まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ヴィーコ『新しい学』覚書(15)

目次

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ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

〈新しい学〉における〈権威の哲学〉の側面

そうであるから,このいまひとつの主要な面からすれば,この学権威の哲学であることになる.

(Vico1744: 6,上村訳(上)26頁)

「この学」つまりヴィーコの〈新しい学〉は,いくつかの主要な側面から考察されており,それらの諸側面の一つが「権威の哲学」である.ヴィーコの〈新しい学〉の主要な諸側面については,第2巻「詩的知恵」第1部「詩的形而上学」第2章「この学の主要な諸側面についての系」で次のように整理されている.

  1. 神の摂理についての悟性的に推理された国家神学
  2. 権威の哲学
  3. 人間的観念の歴史
  4. 哲学的批判
  5. 永遠の理念的な歴史
  6. 万民の自然法の体系
  7. 世界史の始まり

先の引用箇所で最も関わりが深いと思われるのは,「詩的形而上学」の次のパラグラフである.

この権威の哲学神の摂理についての悟性的に推理された国家神学のあとに続いてやってくるのは,神の摂理についての悟性的に推理された国家神学の提供する神学的証拠を受けて,権威の哲学はみずからの提供する哲学的証拠によって文献学的証拠を明晰判明なものにし(この三種類の証拠はすべてすでに「方法」において枚挙しておいたところである),諸国民の不明瞭きわまりない古代のことどもについて,「公理」において述べておいたように,その自然本性からしてきわめて不確実なものである人間の選択意志を確実なものへと引き戻すからである.これは文献学を知識の形式に引き戻すというに等しい.

(Vico1744: 148,上村訳(上)314〜315頁)

ここで〈新しい学〉の主要な諸側面の特徴の一つは,不確実なものを確実なものへと「還元する reduce」点にある.古代のことどもが不確実で曖昧であるのは,あくまで近代諸国民のわれわれにとってのことであり,古代人の常識からすればそれは確実なものであったはずである.したがって,〈新しい学〉とは,今となっては不確実になってしまったものを,かつての確実なものへと「引き戻す reduce」というのである.

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文献

ヴィーコ『新しい学』覚書(14)

目次

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ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

「質料」と「形式」

そしてそこに諸国民すべての歴史時間の中を経過するさいの根底に存在している永遠の理念的な歴史の素描を発見することによって,それを知識の形式にまで連れ戻す.

(Vico1744: 6,上村訳(上)25頁)

ここで「知識」と訳されている原語はScienzaであり,これは本書のタイトル『新しい学の諸原理』における「学」のことである.

 なお「形式 forma」は,アリストテレス的な用法で、「質料」と関わりを持つ.『新しい学』第1巻「原理の確立」第2部「要素について」の冒頭では次のように述べられている.

したがって,これまで年表の上に配列してきた質料〔materie〕に形式〔forma〕をあたえるために,わたしたちはいまここに,つぎのような哲学上ならびに文献学上公理と,若干の合理的で適当とおもわれる要請とを,いくつかの明確になった定義とともに提示しておく.これらは,あたかも生物の体内を血液がめぐるように,この学の内部を流れめぐり,この学諸国民の共通の自然本性について推理することがらの全体にわたって,この学に生命をあたえてくれるはずのものなのである.

(Vico1744: 72,上村訳(上)158頁)

ここで「形式 forma」と「質料 materie」が強調されているように,これらは形而上学の用語として使用されていることがわかる.『新しい学』第1巻第2部以降で「学の形式」を与えられるところの「質料」については,第1巻第1部「年表への注記——ここにおいて質料〔素材〕の配列がなされる——」で叙述されるという構造になっている.

 ここでヴィーコは「公理」のことを"Assiomi, o Degnità"というように言い換えているが,Verneによれば,この箇所は『新しい学』でassiomaをdegnitaと等置した唯一の箇所だそうである*1.Verneは,ユークリッドの『原論』,ニュートンの『プリンキピア』,そしてアリストテレスの『分析論後書』に言及した後,次のように述べている.

ヴィーコは,彼の諸公理〔axioms〕を哲学的かつ文献学的なものの両方として描いているが,しかし彼が「『新しい学』は幾何学的な思考法に基づいている」と主張しているにもかかわらず,彼の諸公理は決して自明なものでもなければ演繹されたものでもないのである.彼の諸公理はその諸原理〔plinciples〕として最も必要かつ適合するものと考えられ,そして諸国民の共通の自然本性を把握するのに最も偉大な価値を有している.彼の諸公理は,『新しい学』の諸々の特殊性を配列する諸原理を引き出すことができる「トピカ」(τόποιトポイ)すなわち定石コモンプレイスという地位を有している.

