まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ヘーゲル『精神現象学』覚書(8)

目次

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ヘーゲル精神現象学』(承前)

序文(承前)

ヘーゲル独特の皮肉

 右に挙げたような説明を要求することは,その要求を満足させることとならんで,本質的なことがらに従事していることと見なされやすいものである.なんらかの哲学的著作について,その内奥にあるものは,当の著作の目的と帰結を措いて,それ以上にいったいどこで表明されているというのか.さらには,そうした目的と帰結がはっきりと認識されるのは,なによりも,同時代人たちがそうはいってもおなじ領域で生みだしたものとの相違をつうじてのことではないのか.〔ひとはそう主張するわけである.〕とはいえ,このようなふるまいが,認識するにさいしてそのはじまり以上のものと見なされ,それがまた現実的な認識と見なされる,などというはこびとなったとしてみよう.その場合には,じっさいには手管に数えいれられるべきものが生まれているのであって,それによってことがらそのものが回避される.そのうえ,ことがらをめぐって真剣に努力しているかのような外観と,当の努力を現実には省略すること,この両者がむすびあわされているのである.

(Hegel1807: ⅳ-ⅴ,熊野訳(上)13〜14頁)

この箇所はヘーゲル独特の皮肉が効いていて,一見すると肯定的な見解が示されているようにも見えるが,じっさいには否定的な見解が示されているのである.

 前のパラグラフの冒頭には,「或る哲学的労作が,対象をおなじくするいくつかのべつの努力に対して立っていると信じられる関係を規定してみるとしよう」と述べられていた.例えば,ヘーゲルの著作がフィヒテシェリングといったドイツ古典哲学者の著作と比較検討され得るであろう.そういった同時代人の著作と比較することによってそれぞれの違いが分かるという主張が,ここでは通俗的な見解であるとされている.しかしながら,前パラグラフに見たように,そうした比較の仕方は,それぞれの立場を固定化し一面化することによる説明に過ぎなかったのである.「右に挙げたような説明を要求することは,その要求を満足させることとならんで,本質的なことがらに従事していることと見なされやすいものである」がしかし,実はそれはなんら本質的なことがらではないのである.

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文献

アダム・スミス『国富論』覚書(5)

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アダム・スミス国富論』(承前)

序論および本書の構想(承前)

第一編の主題

 労働の生産力のこうした改善の原因と,労働の生産物が社会のさまざまな階級や境遇の人々のあいだに自然に分配される秩序とが,この研究の第一篇の主題である.

(Smith1789: 3,大河内ほか訳およびガルヴェ訳)

第一編の目次は以下のようになっている.

第一篇 労働の生産力における改善の原因と,その生産物が国民のさまざまな階級のあいだに自然に分配される秩序について

  • 第一章 分業について
  • 第二章 分業をひきおこす原理について
  • 第三章 分業は市場の大きさによって制限される
  • 第四章 貨幣の起源と使用について
  • 第五章 商品の真の価格と名目上の価格について,すなわち,その労働価格と貨幣価格について
  • 第六章 商品の価格の構成部分について
  • 第七章 商品の自然価格と市場価値について
  • 第八章 労働の賃銀について
  • 第九章 資本の利潤について
  • 第十章 労働と資本の種々な用途における賃銀と利潤について
     第一節 職業自体の性質から生じる不均等
     第二節 ヨーロッパ諸国の政策によってひきおこされる不均等
  • 第十一章 土地の地代について
     第一節 つねに地大を生じる土地生産物について
     第二節 ときには地代を生じ,ときにはそれを生じない土地生産物について
     第三節 つねに地代を生じる種類の生産物と,ときには地代を生じときにはそれを生じない種類の生産物との,それぞれの価値のあいだの比率の変動について
     過去四世紀間における銀の価値の変動にかんする余論
      第一期
      第二期
      第三期
       金銀の比価の変動
       銀の価値は依然として減少し続けているのではないかという疑問の根拠
       改良の進歩が三種の原生産物に及ぼすさまざまな効果
        第一の種類
        第二の種類
        第三の種類
       銀の価値の変動にかんする余論のむすび
     改良の進歩が製造品の真の価格に及ぼす効果
     本章の結論

(Smith1789: ⅶ-ⅹ,大河内ほか訳)

第一章から第三章までが分業論となっており,第四章が貨幣論,第五章から第七章までが商品論,第八章から第十章までが労働と資本について,第十一章が地代論となっている.これらの目次から,第一編が今日古典派経済学として知られている内容の中核をなしていることが見て取れよう.

