まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

スピノザ『エチカ』覚書(13)

目次

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スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について(承前)

実体の無限性

定理八

 すべての実体は必然的に無限である.

証明

 同一の属性を有する実体は一つしか存在せず(定理五により),そしてその実体の本性には存在することが属する(定理七により).ゆえに実体は本性上有限なものとして存在するか無限なものとして存在するかである.しかし有限なものとして存在することはできない.なぜなら,有限なものとして存在すればそれは同じ本性を有する他の実体によって限定されなければならず(定義二により),そしてこの実体もまた必然的に存在しなければならぬのであり(定理七により),したがって同一の属性を有する二つの実体が存在することになるが,これは不条理だからである(定理五により).ゆえに実体は無限なものとして存在する.Q.E.D.

(Spinoza1677: 5,畠中訳(上)42頁)

【定理八】では「すべての実体は必然的に無限である」と述べられているが,これまでは「本性上」などと述べられてきたのに,ここで「必然的に」とは一体どういう違いがあるのだろうか.

 結論から言えば,この「必然的に」とは,前の定理から論理必然的に帰結することを意味していると考えられる.

 スピノザは【定理八の証明】で最初に【定理五】と【定理七】を引いている.これによって議論の後半で【定理五】の拘束力が強くなっている. スピノザによれば,実体の在り方には「有限」と「無限」の二つの在り方がある.スピノザによる定義では,「有限」とは他者による規定を受けている在り方を指す.証明の方法としては,実体の在り方が有限であるとは考えられないので,逆に実体は無限だという命題を引き出している.実体の「無限性」が「有限性」の否定を通じて示されている.

 ここで一度スピノザによる「有限性」と「無限性」の定義を確認しておこう.まず「有限性」については【定義二】で次のように述べられている.

【定義二】

 同じ本性の他のものによって限定されうるものは,自己の類において有限であると言われる.例えばある物体は,我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに,有限であると言われる.同様にある思想は他の思想によって限定される.これに対して,物体が思想によって限定されたり,思想が物体によって限定されたりすることはない.

(Spinoza1677: 1,畠中訳(上)37頁)

より大きなものを想像できる場合に,その在り方は「有限」であるといえる.

 これに対してスピノザは「無限性」の在り方を〈絶対的に無限なもの〉と〈自己の類においてのみ無限なもの〉とに区別していた.

【定義六】

 〈神〉とは,絶対に無限なる実有,言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体,と私は解する.説明 私は「自己の類において無限な」とは言わないで,「絶対に無限な」と言う.なぜなら,単に自己の類においてのみ無限なものについては,我々は無限に多くの属性を否定することができる(言いかえれば我々はそのものの本性に属さない無限に多くの属性を考えることができる)が,これに反して,絶対に無限なものの本質には,本質を表現し・なんの否定も含まないあらゆるものが属するからである.

(Spinoza1677: 1-2,畠中訳(上)38頁)

【定理八】に関して言えば,「同一の属性を有する実体」が問題となる限りでは,そこでは〈自己の類においてのみ無限なもの〉だけが取り上げられているように思われる.

部分的否定と絶対的肯定

スピノザはここで次のような「備考」を加えている.

備考一

 有限であるということは実はある本性の存在の部分的否定であり,無限であるということはその絶対的肯定であるから,この点から見れば,単に定理七だけからして,すべての実体は無限でなければならないことが出てくる.

(Spinoza1677: 5,畠中訳(上)42〜43頁)

「有限であるということは実はある本性の存在の部分的否定であり,無限であるということはその絶対的肯定である」とは一体どういうことであろうか.

 【定義二】によれば「同じ本性の他のものによって限定されうるものは,自己の類において有限であると言われる」のであって,同一本性の他者によるこの限定作用こそ「部分的否定」に他ならない.

 これに対して【定義六】によれば「絶対に無限なものの本質には,本質を表現し・なんの否定も含まないあらゆるものが属する」のであり,これこそは「絶対的肯定」である.