(Venere2015: 255)

幾何学」と〈製作者〉の思想

 たしかに「公理」や「定義」といった用語を見ると,ユークリッド幾何学のような原理原則が想起されよう.実際,ヴィーコは『新しい学』第1巻第4部「方法について」で「永遠の理念的な歴史」とともに「幾何学」について次のように言及している.

それゆえ,この学は同時に,諸国民すべての歴史がかれらの勃興,前進,停止,衰退,終焉にわたって時間の中を経過していくさいの根底に存在しているひとつの永遠の理念的な歴史を描きだすことになる.それどころか,わたしたちはさらに一歩を進めて断言したいのだが,この学を省察する者がこの永遠の理念的な歴史を自分自身に語るのは,この諸国民の世界はたしかに人間たちによって作られてきたのであり(これはここでさきに立てられた疑いえない第一原理である.それゆえ,それの〔生成の〕様式はわたしたちの人間の知性自体の諸様態の内部に見いだされるべきであるので,その〈なければならなかったのであり,ならないのであり,ならないであろう〉という証明のなかで,彼自身がそれを自分の前に作りだしてみせるかぎりにおいてなのだ.なぜなら,事物を作る者自身がそれらについて語るとき,そのときほど話が確実なことはありえないからである.こうして,幾何学がそれの諸要素にもとづいて大きさの世界を構成したり観照したりするとき,それはその世界をみずから自分の前に作りだしているわけであるが,この学もまさしく幾何学と同様の行き方をすることになる.ただし,人間たちの事蹟にかんするもろもろの秩序には点,線,面,図形以上に実在性があるだけに,そこには,それだけいっそう多くの実在性がともなっている.そして,このこと自体が,そのような証明は一種神的なものであって,読者よ,あなたに神的な喜悦をもたらすにちがいないということの論拠になる.それというのも,神においては認識することと製作することとは同一のことがらであるからである.

(Vico1744: 124-125,上村訳(上)269〜270頁)

ヴィーコが「永遠の理念的な歴史」を我々人間が語りうると考えるのは,それを作ってきたのが我々人間だからである.ここで人間はその歴史に関しては造物主たる神と同じ地位へと引き上げられている.ヴィーコは製作者の技法を「幾何学*2になぞらえているが,〈製作者〉だけが真の意味で(いわば「神的に」)認識しているというのはヴィーコの思想としてよく知られているものであり,これを仮に〈製作者〉の思想とでも呼んでおこう.ヴィーコのこのような〈製作者〉の思想は,マルクスやサイードといった偉大な思想家に大きな影響を与えた.〈製作者〉の思想とは,それを造りし者だけがそれを最もよく理解している,というものである.ただし,ヴィーコ幾何学と人間に関する事柄との違いについても述べており,その違いは「実在性(リアリティ)」の多様性にあると述べている.

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文献

*1:"Vico uses assioma only once in the New Science, and he equates it with degnità."(Venere2015: 254).

*2:ヴィーコは『自伝』の中で幾何学学習の効用について語っている.この点について詳しくは拙稿「ヴィーコのクリティカとトピカ」を参照されたい.

ヴィーコのクリティカとトピカ

目次

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 前回はヴィーコの「新しい批判術」を見た.そこで今回は,ヴィーコ『自伝』(Vita di Giambattista Vico, 1728)において,クリティカとトピカがどのように論じられているのかを見ていきたいと思う.

幾何学学習の効用——記憶力・想像力・構想力

 ヴィーコが『自伝』の中でクリティカとトピカに言及するのは,古代人の幼少年時代における学習法について述べている文脈においてである.その箇所でヴィーコは,少年は「幾何学」の勉強から始めるのが望ましい,と述べている.というのも,少年は「事物の類概念」のような普遍的で抽象的なものごとを把握すること(形而上学)がまだ苦手であり,これに対して幾何学のように「個別的なものごと」を扱う学問については順序立てて理解することができるからである,とヴィーコは述べている.

このような次第で,正当にも古代人は幾何学の勉強を児童が専念するのにふさわしい勉強と評価し,幾何学をこの幼い年齢に適した論理学であると判断したのだった.じっさいにも,幼少年時代には個別的なものごとは十分に習得でき,それらを順次ひとつひとつ配列していくことができる半面,それだけになおのこと,事物の類概念を把握するのには多大の困難がともなう.そして,アリストテレス自身,幾何学で用いられている方法から三段論法を抽出したにもかかわらず,子どもたちには言語と歴史と幾何を記憶力想像力構想力を訓練するのに最適の素材として教えられるべきであると主張している箇所では,このことに同意しているのである.

