まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ルソー『社会契約論』覚書(5)

目次

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ルソー『社会契約論』(承前)

第一編第二章 最初の社会について

ルソーの家族論

 ルソーは最初の社会は「家族」だという.

あらゆる社会の中でもっとも古く,またただ一つ自然なものは家族という社会である.ところが,子どもたちが父親に結びつけられているのは,自分たちを保存するのに父を必要とする間だけである.この必要がなくなるやいなや,この自然の結びつきは解ける.子どもたちは父親に服従する義務をまぬがれ,父親は子どもたちの世話をする義務をまぬがれて,両者ひとしく,ふたたび独立するようになる.もし,彼らが相変らず結合しているとしても,それはもはや自然ではなく,意志にもとづいてである.だから,家族そのものも約束によってのみ維持されている.

(Rousseau1762: 5,訳16頁,強調引用者)

ここから「家族 famille」が二つの段階に分けられることがわかる.

家族の第一の段階は子どもたちの養育期の〈家族-1〉であり,次にその第二の段階は「約束」で維持される〈家族-2〉である.

  • 〈家族-1〉:自然にもとづく家族.子どもたちが大人になるまでの間の,養育期の共同体のあり方.
  • 〈家族-2〉:意志にもとづく家族.子どもたちが大人になって独立者となった後にありうる共同体のあり方.
〈家族-1〉における〈母親〉の欠如

 〈家族-1〉では,「父親 pere」と「子どもたち enfans」との関係性については言及されているものの,ここには〈母親〉の姿が見えない.これはつまり,〈母親〉という存在は,〈家族-1〉において文字通り無視されているということであろう.たしかにルソーが「あらゆる社会の中でもっとも古く,またただ一つ自然なもの」としての「家族」に言及するからには,〈母親〉を「父親」(古典古代の伝統における家父長制の主人としてのそれ)と並べることはできなかったであろう.

〈家族-2〉における「約束」の契機

 〈家族-2〉においては,父親と子どもたちが「相変わらず結合している」のだから,〈家族-2〉は〈家族-1〉の延長線上にあると考えられる.ここにも前回の「社会秩序」と同じく「約束 convention」の契機が見出される.

 ここで«convention»を日本語の「約束」の意味に解しては何とも据わりが悪い気がする.というのも,〈家族-2〉を形成するために,誰かが「約束」を交わしたわけではないだろうからである.«convention»は,もともと«con-»(一緒に)«vene»(行く)ことに由来し,そこから«conventio»(集会、同意)へと派生してきた言葉である.〈家族-1〉という「最初の社会」を経てきたことを,ルソーは「慣習に従って par convention」と述べているのであろう.

 ルソーは「それはもはや自然ではなく、意志にもとづいてである」とも述べている.家族は,子どもたちの養育期が終わり次第,解体する.もし家族を解体せずに維持するならば,そこには当人たちの〈意志〉が働いているとルソーは見る.ここから「意志 volonté」と「約束 convention」とは,近縁関係にある言葉であることがわかる.

 当人たちの意志に基づくのだから«convention»は「約束」でいいのではないかという気もしてくる.しかし,日本語の「約束」と「慣習」との間には,大きな違いがある.「約束」とは,諸個人同士の特別な決め事である.これに対して,「慣習」は社会一般的で歴史的な文脈を有している.«convention»は特殊性ではなく,普遍性に近い.«co-»の持つ協同性を見落としてはならないであろう.

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文献

ルソー『社会契約論』覚書(4)

目次

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ルソー『社会契約論』(承前)

第一編第一章 第一編の主題

二つの喩え,二つの問い

 第一章冒頭は,ルソーらしい美文から始まっている.

人間は自由なものとして生まれた,しかもいたるところで鎖につながれている.自分が他人の主人であると思っているようなものも,実はその人々以上にドレイなのだ.どうしてこの変化が生じたのか? わたしは知らない.何がそれを正当なものとしうるか? わたしはこの問題は解きうると信じる.