 【備考二】は長いので次回以降見ていくことにする.

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文献

スピノザ『エチカ』覚書(12)

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スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について(承前)

実体と存在

定理七

 実体の本性には存在することが属する.

証明

 実体は他のものから産出されることができない(前定理の系により).ゆえにそれは自己原因である.すなわち(定義一により)その本質は必然的に存在を含む.あるいはその本性には存在することが属する.Q.E.D.

(Spinoza1677: 5,畠中訳(上)42頁)

【定理七】では「実体」と「存在」との関係が初めて説明されている.

 先に見た【定理六の系】において「実体は他のものから産出されることができない」という命題が導出された.ここまでは前回の確認なので問題なかろう.

 論証する上で問題なのは「実体は他のものによって産出されることができない」という命題を「自己原因」として理解できるかどうかである.

【定義一】

 自己原因とは,その存在が本質を含むもの,あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの,と私は解する.

【定理六の系】における「実体は他のものによって産出されることができない」という命題には,【定義三】における「実体」の定義が繰り返されているに過ぎないのではないだろうか.

【定義三】

 実体とは,それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの,すなわち,その概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの,と解する.

スピノザは【定理七の証明】を【定理六の系】から証明しようとしているのだが,実際には【定義三】を【定義一】と同義のものとして説明すれば【定理七】は証明できてしまうのではないだろうか.【定理七の証明】においてわざわざ【定理六の系】を迂回しなければならなかった論理必然性は一体どこにあるのだろうか.

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文献

スピノザ『エチカ』覚書(11)

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スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について(承前)

他者によって産出されざる実体

定理六

 或る実体は他の実体から産出されることができない.

証明

 諸事物の自然のうちには同一の属性を有する二つの実体は存在しえない(前定理により).すなわち,(定理二により)相互に共通点を有する二つの実体は存在しえない.したがって(定理三により)或る実体は他の実体の原因であることができない.あるいは或る実体は他の実体から産出されることができない.Q.E.D.

 この帰結として,実体は他の物から産出されることができないことになる.なぜなら,公理一および定義三と五から明白なように,諸事物の自然のうちには,実体とその変状とのほか何ものも存在しない.ところが実体は実体から産出されることができない(前定理により).ゆえに実体は絶対に他のものから産出されることができない.Q.E.D.

別の証明

 このことはまた反対の場合が不条理であるということからいっそう容易に証明される.すなわち,もし実体が他の物から産出されうるとしたら,実体の認識はその原因の認識に依存しなければならなくなり(公理四により),したがって(定義三により)それは実体ではなくなるからである.

(Spinoza1677: 4,畠中訳(上)41頁,ただし訳は改めた.)

ここではなぜ「或る実体は他の実体から産出されることができない」のかが論証されている.

 上の「或る実体」と「他の実体」とは互いに同一本性・同一属性を有する実体であろうか.それとも異なる本性と異なる属性とを有する実体であろうか.それぞれの場合について考えてみよう.

 まず,もし「或る実体」と「他の実体」とが同一本性・同一属性を有するものと解釈すると,そのような在り方はそもそも【定理五】によって同一本性・同一属性を有する複数の実体はあり得ないのだから,成立し得ないことになる.

 次に,もし「或る実体」と「他の実体」とが異なる本性・異なる属性を有するものと解釈すると,【定理二】によりそのような諸実体は互いに共通点を有せず,そしてまた【定理三】により共通点を有しないもの同士では一方が他方の原因となることができないのであるから,こちらもまた成立しないことになる.

 【定理六の系】においては【定理六】の内容がより一般的な命題として立てられている.

 【定理六の別の証明】ではいわゆる背理法(reductio ad absurdum)によって【定理六】が論証されている.つまり「ある実体は他の実体から産出されることができない」という命題を偽と仮定して「ある実体が他の実体から産出されることができる」という命題から出発し,それが実体の定義と矛盾することによって【定理六】の正しさを示している.