(Vico1728: 168,上村忠男訳,強調引用者)

ヴィーコ自身の学習がどうだったかといえば,キケロアリストテレスプラトンの著作をよく読んでいたそうである.その際にアリストテレスプラトンの著作に数学的証明が用いられていることから,ユークリッド幾何学の勉強を始めたという.しかし「あたら労力を費やしたすえ,すでに形而上学によって普遍的なものを身につけるようになってしまっている知性の持ち主たちにはものごとの個別的な細部にこだわる才能の持ち主たちに本来的なものであるこの種の学問〔幾何学〕はかえって御しがたいことを思い知らされ,研究を続けるのを止めてしまった.その研究は,形而上学の研鑽を積むなかで類概念の無限空間を飛翔するのに慣れてしまった彼〔ヴィーコ〕の知性に手枷・足枷をはめて自由を束縛していたからである」(ヴィーコ『自伝』)と述べているところを見ると,ヴィーコ自身は形而上学から始めてそこから幾何学へと学習を移転していった為に幾何学を学ぶことを断念することになったと考えているようである.ヴィーコは自身の経験から幾何学から形而上学の順に学ぶ方が良いと考え,己を反面教師として示そうとしたわけである.

このことから,今日一部の人々によって,教学方法における二つのはなはだしく有害なやり方が,どれほどの損傷をともなって,どのような青年育成法にしたがっておこなわれているかが容易に理解できる.第一は,文法学校を出たばかりの児童にいわゆる『アルノーの論理学』にもとづいた哲学が開始されていることである.この論理学は,高等な学問の深遠な,そして通俗的な常識からはまったくかけ離れた素材についての,このうえなく厳格な判断に満ち満ちている.こんな論理学をむりやり押しつけられると,子どもたちのなかで若々しい知性の素質がねじ曲げられてしまうこととならざるをえない.それらの素質は,本来ならそれぞれに見合った適切な術によって,すなわち,記憶力は言葉を学習することによって,想像力は詩人や歴史家や雄弁家の作品を読むことによって,構想力は図形幾何学を勉強することによって規制され促進されるべきものなのだ.なかでも図形幾何学は見方によっては一種の絵画のようなものであって,それを構成している要素が多数存在することによって記憶力を強化し,それが繊細な図形からなっており,またかくも多くの図面が緻密きわまる線で描かれていることによって,想像力を洗練させる.さらには,それらの線すべてに目を通し,それらのなかから,求められている大きさを証明するために必要な線を掻き集めなければならないことによって,構想力を敏活にする.そして,これらいっさいは,円熟した判断力が身につくようになったときに,鋭く,生き生きとした,雄弁な叡智を実らせるための能力にほかならない.

(Vico1728: 168-169,上村忠男訳,強調引用者)

『アルノーの論理学』(logica di Arnaldo)というのは,むろんアントワーヌ・アルノー(Antoine Arnauld, 1612-1694)とピエール・ニコル(Pierre Nicole, 1625-1695)の共著『論理学,あるいは思考の技法』(La logique, ou l'art de penser, 1662)を指している.これは通称『ポールロワイヤル論理学』(Logique de Port-Royal)と呼ばれて知られている.ヴィーコはこの論理学を「厳格な判断に満ち満ちている」と評価する.

 ここでヴィーコは図形幾何学の効果について述べている.図形幾何学は構想力を養うだけでなく,記憶力を強化し,想像力を洗練させる.これらはクリティカの行使に役立つものであり,論理学によって判断力だけを伸ばせば良いという当時の潮流にヴィーコは反対の意見を示している.

クリティカ優先の弊害

ところが,そのような論理学のたぐいによって少年たちが時期尚早にクリティカ〔判断の術〕に連れこまれてしまうと,それはとりもなおさず,まずは習得し,ついで判断し,最後に推理するという,観念の自然な流れに反して,十分に習得する前に正しく判断するようにと督促されているに等しく,このような〔のっけからクリティカを教える〕やり方からは,無味乾燥な自己表現しかできず,自分ではなにひとつ作りだしてはいないくせに万事に判断をくだそうとする青少年層が輩出することとなる.

(Vico1728: 169-170,上村忠男訳)

ヴィーコは,「観念 idee 」には自然な流れがあると考える.それは「〔1〕まずは習得し,〔2〕ついで判断し,〔3〕最後に推理する」という流れであるが,ポール=ロワイヤル論理学の教育を優先させる潮流は,この「観念の自然な流れに反して」二番目の判断力の養成から始めているので,教育の順序として不適切だとヴィーコはいうのである.