(つづく)

文献

アダム・スミス『国富論』覚書(4)

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アダム・スミス国富論』(承前)

序論および本書の構想(承前)

 またこの供給が豊かであるか乏しいかは,右の二つの事情のうち,後者より前者のほうにいっそう多く依存しているように思われる.狩猟民や漁労ぎょろう民からなる野蛮民族のあいだでは,労働に耐えることのできるものはだれでも,多かれ少なかれ有用労働に従事して,自分自身のために,また自分の家族や種族のなかで齢をとりすぎていたり,あまりにも若かったり,ひどく虚弱であったりして,狩や漁に出かけることのできないような人たちのために,できるだけ生活の必需品と便益品を供給しようと努力する.けれども,そのような民族はみじめなほどに貧しいので,窮乏のあまり,たとえば幼児や老人や長患いに悩む病人を,ときにはじかに打ち殺し,ときには遺棄して,餓死または野獣の餌食にまかせざるをえなくなるほどである.あるいはまた,少なくともそういう必要にせまられている,と思いこむほどである.これに反して,文明が進み繁栄している国民のあいだでは,多数の人々はぜんぜん労働しないのに,このうちの多くの者は,働いている人々の大部分にくらべて一〇倍もの,しばしば一〇〇倍もの,労働生産物を消費する.それでもなお,その社会の全労働の生産物はたいへん豊富なので,すべての人々にたいする供給は豊かな場合が多く,最も低く最も貧しい階層の職人ですら,もしかれが倹約家で勤勉であるなら,どんな野蛮人が獲得できるよりも多くの生活の必需品と便益品の分け前を享受できるほどなのである.

(Smith1789: 2-3,大河内ほか訳およびガルヴェ訳)

ここで重要なことは,国民が享受することができる生活必需品の供給の増大は,有用労働への従事者の多さに比例するのではないという点である.「文明が進み繁栄している国民のあいだでは,多数の人々はぜんぜん労働しないのに」「狩猟民や漁労民からなる野蛮民族のあいだでは,労働に耐えることのできるものはだれでも,多かれ少なかれ有用労働に従事して」いるのである.多く働けば働くほど生活必需品を得られるのではなく,文明化された国民は別の仕組み(この答えを先に述べておくと「分業」である)を有しているから豊かなのである.

savageは「野蛮」か

 ここでは大きく分けて二つのネイションが生産力の観点から比較されている.それら二つのネイションとはすなわち「狩猟民と漁撈民からなる野蛮民族 savage nations of hunters and fishers 」と「文明が進み繁栄している国民 civilized and thriving nations 」のことである.前者は岩波文庫(水田洋監訳)では「未開民族 savage nations 」と訳されている.savageを「野蛮」と訳すべきか「未開」と訳すべきか迷うところである.ちなみに,中村隆之(1975-)はフランス語のbarbareとsauvageの違いについて次のように述べている.

 ところでいま「野生人」という言葉を使ったのには理由があります.フランス語では「野蛮人」を指す"barbare"(バルバール)のほかに"sauvage"(ソヴァージュ)がしばしば用いられるからです.これらの語は,文明を知らない状態にあるん人々を指す点では同じですが,"barbare"が文明言語を話せない人というニュアンスを帯びるのにたいし,"sauvage"は語源的には「森に住む人」を指します.ですから"sauvage"のほうは動物との親近性がある語として解されます.森のなかで未開生活を送る人々,というイメージが典型です.「未開人」ともよく訳されますが,ここでは「野生人」としておきます.

中村2020:37,強調引用者)

中村によれば,古代ギリシャ人が言語を話さぬ異国人のことを「バルバロス」と呼んだことは,古くはヘロドトス『歴史』にみられるという.さらに中村は別の箇所で次のように述べている.

モンテスキューは『法の精神』(一七四八年)で"sauvage"(野生人)と"barbare"(野蛮人)を分類し,前者は狩猟民を典型とし,団結できない小民族,後者は牧畜民を典型とし,団結できる小民族としました.これらの野生/野蛮の段階と対置されるのが文明であり,野生/野蛮の段階にある民族は土地を耕作しないとしました.