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文献

マルクス『資本論』覚書(9)

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マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

商品のあいだに共通する「第三のもの」

(1)ドイツ語版『資本論』初版

 さらに,二つの商品,たとえば小麦と鉄をとってみよう.それらの交換関係がどうであろうと,この関係は,つねに,与えられた量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わすことができる.たとえば1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄というように.この等式はなにを意味しているのか? 同じ価値が二つの違った物のうちに,すなわち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも,存在するということである.だから,両方とも或る一つの第三のものに等しいのであるが,この第三のものは,それ自体としては,その一方でもなければ他方でもないのである.だから、それらのうちのどちらも,それが交換価値であるかぎりで,この第三のものに還元できるものでなければならないのである.

(Marx1867: 3,岡崎訳75頁,ただし訳文は改めた.)

(2)ドイツ語版『資本論』第二版

 さらに,二つの商品,たとえば小麦と鉄をとってみよう.それらの交換関係がどうであろうと,この関係は,つねに,与えられた量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わすことができる.たとえば1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄というように.この等式はなにを意味しているのか? 同じ大きさの一つの共通物が,二つの違った物のうちに,すなわち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも,存在するということである.だから,両方とも或る一つの第三のものに等しいのであるが,この第三のものは,それ自体としては,その一方でもなければ他方でもないのである.だから,それらのうちのどちらも,それが交換価値であるかぎり,この第三のものに還元できるものでなければならないのである.

(Marx1872a: 11,岡崎訳75頁)

(3)フランス語版『資本論

 さらに,小麦と鉄という,二つの商品を取り上げよう.それらの交換比率がどうであろうと,この関係は,つねに,ある与えられた量の小麦がどれだけかの鉄に等置される,という一つの等式で表わすことができる.たとえば,1クォーターの小麦=aキログラムの鉄というように.この等式はなにを意味しているのであろうか?それは,二つの違った物のうちに,すなわち1クォーターの小麦のなかにもaキログラムの鉄のなかにも,ある共通なものが存在するということである.したがって,両方ともある第三のものに等しいのであるが,この第三のものは,それ自体としては,その一方でもなければ他方でもないのである.それらのうちのどちらも,交換価値として,他方のものにかかわりなく,第三のものに還元できるのである.

(Marx1872b: 14,井上・崎山訳523頁,ただし訳文は改めた.)

(4)ドイツ語版『資本論』第三版

 さらに,二つの商品,たとえば小麦と鉄をとってみよう.それらの交換関係がどうであろうと,この関係は,つねに,与えられた量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わすことができる.たとえば1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄というように.この等式はなにを意味しているのか? 同じ大きさの一つの共通物が,二つの違った物のうちに,すなわち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも,存在するということである.両方ともそれゆえに或る一つの第三のものに等しいのであるが,この第三のものは,それ自体としては,その一方でもなければ他方でもないのである.だから,それらのうちのどちらも,それが交換価値であるかぎり,この第三のものに還元できるものでなければならないのである.

(Marx1883: 3-4,岡崎訳75頁)

「クォーター」とか「ツェントナー」といった聞き慣れない単位が登場するが,これらは一定量の小麦や鉄を示すための単位であるということが分かっていれば問題ない.

 ここでマルクスはある商品と別の商品との間に共通する「第三のもの」の存在を示唆している.これは以前のパラグラフで「内実 Gehalt 」と呼ばれていたものである.

 さらに以前のパラグラフでマルクスは「内在的な交換価値(valeur intrinsèque)というものは,一つの形容矛盾 contradictio in adjecto であるように見える」と述べていたが,このパラグラフでいわれている商品間における「同じ大きさの共通物」すなわち〈第三のもの〉こそまさに「内在的な交換価値」そのものであろう.マルクスは〈現象〉としての「相対的な」交換価値から,「内在的な交換価値」へと徐々に議論を本質的に突き進めているのである.