(Rousseau1762: 3,訳15頁,強調引用者)

自由と鎖による束縛,主人と奴隷.これらの明瞭な表現はおそらく比喩ではない.同時にルソーは問題提起している.なぜ人間は自由から束縛の状態へと変化し,主人が奴隷と化するのかと.このような変化は弁証法的である.

 「何がそれを正当なものとしうるか?」という問いに対してルソーは「わたしはこの問題は解きうると信じる」と述べている.どうして人民が主人(主権者)から奴隷(臣民)へと変化したことはわからないが,人民が奴隷(臣民)であることを正当化する理論については説明することができる,とルソーが述べているというように解釈できるだろうか.

「取り決め」に基づく「社会秩序」とその「権利」

  次にルソーは「社会秩序」について言及する.

もし,わたしが力しか,またそこから出てくる結果しか,考えに入れないとすれば,わたしは次のようにいうだろう——ある人民が服従を強いられ,また服従している間は,それもよろしい.人民がクビキをふりほどくことができ,またそれをふりほどくことが早ければ早いほど,なおよろしい.なぜなら,そのとき人民は,〔支配者が〕人民の自由をうばったその同じ権利によって,自分の自由を回復するのであって,人民は自由をとり戻す資格をあたえられるか,それとも人民から自由をうばう資格はもともとなかったということになるか,どちらかだから.しかし,社会秩序はすべての他の権利の基礎となる神聖な権利である.しかしながら,この権利は自然から由来するものではない.それはだから約束にもとづくものである.これらの約束がどんなものであるかを知ることが,問題なのだ.それを論ずる前に,わたしは今のべたことを,はっきりさせておかねばならない.

(Rousseau1762: 3-4,訳15頁,強調引用者)

ここでルソーは「力 force」を持ち出す.«force»というのは,物理的な「暴力」や「強制力」,抽象的には「権力」のことである.こうした「力」によって服従関係が生じる場合は,「同じ法権利によって par le même droit」つまり同じ「力 force」によって自由な状態をとり戻すことになる.こうした理論は〈自然権〉という発想に繋がる*1

 だが,このパラグラフからルソーはいわゆる〈自然権〉を「社会契約」論の理論的基礎としては採用しなかったことがわかる.というのも,ルソーはまさに「約束 conventions」を「社会秩序」の基本に据えているからである.ここで«conventions»は「約束」と訳されているが,要するに人と人との〈取り決め〉の謂であり,「協約」や「慣習」などとも訳される.あらゆる「権利 droit」の基礎をなす「社会秩序」(あるいは「神聖な権利」)はこの「取り決め conventions」に基づくのであって,まったくもって「自然 nature」から生じたのではない,とルソーはいう.この場合の「神聖な権利 droit sacré」の〈神聖さ〉とは,〈自然権〉の「力 force」によっては不可侵な人々の「一般意志」の神々しさを表現したものであろう.

 ちなみに鳴子博子はこの個所をルソーによって革命肯定論を展開したものと解釈している.

ルソーをどこまでも秩序の破壊を拒否する現状肯定論者,あるいは平和的改良主義者と断定するのは早計である.このセンテンスの直後に「人民がクビキを振りほどくことができ,またそれを振りほどくことが早ければ早いほど,なおよろしい」と続けているのだから.支配者の力を上回る力を,人民が結集することが可能になったとき,力にしか根拠を持たない不当な権力の打倒は,力強く肯定される.この行為の時期が早ければ早いほどよく,また,先の人民が支配者の服従下にある状態より,さらによしとされているのである.ルソーは明らかに,大胆にも『社会契約論』冒頭において,革命肯定論を展開しているのである.

(鳴子2001:178,強調引用者)

だが注意しなければならないのは,先のパラグラフの前半でルソーが「もし,わたしが力しか,またそこから出てくる結果しか,考えに入れないとすれば」という仮定を設けている点である.ルソーの主張の力点はこのパラグラフの後半の「しかし,社会秩序はすべての他の権利の基礎となる神聖な権利である」という部分以降にある.つまりルソーの理論的基礎として「力しか,またそこから出てくる結果しか,考えに入れない」ということはないのであって,前半部分はややアイロニックな表現として捉えるべきではないだろうか.つまり〈自然権〉の「力」を出発点にして推論を行えば,こういう結果が導き出されますよ,という理屈を述べているに過ぎないのであって,ここでルソーが革命肯定論をルソー自身の主張として述べていると解釈するのは牽強付会ではないだろうか.

