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サイード『オリエンタリズム』覚書(3)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

 

序説(二)

「オリエント」とヴィーコの「原理」

 サイードヴィーコの「原理」を「オリエント」の解明へと応用する。

I have begun with the assumption that the Orient is not an inert fact of nature. It is not merely there, just as the Occident itself is not just there either. We must take seriously Vico’s great observation that men make their own history, that what they can know is what they have made, and extend it to geography: as both geographical and cultural entities—to say nothing of historical entities—such locales, regions, geographical sectors as “Orient” and “Occident” are man-made. Therefore as much as the West itself, the Orient is an idea that has a history and a tradition of thought, imagery, and vocabulary that have given it reality and presence in and for the West. The two geographical entities thus support and to an extent reflect each other.

私はオリエントという存在が不活性の自然的事象ではないという問題設定から出発した。東洋オリエント其処として示すことのできるような単なる場所ではない。ほかならぬ西洋オクシデントがまさしく其処ではないように。我々はヴィーコの「人間は自分自身の歴史をつくる」、そして「人間が認識しうるのはみずからのつくったものだけである」という達見を真剣に取りあげて、それを地理にまで敷衍して当てはめてみるべきであろう。歴史的実体たることは言うに及ばず、地理的実体エンティティでもあり、かつまた文化的実体でもある「東洋オリエント」と「西洋オクシデント」といった局所、地域、または地理的区分は、人間によってつくられたものである。したがって、ほかならぬ西洋がそうであるように、東洋オリエントもまた、思想・形象・語彙の歴史と伝統とを備えた一個の観念なのである。そしてオリエントが、西洋に内在するものとして、また西洋の身代りとして、実現し存在することになったのも、これら歴史と伝統とによってであった。この二つの地理的実体は、このようにして相互に支えあい、ある程度は互いに相手を反映しあっているのである。

(Said 2003:4-5、今沢訳(上)24〜25頁)

上の引用では、ヴィーコの見識として述べられている部分が鉤括弧(「」)で括られているので、これはヴィーコの著作からの引用文なのかと思いきや、サイードの原文にはそもそも引用符(“”)がない。おそらくここでサイードが要約したものは、ヴィーコ『新しい学』の次の箇所であると思われる。

この国家制度的世界はたしかに人間たちによって作られてきたのであり、したがって、それの諸原理はわたしたちの人間の知性自体の諸様態の内部に見いだすことができる、なぜなら、見いだされてしかるべきであるので、というのがそれである。

(Vico 1744:114、上村訳(上)250頁)

この箇所の文意は、ヴィーコの続く文章を読めば明白であろう。「自然界を作ったのは神であるから、これについての知識はただひとり神のみが有しているにもかかわらず、どうしてまた哲学者という哲学者のすべてがこれまでかくも真剣に自然界についての知識を達成しようと懸命になってきたのか、そしてこの一方で、諸国民の世界または国家制度的世界は人間たちが作ってきたのであるから、こちらのほうについては人間たちは知識を達成できるにもかかわらず、この諸国民の世界または国家制度的世界について省察することを怠ってきたのはどうしてなのか、と」(Vico 1744:114、訳250〜251頁)。 自然学に関しては、人間自身は自然学の対象である自然そのものの創造主(神)ではないので、その完璧な知識を獲得できない。これに対して人為的に作られたものは、まさにそれが人間が作り出したものであるがゆえに、人間はそれについての完璧な知識を得ることができるはずだ、という「原理 Principj 」をヴィーコは立てている。

 「東洋」と「西洋」という地理的区別は、いわば人為的に作られたものであって、本来的にそのような区別が存在するわけではない。この点で「オリエントとは、自然の取るに足らぬ事実などではない Orient is not an inert fact of nature 」*1というサイードの前提は非常に重要である。というのも、もし「オリエント」が「自然の事実」だとするならば、それを作り出したものは人間ではないということになってしまうので、そうすると「オリエント」を理解することは不可能だ、ということになってしまうからである。「…「東洋」と「西洋」といった局所、地域、または地理的区分は、人間によってつくられたもの man-made である」。ゆえに、これらは認識可能性に開かれているのである。

 ちなみに「人間は自分自身の歴史をつくる men make their own history 」という文は、私にとってはヴィーコの文章よりも、むしろマルクスの文章においてこそ馴染み深い。

人間は自分自身の歴史を作る、だが、自由気ままに、自ら選び取った境遇の下で歴史を作るのではない、そうではなく、すぐ目の前にある、所与の、過去から譲渡された境遇の下でそうするのである。

(Marx1869: 1)

イードによればヴィーコの見識のはずなのに、私はどうしてもマルクスのこの箇所を思い出してしまう。というよりここでマルクスヴィーコを念頭に置いていたのだと言ったほうが正確だろう。実際、マルクスが『資本論』の注でヴィーコに言及した部分と照らし合わせても、ますますそうだといえる。加えて、ヴィーコ自身は(サイードによる要約とは異なって)人間が作ったものとは「歴史」ではなく「国家制度的世界」だと述べている点にも注意されたい。もしかするとサイード自身が、マルクスの有名な一文をヴィーコの思想と混同してしまったのかもしれない。

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文献

*1:邦訳では「オリエントという存在が不活性の自然的事象ではない」と訳されている部分。「不活性」は「新型コロナウイルスの不活性化」のように化学現象について用いるが、ここではそのような化学的用語法ではないように思われる。「事象」の原語は "fact" であるが、 "fact" は「作られたもの factum 」から来ていることに注意すべきである。つまり、 "fact of nature" とは〈自然によって作られたものとしての自然の事実〉という意味であり、 "inert" は〈人間の手によってはどうすることもできず、つまらない〉というニュアンスを持っているだろう。