 そうなると問題は,諸々の商品がそれに還元されうるところの「第三のもの」とは一体何かという点である.結論を先取りしてしまうと,それは「抽象的人間的労働」だということになるのだが,この点についてはもっと本書を読み進めていくより他にない.

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文献

ルソー『政治経済論』覚書(2)

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ルソー『政治経済論』(承前)

国家と家族の違い

 国家と家族とのあいだには,多くの著述家が主張しているほどに多くの関係があるにしても,だからといって,これら二つの社会のいずれか一方に適する行動の諸規則が,他の一方にも当てはまるということにはならない.二つの社会は,大きさが非常に違うから,同じやり方で管理することは出来ない.父親が自分自身ですべてを見ることが出来る家内政府〔gouvernement domestique〕と,首長は他人の眼をかりなければ殆んどなにも見えない市民政府〔gouvernement civil〕とのあいだには,常に極端な差違が存するであろう.この点に関して,事物があい等しくなるためには,父親の手腕や力や,すべての能力が,家族の大きさに比例して増大すること,また,君主の帝国の領域が一私人の相続財産にまでちぢまるのと同じように,強力な君主の精神が普通人の精神にまでなりさがること,が必要であろう.

(Rousseau1755: 337,河野訳7〜8頁)

前のパラグラフでは「家」と「国家」の関係が示されていたが,このパラグラフでは一転して両者の相違について述べられている.すなわち,〈共同体の規模が異なれば,その統治の方法も異なる〉のであり,それゆえに〈国家と家族とではそれぞれ異なる原理・原則が当てはまる〉というのがルソーの主張である.

 こうした主張の背後でルソーはおそらくロバート・フィルマー(Sir Robert Filmer, 1588-1653)の『パトリアーカ』における議論を仮想敵としていたのではないかと考えられる.というのもルソーはこの少し先で「かの騎士フィルマーが『パトリアーカ』という題名の著作で樹立しようと試みた・かの憎き体系を覆すためには,僅かこの数行でことたりると私は信ずる」(河野訳12頁)と述べているからである.フィルマーの家父長制論はアダムより伝統的に引き継がれてきた家父長権という〈家族の原理〉の延長線上で君主政という〈国家の原理〉について考えるものである.これに対してルソーは,家政と国政とがそれぞれ異なる「行動の諸規則」という原理に基づいているということを明確にすることによって,家政のアナロジーで国政について語らせないようにするのである.

(つづく)

文献

ルソー『政治経済論』覚書(1)

目次

はじめに

 本稿ではジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)のいわゆる『政治経済論』(Discours sur l'économie politique, 1755)を検討する.

 ルソー『政治経済論』の初出は,ディドロダランベール編『百科全書』(Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers, par une société de gens de lettres, 1751-1772)の第5巻に収められている.

ルソー『政治経済論』

〈経済〉の二つの意味——「政治経済」と「家内経済」

 さしあたって問題となるのは,「ルソーのいう「政治経済」とは一体何であるのか?」である.その手がかりは,冒頭の〈経済〉という語の解説に示されている.

 〈経済〉〔ECONOMIEあるいはŒCONOMIE〕(道徳的なものと政治的なものMorale & Politique〕),この語は〔古代ギリシアの〕オイコスοἶκος〕(maison〕)とノモスνόμος〕(loi〕)とに由来し,もともとは,家族全体の共同利益〔bien commun〕のための,賢明かつ法にかなった家の政府〔gouvernement de la maison〕を意味するものにすぎなかったが,後にこの用語の意味は,国家である大きな家族の政府〔gouvernement de la grande famille〕にまで拡張されることとなった.これら二つの語義を区別するために,後者を一般経済または政治経済と呼び,他方を家内経済または特殊経済と呼ぶ.家内経済については〈家父〉〔PERE DE FAMILLE〕を参照のこと.