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文献

*1:ホッブズ の「自然権」については拙稿「ホッブズの権利論——自然権と自由」を参照されたい.

哲学史・思想史における〈男性中心主義〉の問題

目次

はじめに

 今回は「哲学史・思想史における〈男性中心主義〉の問題」というタイトルで書きたいと思います。

 きっかけとなったのは、さとる@P4Radio@P4Radiosatoru)さんの次のツイートをみたことでした。

このツイートを受けて、「自分のブログの訪問者の男女比はどうなっているのだろうか」と思いました。そこでGoogle Analyticsを使って調べてみることにしました。

ブログ訪問ユーザーの男女比

時系列(縦棒グラフ)

 Google Analyticsのデータをもとにしてスプレッドシートで整理し、時系列に当ブログの訪問ユーザーの男女比を示したものが次の縦棒グラフです。

f:id:sakiya1989:20200521191315p:plain

以下では個別の数字を見ていきたいと思います。

2020年5月(円グラフ)

 2020年5月19日時点でブログの5月の訪問ユーザーの男女比は3:1でした。

f:id:sakiya1989:20200520021401p:plain

ただ今月の数字だけでは、まだ確実な数字とは言えません。他の月はどうなっているでしょうか。

2020年1月(円グラフ)

 下のグラフはブログの2020年1月の訪問ユーザーの男女比を示しています。この月の男女比は2:1でした。

f:id:sakiya1989:20200520023512p:plain

いまのところ今年の中ではこの1月が最も男性に対する女性の割合が大きくなっていました。

2018年3月(円グラフ)

 男女比は月次で多少変動があります。より以前の男女比はどうなっていたのでしょうか。以下のグラフは2018年3月のブログの訪問ユーザーの男女比を示したものです。男女比はおよそ2:1となっています。

f:id:sakiya1989:20200520023843p:plain

 

ジェンダーバイアスによる〈思考の死角〉

 以上のデータからわかることは何でしょうか。それは私のブログの訪問ユーザーの大半が男性だということです。もちろん実際に読まれているかどうかは別の話です。あくまで私のブログにたどり着いたユーザーの属性の大半が男性だということです。そして男女比はおよそ3:1でした。

 このデータは、私にとって一つの発見でした。そもそもブログを書いているときに訪問ユーザーの男女比を気にしたことはありませんでした。常にGoogle Analyticsでデータは収集していますが、たまにユーザー数とアクセス地域を確認するぐらいで、ほとんど分析らしい分析は行っていませんでした。

 実際、訪問ユーザーの男女比が3:1だったからといって、これだけで何かを推論するにはまだまだ材料が乏しいところです。他の同系列のサイトと比べた場合に、どのような違いがあるのかというところも比較しないとなんとも言えません。このデータが他の指標とどのように相関関係があるのかないのかも現時点ではわかりません。

 とはいえ、自分にはこの数字が、自分の書いたものや思考が、無自覚のうちに単なる男性性を主張しているにすぎないという事実を、私に突きつけているように感じました。

 もちろん私は男性として生まれ、男性として生活しています。なので、自分自身の思考様式が男性的で、男性中心主義的なところがあることは必然的であると思います。ただ、そのことについてまだ十分に自覚的ではありませんでした。今回この数字を受けて、自分の書いたものにはジェンダーバイアスによる〈思考の死角〉があるのかもしれないということを初めて痛感しました。