中村2020:57,強調引用者)

スミスが先に「狩猟民と漁撈民からなる野蛮民族 savage nations of hunters and fishers 」と述べていることは,モンテスキューのこの分類と重なっているように思われる*1

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文献

*1:アダム・スミスモンテスキュー受容について詳しくは大江2014を参照されたい.「この使用例を『国富論』まで時系列に沿って追ってみると…(中略)…Aノートでは,いずれかといえばタテの歴史4段階論(狩猟,牧畜,農業,商業)の中に位置づけられていたかに見える「狩猟民」ないし「牧畜民」としてのアラブ人・タタール人の特質が,Bノートでは明確にアジアの「民族nation」のそれとして,アテナイやローマあるいはとくに「土地の分割」の有無に関わる「ヨーロッパの近代的諸統治」(Hb73)などとの,いわばヨコの比較論へと移し替えられていることも注目されよう.スミスにおけるモンテスキューの文脈の受容が時を追って進行しているわけである.」(大江2014:96).

アダム・スミス『国富論』覚書(3)

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アダム・スミス国富論』(承前)

序論および本書の構想(承前)

一国の経済を左右する二つの事情

 だが,この割合は,どの国民の場合も,次の二つの〔異なった〕事情によって左右されるにちがいない.すなわち第一は,国民の労働がふつう行なわれるさいの熟練,技能,判断力の程度如何いかんであり,また第二は,有用な労働に従事する人々の数と,そのような労働に従事しない人々の数との割合である.どの国でも,地味,気候,国土の大きさがどうであれ,国民にたいする年々の供給が豊かであるか乏しいかは,その特定の状況のもとで,右の二つの事情に依存するにちがいない.

(Smith1789: 1-2,大河内ほか訳およびガルヴェ訳,〔〕は引用者による補足)

前パラグラフに出てきた「割合」は,生産物量(自国の生産物と他国から購入した生産物の総計)と消費者数(≠国民の数)との比率のことであるが,この割合を決めるのは「二つの異なった事情」,すなわち(1)労働者の技術力(技量や手先の器用さや,経験に基づく判断力など),そして(2)一国民に占める「有用労働」への従事者数の割合である.

 「地味,気候,国土の広さ」はそれぞれの地域ごとに異なっており——その違いをモンテスキューは『法の精神』で考察した——,地球上に同じ環境の場所は一つとして存在しない.だからこそ,各地を比較対照し分析するための共通の指標が必要となる.その指標となるのが,上の「二つの事情」である.

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アダム・スミス『国富論』覚書(2)

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アダム・スミス国富論』(承前)

序論および本書の構想(承前)

供給の良し悪しを決めるもの

 したがって,この生産物またはそれで購入されるものの,これを消費するはずの人々の数にたいして占める割合が大きいか小さいかにおうじて,国民が必要とするすべての必需品と便益品が十分に供給されるかどうかが決まるであろう.

(Smith1789: 1,大河内ほか訳およびガルヴェ訳)

前パラグラフでスミスは「この必需品と便益品は,つねに,労働の直接の生産物であるか,またはその生産物によって他の国民から購入したものである」と述べていた.このことを図示すると以下のようになる.

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 ここで注意しなければならないのは,この供給の良し悪しは,その国民の数ではなく,「消費する人間の数」(ユーザー数)に依存しているという点である.例えば,世の中には喫煙者もいれば禁煙者もいるように,喫煙者は総人口と同じではない.喫煙者が少なく禁煙者が多いとすれば,たばこは潤沢にあることになるだろうし,逆もまた然りである.このように供給の良し悪しを決める要因の一つは,総人口というよりはむしろその消費者の数なのである.

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ヘーゲル『精神現象学』覚書(7)

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ヘーゲル精神現象学』(承前)

序文(承前)

矛盾の把握の仕方

いっぽう或る哲学的体系に対して矛盾していることがみとめられる場合,ひとつには,その矛盾そのものがこうしたしかたではふつう把握されない.もうひとつには,意識がその矛盾をとらえたとしても,当の意識はつうじょう,矛盾をその一面性から解放し,あるいは自由なものとして保持することを知らない.さらには,あらそい,反対しあっているかに見えるものが採っている形態のうちに,たがいに対して必然的な契機を認識するすべも知らないのである.

Hegel1807: ⅳ,熊野訳(上)13頁)

ここでヘーゲルは,通俗的な把握の仕方に対する批判を展開している.

 第一に「或る哲学的体系に対して矛盾していることがみとめられる場合,ひとつには,その矛盾そのものがこうしたしかたではふつう把握されない」.ここで「こうしたしかたでは auf diese Weise 」と言われているのは,意識がただ矛盾の存在を認めるだけで,それを「全体の生命」の観点から体系的に捉えていないということであろう.

