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サイード『オリエンタリズム』覚書(2)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

 

(承前)序説(一)

オリエンタリズム〉の第三の意味:「オリエントを支配し再構成し、威圧するための西洋の様式」としての〈オリエンタリズム

 サイードは続けて〈オリエンタリズム〉の三つ目の意味について言及する。

The interchange between the academic and the more or less imaginative meanings of Orientalism is a constant one, and since the late eighteenth century there has been a considerable, quite disciplined—perhaps even regulated—traffic between the two. Here I come to the third meaning of Orientalism, which is something more historically and materially defined than either of the other two. Taking the late eighteenth century as a very roughly defined starting point Orientalism can be discussed and analyzed as the corporate institution for dealing with the Orient—dealing with it by making statements about it, authorizing views of it, describing it, by teaching it, settling it, ruling over it: in short, Orientalism as a Western style for dominating, restructuring, and having authority over the Orient.

オリエンタリズムの学問的な意味あいと、その多少とも想像力に関わる意味あいとのあいだには、不断の交流があった。十八世紀以来、これら両者のあいだには、かなりの量の完全に規律を課せられた——おそらくは統制すらされた——交通があったのである。ここで私は、オリエンタリズムの第三の意味合いに到達する。これは先の二つの意味内容のいずれよりも、歴史的・実質的にいっそう明確に限定しうるものである。オリエンタリズムを論じそれを分析するにあたって、ごく大雑把に、オリエンタリズムの出発点を十八世紀末とするならば、オリエンタリズムとは、オリエントを扱うための——オリエントについて何かを述べたり、オリエントに関する見解を権威づけたり、オリエントを描写したり、教授したり、またそこに植民したり、統治したりするための——同業組合的コーポレイト制度とみなすことができる。簡単に言えば、オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式スタイルなのである。

(サイード 1993:21頁)

オリエンタリズム〉の第三の意味は「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」である。「支配 dominating 」と「威圧 having authority 」は主(西)の従(東)に対する関係として見れば似ているが、「再構成 restructuring 」は少しニュアンスが異なるようにおもわれる。

 ここでサイードが〈オリエンタリズム〉のそのような意味の出発点を「十八世紀末」としているのは一体何故であろうか。それはおそらく、十八世紀末に〈オリエンタリズム〉が何らかの転換点を迎えたからなのだろうと思うが、それは本書を読み進めることによって明らかになるであろう。

フーコーの「言説」概念の援用

 サイードは、この「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」として〈オリエンタリズム〉を分析するにあたって、フーコーの「言説ディスクール」概念を援用するという。

I have found it useful here to employ Michel Foucault’s notion of a discourse, as described by him in The Archaeology of Knowledge and in Discipline and Punish, to identify Orientalism. My contention is that without examining Orientalism as a discourse one cannot possibly understand the enormously systematic discipline by which European culture was able to manage—and even produce—the Orient politically, sociologically, militarily, ideologically, scientifically, and imaginatively during the post-Enlightenment period.

この点に関し、私は、ミシェル・フーコーの『知の考古学』および『監獄の誕生——監視と処罰』のなかで説明されている言説ディスクール概念の援用が、オリエンタリズムの本質を見極めるうえで有効だということに思い至った。つまり言説ディスクールとしてのオリエンタリズムを検討しないかぎり、啓蒙主義時代以降のヨーロッパ文化が、政治的・社会学的・軍事的・イデオロギー的・科学的に、また想像力によって、オリエントを管理したり、むしろオリエントを生産することさえした場合の、その巨大な組織的規律 = 訓練というものを理解することは不可能なのである。

(サイード 1993:21〜22頁、下線引用者)

邦訳では "during the post-Enlightenment period" が「啓蒙主義時代以降の」と訳されている。この訳だと、およそ十七世紀から十八世期にかけての啓蒙主義の時代を含めた現代までに至るそれ以降の時代をすべて意味するようにおもわれる。実際、そういう意味かもしれない。意訳である。

 "period"も"during" も、時間的に始点と終点を持っている(終点がなければピリオド(.)が打たれていないことになろう)。これに対して「以降の」といった場合、始点はあるが終点は定まっていない(終点はフェードアウトして見えなくなっていく)。

 いったんこれを「後期啓蒙主義の間に」とするならば、どうだろう。先にサイードオリエンタリズムの出発点を「十八世紀末」としていたことを想起されたい。この「十八世紀末」こそが、ちょうど「後期啓蒙主義」(の始点)に該当するのではないだろうか。

 さて、ここでサイードは、フーコーの数多くの著作の中でも『知の考古学』と『監獄の誕生』の二つを取り上げ、それらの「言説ディスクール概念の援用が、オリエンタリズムの本質を見極めるうえで有効だということに思い至った」と述べている。しかし、「言説」のみならず、ここでは他に「規律 = 訓練 discipline 」*1というフーコーの用語も看取される。

 ところで、なぜサイードはここでフーコーのその他の著作(例えば『言葉と物』など)ではなく、『知の考古学』と『監獄の誕生』をあえて選んだのであろうか。この点に関して、例えば橋本直人は次のように言及している。

ちなみに、サイードは『オリエンタリズム』でフーコーの『知の考古学』と『監獄の誕生』を参照しているが、私見ではむしろ『狂気の歴史』の時期のフーコーとの関連の方がより明確であるように思われる。

(橋本 2016:1頁)

『狂気の歴史』の方がより相応しい理由として、橋本はフーコーが「西洋」と「東洋」について言及している箇所を引用している。確かに、橋本が引用する『狂気の歴史』初版の序文の「西洋」と「東洋」との区別(この区別は前回見たように、サイードによれば、「存在論的認識論的区別にもとづく思考様式」としての〈オリエンタリズム〉であった)についての言及箇所の方が、一見すると〈オリエンタリズム〉のテーマにより近いように思われる。

 しかしながら、サイードが本書で援用しているのは「ミシェル・フーコーの『知の考古学』および『監獄の誕生——監視と処罰』のなかで説明されている言説ディスクール概念」である。ということは、おそらくサイードによるフーコー の「言説」概念の援用は、〈オリエンタリズム〉というテーマにおける近さや遠さによって選択されているわけではないことになる。むしろここでサイードにとっては別のところに重心があると言えるのではないだろうか。

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文献

*1:「身体の運用への綿密な取締りを可能にし、体力の恒常的な束縛をゆるぎないものとし、体力に従順 = 効用の関係を強制するこうした方法こそが、《規律・訓練ディシプリーヌ discipline》と名づけうるものである」フーコー 1977:142〜143頁)。「こうして規律・訓練ディシプリーヌは、服従させられ訓練される身体を、《従順な》身体を造り出す。規律・訓練は(効用という経済的関係での)身体のフォルスを増加し、(服従という政治的関係での)この同じ力を減少する。一言でいうならば、規律・訓練は身体のプーヴォワールを解離させるのであって、一面では、その力を《素質アプティチュード》、《能力カバシテ能力》に化して、それらを増大しようと努める、が他方では、《体力エネルジー》ならびにそれから結果しうる《強さピュイサンス》を反転させて、それらを厳しい服従関係に化すのである」(フーコー 1977:143〜144頁)。