哲学史・思想史における〈男性中心主義〉の問題

 振り返ってみれば、哲学史・思想史において取り上げられている哲学者や思想家はほとんど男性で占められていることは事実です。このことはつまり哲学史・思想史における〈男性中心主義〉という問題を含んでいます。〈男性中心主義〉によって展開されてきた哲学史や思想史を私のような男性が男性の眼差しに即して研究することは、ともすれば無自覚のうちに〈男性中心主義〉を強化することにも繋がりかねない危険性を孕んでいます。この問題にわたしたちはどのように立ち向かえば良いのでしょうか。

女性の手掛けた作品のうちにその哲学を学ぶこと

 解決の糸口は、女性の書いたものをよく読むことにあるかもしれません。最近『週刊少年ジャンプ』で最終回を迎えた『鬼滅の刃』の作者である吾峠呼世晴さんが女性であったことが明らかとなり、話題になっています。

 『鬼滅の刃』については以前書きましたが、その際に作者の性別について私は特に気にしていませんでした。ただ『週刊少年ジャンプ』の他の作品とは明らかにその毛色、その特徴が異なっていることはわかりました。

 とはいえ、少年誌で連載している作者の名前がさほど女性っぽくないので男性だと一般的に認識されていたというのは、最もポピュラーなジェンダー現象だと思います。作者の自画像がワニだったことも一因かもしれません。「白衣を着た医者」を男性と思い込んだり、「決済者は主人(男性)」と思い込むぐらい、無自覚のうちにジェンダーバイアスは常識の中に埋め込まれています。こうしたことを一つ一つ認識していくことも当然重要です。が、それだけでなく、女性が手掛けたポピュラーな作品のうちにその哲学を学んでいく姿勢も必要なのではないかと私は思いました。

ヴィーコ『新しい学』覚書(6)

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ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

ヘラクレスとネメアの獅子

地球儀を取り巻いている黄道帯の中で,獅子と処女の二宮だけが,他の宮以上に堂々と,あるいはいわゆる遠近法にしたがって,姿をきわだたせている.これは,このがその諸原理のうちでまずもってはヘラクレス観照するということを表示しようとしている.古代の異教諸国民はいずれもがそれぞれ自分たちを創建したヘラクレスなる存在について語っているのが見いだされるからである.それも,かれをその最大の功業,すなわち,口から炎を吐き出してネメアの森に火を点じた獅子を殺したという功業の面から観照するということを表示しようとしているのであって,この獅子ので飾られてヘラクレス星辰にまで高めあげられたのであった.ここ〔本書〕では,その獅子地上を覆っていた古代の森林であったことが見いだされるのであり,この大森林にヘラクレスを発生させて,これを耕地に変えたわけで,かれは戦争の英雄たち以前に出現していたにちがいない政治の英雄たちを象徴する〔詩的〕記号であったことが見いだされるのである.

(Vico1744: 2-3,上村訳(上)19〜20頁)

ヴィーコ『新しい学』扉絵の地球儀には「獅子と処女」の姿が描かれている.「これは,この学がその諸原理のうちでまずもってはヘラクレス観照するということを表示しようとしている」.「獅子と処女」がヘラクレス観照を意味しているとは一体どういうことなのか.

 ヘラクレス*1は十二の功業を成し遂げたという伝説があり*2,その功業の一つが「ネメアの獅子退治」として知られている.ネメアの獅子(Νεμέος λέων)とは,「ネメアの森 Selva Nemea 」に生息していた人食いライオンである.

……エウリュステウスは彼に命がけの冒険をつぎつぎにさせました.それが世にいわゆる『ヘラクレスの十二の仕事』であります.

 まず一番はネメアの獅子との戦いでありました.ネメアの谷は一頭の恐ろしい獅子のために荒らされていました.エウリュステウスはヘラクレスにその怪物の毛皮を持って来いと命じました.ヘラクレス棍棒や矢で向ってもだめだとわかると,手づかみにして獅子を締め殺しました.そうして死んだ獅子を肩にかついで帰って来ました.エルリュステウスはその有りさまを見て,ヘラクレスの人並み優れた力を空恐ろしく思いました.

ブルフィンチ1978:196)

 「しし座」のモデルはヘラクレスが倒したこのネメアの獅子であり,このことをヴィーコは「獅子を殺したという功業の面から観照するということを表示しようとしているのであって,この獅子の皮で飾られてヘラクレスは星辰にまで高めあげられた」と述べている.