 第二に「意識がその矛盾をとらえたとしても,当の意識はつうじょう,矛盾をその一面性から解放し,あるいは自由なものとして保持することを知らない」.これも同様に,意識が矛盾の一面性に固執することによって,つぼみが花開くようにして前の形態を否定していくことで変化していく「流動的な本性」を見落としているという批判である.

 第三に「あらそい,反対しあっているかに見えるものが採っている形態のうちに,たがいに対して必然的な契機を認識するすべも知らない」.これは要するに,反対しあっているものどもを「有機的な統一の契機」とみなすことによってそれら対立物のうちに必然的な連関があることを見落としているという批判であろう.

 裏を返せば,上述の批判のうちに,ヘーゲル自身による矛盾の把握の仕方と彼の哲学における体系への志向性が見えてくるはずである.

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マルクス『資本論』覚書(11)

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マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

一つの商品にみられる使用価値は一つだけではない

(1)ドイツ語版『資本論』初版

 交換価値の実体が商品の物理的な手掴みの存在あるいは使用価値としての商品の定在とはまったく違ったものであり独立なものであるということは,商品の交換関係がひと目でこれを示している.この交換関係は,まさに使用価値の捨象によって特徴づけられているのである.すなわち,交換価値から見れば,ある一つの商品は,それ*1がただ正しい割合でそこにありさえすれば,どのほかの商品ともまったく同じなのである⁸.

(Marx1867: 3-4,井上・崎山訳526頁,下線引用者)

(2)ドイツ語版『資本論』第二版

 この共通なものは,商品の幾何学的とか物理学的とか化学的などというような自然的属性ではありえない.およそ商品の物体的な属性は,ただそれらが商品を有用にし,したがって使用価値にするかぎりでしか問題にならないのである.ところが,他方,諸商品の交換関係を明白に特徴づけているものは,まさに諸商品の使用価値の捨象なのである.この交換関係のなかでは,ある一つの使用価値は,それがただ適当な割合でそこにありさえすれば,ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけのものと認められるのである.あるいは,かの老バーボンが言っているように,「一方の商品種類は,その交換価値が同じ大きさならば,他方の商品種類と同じである.同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには差異や区別はないのである⁸」.使用価値としては,諸商品は,なによりもまず,いろいろに違った質であるが,交換価値としては,諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり,したがって一原子アトムの使用価値も含んではいないのである.

(Marx1872a: 12,岡崎訳76頁,下線引用者)

(3)フランス語版『資本論

 この共通なものは,商品の幾何学的とか,物理学的とか,化学的などというような自然的な属性ではありえない.およそ商品の自然的な属性は,ただそれらが商品を,使用価値を生む有用なものにするかぎりでしか,問題にならないのである.ところが,他方,商品の交換において,諸商品の使用価値は捨象され,いかなる交換価値も,まさにこの抽象に明白に特徴づけられているのである.交換においては,ある一つの使用価値は,それが適当な割合でありさえすれば,ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけの価値がある.あるいは,かの老バーボンが言っているように,「一方の商品種類は,その交換価値が同じならば,他方の商品種類と同じである.そのあいだでその〔交換〕価値が同じであるような諸物のうちにはいかなる差異も区別も存在しない.¹」使用価値としては,諸商品は,なによりもまず,いろいろに違った質であるが,交換価値としては,ただいろいろに違った量でしかありえない.

(Marx1872b: 14,井上・崎山訳527頁,ただし訳文を一部補った.)

(4)ドイツ語版『資本論』第三版

 この共通なものは,商品の幾何学的とか物理学的とか化学的などというような自然的属性ではありえない.およそ商品の物体的な属性は,ただそれらが商品を有用にし,したがって使用価値にするかぎりでしか問題にならないのである.ところが,他方,諸商品の交換関係を明白に特徴づけているものは,まさに諸商品の使用価値の捨象なのである.この交換関係のなかでは,ある一つの使用価値は,それがただ適当な割合でそこにありさえすれば,ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけのものと認められるのである.あるいは,かの老バーボンが言っているように,「一方の商品種類は,その交換価値が同じ大きさならば,他方の商品種類と同じである.同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには差異や区別はないのである」⁸.使用価値としては,諸商品は,なによりもまず,いろいろに違った質であるが,交換価値としては,諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり,したがって一原子アトムの使用価値も含んではいないのである.