(Rousseau1755: 337,河野訳7頁,訳はあらためた)

ここでルソーは「経済」という言葉には,大きく分けて二つの意味があると述べている.「家」の経済という意味と,「国家」の経済という意味である.

 歴史的に先行していたのは「家」の経済としてのエコノミー,すなわち「家政」の意味であり,「国家」の経済としてのエコノミーは転義であった.どうして「家政」の意味を「国家」にまで拡張することができたかというと,「国家」というものが「大きな家族」とみなされていたからである.かくして両者の意味を区別するために「国家」のエコノミーを「政治的 politique 」と形容して呼ぶようになったわけである.

 ここで注意しなければならないのは,「経済」という語が常にすでに「法 loi 」を含意している点である*1.「経済法則」というときには,「経済」という語にすでに内在しているその「法則」の意が忘却されているか,さもなくば法則をより強調したいときに用いられるべきである.

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文献

*1:「法 loi 」は,「法 droit 」と区別されるべき概念である.前者は「法律・法則」を意味し,後者は「権利」を意味する.

〈政治経済学〉についての覚書(1)

目次

はじめに

 本稿では〈政治経済学〉について書きたいと思う。

 〈政治経済学〉とは英語のpolitical economyを訳したものである。これは今では単に「経済学」と訳されるのが通例である。しかしながら、「経済学」という言葉の下に観念される英語はEconomicsであって、polical economyではない。Economicsという語はアルフレッド・マーシャル(Alfred Marshall, 1842-1924)が『経済学の原理』(Principles of Economics, 1890)で用いた言葉に由来する。

 では、Political economyとEconomicsの間には何か違いがあるだろうか。それとも両者の含意するものは同じものであろうか。こうした素朴な疑問点を解消するために、以下では〈政治経済学〉がこれまでにどのように論じられてきたのかを分析する。その際にまず第一に分析するのはアダム・スミス(Adam Smith, 1723-1790)の『国富論』における〈政治経済学〉についての言説である。その後に他の思想家の言説についても取り扱いたい。

アダム・スミス国富論』における〈政治経済学〉

 アダム・スミスは『国富論』第四編「政治経済学の体系について」において〈政治経済学〉について次のように述べている。

 政治経済学ポリティカル・エコノミーは、政治家や立法者の科学サイエンスの一部門として考えた場合には、二つの明確な目的がある。第一に、人民に十分な収入や食料などの生活物資を提供すること、つまり、より適切にいえば、人民が自分自身で、そのような収入や食料などの生活物資を入手できるようにすることであり、第二に、十分な公共サーヴィスを提供するための収入を、国家ステートないし共和国コモンウェルスにもたらすことである。それが提案することは、人民と統治者の両方を豊かにすることなのである。

(Smith1789: 138、訳614頁)

 ここからわかるのはさしあたり次のことである。

 第一に、ここでスミスは『国富論』の中で〈政治経済学〉を「政治家 statesman や立法者 legislator の科学の一部門」として考察している。〈政治経済学〉は、為政者のための学問であり、それゆえに政治哲学の一部門ともみなされうるようなものである*1。ここに〈政治経済学〉の「政治的 political 」な側面が示されている。

 第二に、スミスは〈政治経済学〉を「人民 people 」と「国家 state 」の二つの側面から考察している。すなわち、一方では「人民」はいかにして自らを豊かにするのかを考察し、他方では「国家」をいかにして豊かにするのかを考察する。要するにスミスは「人民」と「国家」のどちらの立場にもメリットが生じるような社会のあり方について考察するのである。

(つづく)

文献

*1:「スミス経済学はそれまでの古典的な政治哲学とは無関係なところで、あるいはそれから独立した専門的な近代科学として成立したのではなく、反対に先行する政治哲学の根本問題への新たな応答として構想された」(上野2015: 43)。