 ヴィーコのテクストでひとつ気になるのは〈火炎〉の位置づけである.ネメアの獅子を倒すことで「ヘラクレス Ercole 」は「英雄 Eroi 」として表象された(両者の音の近さはヴィーコ的に関係あるかもしれない).「ここでは,その獅子は地上を覆っていた古代の大森林であったことが見いだされるのであり,この大森林にヘラクレスは火 fuoco を発生させて,これを耕地に a coltura 変えたわけで,かれは戦争の英雄たち以前に出現していたにちがいない政治の英雄たちを象徴する〔詩的〕記号であったことが見いだされる」.ネメアの「獅子」や「古代の大森林」は未開の野蛮な自然状態のことを表していて,これをヘラクレスが「火」でもって「耕地に変えた」ということは,文明化された社会状態への移行を意味しているのではないだろうか.

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文献

*1:ヘラクレスというのは,実際には,功業という相貌のもとでとらえられた諸民族の建設者の詩的記号なのだ.」(Vico1744: 52,上村訳(上)123頁).

*2:女神ヘラは,テーバイの,すなわちギリシア人のヘラクレスに(というのも,さきに「公理」において述べたように,古代の異教諸国民はすべて,その国民を創建したそれぞれのヘラクレスをもっていたからである)大いなる難業に立ち向かうよう命じる.なぜなら,婚姻をともなった敬虔こそはすべての偉大な徳最初の基礎が学ばれる学校であるからである.そしてヘラクレスは,かれがその前兆によって生みだされたゼウスの庇護を得て,それらの難業をすべて克服する.そこから,かれはヘラクレス〔Ηʹρακλῆς〕と呼ばれたのであって,これは〈ヘラス・クレオス〉Ἥρας κλέος〔Ηʹρακλείς〕,〈ヘラの栄光〉という意味なのである.そして栄光というものが,キケロの定義にあるように,〈人類に向かってなされた功績ゆえに広く行きわたった名声〉という正しい観念によって評価されるとするなら,ヘラクレスたちがかれらの難業に立ち向かうことによって諸国民を創建したということはなんと偉大な栄光であったことか!」(Vico1744: 217-218,上村訳(上)441頁).

ヴィーコ『新しい学』覚書(5)

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ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

アリストテレス政治学ヴィーコの国家神学

しかし,この部分にたいしても神は摂理を立てて〔先を見通して〕,人間にかんすることどもをつぎのように順序づけ配置してきたのであった.すなわち,原罪によって完全無欠な正義から堕落した人間たちは,〔正義とは〕ほとんどいつも異なったことばかりを,またしばしば正反対のことさえをもおこなおうと意図する.そして,利益を得るのに役立ちさえするなら,野獣同前孤独な生活を送るのも厭わない.しかも,このかれらの〔正義とは〕異なり,また正反対の道そのものを通って,当の利益自体によって,人間らしく正義にのっとって生き,社会生活を維持する方向へと引き寄せられていく.こうして,社会生活を営もうとするかれらの自然本性を発揮するにいたるよう,人間にかんすることがらを順序づけ配置してきたのである.これが,人間は自然本性からして国家的な存在である,ということの真の意味であり,かくては自然のうちに法〔権利〕が存在するということ,このことがこの著作においては論証されるだろう.神の摂理のこのような機序こそは,この学が主として推理しようとすることがらのひとつである.したがって,この学は,この面からすれば,神の摂理についての悟性的に推理された国家神学*1であることになる.