トピカからクリティカへ

 クリティカ優先の教育に欠けているものはトピカの養成である.トピカとは「問題となるそれぞれのことがらにおいてそのことがらのうちに存在しているものをすべてくまなく発見する術」だとヴィーコはいう.

これにたいして,彼らが構想力の活発な少年時代にトピカ──これは発見の術であって,構想力に富む者たちだけの特権である──に(ヴィーコキケロに教えられて少年時代に専念したように)専念すれば,論題を過不足なく準備することが可能となり,ついでこれについて正しい判断をくだすことができるようになるだろう.というのも,問題となることがらのすべてをまずもって知っていなければ,正しい判断をくだすことはできない.そしてトピカこそは問題となるそれぞれのことがらにおいてそのことがらのうちに存在しているものをすべてくまなく発見する術にほかならないからである.こうして青年たちはことがらの自然本性そのものに従いつつ哲学者にして雄弁家として自らを形成することとなるだろう.

(Vico1728: 170,上村忠男訳,強調引用者)

トピカとは論拠の在り処を見いだす術であり,これは記憶力,想像力,そして構想力を養うことによって可能となる.先にヴィーコが「記憶力は言葉を学習することによって,想像力は詩人や歴史家や雄弁家の作品を読むことによって,構想力は図形幾何学を勉強することによって規制され促進されるべき」だと述べていたのは,これらの能力がトピカに関わるものだからである.その上でクリティカははじめて発揮されるものなのである.

文献

ヴィーコ『新しい学』覚書(13)

目次

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ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

「新しい批判術」

さらに,ここで触れておくなら,この著作では,これまで欠如していたあるひとつの新しい批判術を用いて同じ異教諸国民の創建者たちにかんする真理の探究に入ることによって(これまで批判がかかわってきた著作家たちがそれらの諸国民の内部に登場するまでには〔それらの諸国民が創建されてから〕優に千年以上が経過していたにちがいないのである),ここに哲学文献学*1,すなわち,諸民族言語習俗平時および戦時における事蹟についての歴史のすべてなど,人間の選択意志に依存することがらすべてにかんする学問の検査に乗りだす(なにしろ,それの提供する原因は残念ながら曖昧ではっきりとしておらず,また結果も無限に多様であるため,これまでそれについて推理することには,わたしたちはほとんど恐怖を抱いてきたのだった).

(Vico1744: 6,上村訳(上)25頁)

ヴィーコは『学問の方法』でクリティカとトピカという二つの方法について言及している.キケロの『トピカ』以来,クリティカは真偽についての判断の術(ars iudicandi)とされ,トピカは論拠についての発見の術(ars inveniendi)とされてきた*2.時代的には若者はポール=ロワイヤル論理学を優先的に学んでいたが,このような論理学やデカルトの方法をヴィーコは当時のクリティカとして位置付けている.こうしたクリティカ中心の時代にあって,ヴィーコキケロに倣い,トピカがクリティカよりも先行することを説いているのである.

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 以上を踏まえて先ほどのパラグラフでは,『新しい学』の中で「新しい批判術」を用いることが宣言されている.この批判術は,一体何が,どのような点で「新しい」のであろうか.これがただの「批判」ではなく,〈術 ars 〉としての「批判」であるからには,そこにはいかにしてキケロ以来の伝統が受け継がれ,そして発展させられているのであろうか.

 この批判術の〈新しさ〉は,ポール=ロワイヤル論理学やデカルト主義のようないわば〈推論の精確さ〉だけにこだわったものではないという含意があるのではないだろうか.この「新しい批判術」は,「人間の選択意志に依存することがらすべてにかんする学説を検討すること」だと述べられている.「人間の選択意志」とは一体何であろうか.この点,ヴィーコは次のように述べている.

Ⅺ 人間の選択意志は,その自然本性においてはきわめて不確実なものであるが,人間として生きていくにあたって必要または有益なことがらについての,人々の共通感覚によって確実なものにされ,限定をあたえられる.そして,この人間として生きていくにあたって必要または有益なことがらこそは,万民の自然法の二つの源泉なのである.