(Marx1883: 4,岡崎訳76頁)

内容的には前のパラグラフに引き続き,マルクスは「共通なもの」の特徴を説明している.すなわち「共通なもの」は,あくまで交換価値に関する概念であって,使用価値に関する概念ではない,というのである.どういうことか.

 諸々の商品を使用価値の観点から比較すると,それぞれの使用価値は異なっている.これに対して,ある商品と別の商品との交換が成立する場合には,使用価値がどんなに異なっていようとも,交換価値の観点からみると両者の間に差異はない.商品間の交換関係は,使用価値を捨象するからこそ成立するのであり,これを説明するのが「共通なもの」なのである.

 ところで,このパラグラフはドイツ語版の初版から第二版にかけて叙述に変更が加えられている.とりわけ初版では「使用価値の捨象 Abstraktion vom Gebrauchswerth 」という箇所の「使用価値」が単数形であったが,第二版以降では「使用価値」が複数形として「商品の使用価値の捨象 Abstraktion von ihren Gebrauchswerthen 」へと修正されている.どうしてこのような修正が加えられたのであろうか.この点に関しては,まずは,一つの商品にみられる使用価値の複数性について確認しておきたい.例えば,筆の使用価値は紙に文字を書くことであるが,筆先でくすぐることもできる.紙の使用価値はそこに書かれるためだけでなく,汚れた物を拭いたりすることもできる.このように一つの商品であっても使用価値を複数有していることもあり,この点に気づいたマルクスは第二版以降でこの箇所の「使用価値」を複数形に直したのである.

 さらにまた「すなわち,交換価値から見れば,ある一つの商品は,それがただ正しい割合でそこにありさえすれば,どのほかの商品ともまったく同じなのである」(初版)という一文が,「この交換関係のなかでは,ある一つの使用価値は,それがただ適当な割合でそこにありさえすれば,ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけのものと認められるのである」(第二版)という一文へと変更されており,つまり〈ある一つの商品とほかの商品との比較〉から〈ある一つの使用価値とほかの使用価値との比較〉へと置き換えられている.なぜこのような転換がなされたのであろうか.おそらく,商品間の比較では,「ある一つの商品」のうちには複数の「使用価値」があり得るために,〈或る商品のもつ複数の使用価値〉と〈別の商品のもつ複数の使用価値〉とを比較するとなると,議論が曖昧で錯綜してしまうおそれがあったからであろうと推測される.

注8の検討

 ここでマルクスの議論の背景にあるのは,ニコラス・バーボンの以下の主張である.

⁸)「ある種の諸商品は,その価値が同等であれば,別種の諸商品と同じものである.〔」「〕同等の価値をもつ諸物に差異や区別はない…〔中略〕…100ポンドの値打ちがある鉛や鉄は,100ポンドの値打ちがある金や銀と同じ大きさの価値を持っている.」(N・バーボン,前掲書,53ページおよび7ページ.)

(Marx1867: 4,岡崎訳76頁,ただし訳文は改めた.)

以下,気づいた点を箇条書きで列挙しておく.

  • ドイツ語版初版のみ「差異や区別はない no difference or distinction 」という箇所が隔字体で強調されている.この強調は,バーボンの原文には見られない.
  • バーボンの原文でイタリックになっているのは"For one sort of wares are as good as another, if the value be equal."(Barbon1696: 53)という一文である.これはマルクスの引用では強調されていない.
  • 岡崎次郎訳は,引用ページ数を「五三ページ,五七ページ」と訳している.しかし,この「五七ページ」は間違いである."There is no〜"以下の文章は,バーボンの原著では7ページにある.
  • マルクスによる引用の最後にある"silver and gold"は,バーボンの原文では"Silver or Gold"(Barbon1696: 7)となっている.この限りで,マルクスによる引用は不正確である.
  • マルクスは,バーボンの「価値 Value 」をドイツ語で「交換価値 Tauchwerth 」と訳している.この点,ValueとWorthについては拙稿「マルクス『資本論』覚書(6)」を参照されたい.

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文献

*1:井上康・崎山政毅は「「それ〔sie〕」は,当然ながら,冒頭の「実体〔die Substanz〕」である」(井上・崎山2017:101)と述べているが,この「それ〔sie〕」は直前の「ある一つの商品〔eine Waare〕」を指しているのではないか.どうして井上・崎山が「当然ながら」冒頭の「交換価値の実体」を指していると考えるのか,私には皆目検討がつかない.