(Vico1744: 2,上村訳(上)18〜19頁)

ヴィーコcibile は上村忠男訳では「国家(制度)的」と訳されており,また Teologia Civile は「国家神学」と訳されている.しかし「国家」といっても注意しなければならないのは,ここで訳語にあてられている「国家」の意味は,マキアヴェッリ以後の近代的な「国家 Stato 」としてのそれではなく,むしろアリストテレスが『政治学』(Πολιτικά)で述べているような古典古代の「ポリス Πόλις 」に由来する「政治的共同体」=〈市民社会〉としてのそれであり,これをラテン語では「キウィタス civitas 」という.このことはヴィーコが上の引用で述べている箇所(「当の利益自体によって,人間らしく,正義にのっとって生き,社会生活を維持する方向へと引き寄せられていく.こうして,社会生活を営もうとするかれらの自然本性を発揮するにいたるよう,人間にかんすることがらを順序づけ配置してきたのである.これが,人間は自然本性からして国家的な存在である,ということの真の意味であり…」)は,「人間はその本性においてポリス的動物である ὁ ἄνθρωπος φύσει πολιτικὸν ζῷον 」というアリストテレスの有名な思想を示している*2

 ここでヴィーコは人間のあり方を自然状態と社会状態の二つに区別している.

 自然状態に生きる人間は,「利益 utilità を得るのに役立ちさえするなら,野獣同前の孤独な生活を送るのも厭わない」.つまりこの場合,人間は利己的に振舞うので,他人との関わり合いを避け孤独に生きることになる.(もっとも野獣が孤独に生きているかどうか,野獣といえども野獣としての社会を形成するのではないか,という疑問が筆者にはあるが.)

 社会状態に生きる人間はどうかというと,逆に「当の利益自体によって,人間らしく,正義にのっとって生き,社会生活を維持する方向へと引き寄せられていく」.この場合の「利益」は個人の私的な自己利益の追求ではない.「正義 giustizia 」という公的な利益の追求が「社会 società 」を形成することになる.

 ヴィーコ的にはこうした社会の背後には「神の摂理」が働いている.人間社会のあり方を通じて「神の摂理」を探究する学のことを,ヴィーコは「国家神学 Teologia Civile 」と呼んでいる.

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文献

*1:神の摂理についての悟性的に推理された国家神学 Teologia Civile Ragionata della Provvedenza Divina 」については,次の箇所も参照.「だから,この学は,それの主要な面のひとつとしては,神の摂理についての悟性的に推理された国家神学でなければならない.このような学がこれまで欠如していたように見えるのは,哲学者たちストア派エピクロスのように神の摂理の存在をまったく知らずにきたからである.エピクロス派は,原子の盲目的な競合が人間たちの諸事万般を掻き立てているのだと言い,ストア派は原因と結果の隠れた連鎖がそれらを引きずっているのだと言う.あるいはまた,神の摂理を自然的事物の秩序にかんしてのみ考察してきたからである.このため,かれらは形而上学を〈自然神学〉と呼んで,これのなかでこの神の属性を観照し,天球や四大〔天・地・火・水の四大元素〕などのような物体の運動において観察される形而下の秩序によって,また,他のもっと小さな自然的事物にもとづいて観察される究極原因のうちに,神の摂理を確認してきたのであった.しかし,かれらは神の摂理国家制度にかんすることがらの領域においても推理すべきであったのである.」(Vico1744: 120-121,上村訳(上)262〜263頁).

*2:「すべてのポリス(国)は,われわれの見るところ,ある種の共同体である.そしてすべての共同体は,なんらかの善をめざしてつくられている.(何故ならば,すべてのひとは自分たちが善いと思うもののためにこそ,あらゆることをなすのだからである。)それゆえ,あらゆる共同体はなんらかの善をめざすのではあるが,すべてのなかで最もすぐれ,他のあらゆるものを包含している共同体こそが,あらゆる善のうちでも最もすぐれた善を,最高の仕方でめざすものであるということ,このことは明らかである.そして,この最もすぐれた共同体こそが,いわゆるポリス(国),あるいはポリス的共同体なのである.」(アリストテレス政治学』第1巻第1章1252A1-7).

ヴィーコ『新しい学』覚書(4)

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ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

神を観照する仕方について

ヴィーコは続けて「神」について言及している.