(Vico1744: 76,上村訳(上)166頁)

「人間の選択意志」は(これは「恣意」とも言われる),いわゆる人間の自由意志に関わるものであり,エピクロスの〈逸れ〉の概念のように決定論的な発想から抜け出るものである.したがってそれはきわめて曖昧であり,ここで「不確実」と呼ばれる所以である.しかし,ヴィーコはこの「人間の選択意志」は「共通感覚」(あるいは常識,コモンセンス)によって確固として規定されているという.というのも,人間は生物として生きていくのに必要なもの,有用なものを,一定程度の共通認識として持っているからである.そして言語・習俗・歴史といったものが「人間の選択意志」に依存しているということは,これら言語・習俗・歴史などの学説は、「人間の選択意志」を規定しているところの「共通感覚」(常識、コモンセンス)を基盤としており,この「共通感覚」(常識,コモンセンス)によって(「人間の選択意志」を介して)間接的に規定されているということになる.そこでこれらの学説の基盤となっている「共通感覚」(常識,コモンセンス)こそが問題となる.

Ⅻ 共通感覚とは,ある階級全体,ある都市民全体,ある国民全体,あるいは人類全体によって共通に感覚されている,なんらの反省をもともなっていない判断 giudizio のことである.

 この公理は,つぎの定義とともに,諸国民の創建者にかんする新しい批判術を提供するだろう.それらの諸国民のなかにこれまで批判が携わってきた著作家たちが出現するまでには,優に千年以上の歳月が経過していたにちがいないのである.

(Vico1744: 76,上村訳(上)167頁)

「共通感覚」 (常識,コモンセンス)における〈共通〉性とは「ある階級全体,ある都市民全体,ある国民全体,あるいは人類全体」における〈共通〉性であり,またその〈感覚〉性は,それが感覚であるがゆえに理性を介しない直截的で「無反省的な」ものである.

 しかもこの「共通感覚」が件の「新しい批判術」を提供すると述べられている点に関しては,わたしたちはキケロが彼の『トピカ』においてトピカとクリティカをそれぞれ〈発見の術〉と〈判断の術〉として区別していたことを想起する必要がある.これこそまさに「新しい批判クリティカ術」を提供する「共通感覚」が「判断」であるとされている所以である.

ヴィーコマルクス

 こうした「批判」の方法は様々なトピックの書物を分野横断的に読解し,「批判 Kritik 」として統合していくマルクスの方法に受け継がれていると言えるのではなだろうか.かつて柄谷行人は『トランスクリティーク』でマルクスからカントへ遡って読み込む必要性を感じたと述べていたように記憶しているが,マルクスの「批判」はカント以前のヴィーコの「新しい批判術」にまで遡る必要があるのではないか.

 こうした読み方は,当時「死せる犬」と扱われていたヘーゲルの弟子だと自ら述べた序文を読んだとしてもそうはならないはずである.しかし,ヘーゲルをいくら読みといたとしてもマルクスの「批判」の立脚点は,ヘーゲルには見出すことができない.ヘーゲルとは別の思想家を経由する必要がある.もちろん若きマルクスフォイエルバッハ人間主義に影響を受けており,そのフォイエルバッハヘーゲル哲学「批判」をマルクスヘーゲル法哲学「批判」よりも先に著していることは重々承知している.しかしマルクスエスプリに富んだ「批判」の仕方は,同時代のいわゆるヘーゲル左派(Hegelsche Linke)の「批判」の仕方とは明らかに違っている*3.むしろここで注目したいのは,思想史における「批判」のもっと大きな流れのことである.

 例えば,フォイエルバッハヘーゲル哲学「批判」の方法は,逆さまにされていた主語と述語を転倒させるというものであった.しかしこれはその内容とは裏腹に形式論理的な批判に過ぎず,素材を抜きにした単なるクリティカに過ぎなかった.これに対してマルクスフォイエルバッハのようなクリティカだけでは空疎な批判に陥ることに気付き,『独仏年誌』(1844年)以降,古典派経済学や人間社会に関する事柄を分野横断的にその生涯にわたって学び,現実的な問題の場所を発見すること,すなわちトピカを重視した(マルクスエンゲルスの『状態』を評価するのもこの観点からであろう).こうした点が,マルクスと他のヘーゲル左派との大きな分岐点になったのではないかと思われる.

 尤もマルクスヴィーコに言及しているのは,『資本論』(Das Kapital, 1863年)の一箇所とラサール充手紙(1862年4月28日)だけであるという(木前2008:8).しかし,もしマルクスの「批判」の源流がこのようにヴィーコに見いだされるとしたら,なんとも面白くはないだろうか.

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文献

*1:「哲学 Filosofia 」と「文献学 Filologia 」については次の箇所も参照のこと.「哲学道理〔理性〕観照し,そこから真実なるものについての知識が生まれる.文献学人間の選択意志の所産である権威を観察し,そこから確実なるものについての意識が生まれる./この公理は,後半部分にかんして,文献学者とは諸言語およびにあっての習俗法律にあっての戦争講和同盟旅行通商などの双方を含めた諸国民の事蹟の認識に携わっている文法家歴史家批評家の全体のことである,と定義する.」(Vico1744: 75-76,上村訳(上)165頁).

