャラクターが異なる単語や順序で物事を述べていることです。

フランス語のリツコ「私の経験よ」

 例えば、"EVANGELION 3.0+1.01"のアイキャッチが出てくるちょうど直前のパートの終わりに、副長の赤城リツコが艦長の葛城ミサトに対して述べるシーンを挙げましょう。フランス語の吹き替えでは、リツコは「私の経験よ」というセリフを

"Je le sais par expérience."

(私はそれを経験上知っているのよ)

と述べているのですが、これが字幕では

"Je m'en souviens."

(私は身を以って覚えているのよ)

と表示されています。このように吹き替えと字幕ではそれぞれ単語の選択や表現の仕方が異なっています。

 元のセリフは「私の経験よ」というなんともシンプルな言葉であり、その鍛え抜かれたシンプルさがエヴァのセリフの特徴と言っても過言ではありません。しかしながらそのシンプルなセリフゆえに、我々はそれをどう解釈したら良いのかわからないと戸惑うこともしばしばあります。

ドイツ語のKREDITの発音

 フランス語では登場人物は基本的に呼び捨てか役職をつけて呼ばれていました。これに対して、ドイツ語では「シンジくん」「ミサトさん」のように「くん Kun 」「さん San 」付けで呼ばれていました。

 ドイツ語の吹き替えで特に気になったのは、KREDITの発音が「クレーディト」([ˈkʁeːdɪt])ではなく「クレディート」([kʁeˈdiːt])に変わっていたことです。ドイツ語の辞書を引くと、「クレーディト」と発音するのは中性名詞"das Kredit"(意味は複式簿記*1の「貸方」、対義語は「借方 Debet 」)であり、「クレディート」と発音するのは男性名詞"der Kredit"(意味は金融における「信用貸付」、対義語は「預金 Guthaben 」)です。

 『シン・エヴァ』日本語オリジナルでは「クレーディト」と発音しているのですから、そこにはKREDITが供給する物資と、それを受けとる第三村などの共同体との間で、バランスシートの左右が一致するようなイメージも含まれているのではないかと考えられます。組織としてのKREDITが第三村などの共同体に対してローン(Darlehen)を組ませているわけではないと考えられますので、ドイツ語吹き替えの「クレディート」という発音はおかしいと思います。

 エヴァ作中ではどういう理由か知りませんが、ドイツ語が主要外国語(公用語)として用いられています(「人類補完計画 Menschheit Instrumentalitäts Projekt 」もドイツ語で表記されていました)。なので組織の名前であるKREDITもドイツ語由来の固有名詞となるわけですが、ドイツ語吹き替えで「クレディート」ではなく「クレディート」と発音が変更されてしまったのは明らかに誤訳ではないかと私は考えます*2

おわりに

 翻訳とはいわばある種の解釈に他なりません。したがって、外国語の吹き替えや字幕によって映像翻訳者によるエヴァに対する解釈が示されていると言えます。外国語でエヴァを観ながら『はたしてこういう解釈でいいのだろうか』と考えるのも一興かと思います。英語・フランス語・ドイツ語・etc.、さらに吹き替えと字幕で二重に多種多様な解釈が示されていますし、これほどまでに多言語から音声字幕を選択できるのはサブスクリプションならではの楽しみ方ではないかと思いました。

*1:複式簿記」は英語で"Double-entry bookkeeping system"という。もしかして『Q』以降に出てきたダブルエントリーシステムって、庵野秀明監督が株式会社カラーを経営する中で複式簿記を学んで得た発想から来ているんじゃないかなー、などと思ったり、思わなかったり…。

*2:誤訳と言えば、『序』の葛城ミサトの「風呂は命の洗濯よ」というセリフが、アマプラのドイツ語吹き替え字幕では"Ein Bad reinigt Körper und Seele."(風呂は心も体も浄めるのよ)となっていた。「風呂は命の洗濯よ」という元のセリフは、日本語としても若干戸惑いを覚えるような、シンプルで深遠な言い方ではある。注意しなければならないのは、ミサトは「風呂は身体の洗濯よ Ein Bad reinigt Körper. 」とは言っていないという事実である。つまりここでミサトが「身体 Körper 」に言及していない意味をよく考えなければならない。結論から言えば、この箇所はシンプルに"Das Bad ist die Wäsche des Lebens."(風呂は命の洗濯よ)と訳出すべきである。なぜなら、「風呂 Bad 」が「身体 Körper 」を「洗濯する waschen 」のは当たり前のことである以上、ここで「身体 Körper 」に言及する必要はないからである。そして日本語の「いのち Leben 」は「たましい Seele 」とは区別される概念である。"Seele"が「魂」に対応する点については、『新世紀エヴァンゲリオン』第拾四話「ゼーレ、魂の座 SEELE, die Konstellation der Seelen 」のタイトルを参照されたい。また先のセリフが『新世紀エヴァンゲリオン』第拾八話「命の選択せんたくdie Wahl des Lebens 」のタイトルと音韻の観点で重なる点も考慮すべきかどうかは分からない。どちらかといえば、エヴァの中で「風呂」が持つ意味を視野に入れるべきかもしれない。エヴァの中で風呂が出てくるシーンは少なくない。綾波レイはNERVでL.C.L.の浴槽に浸からないと生き長らえることができない。この意味では明らかに「風呂は命 Leben の洗濯」なのかもしれない。

ライプニッツ『モナドロジー』覚書(4)

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ライプニッツモナドジー』(承前)

〈事物の要素〉としての「モナド

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

3 さて,部分がないところには,拡がり〔延長〕も,形も,可分性もない.そしてこうしたモナドは,自然の真の原子であり,ひとことで言えば事物の要素である.