すなわち,こそは自然を自由かつ絶対的に支配している知性であるというわけで——それというのも,神は,その永遠の計らいによって,自然的なかたちでわたしたちに存在をあたえてきたのであり,また自然的なかたちでわたしたちを保存しているからである——,そのように認識された神に,人間たちによって崇拝犠牲やその他の神聖な儀式とともに捧げられてきたさいに媒介となった部分がそれである.そして,その自然本性がつぎのような主要な特性,すなわち,社会生活を営もうとするという特性をもっている,人間たちによりいっそう固有の部分をつうじては,かれらは神を観照することをなんらしてこなかったのである.

(Vico1744: 2,上村訳(上)18頁)

ここで二つの論点が考えられる.ひとつが,神と自然との関係はどうなっているのかということであり,もうひとつは,神と人間との関係はどうなっているかということである.

 ここで「神こそは自然を自由かつ絶対的に支配している知性である」と言われている.「神」は自然に対して支配的な立場にある.

 この「知性」は,人間のうちに内在しているものなのか,それとも人間にとって超越的な存在なのか.「神は,その永遠の計らいによって,自然的なかたちでわたしたちに存在をあたえてきたのであり,また自然的なかたちでわたしたちを保存している」のであり,その上「そのように認識された神に,人間たちによって崇拝が犠牲やその他の神聖な儀式とともに捧げられてきた」のであるから,神に対して人間は従属的な立場にある.

 これまで神については自然界という媒介を通じて考察されてきたが,人間の自然本性が有しているような社会生活あるいは政治社会の側面を通じては考察されてこなかった.だから,政治社会の側面を通じて神を観照していくのだとヴィーコは述べている.

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文献

スピノザ『エチカ』覚書(10)

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スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について(承前)

自然と実体

 『エチカ』第一部定理五では「自然」と「実体」との関係について述べられている.

定理五

 諸事物の自然のうちには,同一の本性または同一の属性を有する二つの実体あるいはそれ以上多くの実体は存在し得ない.

証明

 もし数多くの異なる実体が存在するならば,(前定理により)それら異なった実体は属性の相違によってか,さもなくば変状の相違によって区別されなければならないであろう.もしそれらの実体がただ単に属性の相違によってのみ区別されるならば,そのことからしてすでに同一の属性を有する実体は一つしか存在しないことが容認される.一方で,もし変状の相違によって区別されるなら,(定理一により)実体は本性上その変状に先立つのだから,変状を考慮せずに実体をそれ自体として考察するならば,すなわち(定義三及び六により)実体を真に考察するならば,それは他のものと異なるものとは考えられない.すなわち(前定理により)同一の属性を有する実体がより多く存在することはできず,たった一つだけ存在できるのである.Q.E.D.

(Spinoza1677: 4,畠中訳(上)40〜41頁,ただし訳は改めた.)

上の"In rerum natura"という箇所が畠中訳では「自然のうちには」と訳出されている."rerum"は第五格変化名詞 rēs, reī f. (こと,物)の複数・属格であり,文字通りには「物どもの…」という意味である.したがって, "In rerum natura" は「諸事物〔万物〕の自然のうちには」と訳すことができる.畠中は "rerum natura" をただ単に「自然」と訳出しても同義だと判断したのだろう.

 「諸事物〔万物〕の自然」は,ニュアンスとしては「森羅万象」(この世のあらゆる物事)のようなイメージに近いかもしれない.この「羅万象」のイメージを, 後の部門で登場する有名な「神即自然」と掛け合わせると,それはもはや〈-羅万象しんらばんしょう〉だと言えるかもしれない.

 以前の定理では複数の実体が存在する場合について考察を進めてきたが,ここでは神羅万象に内在する「実体」は一つのみであり,すべて「同一本性」「同一属性」を有していることが述べられている.もし他の実体が存在するとすれば, 「事物の自然」の外側にあると考えられる.だが「事物の自然」の外側を思考することは可能であろうか.

「定義三および公理六」?

 『エチカ』第一部定理五の証明の "per Defin. 3. & 6."(定義三および六により)という箇所が,各邦訳では「定義三および公理六により」と訳出されている(畠中訳,工藤・斎藤訳).これは一体どういうことだろうか.