*2:キケロは『トピカ』で次のように述べている.「およそ議論のための厳密な方法は二つの部門,つまり一は発見(invenire)の部門,他は判断(iudicare)の部門からなり,私が思うに,アリストテレスがこの両部門の創始者であった.ところがストア派は後者の部門だけに関心を寄せてきたにすぎない.実際,ストア派は,彼らが弁証術(dialektike)と呼ぶ学において,判断の方法だけに専心してきたのである.しかし,トピカ(topica)と呼ばれる発見の術の方が,実用に役立つだけでなく,自然の秩序において先行するにもかかわらず,彼らはこれをまったく無視してきたのである.」(キケロ2010:21).

*3:フォイエルバッハに影響を受けていた頃のマルクスの〈批判〉と〈方法〉については荒川2013をみよ.

ヴィーコ『新しい学』覚書(12)

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ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

真のホメロスの発見とウァッロの三時代区分

また,ホメロスの像がひび割れた台座の上に立っているのは,真のホメロスの発見を意味している(真のホメロスの発見については,最初に出版された『新しい学』でもわたしたちは感知してはいたが理解するまでにはいたっていなかったのであって,今回,これらの諸巻においてはじめて反省にもたらされ,十分に論証されているものである).この真のホメロスは,これまで知られずにきたため,諸国民の物語〔神話伝説〕時代の真のことがら,そしてさらに多くはこれまですべての者たちによって知ることを断念されてきた暗闇時代のことがら,ひいてはまた歴史時代の諸事蹟の最初の真実の起源をわたしたちに隠匿したままにしてきたのであった.すなわち,ローマの古事についての最も学識ある著述家,マルクス・テレンティウス・ウァッロがいまではすでに失われてしまった『神と人間にかんすることがら〔の古事記〕』と銘打たれた大著においてわたしたちに書きのこした〔と伝えられている〕世界の三つの時代の真実のことがらがそうである.

(Vico1744: 5-6,上村訳(上)24〜25頁)

ここで「最初に出版された『新しい学』」とされているのは,1725年版の『新しい学』のことである.『新しい学』には主に三つのバージョンがあり,一つ目が1725年版(ヴィーコ2018b)であり,二つ目が1730年版,そして最後の三つ目が1744年版である.今読み進めているのは1744年版(ヴィーコ2018a)である.

 ヴィーコは『新しい学』の中でマルクス・テレンティウス・ウァッロ(Marcus Terentius Varro, 116-27 BC)という共和制ローマ期の学者に繰り返し言及している*1ヴィーコが言及しているウァッロの著作は "Antiquitates rerum humanarum et divinarum" である(ただしこの著作はすでに散逸してしまっている).暗闇時代/物語時代/歴史時代の三区分はウァッロによるものである.

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文献

*1:ヴィーコは第1巻「原理の確立」でウァッロについて次のように述べている.「この時代区分をマルクス・テレンティウス・ウァッロは受け継いでいないが,かれはその無尽蔵な学識のゆえにローマ人の最も開花した時代であるキケロの時代に〈ローマ人のうちで最高の学識の持ち主〉と称賛されていたほどなのだから,それは受け継ぐことができなかったのではなくて,受け継ぐことを欲しなかったのだと言わざるをえない.なぜなら,おそらくかれは,これらのわたしたちの原理からすれば古代の諸国民すべてについて真実であることが見いだされることがらをローマ国民のものであると,すなわち,ローマの神と人間にかんすることがらのいっさいはラティウムラツィオ〕で生まれたと理解していたのであった.このために,かれは,時が不公平にもわたしたちから奪ってしまったかれの大著『神と人間にかんすることがら〔の古事記〕』において,それらローマの神と人間にかんすることがらのいっさいにラテン起源をあたえるべく努力したのである(そのウァッロに十二表法がアテナイからローマにやってきたという作り話を信じていたという説があるとは!)そして,世界の全時代をつぎのような三つ,すなわち,まずはエジプト人の言っていた神々の時代にあたる暗闇時代,ついで英雄たちの時代にあたる物語時代,そして最後に人間たちの時代にあたる歴史時代の三つに分けたのであった.」(Vico1744,上村訳(上)96〜97頁).ここでヴィーコがウァッロの時代区分と対照しているのはヘロドトスの時代区分(神々の時代/英雄たちの時代/人間たちの時代)である.