(Leibniz1839: 705,Leibniz1885: 607,谷川・岡部訳13頁)

ここでライプニッツは「モナド」を「自然の真の原子アトム」だと述べている.いわゆる原子論アトミズムの言説は,それ以上分割できない極小の「原子アトム」からあらゆる事物が構成されているというものである.これに対して,ライプニッツの「モナド」は,それが部分を持たないがゆえに「可分性 divisibilité possible 」を持たないという点で,いわゆる原子論における「原子アトム」と同じ特徴を兼ね備えている.しかしながら,「モナド」はそれにとどまらず,「拡がり〔延長〕も,形も」ないのであるから,原子論のようにそれ以上分割できないものではなくその自然本性からして分割できないものである.これこそがここで「モナド」が「自然の真の原子アトム」といわれる所以であり,原子論における「原子アトム」と異なっている点である.

 この箇所はケーラーのドイツ語訳では次のように翻訳されている.

§3 さて,部分がないところには,縦・横・奥行きの拡がり〔延長〕も,形も,可分性もない.そしてこうしたモナドは,自然の真の〈原子〉であり,ひとことで言えば事物の要素である.

(Leibniz1720: 2-3)

ケーラーのドイツ語訳はフランス語版とほとんど同じ意味だが,「拡がり〔延長〕 étendue 」の意味を,より詳しく具体的に三次元の空間として「縦・横・奥行きの拡がり〔延長〕 eine Ausdehnung in die Länge, Breite und Tieffe 」と訳している.これはケーラーによる補訳だと思われるが,この補訳は適切である.というのも,「モナド」が三次元空間上に存在する物体とは次元の異なるものであるということが,ここでのライプニッツの主張だからである.

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ライプニッツ『モナドロジー』覚書(3)

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ライプニッツモナドジー』(承前)

「単純な実体」の〈集合〉としての「複合体」

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

2 複合体があるからには,単純な実体がなくてはならない.複合体とは,単純な実体の集まりないし〈集合〉に他ならないのである.

(Leibniz1839: 705,Leibniz1885: 607,谷川・岡部訳13頁)

ここでは「集合 aggregatum 」(aggregatumはラテン語aggregatusの男性単数対格)という言葉だけが隔字体で強調されている.この「集合」とは,数多くの「単純な実体」が群れのように集まって一つのかたまりを形成しているようなイメージであろう.

 (谷川・岡部訳ではcarが訳出されていないが)「というのも car 」以下の文は,その直前の「複合体があるからには,単純な実体がなくてはならない」という文の論理的な理由を示している.すなわち,「複合体があるからには,単純な実体がなくてはならない」という推論が成立するためには別の前提を必要とする.その前提こそが「複合体とは,単純な実体の集まりないし〈集合〉に他ならない」ということなのである.

 ライプニッツにとって「単純なもの」という存在が「複合的なもの」を成立させる前提条件であるということは,『理性に基づく自然と恩寵の原理(1714年)』(Principes de la Nature et de la Grace, fondés en raison, 1714)では次のように述べられている.

複合的なもの,すなわち物体は,多である.そして単純な実体,生命,魂,精神は,一である.単純な実体は至るところにあるはずだ.なぜなら,単純なものがなければ,複合的なものもありはしないだろうから.したがって,自然全体は生命に満ちている.

(Leibniz1885: 598,谷川・岡部訳77頁)

ここで「単純な実体」が「生命,魂,精神」であり,「複合的なもの」が「物体」とされていることから,ライプニッツはある種の〈物心二原論〉を展開していると言えるだろう.加えてここでライプニッツは「単純な実体」と「複合体」の関係を,「一」と「多」の関係として捉えているが,両者は矛盾する対立概念というよりは,むしろ同一の存在が有している二つの側面として理解されるべきなのかもしれない.

 ちなみにハインリッヒ・ケーラーのドイツ語訳では次のように訳されている.

§2 〈複合体 composita 〉があるからには,そうした単純な実体がなくてはならない.というのも,複合物とは,単純な実体の集合メンゲないし〈総計アグレガート〉に他ならないからである.

(Leibniz1720: 2)

Mengeというドイツ語は,数学上の概念としては「集合」を意味する.ライプニッツが数学を得意とする万能人だったことを考慮すると,もしかするとケーラーはMengeという訳語を用いることによって,そこに数学上の含意を持たせたのかもしれない.

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