 原因は現在流通しているラテン語版『エチカ』ではこの箇所が"per definitionem 3 et axioma 6"とされていることに起因する.しかしながら,1677年ラテン語版の原文には「公理」に該当する文字が見当たらない.

 筆者はいつからこの箇所に"axioma"が付加されたのかをGoogleブックスを利用して調べてみた. すると1891年の英訳『エチカ』にまでは「公理」の文字を確認できなかったが, 1895年のオランダ語訳『エチカ』において初めて "axioma" が付加されていることがわかった.

オランダ語訳『エチカ』(1677年)

最初のオランダ語訳『エチカ』(オランダ語訳『遺稿集』,1677年)は,ラテン語版『エチカ』と同年に出版されているが,この最初のオランダ語訳『エチカ』はラテン語版『エチカ』の最終稿以前の草稿を底本としているので,両者には数多くの相違があるとされる.最初のオランダ語訳にもラテン語版と同様,第一部定理五証明には「公理」の文字が見当たらなかった.

 

フランス語訳『エチカ』(1842年)

フランス語訳『エチカ』(Émile Saisset訳『スピノザ 著作集』第二巻、1842年)には「公理」の文字は見当たらなかった.

 

英訳『エチカ』(改訂版,1891年)

英訳『エチカ』(R.H.M. Elwes訳,改訂版, 1891年)には「公理」の文字は確認できなかった.

 

オランダ語訳『エチカ』(1895年)

オランダ語訳『エチカ』(H. Gorter訳,1895年)においてようやく"ax."(公理)の文字が確認された.

畠中尚志は邦訳『エチカ』に付した自身の解説の中で,ラテン語版遺稿集とオランダ語訳遺稿集における『エチカ』の相違について次のように述べている.

オランダ語訳遺稿集における『エチカ』は,ラテン語遺稿集の『エチカ』すなわち原版『エチカ』とは独立して,スピノザ自身の原稿からーーしかも原盤『エチカ』よりやや古い別な原稿から訳されたものであると考証されるから,その利用は『エチカ』の本文批判テキスト・クリティーに欠くべからざるものである.もっと詳しく言えば,スピノザの死の以前『エチカ』の一原稿から友人によってオランダ語に訳されつつあったものがオランダ語訳遺稿集の『エチカ』として現われ,そのオランダ語訳の基となったラテン語原稿にスピノザが生前自ら手を入れて決定的にしたものが遺稿集の『エチカ』すなわち原版『エチカ』として現われているのである.原版『エチカ』とオランダ語訳『エチカ』との相違個所は,ゲプハルトによれば,一五六個所以上に及ぶという.このうち原版『エチカ』のみにあってオランダ語訳『エチカ』にない個所は,スピノザが生前最後の原稿においてそう付加あるいは改作したのであってむろんそれが決定的形態とされるべきであり,オランダ語訳『エチカ』はその点何の権威も主張することができない.オランダ語訳『エチカ』の利用の意義は,原版『エチカ』との些少の相違——それは原稿の誤記や出版の際の誤植や編集者の粗漏から原版『エチカ』のほうが正しくない場合もありうる——を通してしばしば原版『エチカ』の不備な箇所を是正し,またかなり多くの疑わしい個所について決定的形態を確立するのに役立つことである.さらに従来不完全な形で伝わっていると考えられた個所,あるいは研究者たちによって単なる推定に基づき訂正の提案がなされている個所は,もしその個所が原版『エチカ』と同じようにオランダ語訳『エチカ』にもそうあったとしたら,少なくともスピノザ自身は二度原稿にそう書いたのだから,我々はそれを決定的形態として保持しなければならぬことになる.

(畠中訳(上)25〜26,強調引用者)

1677年に出版されたラテン語版『エチカ』と同年に出版された最初のオランダ語訳『エチカ』の両方において,第一部定理五証明のうちに「公理」の文言はなかった.それゆえ「公理」の文字が付加された現在流通しているテクストは少なくとも1677年の最初の版に基づいて修正されるべきではないだろうか.

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