ヴィーコ『新しい学』覚書(11)

目次

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ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

口絵の光線と『新しい学』の叙述の順序

同じ神の摂理の光線が形而上学の胸のところで反射して,拡散しながら,わたしたちのもとに届いている異教世界最初の著作家であるホメロスの像にまで達しているのは,その光線が,形而上学——それは,そのような〔異教世界を創建することになった最初の〕人間たちがそもそも人間的に思考することを最初に開始したとき以来,人間的な諸観念の歴史Storia dell'Idee umane〕にもとづいて形成されてきたのであるが、その形而上学の力によって,わたしたちのもとで,ついに,全身がこのうえなく強靭な感覚とこのうえなく広大な想像力のかたまりであった異教世界の最初の創建者たちの愚鈍な知性にまで降りていくにいたったからである.そして,かれらは人間の知性および分別力を用いうる,唯一の,しかもまったく愚かで呆けた能力しかもっていなかったという,この同じ理由からして,これまで考えられてきたのとは異なるばかりか,まったく正反対に,詩の諸原理〔起源〕は,疑いもなく異教徒たちにとっての世界で最初の知恵であった詩的知恵,または神学詩人たちの知識の,これまた同じ理由でこれまで知られずにきた諸原理〔起源〕のうちに見出されるのである.

(Vico1744: 5,上村訳(上)23〜24頁)

冒頭に「同じ神の摂理の光線が形而上学の胸のところで反射して,拡散しながら,わたしたちのもとに届いている異教世界最初の著作家であるホメロスの像にまで達している」とあるが,要するに光線の向かう順番が『新しい学』の叙述の順番を表現している.すなわち,「神の摂理」が『新しい学』第1巻「原理の確立」に対応し,その光線が向かう「形而上学」は『新しい学』第2巻「詩的知恵」に対応し,さらに光線が反射して向かう「ホメロスの像」は『新しい学』第3巻「真のホメロスの発見」に対応しているのである.

観念の原理と言語の原理

 実際ヴィーコは『新しい学』最初の1725年版を出版したのちにその構成を反省し,以後の1730年版と1744年版で叙述を大幅に変更している*1.この辺りの事情についてはヴィーコの『自伝』で次のように述べられている.

また,いま語ったような理由によって,その著作はナポリでも他の場所でも自分が費用を負担して出版してやろうという出版者が見つからなかったため,ヴィーコは別の処理法を考え出すことにした.それはおそらくその著作が本来とっていてしかるべき処理法であったのだが,こういう必要に迫られることがなかったならば,ヴィーコにしても到底考えつかなかったであろうもので,さきに出版された書物〔一七二五年の『新しい学』〕と比較対照してみれば,そこで採用されていたやり方とは,雲泥の差があることが明らかに見てとられるのである.また,この新しい処理法のもとでは,以前の著作では著作の筋立てを維持するために「註解」のなかで切り離されて雑然と羅列されていたことがらが,いまや,新しく追加されたかなりの量の事項とともに,ひとつの精神によって組み立てられ,ひとつの精神によって統率されているのが見られる.そして,このような秩序の力が働いた結果(この秩序の力こそは,論の展開にとって本来的な性質であることにくわえて,簡潔さの主要な原因のひとつである),すでに出版された書物〔一七二五年の『新しい学』〕と今度の草稿とでは,わずか三葉分の増加があったのみである.

ヴィーコ2012,強調引用者)

ヴィーコはこのように「秩序の力」によって『新しい学』の構成が変更されたと伝えているが,この構成変更は「観念の原理と言語の原理」の扱い方という本質的な問題を含んでいた.

『新しい学・第一版』では,主題においてではなかったにしても,順序においてたしかに誤った.というのも,観念の原理と言語の原理とは本性上互いに結合しているにもかかわらず,両者を切り離してあつかってしまったからである.また,そのどちらの原理とも別個にこの学があつかうもろもろの主題を展開していくさいの〔否定的な〕方法について論じたが,これらの主題は,もうひとつの〔積極的な〕方法によれば,観念と言語双方の原理から順次出てくるはずなのであった.このようなわけで,そこでは順序において多くの誤謬が生じることとなったのだった.

ヴィーコ2012,強調引用者)

ヴィーコによれば「注解」スタイルはネガティヴな方法であり,なぜならそれは観念の原理と言語の原理を個別に切り離してしまうからだという.彼のポジティヴな方法はそうではなく,観念の原理と言語の原理が一体となってそこから主題が秩序をもって生まれるようなものである.

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文献

*1:この点について詳しくは上村忠男による解説(ヴィーコ2018b: 540以下)を参照のこと.

サイード『オリエンタリズム』覚書(6)

目次

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イードオリエンタリズム』(承前)

序説(二)(承前)

〈オリエント〉の「オリエント化」におけるヘゲモニー関係

前回このパラグラフに登場する「ヘゲモニー」概念を取り上げて,それがグラムシ的な意味でのそれであることを示した.そしてそれにつづく文章もまたグラムシ的であり,あるいはいわば「サバルタンスタディーズ」的な問題を孕んでいる.

The Orient was Orientalized not only because it was discovered to be “Oriental” in all those ways considered commonplace by an average nineteenth-century European, but also because it could be—that is, submitted to being—made Oriental. There is very little consent to be found, for example, in the fact that Flaubert’s encounter with an Egyptian courtesan produced a widely influential model of the Oriental woman; she never spoke of herself, she never represented her emotions, presence, or history. He spoke for and represented her. He was foreign, comparatively wealthy, male, and these were historical facts of domination that allowed him not only to possess Kuchuk Hanem physically but to speak for her and tell his readers in what way she was “typically Oriental.” My argument is that Flaubert’s situation of strength in relation to Kuchuk Hanem was not an isolated instance. It fairly stands for the pattern of relative strength between East and West, and the discourse about the Orient that it enabled.

オリエントがオリエント化されたのは,十九世紀の平均的ヨーロッパ人から見て,オリエントがあらゆる常識に照らして「オリエント的」だと認知されたからだけではなく,オリエントがオリエント的なものに仕立て上げられることが可能だった——つまりオリエントはそうなることを甘受した——からでもある.しかしそこには,ほとんど合意というものが見出されない.例えば,フローベールがひとりのエジプト人娼婦と出会ったことから,広範な影響を与えることになるオリエント女性像が想像された場合がそれである.そのエジプト人娼婦はみずからを語ることによって,自分の感情や容姿や履歴を紹介したのではなかった.フローベールがその女性のかわりに語って,その女性を紹介表象したのである.フローベールは,外国人で,相当に金持ちで,男性であったが,これらの条件は,支配という歴史的事実にほかならない.この事実のおかげで,フローベールはクチュク・ハネムの肉体を所有するだけではなく,彼女の身代わりの話し手となって,彼女がどんなふうに「典型的にオリエンタル」であるのかを,読者に物語ることができたのである.ただし問題はフローベールがクチュク・ハネムに対して優位であった状況が決して例外的なものではなかったことである.フローベールにとっての力の状況は,東洋と西洋とのあいだの力関係の型ならびにそのような状況のおかげで成立したオリエントに関する言説をはっきりと象徴しているのである.

(Said2003,訳(上)27〜28頁,強調引用者)

ここでサイードが示唆しているのは,〈オリエント〉の「オリエント化 Orientalized 」の過程におけるヘゲモニー関係の存在である.すなわち(グラムシのタームである)「合意」を抜きにして,「オリエントがオリエント的なものに仕立て上げられることが可能だった it could be … made Oritental 」のは,(フローベールという)支配的階級が(エジプト人娼婦のような)いわばサバルタン(従属的階級)を「代表して代わりに語った」(He spoke for and represented her)からである.つまり,なぜ〈オリエント〉が作られたものなのかといえば,それは〈オリエント〉とされる人々が自分自身について語ったものではなく,他者による言説に過ぎないからであり,そしてまた支配階級という他者によって語られた〈オリエント〉の言説には常にすでにヘゲモニー関係が内在しているからである.

 しかし,どうして外国人の支配階級がエジプト人娼婦の代わりに語り,代表できるというのだろうか.フローベールが「ボヴァリー夫人は私だ」と述べたのと同様に,〈オリエント〉もまたフローベール自身に帰せられ得るのである*1

 なおここで「代表」という語が登場するが,これにはスピヴァクの興味深い問題提起が存在する.サイードの『オリエンタリズム』(1978年)が発表された十年後に,スピヴァクは『サバルタンは語ることができるか?』(1988年)という著作を発表した.スピヴァクのこの著作はグラムシの「サバルタン」概念を脱構築的に発展させたものであるが,その著作の中でスピヴァクマルクスの『ブリュメール18日』における「代表 representation 」概念に分析を加えつつ,「代表 representation」概念がもつ二重の意味に注目している.すなわち representation〔代表〕には,(政治的な意味で) vertreten〔代表する〕と(芸術や哲学における) darstellen〔表象する〕という二重の意味がある.そしてこの両義性こそが重要なのだとスピヴァクはいう.

(つづく)

文献

*1:クシウク・ハーネムが登場するのは,『フローベールのエジプト』(法政大学出版局,1998年,149頁以下)である.